スルメ

この三日間でほとんどすべてのエネルギーを使い果たす。もう話す気力も、お風呂に行く気力もなくて、黙ったまま、床の上でスルメのように伸びている。床が冷たくて心地よい。その昔、立派な学者になりたいと思っていた。自分が立派な学者にならない可能性などほとんどまったくない、とまじめに思っていた。洗面所でカネタタキが鳴いている。すまない、今日も君を保護できそうにない。

# by enzian | 2016-08-25 23:08

初侵入

昨夜、今年度はじめてのカネタタキの侵入あり。捕獲しそこねて、夜中、キンキンと鳴いておりました。その鳴き声はよろしいのですが、我が家にはぴょんぴょんグモ(ハエトリグモ)が一匹おりますゆえ、ぴょんぴょん氏がカネタタキを捕獲する前に救助せねば。

# by enzian | 2016-08-24 21:25

約束

映画『ガンジー』を観る。この映画を観ていつも思うのは、敵としての他者を克服するのは比較的やさしくても、同族への嫉妬や嫌悪を克服するのはほとんど不可能ではないかということ。敵としての他者を克服するためには共同やら協働やら結託ができる。良きにつけ悪しきにつけ、支え合いながらの闘いができる。しかし同族への上向きコンプレックスや下向きコンプレックスの克服はほかならぬ愚かな自分の自分自身との支えなき闘いで、孤独な闘いだからだ。正義感にもとづいた勇敢な闘いであればいかにも見栄えがよいが、誰しも見栄えのよくない情けない闘いなどしたくない。

だが、そうは言ってもガンジーは実際にそれをした人なのだろう。偉人とはいずれもこういうただならぬ孤独を乗り換えて、その孤独感を別のものに昇華した人たちなのだろうか。結果として、ときを超えて、あなたが闘う際の支えになるという約束をした人たちなのだろうか。

# by enzian | 2016-08-20 11:34

意味づけをしないでおく、ということ。

オリンピックの放送をみていたら、やたらと競技者の物語を聞かせるようなアナウンサーがいて、思わず消音ボタンを押してしまった。さして知りもしない競技者について、お父さんがどうたら、なくなったお母さんとの約束がどうたら、スポーツと人間ドラマをなにかと結びつけようとしているのだが、知りもしないなら、素になって競技をアナウンスせよ、と思ってしまうのだ。いつからはじまった傾向なのかわからないが、とくに民放ではこういう「人間ドラマ化して、出演者を意味づける」という手法がまかりとおっている。対象のことをよく取材して伝えることは大切なことだろうし、物語のなかに落とし込んで意味づけよう、理解しようとすること自体は人を理解しようとする態度として問題ではないが、それが行きすぎて知りもしない者に勝手な意味づけをすることになれば、それは暴力以外のなにものでもない。

事実、実況放送のなかでも勝手に作ったストーリーのなかに競技者を落とし込んで、「それっ○○、いまこそお母さんとの約束を果たすときだ!」みたいな自己陶酔型の実況をえんえん続けられると、さらにインタビューでの質問までそんな感じだと、アホかと興ざめしてチャンネルを変える。そういうのは競技者自身が言うことであって、会ったこともない者がわけ知り顔で言うことではないのだ。さらに、こういう意味づける手法があまりにまかりとおると、「人間ドラマのないタイプのスポーツはスポーツでない、涙のないスポーツはスポーツではない、だからもっとドラマ化せよ」といった風潮まで出てこないだろうか。民放が好んで応援するスポーツ的なものにはそんなことはないだろうか。ときと場合と立場によっては下手な意味づけをしないでおく、という抑制も必要だと思う。

