2010年 02月 04日

架線が好きです。正確にいうと、電柱も、電柱にくっついたような街灯も、高圧線も、高圧線の鉄塔も好きです。ひっくるめて架線一般が好きなのです。
工場萌えにはなれませんが、“架線萌え” ではあります。電車の線路の架線は大好物ですが、立春ということで致し方なくカミングアウトするなら、険しい山をわたっている高圧線と鉄塔の組み合わせなんか、よだれが出るほど好きなのです。じゅる。
秋に紀州路を訪れたのですが、電車ではなくバスで行きました。奈良交通には紀伊半島を縦断する
「八木新宮線」という日本最長の路線バスの路線(大和八木→新宮、168㎞、バス停は166!)があるのですが、6時間半もかかるバスの旅を選んだいちばんの理由も、山々をわたる鉄塔やら架線をゆっくり見たかったからなのでした。紀伊半島の山深いところにも人の住むところは点々としてあって、山肌にしがみつくように集落が点在しています。そうした集落と集落、点と点とを架線がつないでいるのです。
山の木々からすれば鉄塔なんぞ立てられて迷惑な話でしょうが、ひとが入れそうにない山深い急峻にどうやってそのようなものが立てられたのだろうか、と考えていました。いまは資材をヘリで運ぶといいますが、ヘリだけで鉄塔が立てられるものではないでしょう。そのようなものを立てたひとたちのことを考えて、そのひとたちが照らしたものを思いながら、車窓から見えるさまにほれぼれしていたのでした。熱く萌えておりました。
新しくできた住宅街などでは電柱がないこと、電線が地中に埋め込まれていることが “売り” になっていたりします。これからは、少なくとも都市部ではどんどん架線は見えなくなっていくのでしょうね。理解できないことではないのですが、架線萌えには少々残念です。
# by enzian | 2010-02-04 22:54 | ※その他
2010年 01月 31日

定期試験も終わり、大学はお別れへの助走期間に入った。たくさんのさよならをするのだ。
ぼくは「また会いましょう」という言葉をほとんど使ったことがない。方々で「鬼」と評され、そしてその評価はじつに正確なのだが、かといって「また会いたい」という気持ちがないわけではない。ひとたび出会って情が移れば、もう二度と会えないなんて誰だってやなこった。そんなの、当たり前じゃないか。
ぼくが「また会いましょう」といわない理由はふたつ。ひとつは、再び会っても、喜んでもらえるようなものはなにも持ち合わせていないと思うからだ。もう会わないことは、運悪く一度出会ってしまったことへのおわびのしるしなのだ。もうひとつは、ぼくの場合、追いかける(というより、正確には追尾する)能力が人並み以上に備わっているので、追わないでおくこと、視界に入れないようにすることに全力を尽くさねばならないからだ。もう逃がしてあげなきゃ。目を閉じて、包帯をぐるぐるに巻いて、その上に絆創膏を貼って留める。
# by enzian | 2010-01-31 22:18 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(1)
2010年 01月 18日

ふかふかしたお布団や毛布にくるまれてぬくぬくする。これは幸せですよね。これがなんで幸せになるのかわかりませんが。この時期、夜遅くまで受験勉強を続けて、お布団にくるまるときだけが幸せなんだ、なんて受験生もたくさんいることでしょう。
ですが、このふかふかのお布団が今朝のような寒い朝にはそのままで忌々(いまいま)しい存在にもなります。昨夜あれほどやさしく受け容れてくれたあのお布団が、今はぼくをすっぽり呑み込んだまま、なかなか吐きだしてくれないのです。ふかふかのお布団は天使でも魔物でもあるのですよね、なんてことを言うと、お布団と毛布は責任転嫁するな!と怒るかもしれませんが。
そうこう考えているうちに非常用のふたつめの目覚まし時計がジリジリ鳴って、ぼくはようやくふかふかのお布団からの自立を決意した。今日も朝から仕事、仕事。
# by enzian | 2010-01-18 22:32 | ※その他 | Trackback | Comments(2)
2010年 01月 11日

