ついで参り

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いつだったか、なにかを終えて空いた午後に墓参りに行きましょうか?と言って、親類から「ついで参りはよくないから」と断られたことがあった。「ついで参り」に決まった意味があるのかどうか知らないが、その人の言い方から、なにかのついでに墓参りに行くことだと理解した。世のなかには順序を超えたものがあって、それを比較対照のなかで順位づけしてはいけない、まして二の次、三の次にしてはいけない、ということだろうか。なにかと忙しいことだから、優先順位を決めて整列整理する方が合理的でスマートであるようにも思えるが、このときの親戚の言葉は身にこたえて、恥ずかしい思いをした。

思えば、毎月墓参りに行っていた祖母はついで参りをしなかった。養子に出して自営業をしていた娘(冒頭の親類)の店に週に何度も乳母車を押して40分かけて行くときも、決してついではしなかった。店にまっすぐ行って豆腐一丁買ってまっすぐ帰ってきた。あるとき、「豆腐なら別のところで買ってくるからもう買いに行くのはやめて、危ないから」と言ったら、「こおめ(子ども)の顔を見に行ってるんや」と言われて、もう二度と止めようとは思わなくなった。

# by enzian | 2017-11-19 18:55

腰を据える

「それはどういうこと?」と問ったら、「腰を据えるということです」と答えた学生がいて、印象に残った。これまでこのタイプの問いには「立場」とか「立ち位置」とか、もっというと「立脚地」という答えを想定していたけど、「腰を据える」というのはイメージしたことがなかった。なるほど、立っているだけでは立ち話しかできないが、腰を置けば膝をつき合わせて話すことができる。「~に立つ」よりも「~に腰を据える」の方が、より他人との関係を志向した社会性の強い言葉なのではないか。ぼく自身、大切なことは膝をつき合わせて話しているような気がする。腰を据えるということの意味を考えてみたいと思った。

高校生ぐらいの若いひとにもときどき、ふだんから言葉の意味を考えて、それをきれいに整理された多層の引き出しに仕舞っており、ここぞというときにタイミングよく取り出してくるような印象を与えるひとがいて、老練な言葉づかいに感心させられることがある。

# by enzian | 2017-11-12 16:51

大学<アルバイト≦彼氏・彼女

退学した学生が遊びに来ることがある。彼らは在学時よりも明るくて、元気になっていることが多い(もちろん遊びに来るぐらいだから、そういうことになる)。近況を聞けば、アルバイトがうまくいっていて、結婚を予定している相手もいるという。在学時代はなんら有効打を打てず、こちらとしては完全に敗北した相手である。別人のようになって喜々として話すその人の横顔をみて、ほんとうによかったと心から喜びながら、かすかに口惜しい思いもした。

# by enzian | 2017-11-04 18:22

菱と蓮

生まれてはじめて菱の実を食べた。昔、母が「栗のように美味しい」と言っていて、いつか食べたいと思っていた。泥が沈殿したような池に生えること、鋭い棘(とげ)が生えていることは知っていたから、「そんなものが栗の味のわけがあるまい」と、生意気なことを思っていた。こちらでは食べる習慣がなく、なかなか食べられずにいたが、先日、百貨店の食料品売り場に見つけて、買ってきた。ゆでて食べるらしい。ゆでて皮をむけば、ちょっとピンクいろがかった白い実で、なるほどば栗っぽい。食べてみたら、なんとこれがまぁ美味しいのだ。柔らかくゆだった部分は甘く栗のようで、堅めにゆだった部分はクワイのようだが、クワイのような苦みはない。ややアクがあるが、炊き込みご飯にしたら、栗ご飯との区別がつかなくなった。栗より歯ごたえがある分、美味しい気さえした。これほど美味しいものだとは。

仏教では泥深い池から生えて美しい花を咲かせることから蓮の花が珍重される。夏の朝、水面からぐいと身をもたげて艶やかに咲く蓮の花はたしかに抜群に美しいが、泥水のなかにあって滋味豊かに実る棘だらけの菱の実や、ずっと泥のなかで育つ穴だらけの蓮根が、美しくはないにせよ、より懐かしい。