# by enzian | 2016-08-18 16:37 | ※テレビ・新聞より

すでにつながってしまっている。

「人と人がつながる」というのは、必ずしも友好的にみえるとか、波風が立たないとかいうことではないだろう。もちろん、つながっているという実感があって見た目も友好的な関係であるということはあって、その方が好ましいに決まっている。が、たしかにどこかでつながっているという実感があるのだけど、残念ながら見た目も、中層的なところ(どこ?)でも反発やら敵対心やら嫉妬やら恨みやらが渦巻いていて、ようやくどこか別のところ(どこ?)で結びついているか、線のはじまりとはじまりが近くにあって微弱に影響を及ぼし合っているぐらいだ、ということがよくあるような気がする。

見た感じは友好的な関係にある人たちがいるが、そういう人たちであれば必ずつながっているとはいえない。互いにまったく関心もなく、感化し合うこともないが、利害関係があったり、義務関係があったりしてつき合っていることも現実としてある。それは当たり前のことだ。だが逆に、利害関係も義務関係もなく、友好的でないと見える人たちであっても、まちがいなくつながっていると確信のもてる人たちがいる。そういう人たちのなかには頻繁に会うわけでもないし、声を聞くことも、ひょっとしたらもう顔を合わせることもないと思える場合もあるが、いつかあるときにつながってしまっていて、それはもう切れることがなく、いまもたしかにどこかでつながったままなのだ。それは、いわゆる「腐れ縁」といったものではない。

ぼくは関心がない人の文章を読もうとしないから、たぶん同じようにぼくに関心のない人はぼくの文章を読もうとしないだろう。もし、ぼくがこのブログに書いている文章をひそかに(ひそかでなくてもいいけど)読み続けてくださっている方があるなら、その方は幸か不幸か、もうぼくとつながってしまっている人なのだろうと思い込んでいる。いや、それでまちがいないだろう。

# by enzian | 2016-08-16 10:27 | ※その他

禁忌

バス停で待っていたら、どこからか樹液の匂いがしてきた。クヌギやコナラの樹液の匂いだ。バス停は公園に接していて、見ればコナラが生えている。幼いころは夏となればひまさえあれば森に行って、クワガタを追いかけていた。幹から滲み出る樹液は甘いような酸っぱいような匂いを辺りに漂わせている。そこではオオムラサキやヨツボシケシキスイやスズメバチやクワガタが争うようにして樹液を吸っていて、クワガタだけをそっと捕まえて野球帽に入れる。そのころの少年たちの頭髪には、決まってちょこんとクワガタが乗っていた。

だがお盆の時期になると「ゲンジトリ」は禁じられた。森へ行けばいくらでもクワガタが採れる時期だったから、少し手を伸ばせば採れるクワガタが採れないというなんとも解せない時期でもあった。いつか禁を破ってやろうとも思っていた。祖母は「お盆には地獄のかまのふたが開く」と言っていて、その言葉がお盆に独特の、わずかに淀んだような空気を与えていた。長く禁忌の理由が、先祖が帰ってくる時期に殺生をするのは先祖への体面上避けるべきだと考えられているからなのだろうと思っていたが、あるとき、お盆には先祖が小動物に姿を変えて帰ってくるのだと聞いて、肝を冷やした。

# by enzian | 2016-08-14 22:06

知らない。

昨日は父の初盆だった。実家に帰って掃除をした。父と同級生だという人が来て、父方の祖父のことに触れた。「なんにもしゃべらん人やった」。それは、父の葬儀のときに「耳が悪くて兵役が免除になった」ということを聞いて以来のわずかな情報だった。祖父は線路での作業中に、おそらくは近づく電車に気づかずに跳ねられて亡くなったのだ。それを推測させることを一度だけ母が漏らしたことがある。父は一度も祖父のことを話さなかった。ぼくの三人の祖父はみな早く亡くなっていて、ぼくはいずれの仔細も知らない。

# by enzian | 2016-08-14 21:43

十分

オープンキャンパス。保護者だけが関心を示して、話して、子ども(高校生)はなにも話さないというパターンが増えてきて、なんとも言えない気分になる。親の目を見て話しながら、同時にちらちらと子どもも見ながらなにかを伝えようとする。話し終わってどっと疲れようとしたとき、それまでなにも話さなかった子がぽつりと言った。「おもしろかった」。