どの漢字を使ったらよいのかいつも迷う言葉がある。「こえる」だ。長いあいだ、「越える」と「超える」、どちらを使うかでぐらぐら揺れている。
もちろん文脈にもよるのだけど、院生のころは好んで「超える」を使っていた。自分が明らかにしようとしているものは「超える」ものにちがいない。「越える」では弱い気がした。実際はさしてちがわない意味なのかもしれないが、ぼくのなかでは、「越える」は同質のものへの変化であり、「超える」は質的に異なる――しかも優(上)位にある――ものへの変化という印象があるのだ。
中学に入って間もないころ、地区の山に登ったことがあった。山の向こうになにがあるのかどうしても見たかったのだ。そこはもう大阪なのだと聞いていた。稲も作れそうにないような山田を過ぎて、うっそうとしげる熊笹をかきわけて、やっと山の頂にいたった。視界が開けた。見下ろしたそこには、こちらとなにも変わらない山田が広がっていた。
# by enzian | 2010-01-11 18:57 | ※その他 | Trackback | Comments(10)
2010年 01月 10日
会議などで理路整然と否定されるのは、たとえ自分の意見が完膚無きまでに論破されても、すがすがしい気分になれたりする。こういう気分になる理由は、ひとつには自分が根拠として弱いと秘かに恐れていたところをずばりとついてくれるからだ。これはある意味で自分が正しかったと言ってくれているのに等しいし、誤ったことを強引に実行することが引き起こす良心の呵責を取り除いてくれてもいる。もうひとつは、自分が想像だにしていなかった誤りを指摘して、自分の無知を知らせてくれるからだ。正しいことは正しい、正しくないことは正しくないと互いに言えるひととの議論ほど楽しいものはない。逆に、はじめから結論を決めている者と話し合うことほど不毛なことはない。
# by enzian | 2010-01-10 23:53 | ※その他 | Trackback | Comments(4)
2010年 01月 05日
あまり信心深い方ではないが、正月を迎える前にはしめ縄ぐらいは張る。小さな梯子を使って玄関に取りつける。ミカンが真ん中にくるようにして、しっかり固定する。立派なしめ縄には昔ながらのダイダイ(橙)がついているのだろうけど、ぼくの家のは小さいしめ縄なので、「葉ミカン」というものだろう。「代々(栄える)」じゃなくて「未完」でよいのかなという気もするが、完成してしまうと先がないわけだから、けっきょく「未完」も「代々」も同じ意味なのかもしれない、どのみちぼくが後世に残すものなどないんだけど。
玄関の戸を閉めて、しばらくしてミカンが曲がっていないか確認したら、しめ縄にスズメたちが集まっていた。稲についた米を親子連れで強奪しているのだ。米をしごかれた稲はごわごわになっている。昔、「髪の毛をとかないと “スズメの巣” になるよ」と叱られながら髪をといてもらったのを思い出した。しめ縄のわずかばかりの米も山里で冬を越すスズメには大切なものなのだろう。この時期にしめ縄が張られることを知っていて、じっと待っているのだ。我が家のしめ縄は正月を迎える前にすっかり米なしになり、葉ミカンは残った。
# by enzian | 2010-01-05 22:40 | ※その他 | Trackback | Comments(10)
2010年 01月 01日
ずっと苦々しく思っていた。「なにげない日常を」といいつつ、いま起きていることはなにも書いていないと。誰しもそうだろうが、ぼくもまた日々学校で起こっていることをつぶさに書くことはできない。書けるのはせいぜい、幼いころの情景や10年以上前の昔話ばかりになる。いつから懐古趣味になったのかと、ブログをはじめてから内心では嘆いていた。
だが最近、そうした嘆きは誤りだと思うようになってきた。ひとつの光景や場面をもう一度とりあげ、せっせと水をやって、できた種をまた自分で耕した畝(うね)に植え直す――そういう時間のかかる作業を経なければ、ぼくはそれを言葉に落とし込めない質(たち)なのだ。けっきょくのところ、「植え直すのに失敗しました^^;」という自分自身への “始末書” ぐらいしか書けないんだけどね。
さあ今年も、始末書ブログのはじまり、はじまり。
# by enzian | 2010-01-01 21:58 | ※その他 | Trackback | Comments(13)
2009年 12月 30日