# by enzian | 2017-10-29 15:59

生ぬるいのはイヤなのだ。

とある書類を書いて精根尽き果てる。この時期、日本の研究者にはそういう課題があるのだ。ぼくは昔から重要な文章については、自分の書類であろうと他人の書類であろうと、自分の助けを頼りにして書いてきたのだけど、この書類はチェックしてくれる同僚がいたのでどこか気が楽なところもあった。あったが、書いて思ったのは「ミスっても、きっと誰かがチェックしてくれるだろう、てへぺろっ」なんて思っている限り、生ぬるい文章しか書けないということ。「もう誰もチェックしてくれない、全身全霊を傾けて1字の誤りも残さぬ」と思って書くぐらいで、ようやく誤字3つぐらい(!)にとどまる。チェックしてくれる人のありがたみもわかる。助けてもらった、と心から思える。

# by enzian | 2017-10-23 21:57

大地の神話

なにを大切と思うかぐらい自分で決めたいから、誰しも他人から価値を押しつけられるのはいやだろう。ぼくも押しつけがましくされたくないのだが、自分が押しつけがましくしていないかと考えると、きっとしている。例えば、よくよく考えてみると、ぼくにはどのような人も〈歴史ある伝統的なもの〉が好きなはずで、〈自然〉が好きだと思っている節がある。そんなことだから先日も、はじめて話した院生たちに、「よしっ!寺に行こう」などと、押しつけがましいことを言ってしまっていた。自分としては院生の研究領域からしてプラスになると踏んだうえで言っているつもりなのだが、まったく大きなお世話である。

とはいえ〈歴史ある伝統的なもの〉なんてまだましな方で、たとえ生まれの偶然からいまは自然が好きでなくても、「いやしくも人間として生まれた限りはいずれは自然を愛すべきで、大地と触れあうべきである」ぐらいのことを信じ込んでいる節がある。そしてそれを全方位的に展開しているから、周りの者からすれば迷惑な話である。ぼくは山里で育ち、実家には土間があり、周囲は田んぼに囲まれていた。幼いころ、まだ道路は舗装されておらず、砂利道だった。それらは自分にとって大きな意味をもっているが、だとしても、コンクリートやアスファルトで固められた家で土地で生まれ育ったことになんの不利があるというのか。なにゆえ、水や土くれを愛でることに付き合わされねばならないのか。自然が好きなら、ひとりで草むらに転がって野草と遊んでおればよいのである。

# by enzian | 2017-10-09 21:44

「真理は二人からはじまる」

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「先生って徒党を組まないですね」と言われたことがある。そう言われてどう答えたかは覚えていない。徒党というのは自分の目的をかなえるための頭数なんだろう。実際、そういうのは知らず知らずにやってしまっているだろうけど、意識してやりたいとは思わない。お世話になった先生が言っておられた。学者が徒党を組むなどというのは決してしてはいけないこと。だけど、孤立するのもいけない。「真理は二人からはじまる」。孤立するのではなく一種の人間愛(この辺の表現はやや専門的)にもとづいた交流が必要である、と。そのとおりだと思うし、先生は言うだけでなく実際にそうしておられた。実際にそうしておられたから、ぼくもそうしたいと思って教師になった。初心はそうだったんだ。

# by enzian | 2017-10-09 18:12

スピーチの後悔

卒業生のスピーチをする。卒業生のスピーチをしたのは、たったの2回目。長く冠婚葬祭を断っていたものだからそういうことになる。もちろん、そんなに好かれる先生でもないので、ますますそういうことになる。学生側からすればそういうことだが、教員としても、もし頼まれればスピーチしたいと思う学生もいるし、頼まれても避けたいと思う学生もいるし、頼まれなくてもしたいと思う学生もいる。この辺りの区別は、成績のよい学生であるとかないとかいうのとはまったく別のことで、なんとも説明しがたい。あえて言えば、こちらの心に痕跡を刻んだ学生であれば、スピーチしやすいし、してみたいとも思うのかもしれない。