# by enzian | 2016-08-07 07:43

日傘

今日はあまりの日差しについに日傘を差した。日傘といっても、本当の日傘ではなくて雨傘を代用した。男性用の日傘も売っているらしいが、日傘=涼やかな和装をした貴婦人、というアホな脳内変換装置が働いてしまって、今日まで買わずにいたっている。

# by enzian | 2016-08-05 12:11

あからさま

関心のないひとと義務感にかられて話しているときと、話して楽しいと思えるひとと話しているときとでは、自分の雰囲気はあからさまに変わっているのだろう。いい大人だからそういうのはうまく隠さないといけないのだけど、隠し切れないときがある。ちなみに、関心のないひととは人間的な価値観をやりとりできないひとのこと。なんらかの事情によって相手からはなにも飛んでこないし、こちらから飛ばしても相手側には受け入れる準備や能力がない。そう、そこにはまるっきり交流がない。価値観を出し入れする communication が成り立たず、そういうことをする場としての community が発生しない。事実をありのままに言えば、得るものも与えるものも皆無なのだから、話しても個人的には時間の無駄ということになる。ただし、教師としてはそうも言ってはいられないから、冒頭の義務感を唯一の推進力にしてのろのろ進む。

# by enzian | 2016-08-03 23:34

言葉

自分の言葉に自分がもっている以上の力がこもってなにごとかをなして欲しい、と切に願った。もちろん、そんなの、ありえないことなのだけど。

# by enzian | 2016-07-21 23:29

一喜一憂

危惧していたことは危惧のとおり、失敗に終わった。今回は祖母のことに触れてしまったので、居眠る高校生たちを前に、祖母に申し訳ないと思いながら話していた。生徒が居眠るのは、100%、居眠るような授業をした教師の責任なのだ。ひどい出来の授業をして自分が恥ずかしい思いをするのは自業自得だからよいが、勝手に授業の材料にして祖母に傷をつけたという意味で、またぼくは大学の代表として授業をしたわけでもあるわけだから、大学に泥を塗ったという意味で、手痛い失敗をおかしてしまった。もう一度チャンスがあればなんとかできるかもしれないが、授業にもう一度のチャンスはない。

昨日はオープンキャンパスで、なんにんかと話した。1年振りで会った高校生がずいぶん大人になっていて、驚いた。話を聞いていると、いろんな壁があって乗り越えてきたらしい。大学の教員が高校生を相手にして一喜一憂することがあるなんて思いもしないことかもしれないが、事実はそうなのである。

# by enzian | 2016-07-18 17:55 | ※キャンパスで

危険な賭け

今日から出張。高校での講義なのだけど、内容がやや自分史に触れるようなものになっていて、今回は失敗する可能性がある。もともと身を切るような内容だけに、しらっーとされたら、ひとりでどくどく血を流しながら、ハイ、ジエンド。

# by enzian | 2016-07-10 14:07 | Trackback | Comments(2)

カートを押すのが好き

スーパーでカートを押すのが好きです。最寄りの駅に生協があるのですが、仕事帰り、なにも買うものがなくても、ただカートを押したいがために行くことがあります。買うつもりのものがないのですから大きなカートを選ぶ必要はないのですが、小さなカートと大きなカートでは押しごたえが違いますから、大きなカートを選びます。大きなカートを押してフロアを疾走しているとなにやら生きているという実感がしてまいります。なにか学校で辛いことがあったとかそういうことではありません。鮮魚売り場を越えて、できるだけコーナーでスピードを落すことなく缶詰売り場をめざします。カートの車両がわずかにきしんでがぜんテンションが上がります。缶詰売り場をめざすのは缶詰が好きだからです。いえいえ、缶詰の中身というより缶詰自体、缶詰のボディが好きなのです。買わなくても、食べなくても、ただ、缶詰コーナーにたたずむ缶詰を観ているだけでいいのです。もちろん、それがカートのグリップをぎゅっと握りながらのことであれば、なにも言うことのない至福の瞬間なわけです。そうやって楽しんだ後は、さすがになにも買わずにレジに行くわけにはいきませんから、きまって舞茸を1パック、カートに積んでレジの列に並びます。