足が “しあわせ” と歌っていた。(写真をクリックすると拡大します。)
# by enzian | 2009-12-30 15:34 | ※写真 | Trackback | Comments(14)
2009年 12月 29日

前を歩く少し腰の曲がったコート姿は老人らしい。据え置きの消毒液の前で止まり、液を手につけ、またトコトコ歩き出す。
見かけない方だ、どこの方なのだろうと思ったが、わずかに横顔が見えて、わかった。3年前に立ち話しした際にはもう少し背はまっすぐ伸びておられたはずだが。横顔の雰囲気からも、ずいぶんお歳を召されたように見える。後ろからお見かけしただけだから、それはたんなる思い違いなのかもしれない。
ゆっくり歩く老人を追い越さないように歩く。ここで働きはじめて、どれほどの学生がこの老人のお世話になったことか。先日もまた、この方は一人の命を救ったのだった。腰が曲がってもなおここに足を運び、もくもくと縁もゆかりもないひとの力になろうとする。このひとを動かすものはなんなのか――小さな老人の背中を見つめながら考えていた。自然に頭が下がってしまって、困った。救われているのは、学生よりもぼくの方なのかもしれない。
# by enzian | 2009-12-29 22:39 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(4)
2009年 12月 29日
数頁読む。鉛筆で線を引く。めくる頁、めくる頁にこちらの思考を刺激してくるものが埋め込まれていて、しばらく考えてしまう。先を読みたい心を無理に封じて、じっと目を閉じる。思考は際限なく広がって、なにか大切なものの鉱脈の在りかをぼんやり示す。鉱脈を忘れるのが怖くなって、先に進めなくなる。すでに忘れてしまったものはないかと数頁戻って、また線を引いたところを読み返す。こんな本に出会ったのは久しぶりかもしれない。
生まれてこの方、見たこともない表現が使われている。文学を知らない自分が言うのもおこがましいが、こんな美しい日本語があるのかと思わせる文章が列をなしている。たまらず、その一つ一つに二重線を引く。この文章全体に漂う “気品” はなんなのだろう。藤本としの本を読んだときにも気品を感じたが、この著者には、かつての跳ね馬が長い経験のなかで御(ぎょ)されたような、上質な力強さが一体になった気品を感じるのだ。
特別の本だけを入れる小さな本棚にその本を置いた。
# by enzian | 2009-12-29 00:05 | ※好きな本 | Trackback | Comments(24)
2009年 12月 25日

不意に人が小さく見える瞬間というのがあると思う。それはどういう瞬間なのだろうか。それまではもっと大きいと思っていたものが、不意にこんなにも小さかったのかと思える瞬間。それはいつ訪れるのだろうか。
自分にも経験がある。全身で怒り、にらみつけるその人のさまを見て、この小さな身体から迸(ほとばし)る情念はどこから出てくるのかと思い、記憶の彼方にあるときからぼくを抱き、背負い、手をとって連れて歩いてきてくれたこの人、この人はこんなにも小さかったのかと思ったのだ。そして、その人とは次の日、別れたのであった。
# by enzian | 2009-12-25 21:45 | ※その他 | Trackback | Comments(0)
2009年 12月 20日