長く卒業生からの結婚式の招待を断っていたのでスピーチを頼まれて断ったこともほとんどないが、1例だけ断ったことがある。この卒業生の結婚式への参加が結婚式不参加の禁を棄てるきっかけになったのだが、参加はしたがスピーチは断ってしまった。頼まれなくてもスピーチしたい学生だったのになぜしなかったのかと、いまでも「結婚式」という言葉を聞く度に後悔している。

# by enzian | 2017-10-03 22:11

カワウソ考

対馬でカワウソが見つかったというのは、久しぶりに胸躍るニュースだった。ぼくは昔からのカワウソ激推しの人だけど、このごろはカワウソを飼育する人が出てきていて、それはそれでかわいいから楽しいだろうけど、いずれあの多動性と獣っぽさにやられてしまって、捨てられ、川辺は野良カワウソだらけ……なんてことにならないかと心配していたりする。いやいずれそうなるのではないか。かつて野生化したアライグマのように。

対馬のカワウソは朝鮮半島から来たカワウソなのか、それともニホンカワウソの生き残りなのかまだわからないそうだけど、どっちでもいい。もともと動物というのは自然の力で、自分の力で、あるいは人為的に移動しながらもとの生息域を変えて、そこで根付いてきた。それが野生ということなのだ。が、もし対馬のカワウソが「かわいいから飼う→扱い切れないから捨てる→野生化した」カワウソなら、悲しい気がする。ぼくには、「かわいいから」に一定の距離を置く癖がある。堅苦しいことですまぬ。

# by enzian | 2017-09-30 10:05

抱えて生きる。

高校生に、事実を知るのは幸せだと言えるかどうか、みたいな問いをした。高校生といっても、しっかり考察できる人たちがいて驚かされる。この問いの答えは高校生からあれこれ聞かせてもらったけど、見方を変えて、事実を知る側ではなく、事実を伝える側から考えてみればどういうことが言えるだろうか。つまり、知った事実を伝えるのは(伝える人にとって)幸せなことなのかどうか。知った事実が良い事実であったり、よい事実ではなくても聞いた相手をプラスの方向に向け変える可能性があるものであれば伝えるが、伝えても九分九厘、相手の意欲を削ぐだけで、伝えた者が恨みを買うだけに終わるようなことならどうだろうか。ぼくにはこの答えがわからない。ぼくの先生たちはこういうときには黙っておかれた。学生のころ、そういう先生たちの姿を傍からみてなんと冷酷なことかと震えたことがあるが、いまにして思えば、黙っておかれた先生たちはさぞや辛かっただろう。その辛さを抱えて生きられたのだと思う。それが証拠に、先生たちは、伝えなかった学生のその後をずっと心配しておられた。

# by enzian | 2017-09-28 01:02

なにも変わらない。

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はじめて会ったときからその人は誠実で、それから長い年月が経ってお互いの立場が変わり、皺が増え、髪の色もすっかり変わったのに、あのときのように誠実だった。いつものように謙虚で、いつもように他人を思いやっている。なにも変わらない。世のなかにはこういう人がいることを伝えられればいいのだけど。

# by enzian | 2017-09-24 10:28

「わかりません」

いろんなものが削ぎ落ちてゆく――そんな気分が、かれこれ一年以上続いているような。ベースは「次から次へとろくなことがない」という印象で、仔細に見れば、大盛りご飯の上にちょぼっとかかったゴマ塩のゴマ的な感じでいいことがある。ゴマ二、三粒。この割合が逆転してくれないものか。

突然、右目がよく見えなくなった。今度はそう来たか。

片目しか見えなかったおばあちゃんは、「目は大事にせないかん」と言っていた。決して大事にしていなかったわけでもないのだけど、そうなってしまった。「○○は?」「わかりません」「○○は?」「わかりません」「じゃ、○○は?」「わかりません」「○○は?」「わかりません」「○○は?」「わかりません」‥‥‥。「わかりません」と言うのがつらいことだというのをわかっていなかった。せめてこのことぐらい学んで、活かせれば。