# by enzian | 2016-07-03 14:07

スマッシュ

「向き合う」と「受け入れる」をかんちがいするクセがある。じつをいうとどっちもよくわかっていないのだけど、「受けいれる」の場面のはずなのに勢い込んで「向き合う」アタックをしてしまっているような気がすることがあって、ときどき赤いシグナルがチカチカする。しかもそれは、リアルタイムではチカチカしなくて、あとで思い返すときにやっとチカチカして、しまった、もうどうしようもない、(゚◇゚)~ガーンとなる。昔、テニスコーチの試験(ラリー相手の試験官を、レッスンを受ける生徒に見立てる)を受けたときに、ふらふらっと来たボールをスマッシュしてしまって、「生徒にスマッシュするな」と怒られたことがある。なんかわからんものがふらふらっと来るとスマッシュするクセがあるのだ。

# by enzian | 2016-07-02 16:50 | Trackback

無力

友人の苦しみを知ってもなにもしてあげられることがないと言って悔し涙を流す学生がいた。心やさしい学生よ、君はまだしも若いが、君よりも遥かに多くの歳をとったぼくも、かつて親友の死を阻止することができなかったし、いまもまた「死にたい」と言うひとを前にして、なにひとつできることもなく、ただ無力な日々を重ねているだけなのだ。

# by enzian | 2016-07-01 23:27

新種

前回、試験範囲には含めないと公言しておいた授業をする。みごとに学生は来ませんでしたな。受講者、わずかに6人。すかすかの大教室にわびをいれたくなった。しかも、教室の入り口付近にわがゼミ生が2人いて、授業はじまりにぼくがもう一度今日の授業範囲はテストに出さないと言うのを念入りに聞き届けてから去っていった。こういうタイプのゼミ生っていままでいただろうか?と考えながら授業をしていた。そもそもはじめから授業に来ないのや、試験に出ようが出まいが授業に出続けるタイプはいただろうけど。

# by enzian | 2016-06-28 17:46

「ここにしかない徳島」

徳島へ行ったときに、高校での授業が終わって、眉山というところに登ったのだけど、そのときに流れていた歌。https://www.youtube.com/watch?v=Ulcq4PgHrfM
徳島は、海があって山があって、吉野川が流れていて、なんともよいところだと思った。「夏にはみんなであほになる」だよね。今年の夏は祭りに行きたくなった。

# by enzian | 2016-06-26 18:29 | ※その他

美味しいということ

日本酒を飲むようになってきた。昔からさして飲めもしないのに地方へ行くと酒を買ってきて、飲みもしないのに家に置いていたが、ついに飲むようになってきたのだ。土地にはその土地によって育まれてきたものがあって、日本酒も土地ごとに違う。ぼくは親父が飲んだくれだったということがあって、また自身も体質的にアルコールに強くないということがあって、さらには職業柄あんまり方々をちどって歩くわけにもいかないだろうと思っていて、日本酒を飲むのをずっと避けてきたが、日本酒を飲むことで、それをかもし出してきたなにかを感じることができると思うと、美味しく感じてくる。

幼いころ、豆腐は好きで高野豆腐は好きではなかった。でも、それが土地で育まれた豆腐を凝縮したもので、土地での豆腐の食べ方だと思ったとき、とたんにその晩に食べた高野豆腐が美味しく感じられて好きになった。

趣味判断(美しいと判断する)では、美しいと感じるために知識が必要かどうかがときどき問題になる。例えば、キリスト教美術とか仏教美術とか。もちろん、ここではそんなややこしいことはどうでもいいけど、少なくともぼくが酒を好きになることにはなにがしかの知識が影響している。生まれた風土の違い、長い時間のなかで積み重ったなにか、それを凝縮した精華。いまは地の日本酒やビールぐらいの話だけど、いずれ焼酎や泡盛も、さらには難度の高そうな花酒も、いやもっとべつのものさえも好きになることだろう。