久しぶりに絵本を紹介します。今回は、大人に向けて作られた大人の絵本です。物語は寺山修司、絵は宇野亜喜良。どちらも、いわずと知れた才人。前半は書名の物語、後半は寺山修司によるアフォリズム(箴言)集になっており、宇野亜喜良の絵が彩りを添えています。後半は寺山らしく(?)、男と女の関係への傾きが強すぎて酔ってしまうので、ぼくが推すのは前半です。
少年と少女の恋の話。恋する者同士ゆえのすれちがい、といったストーリーです。オヘンリーの短編にも似たようなストーリーがあったような、なかったような。宇野の描くアンニュイ(物憂げ)な、この世ならぬ方向を見つめる表情のキャラクターたちが人の心の多様さ、とりとめのなさ、不条理さを印象づけておりますな。切ないストーリーもよいのですが、ぼくがうなったのは次の詩です。
消えるという名のおばあさん
消えるという名の汽車に乗り
消えるという名の町へ帰る
さよならさよなら
手をふったら
あっという名の
月が出た
どうしてうなったのか‥‥は説明不能。詩の才のない者には自分がよいと思う詩のよさを説明することなどできないのです。宇野によるおばあさんの絵と合わせてご覧ください。そして、真にうなったのは次。
ママが鳥になってしまったの、鳥とあそんでいたら、そこへ、べつの鳥が飛んで来て同じようなのが二羽になってしまったの。どっちがママなのかわからないので、困っていたら、そこへズドン!と鉄砲の音がして一羽に命中してしまったの。でも、死んだのがママなのか、びっくりして飛び去って行ったのがママなのか、見わけがつかないので、ぼくは泣いたほうがいいのかどうか、迷っているところなのです
泣いほうがいいのかどうかわからないこと――これほどの悲しみはないと思う。
# by enzian | 2009-12-20 00:00 | ※好きな絵本(コミック) | Trackback | Comments(20)
2009年 12月 17日
どうしてそんなドラマティックに話そうとするのかと感じる場合がある。よく面接をする機会があるが、若いのに、異様なほどに強弱のアクセントをつけながら話すひとがいる。なかにはアクセントのうえに身振り手振り、顔振りを交えながら話すひとさえいる。どうも面接慣れしているひとらしいのだが、どうして面接慣れしてくると異様に抑揚がついたり体のアクションがついてくるのだろうか。それは総じて面接やら社会のさまざまな場面というのがそういうのを求めるからなのだろう。簡単なことだ。求められるからそうするのである。
自分を前面に押し出し、次から次へと長所を全身でアピールをしてくる “面接エリート” たちを見ながら、いかにも冷酷にこう考えている。もっとたんたんと話せないものか?研究ができるかどうかなど書類を見ればすぐわかる。ぼくがいま見ているのは、あなたが自分の拙さをどれほど知っているのかということだけなのだ。
# by enzian | 2009-12-17 14:27 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(0)
2009年 12月 12日

新聞を読んでいたら、『科学』と『学習』が廃刊されると書いてある。それを見た瞬間、自分でも驚くほど淋しい気持ちになった。
小学校の一時期、学研から刊行されていた二冊を定期購読していた。裕福な家ではなかったから、ずいぶん無理をしてくれたのだと思う。後にはお金がかかるということで講読を諦めることになるのだが、それを告げたときの母の淋しそうな顔はいまも覚えている。特に『科学』はお気に入りで、毎月送られてくる付録の実験セットには胸ときめいた。
ある月の付録はプランクトンの飼育セットで、プランクトンを育てるのが楽しくてしかたなかった。親になった気分でかいがいしく餌をやっていたのだけど、何匹かは死なせてしまった。そんなことを作文に書いたら、思いがけなく新聞に載ることになってしまった。ぼくは自分の文章が人目に触れるのがイヤで、クラスの仲間にも、家族にも黙っていた。ある朝、学校に来ると友人たちが騒いでいた。「○○の顔、別人みたいに写ってたで」。自分のことを言っているらしい言葉をただぼんやりと聞いていた。家族はなにも言わなかった。家で講読していたのは別の新聞だったから、ばれずに済んだと胸をなでおろした。
郷里を出ようとして、母の遺品を整理していたときに、タンスから大きな額が出てきた。額なんかには縁(えん)のない家だったからなにごとかと思えば、茶色く変色した新聞の切り抜きが入っている。そこには誰かわからない少年の顔写真と、見覚えのある題の文章が載っていた。そのときはじめてぼくは自分の記事を見たのだった。知っていたのか‥‥でも、ほとんど文字の読めなかった母は読めたのだろうか‥‥。あのときよりもさらに茶色くなった切り抜きは同じ額に入ったまま、この部屋に置いてある。
# by enzian | 2009-12-12 17:49 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(15)
2009年 12月 05日