追記:
おかしいおかしいと思っていたら、網膜剥離でした。現在、治療中です。もともと両眼の視力が低く、片目だけで書くのはかなりしんどいので、ブログの更新はしばらく(?)休みます。

# by enzian | 2017-07-23 11:26 | Comments(3)

レモンを植える。

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レモンを植えました。前にも書いたことがあるのですが、レモンを植えると必ずアゲハがやってきて卵を産みつけますから、モスラを駆除するのがイヤで、植えられないと思っていたのです。せっかく植えたレモンを食べられてしまうのはしゃくだし、かといってモスラを駆除するのはもっとイヤですから。で、どうして植えたかというと、モスラがやってきたらやってきたで、モスラにレモンをあげてもいいのではないか、そのときは「レモン栽培日記」ではなく、「モスラ飼育日記」に脳内を切り替えればいいのではないかと、あるとき、はっと気づいたのです。前回の記事を書いたのが2006年ですから、こんな簡単なことに気づくまでに11年もかかったのです。われながらバカだと思います。

それで植えたら、親アゲハとは立派なもので2日後にはやってきて、卵を10粒ほど産んでいきました。小さなレモンの苗で、食欲旺盛なモスラが成長するには一匹分でもぎりぎりぐらいの葉っぱの分量しかありませんから、10匹全部が孵化したらどうしよう、別のレモンの苗を買ってこようかなどとはらはらして見ていたのですが、けっきょく2匹しか孵化せず、その2匹もいつのまにかいなくなりました。これでめでたくレモンが食べられそうなのですが、なにやら満たされないものがあるのです。

# by enzian | 2017-07-16 22:31

心を預ける場所

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旅先の駅を調べるときには、スーツケースを置けるコインロッカーがあるかどうか調べる。スーツケースは便利だけど、旅行には向いていても旅には向いていない。できるだけ四肢を身軽にしてあちこち歩くのが旅だと思っているのだ。

こんなふうに時折どこかに荷物を預けて歩きたくなって旅に出るが、あれこれあるなかで生きていれば預けたくなるのは物だけではないだろう。ひなびた無人駅であっても、たいてい、さして遠くないところに小さな寺があったり、鎮守の森があったりする。

# by enzian | 2017-07-16 11:02

紫陽花のこと

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寺に行ったら紫陽花が咲いていた。ガクアジサイというのだろうか、花全体がそれほど大きくはなく、中央に密集したつぼみのひとつひとつの色が微妙にちがっている。ぼくが幼いころはこんな繊細なものはなくて、紫陽花といえばもっと大作りのものだった。知らなかっただけなのかもしれないけど。

母の郷里では昼間はおじやおばたちは仕事に出ていて、幼いぼくはひとり留守の家にいた。狭くて、子どもが遊ぶようなものはほとんどない家だった。この小さな家で母とおじ2人とおばが育ったというのは信じがたいことだった。ぼくはおじが帰ってくる夕方まで延々と待ち続けた。部屋には母の父が書いたという色紙がかかげられていて、難しい字が書いてあった。漢詩であったか。

粗末な書棚がひとつ置いてあり、『旅』という雑誌が10冊ほど並んでいた。他にやることがなくて繰り返し読んだ。陽光きらめく沖縄へなんていうような記事はなくて、ひなびた信州のランプの宿‥‥みたいな、白黒の印象の記事が多かった。おばに妻籠に連れて行ってもらったことがあったから、雑誌はおばのものだったのかもしれない。たしか司馬遼太郎がコラムを書いていて、その文章の調子が心に残っている。