# by enzian | 2016-06-19 12:34 | ※その他

謎がいっぱい

朝から一日中、謎の会合なのでありました。謎の会合の後、謎の店に行って、謎の広東飯というものを食べ、帰りに謎のハンバーグ屋さんの前を通ったら、夕方にもかかわらず、待ちの列ができておりました。びっくりしたな、もぅ。

# by enzian | 2016-06-18 19:03

オープンキャンパス

徳島に行って阿波踊りが好きになった自分はどうかしていると思う。あれほど祭りごとが嫌いだったのに……。どうして好きになったか、なんてことは誰も聞きたくないだろうけど、ぼくが聞きたいからいつか書くことにしよう。そうなのだ、ここに書いていることは自分に聞かせてあげたいことだから書いているのだ。ともかく、明日はオープンキャンパス、会わなければならない人がいる。

# by enzian | 2016-06-11 22:51

訪問記出版のこと

木曜日と金曜日は徳島の高校に出張でありまする。まあ梅雨時ですから雨ですな。自慢じゃないけど、高校へ行って雨で濡れネズミになって途方に暮れたなんてことはこの4年間、ざらにあったのだ。雨ぐらいどおってことはない。踏んではならないものをぐにっと踏んづけてしまったり、側溝にはまって流されかけた(名前が変わりかけた)ことや、森に迷い込んでウルシにかぶれた(くちびるがマリリンのようになった)こともあった。かと思えば、態度の悪い極悪ゴマフアザラシにホッケを投げつけてこらしめたり、時を忘れてシオマネキやカブトガニとたわむれたこともあった。じつに気持ちのよい好シオマネキと好カブトガニであった。かくのごとく、高校訪問の話しをはじめたら切りがないので、ぼくほこれを『キノコセンター長のなんくるないさー高校訪問記』としてまとめて出版するのだ。ウソをつくな。

# by enzian | 2016-06-07 22:37

ぷらぷら

今日も賀茂川の河川敷を歩いて出町柳まで歩いて帰った。たしか村上春樹がジョギングコースとしてこの辺りが一番好きだと言っていたような気がするけど、世界のいろんなところで走っているひとが言うぐらいだから、よほどよい場所なんだろう。ぼくは賀茂川の河川敷を歩くのがことのほか好きなひとなのだが、この4年間はほとんどぷらぷらすることがなかったから、今日、大文字山を見ながら歩いていたら、たしかに生きているよなオレ、なんてしみじみ思ったりした。

橋の下で若者がギターを弾いて歌っている。「善悪の区別もつかずに、すべてを疑ってきて、いったいなにを得たというのだろう」。その気持ちはわかると思いつつ、一瞥もくれず通り過ぎる。カモのお母さんが7匹のコガモを連れている。ずっと見ていると、あわてるでもなく、しかし着実に人間との距離をとっていく。4年間で植物の植生は少し変わったようで、アカツメグサがやけに増えていた。今週はホタルが出てくるだろうか。

# by enzian | 2016-06-06 22:11

夢みるカノムモーゲン

ときどき無性に食べたくなるものがある。なんの脈絡もないが、ホービーガンジューのサラダと、ミズのお浸しと、カノムモーゲン。どれも関西では食べにくい。ホービーガンジューは探すだけムダだが、ミズは先日、奈良のスーパーで売っているのを見つけてルンルン(死語か?)で買って帰った。カノムモーゲンは以前、大塚で好みのものを食べて以来、好きになって京都でも探しているがまだ見つからない。世界各地の料理が集結しているという意味では、京都は東京にはるかに及ばない気がする。この文章のどこに哲学性があるというのか。

# by enzian | 2016-06-06 21:27

「歳をとる」ということ

「歳をとると涙腺が緩くなって」と言いながら貸した本を返してきたのは歳若い学生。その歳でなにをバカなことを、と言おうとしてやめる。たしかに、積み重ねなくてよいものを重ねてきた、ということはある。