12月といえば大学は論文の季節。卒業論文やら修士論文(厳密には大学院生だけど)を書いている学生たちが遅くまで研究室に残っている。
教職員も休みを返上して、学生生活集大成のドラマをバックアップしようとする。学生からの熱と教職員からの熱とが混じり合って、12月が深まるにつれて、大学全体は一種独特の雰囲気に包まれてくる。ぼくはそんな雰囲気が好きなのだ。
教員もふらふらだけど、学生たちはもっと大変だろう。論文は自分の姿を映し出す怪物なのだ。外国語が読めないもどかしさ、まともな日本語さえ書けない恥ずかしさ、考える力のなさ、怠惰‥‥おのが拙さをトータルで認めよと迫る論文に学生たちはたじろぎ、弱い自分に、弱さを認められない自分に気づく。真正面から自分を見つめること――これほど恐ろしいことがこの世にあろうか。学生生活集大成のドラマ、というより第一級の“恐怖体験”だが、これを乗り越えてもらえたらと思う。それは徒労ではないのだから。
# by enzian | 2009-12-05 20:58 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(8)
2009年 11月 30日

京都府立植物園にて。
# by enzian | 2009-11-30 22:23 | ※写真 | Trackback | Comments(4)
2009年 11月 27日
「この春、ほんとうに大学を辞めようと考えていたのです」。出張に居合わせた同僚がしみじみ語った。「どうしたのですか?」「体がきつくてきつくて、研究もできませんし」。ぼくが秘かに学生思いのすばらしい教員だと思っている人だった。奥さんと話しあって、けっきょく、自分にはこれ以外の仕事もできないないだろうし、今回は辞めるのを思いとどまったという。こんなすばらしい教育者が、まじめに仕事を引き受けるがゆえにやめざるをえない大学というのはどういう機構なのだろうかと思う。
多くの有能な教員を見送ってきた。いずれも研究をあきらめられない人たちだった。ぼくは自分の研究をすることは半ばあきらめているから、そういうこともあまり考えなかったが、そうとばかりも言えなくなってきた。誰だったか、認知症になった父親を自分で介護していた人が、敬愛し続けた父親であったが、痴呆がひどくなって疲労の極限にたっしたときに「もう私はこの人を愛せない」と思って、施設に預けることになったと言っていた(一般論として、自分で介護し続けることがよいことだと言っているのではない、念のため)。今日、ひとつの仕事を区切ったときに、しばらく意識を失った。さすがに限界かもしれない。
# by enzian | 2009-11-27 23:10 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(4)
2009年 11月 21日