読み疲れると、家を出て隣のガレージに行った。紫陽花が植わっていて、その芽の部分を摘み取って遊んだ。冬にはそれを家に持ち込んで、ストーブの上で焼いたりもした。焼くといやな匂いがした。いやな匂いがするならやめておけばよいものを、毎日そんなことをしていた。その紫陽花は梅雨時になると大きな花を咲かせた。

# by enzian | 2017-06-12 22:53

この時期になると‥

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沖縄に行きたくなって困ってしまいます。ほどなく沖縄は梅雨明けするからです。ダイビングとかシュノーケルとかそういうのはけっこうでして、昼間は地味にうじうじして、夕方からは泡盛を飲んで、夜な夜な宿屋を抜け出して星空を見にいく、というような生活がしばらくしてみたいのです。てぃんがーら(天の川)が見えれば最高。沖縄の一地方には、冬瓜を切ったときに出てきた大量の水が天の川になった、という言い伝えがあります。これに似た伝承は沖縄以外にもありますが、瓜にはなにか象徴的な意味があるのかもしれませんね。(ちなみに画像は沖縄ではありません。)

# by enzian | 2017-06-11 23:14

酔い覚ましの水

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前回の記事の続き。その会を終わって、帰りの電車のなかで酔い覚ましの水を飲みながら考えていた。ぼくはその問いに誰かの言葉を引用しながら、答えたような答えていないような返答をしたが、なぜそんなことをしたのだろうか。その問いは「あなたはどう考えますか?」と問っていたのであって、「歴史的権威がどう言いましたか?」ではなかった。そんなことはいかに酔っ払っていてもわかっていたはずだし、ぼくのなかにその問いへの "ぼくなりの答え" はあったから。

問いに答えようとすることは大切だが、それがなぜそこで問われたかを問うことも大切なのだ。問う者にも問われる者にもそれぞれいわく言いがたい積み重ねがあって、そんななかで二人がまじり合い、またとない問いが立ち上がる。その瞬間を台無しにしてしまったのではないか‥‥そんな想いにとらわれていた。「ひととの出会いに次はない」と言われるが、ひとからの問いにも次はないと思う。

# by enzian | 2017-06-11 11:10

おちおち絶望もできないなら

「彼が絶望してもなおも一歩を踏み出したのはなぜか?」と問われた。もう一歩も踏み出せないことが絶望の意味であるなら、その問いが意味したのは、「彼がいったんは絶望しても、また時を経て一歩を踏み出そうとしたのはなぜか?」あるいは「絶望しそうな状況にもかかわらず絶望せずにいたのはなぜか?」だったのだろう。本当のことを言えば、「絶望しちゃいけない」、「いったん絶望してもなお一歩を踏み出さねばならない」なんて、他人にも自分にも言うつもりはない。それっきり尽きてしまうこともあるだろうから。もっと言えば、いつでもどこでも絶望できる余地、絶望できる自由があることがかえってひとを救うのではないかとさえ思っている。おちおち絶望もできないようなら、今日を生きることもままならないではないか。

# by enzian | 2017-06-04 10:49 | ※キャンパスで

遠ざける言葉

「なにか手伝えることがあったら言ってください」と言われると、やさしい言葉だとわかっていても複雑な気持ちになる。手伝うことがあるかどうかは、その気があるならなんとかして自分で探すはずで、手伝うべきことと手伝う必要のないことを相手に判断させ、それを相手から表現させようとすることだと考えてしまうからだ。相手に責任を負わせるというかたちで自分の責任を果たしたとすることに少しぐらい抵抗を感じないのだろうかと思ってしまうものだから、けっきょく自分では使わない言葉になってしまう。

「また誘ってください」というのも複雑な気持ちになる言葉。言われ続けると、幸せは天から降ってきませんよ的な気持ちになってしまって、けっきょく「もう誘わないでください」と言われるのと同じ結果になる。