「なんでもやってみたら」と新しいことを加えるようにそそのかすことは容易いが、無駄に積み重ねてしまってきたものをなきものにすることは、なにをどうしようたってできない。どちらかというと日々悶絶しているのは、後者をどうするかということ。

# by enzian | 2016-06-04 20:12

匂いとトラウマ

少しずつ気温が上がってくると、苦手な匂いをしばしばかぐことになる。汗をかいた服を洗わずに何日も着ているような人の匂い。以前はほとんど気にならなかったのだが、一昨年、福井に高校訪問に行ったときに車両全体に鼻が曲がるほどの悪臭をただよわせている人がいて逃げるに逃げられなくて困ったとき以来、この匂いに敏感になった。匂いもまたトラウマに繋がるのだ。

# by enzian | 2016-06-02 23:58

スピーチ

卒業生の結婚式に出る。卒業生の結婚式に出るのはたったの2回目。長く個研に「冠婚葬祭お断り」の張り紙をしていたからそういうことになる。

今日はスピーチをしたが、卒業生のスピーチを引き受けたのは初めて。結婚式でスピーチをしたのは人生で2回目。1回目は、あるときのたった一言でぼくの人間嫌いを揺さぶって、頑強な迷妄から抜け出るきっかけをつくった男の結婚式だった。若かったぼくはなんとかしてそいつの偉さを伝えようとした。そのスピーチの内容はいまでもそっくりそのまま覚えている。それは繰り返し練習をしたからではない。ひとをほめることのできたのがうれしくて、忘れようにも忘れられなかったのだ。

# by enzian | 2016-05-29 23:02

一方通行

ここぞと思ったときには手紙を書く。手紙といっても紙面のものばかりではなく、ややこしい言い方をすれは、メールで手紙を書くこともある。なけなしの精神力を傾けて書いたような文章を「手紙」と呼んでいるのだ。それがどれほど短くいとしても。先日も一通、書いて出した。よかれと思って書いた。手紙であれば、出したあともそれを書くことに意味があったのかどうかと、いつまでもいつまでも考えている。手紙に返信が来ることはほとんどないから、何年も前の手紙のことをときどき思い出す。

# by enzian | 2016-05-19 22:43

理由

今日は水出し緑茶ボトルをくれた人とお茶を飲む。水で出した緑茶は今日もまた上出来で、上等の玉露を飲んでいるかのようであった。これで、秋までお湯を沸かす必要はなくなったか。何度か話したことのある若い研究者が急逝したことを聞かされる。若くして矢継ぎ早に業績を積んできた人だったが、今から思えば、急がねばならぬ理由があった、ということになる。初めていっしよに飲んだときに、金子大榮や安田理深について話したことを覚えている。

# by enzian | 2016-05-11 22:19

重力と恩寵

貧血で倒れたときの印象を、「神に見放されたような感じ」と言った学生がいたという話を聞く。自分はまったく糸が切れたかのような強い貧血に襲われたことはないが、とても興味深く聞いた。「糸が切れた」というのは、操り人形のようになにものかに操られている印象だから、適切ではないかな。「支えを失う」というのがよいか。誰しも地上で生きている限りは重力を受けて、それでようやく立ったり、座ったり、寝そべったりできているわけだから、そういう意味では、生きている限りはなにかからの支えを受けていることになる。いや、死んで物体になってもそこから免れることはできないか‥‥。もちろん、この文章はヴェイユの『重力と恩寵』とはなんの関係もない。

彼の地で書きためた文章を、もったいないから、ときどきここにも再録することにしよう。どんな拙い文章でも、そのときの自分の心の映しで、分身のようなものだから。「そのときの」ものだから、どうしても時系列はずれるけど。ちなみに、この文章は彼の地に書いたものではない。

# by enzian | 2016-05-08 10:33 | ※キャンパスで