夜が長いという感覚を長く失っている。ある時期を境にして、なによりも睡眠時間を重視することになったから、夜の長さを実感するすることがなくなってしまったのだ。
昔はこんなではなかった。大学生のころはもっと秋の夜が長かったし、高校生のころはとてつもなく長かった。高まる不安やら孤独やらなにかわからない暗い情念の群れが夜ごと襲いかかってきて、どうしたらよいのかわからなかった。高校の秋、親友に話しかけたことを覚えている。「この長い夜、やりきれんよな」。やつはぼくの思いを読み取って、ニヤリと笑いやがった。畏友だった。
「今夜なに色?」という深夜番組があった。新野新が司会をしていて、西川のりおが出ていた。大貫妙子の
オープニングソングはちょっと変わった感じで、好きな曲だった。視聴者からの相談を毎回読み上げ、西川のりおらがそれについての意見を言う。相談はいつも重々しいもので、西川のりおはいつも、もうひとりの女性と激論を交わしていて、その熱の入りようは尋常ではなかった。ときには泣きながら意見を言ったりしていた。ぼくもまたテレビの前でどうしたらよいのか全身で答えを探していた。自分とは関係のない相談事になぜあんなにも一生懸命だったのかわからない。番組が終わっても考え続け、そうやって夜がふけていった。あるとき「お前も観てるか?」と聞いたら、やっぱりニヤリと笑った。
# by enzian | 2009-11-21 22:34 | ※その他 | Trackback | Comments(0)
2009年 11月 21日
地下鉄の駅の上に学校があることもあって、ふだんぼくが学生としゃべっている場所は、主に以下の3地点となっている。
1.個研
2.学校から駅へ至る道
3.駅
なにかと騒がしい2や3でなく1で話すのを好む学生が多いわけだけど、なかには1よりも2や3の方が気さくに話せるのもいる。おそらくどこに座ろうと(なんらかの角度で)視線を合わせねばならない個研よりも、互いに進行方向を向いたままほとんど視線を合わせる必要のない2や3を好む学生がいるのだろうと思っていた。
ほとんど1では話せないのに、思いがけなく2で楽しく話せた学生もいた。1や3とちがって2は歩き続けているわけだから、一定のペースで体を動かすことが会話することに影響するのかもしれない。いやそうではなく、歩くことと、会話のもとになる考えることが関係しているのかな‥‥などとポツポツ歩きながら考えていた。考えながら歩いていた。
だけどあるとき、3で「これくらいの身長差が話しやすい」と言われて、はっとした。(座ったままの)1ではほとんど話さない学生だった。
以前の記事で、ひとにはそれぞれ、これぐらいの角度に他人がいれば安心できるという “人間角度” があるのだろうと書いたことがあるが、人間角度は水平方向だけでなく、垂直方向にもあるのかもしれない。だとすれば、上方2度がよいので自分よりも10センチ背の高いひとが話しやすいとか、下方1度が好みで5センチ低いひとがちょうどだから8センチ高いひとはイヤだ、とかいう “人間垂直角度” があることになるだろう。以前の記事の人間角度を “人間水平角度” と修正したい。
興味深いのはそういうことが生じる理由だ。高さがなんらかの考え方(うまく表現できないあぁ)から生じるとすると、人間水平角度が相手を問わず一定なのにたいし、人間垂直角度は相手の立場によってちがうなんてことにもなるだろう。上司として適切なのは5センチ高いひととか、部下として適切なのは2センチ低いひと、とか。もちろん、1でも2でも3でもなく携帯でのみ話すひともたくさんいるが、それについては別に考えることにしよう。
# by enzian | 2009-11-21 14:05 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(0)
2009年 11月 14日
>哲学的に、とはどういうことなんでしょうか。
「哲学的に考える」(=哲学すること)という場合の
「哲学的に」ということを説明すれば、
以下のような要素を含んでいるでしょうか。
一つのテーマ(日常の当たり前)について、
①常識にとらわれずに柔軟に考える
②(①と重なるが)いろいろな角度から考える
③(②と重なるが)ねばり強く考えるただし、①にしても②にしても③にしても、
考える際には最低限のルールが必要です。
それをあえて言えば、
④論理的に考えるということになるのでしょう。
AはBである。
BはCである。
したがってAはCである。
これは論理的に正しいですが、
AはBである。
BはCである。
したがってDはCである。
これは論理的に正しくありません。
①②③は④を前提条件としているのです。
①から④の要素を満たすには、
本当に正しいのだろうか?他の意見がないだろうか?と
自分で自分にツッコミを入れながら念入りに考えることが必要になります。
ツッコミを入れるためには自分のなかに自分以外のひとの視点が必要です。
A君ならこう言うかも、でもB先生ならこう言うかもしれない‥‥といった感じの。
(④については、野矢繁樹『新版 論理トレーニング』が参考になります。)
つまり、最後は自分で決定せねばならないという意味で哲学は孤独な営みですが、
同時に、ひとりで哲学することはできないのです。
傍若無人(傍らに人が無いかのように振る舞う)という言葉がありますが、
哲学はつねに “傍若有人” でなければなりません。
最後に哲学体質のひとにお伝えしておきたいことがあります。
それは、哲学体質のひとはどこまでも考えてしまいますから、
そうしたひとのなかには、正確に考えようとしてきりがなくなって
ぐるぐるとした渦のなかに入り込んで、
自分がつくった渦のなかで溺れてしまうひとがいることです。
ときにはふっと力を抜いて、
むずかしいことを考えずに友だちとだべったり、
ぎゅっと子犬を抱きしめたり、ぼ~っと自然を眺めたり‥‥
健康に生きていくためにはそのようなことも大切なのです。
このことも忘れないでください。
# by enzian | 2009-11-14 23:59 | ※その他 | Trackback | Comments(4)
2009年 11月 14日
いつだったか、「アルバイトをしてもしても服を買うお金が足りない」とこぼす学生に、「学生なんだから、服なんて清潔なものを着ておげはいいんじゃない?」と言ったら、思い詰めたような顔をして「かわいらしい服はいましか着られない」とポツリと答えた。なんでもない会話の一言だったけど、忘れられない言葉でもある。ばかにならない体力を使って、予習のための時間を圧迫して、苦労して入った大学の学業にかんして自分を窮地に追い込んでもよいほどに、かわいらしい服を着ることが大切であるとする信念を目の当たりにして、ぼくはまったくうろたえてしまったのだ。いまでもときおりこの言葉の意味を考えようとするが、まっすぐに考えようとするとすぐなにかが邪魔をする。
# by enzian | 2009-11-14 22:54 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(3)
2009年 11月 09日