# by enzian | 2017-05-20 17:35

「神さま、恵比寿さま」

海の近くにある食堂で朝食をとることにした。調理場では3人が忙しく働いている。漁師がやっている店のようだった。一人の老年の男性が「神さま、恵比寿さま」を繰り返しながら魚を捌いている。漁師が恵比寿神を豊漁の神としてまつることがあるというのは知っていたが、「神さま」と並べて呼びかけるひととは、実際にははじめて会った。それは豊漁を願っているのではなく、魚を捌いて供することにゆるしを求める言葉だったのだろうか。七福神にどこかコミカルなものを感じてしまう自分はすんなり理解できずにいた。そうこう考えているうちに、男性によって美しく捌かれ皿に並べられた魚たちを、ぼくは甘い醤油につけて食べた。

# by enzian | 2017-05-04 17:56

戒壇堂の廣目天

施無畏印(せむいいん:怖くないですよ)と与願印(よがんいん:願いをかなえる)の印相(手で示すジェスチャー)をあわせもっている仏像をみると、やっぱりそうですよね、と思う。相手を安心させることもなく、話を聞きましょう、力になってあげましょうなんて迫っていったって、怖いひとにしかならない。とにかく相手に警戒心をといてもらうことからしかなにもはじまらないことはわかっているのだけど、もうきっとどうにもならないとあきらめている。

昔からいちばん好きな仏像は圧倒的に東大寺戒壇堂の廣目天(こうもくてん)。こういうことをいうと叱られるかもしれないが、廣目天は小学校のころから自分に似ていると思っていて、いまでも他人だと思えない。たしかにいまの自分も、出席簿をにぎりしめて学生をにらみつけてはいるのだが‥‥

# by enzian | 2017-05-04 17:02

新学期はじまる

新学期がはじまってしまった。今年の新入生は男性よりも女性が多くて、これは哲学科はじまって以来ではないかと話す。たぶんそうなのだろう。自分が学生だったころまで記憶をたどるが、そんな記憶はない。

べつのゼミに行った2年生以上の学生の連絡先をさくさくと削除する。去年、2年生との連絡はメールを使わないひとがいてラインを使っていたが、これはどうも削除しにくい。やはりメールで連絡しておくほうがよいようだ。今年も自分のコースやゼミには、よほどのことがない限り来ない方がいいという体で話し、書いた。これでいいと思う。

# by enzian | 2017-04-02 16:27 | ※キャンパスで

別れがないという喜びと別れがないという悲しみ

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昨日は墓参り三昧で、一昨日は卒業式。何度も書いたけど、毎年この時期に思うのは、出会ったひとと別れることはないし、出会わなかったひとと別れることもないということ。一度出会ってしまえば別れることはないし、もともと出会ってもいないのに別れることなどない。この時期は、別れがないという喜び、感謝の気持ちと別れがないという悲しみが枕頭を行き来する。


# by enzian | 2017-03-19 11:22

祈る

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力になれればいいけど、貸せる力がないことがあります。万策尽きているのです。そういうときにはなにも力になれません。別のなにかがなんとかしてくれるのを待つしかないのです。貸せる力はあっても貸してはいけないときもあります。そういうときにも、なにも力になれません。自分でなんとかしてくれるのをじりじりしながら待つしかないのです。「祈る」ってどういうことなのでしょう。

# by enzian | 2017-02-19 23:01

神から友人

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今日は大学院の入試日。受験生ではないのに、院試と聞くと、そわそわして落ち着かなくなります。その昔、試験のときに問題1枚分を見落として、_| ̄|○的な気分で試験を終えたことを思い出してしまうのです。試験が終わったとき、同じ試験場で受験していた人が急に神々しく見えたのでした。といっても、一週間後には友だちになっていっしょに飲んでいたのですが。

# by enzian | 2017-02-17 17:39

てぃんがーら

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ゆめぴりかという北海道の米を食べる。いつも食べるご飯よりもつややかな感じがするので、ぴかぴかしているからぴりかと言うのかと思えば、「ぴりか」はアイヌ語で「美しい」の意味らしい。

こういう美しいご飯を昔の人は「銀舎利」と呼んだのだろうが、「舎利」はもともと仏陀の遺骨の意味で、「銀」は銀河の由来がそうであるように、白さを意味するのだろう。その昔、天の川は今以上に白々と光って見えたのだ。そして昔の人は「白さ」ということで骨をもイメージした。ヨーロッパの人だったら、「milk」って言うのかな。

今回、「ぴりか」という美しい響きの言葉を知ったけれど、ぼくがとても好きな響きの言葉がもうひとつある。それは「てぃんがーら」という沖縄の言葉。「天の川」(天の河原)を意味する。

# by enzian | 2017-02-11 22:21

聖俗を越えて

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その方は、ことあるごとになにが大切かをまっすぐに問うた。この大学に残った者がなにをしなければならないのかを問った。「ぼくは坊主だからこういう言い方になるけど‥‥」。そこには自分を聖として相手を俗なるものとして切り分けるようなそぶりはどこにもなかった。

# by enzian | 2017-02-11 15:40

節分

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ラインで話していたら、自分は邪鬼の側だと思うみたいなことを言われて、自分もそう思いました。でも、この場合の「そう」ってどういう意味なんでしょう。ぼくの場合、四天王に踏みつけてもらって、どやされているぐらいでちょうどいい。それでこそ、ようやくそれなりに安心して生活ができるぐらいなのです。むしろ、踏まれなければ地獄。この邪鬼も、踏まれて喜んでいるのかもしれませんよ。興福寺には、立ち上がって仏の道を照らそうとしているような立派な邪鬼がいますが、それはぼくの世界ではありません。

# by enzian | 2017-02-03 22:19

特別扱い

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テレビを観ていると、「特別な許可を得て撮影しています」というテロップが流れることが多くなりました。どんな角度から押し寄せてくるかわからないクレーム対策にテレビ局も大変なのでしょう。これなどはわかる気がするのですが、テレビ番組のロケで訪れた文化財やなんかに「今日は特別にお見せします」というのが多くて、ときに違和感を感じます。特にNHKの番組のなかにはこれが多いような気がします。天下のNHKだから見せましょう、ということもあるのでしょう。

いつぞやは「ふだんは公開していないのですが、今日はタモリさんのために特別にお見せします」なんてまじめに言っているお坊さんがいて、ちょっと引きました。NHKとタモリ氏と視聴者(ぼくを含む)は得をした気になるわけですが、一方で番組を観て気分を悪くする人はいないのかと心配になったのです。なにがしかの謝礼やら恩恵はあるわけでしょうから、特別の人への「特別拝観の許可」ということになるのでしょうか。ぼくはもう少し、誰でも見られる光景でありながらも切り口が違う……といった番組で最後まで徹底すればいいと思うのですが、それではふつう過ぎるのかもしれません。

# by enzian | 2017-01-29 18:14

鈍感と敏感

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聞いたようなことを言えば、自分に話しかけている声に応えようとすることが責任なのだろうと思います。その昔、先輩から「挨拶を返せないとバカだと思われてしまうぞ」と言われて、「形式的な挨拶に外見だけの挨拶を返したら人格者になるのか」と、ひねくれた少年は反発したのですが、やはり総じてバカだったのだと思います。世の中の人は、誠実な問いかけに自然に(好んで)応答できる人と、自然にはできないけど不誠実だと思われては困るので応答する人と、応答しない人に分けられるのでしょう。

先日、駅の改札で朝から大音量の放送を流しながらのぼりを立てて「挨拶運動」なるものをしている一群の方々がおられたのですが、冷たい目で通り過ぎました。自分は昔からなにも変わっていないのかもしれません。自分のことはわかりませんが、四方八方からの問いかけに敏感過ぎる人はおのずと宗教に境を接してしまうように思います。自分の力ですべてに応えられるわけがないからです。ある意味では過度に敏感な人が別の意味ではあまりにも鈍感である、抜け落ちてさえいる……ということはよくあるわけですが、この鈍感さは、情報過多の時代に自分を守るための術でもあるのでしょうか。

# by enzian | 2017-01-22 11:59