記事が書けないので‥‥
# by enzian | 2009-11-09 23:38 | ※写真 | Trackback | Comments(2)
2009年 11月 01日

めっきり屋根や木に登っている人を見なくなったなぁと思います。もちろん、屋根瓦を修理するためとか木の枝を切るためとか、そういうちゃんとした理由があって登っている人ならたまに見ますが、ただ登りたいがために登っているような人は見ないような気がします。
小さなころ(今もあるのですけどね)、家の庭には柿の木が植わっていて、よく登ったものです。柿の木はすぐ折れるから登ってはいけないと言われていたのですが、登らないわけがないじゃないですか。木の上から見ると、いつもとはちがう風景が見えるのですよ。正面からしか見たことのない隣のおばちゃんのつむじが見えたりした。屋根にも登りました。最初は叱られたのですが、言っても聞かないものだから、いつのまにか黙認されてました。家の裏側にあった柿の木を伝って登るのですが、首尾良く登れると、それだけで少し偉くなったような気がした。
屋根には瓦と板のあいだにところどころ隙間があって、毎年スズメが巣作りをしていました。手をつっこんで、指先で雛を探します。傷つけないようにそっと取り出すと、手のひらの上にはふわふわして丸くて温かいものがじっとしています。しばらく見つめてそれだけで十分に満足して温かなふわふわを隙間に戻すのでした。毎年屋根の上でそんなことをしていましたから、近所の人たちはさぞやアホな子だと思っていたでしょうね。隣のおばちゃん、いろいろやさしくしてくださって、ありがとうございました。
# by enzian | 2009-11-01 23:14 | ※山河追想 | Trackback | Comments(22)
2009年 11月 01日

キノコを餌とする生き物とキノコオタクとの競争が繰り広げられる。
呼吸を整えて、自己責任のもとでクリックしてください。
# by enzian | 2009-11-01 21:48 | ※写真 | Trackback | Comments(0)
2009年 10月 26日
キノコブログを公称している(いつ公称したのだ)のに秋になってもキノコを載せないようではキノコブロガーの名がすたるというわけで、久しぶりに「リュック背負って」カテゴリーを使うのです。爬虫類がお嫌いな方はクリックなさらないよう。
More
# by enzian | 2009-10-26 22:05 | ※リュック背負って | Trackback | Comments(23)
2009年 10月 25日
むなしいというのはどういうことだろうか。世界というおぼろげなもののなかに、自分こそがふさわしいという場所をわずかでさえもっているとは思えない、という意識だろうか。いや、こう言うべきかもしれない。むなしさとは世界がおぼろげにしか見えないということであると。世界とはどういう意味なのだろうか。それはすべての物の総体といった意味ではないだろう。それはわたしたちが勝手知った、さりとて自分ではない一群の人たちを意味しているのだろう。こうして、むなしいとは、他者のなかに他の人では代わることのできない、自分だけの位置をもっているとは思えない、という意識であることになる。
少し違った言葉を使って考えなおしてみよう。きっとここからは難解。全体のなかに自分しかもてない位置を占めていると思えることは「意味がある」と表現される。全体のなかに自分の一定の位置をもつというのは自分が全体の部分であるということだから、全体に部分としての定位置をもつことが「意味がある」という表現の意味だと言える。全体の部分という表現には違和感もあろうが、全体のなかに自分しかもてない位置を占めている部分は代替不可能であり、“消費品” ではない。全体でさえその部分に依存しているのであるから、たんなる“歯車” でもない。それでも、自分は全体の部分にも歯車にもなりたくない、そんな理屈っぽいことを言うからやる気がなくなるのだ、といったありがちな反論もあるだろうが、そういう人もやはり「そのような部分も歯車もない世界」に部分として属したいと願っているのだ。ともかく、全体は世界と言ってもいいから、「むなしい」とは、世界に意味を感じることができないという心の状態を表現する形容詞であることにもなるだろう。
さて、全体のなかに部分をもつことは「役割をもつ」とも表現される。(つづく?)
# by enzian | 2009-10-25 22:44 | ※その他 | Trackback | Comments(2)
2009年 10月 12日
録り貯めた録画のなかに円空仏の放送があった。かつてその地を訪れた円空は仏を彫って宿代にしたという。傷だらけの円空仏が伝わる家の主によれば、その家の円空仏が傷だらけなのは、それが昔から持ち出し自由で、子どもたちの遊び相手になってきたからなのだ。川で遊ぶ際、子どもたちは木の仏を浮き輪代わりにしたらしい。両手で掴まるのにちょうどよい大きさで、山の木から切り出したような荒々しいつくりの仏であれば、子どもたちがそれを川遊びの道具とすることにもためらいはなかっただろう。円空仏は文字通り身をもって子どもの命を守ってきたわけである。
円空が彫ったとされる仏をめぐっては、持ち出して遊ぶ子どもたちを叱った大人が逆に夢枕に立った仏に叱られたといったような逸話は多いが、大切なのはこういった逸話が真実かどうかではなく、そのような物語を数多く作らせるものが円空仏には宿っているということなのだ。高い台座から見下ろすような金箔貼りの絢爛(けんらん)たる仏像は、大人のための仏にはなっても、子どもの仏にはならないだろう。
# by enzian | 2009-10-12 20:34 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(2)
2009年 10月 06日
カボスを買ってきた。柑橘類が好きなのだ。買ってきたカボスの袋にシジミチョウが一匹紛れ込んでいた。動いてくれればよいのだが、そのように願うときにはたいていそうであるように、もう動かない。死んでいるのだ。買ったときには袋のなかで生きていて、運んでいる途中に死なせてしまったのか、はじめから死んでいたのか、わからない。さほど感傷的なタイプではないが、手にとって爪先ほどの大きさの羽に美しい模様を散りばめているさまをじっと見ていたら、小さなチョウがやけに憐れに思えてしかたなくなった。ごめん、君を紀州に帰すことはできない。ティッシュペーパーに包んで、土に埋めた。
# by enzian | 2009-10-06 22:17 | ※その他 | Trackback | Comments(0)
2009年 10月 06日

力強い表現に特段の意味はありません。童、大きい写真が欲しかったらあげるよ。
# by enzian | 2009-10-06 22:00 | ※写真 | Trackback | Comments(0)
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