今夜なに色?

夜が長いという感覚を長く失ってしまったように思う。ある時期を境にして、なによりも睡眠時間を重視することになったから、夜の長さを実感するすることがなくなってしまったのだ。

昔はこんなではなかった。大学生のころはもっと秋の夜が長かったし、高校生のころはとてつもなく長かった。高まる不安やら孤独やらなにかわからない暗い情念の群れが夜ごと襲いかかってきて、どうしたらよいのかわからなかった。高校の秋、親友に話しかけたことを覚えている。「この長い夜、やりきれんよな」。やつはぼくの思いを読み取って、ニヤリと笑いやがった。畏友だった。

「今夜なに色?」という深夜番組があった。新野新が司会をしていて、西川のりおが出ていた。大貫妙子のオープニングソングはちょっと変わった感じで、好きな曲だった。視聴者からの相談を毎回読み上げ、西川のりおらがそれについての意見を言う。相談はいつも重々しいもので、西川のりおはいつも、もうひとりの女性と激論を交わしていて、その熱の入りようは尋常ではなかった。ときには泣きながら意見を言ったりしていた。ぼくもまたテレビの前でどうしたらよいのか全身で答えを探していた。自分とは関係のない相談事になぜあんなにも一生懸命だったのかわからない。番組が終わっても考え続け、そうやって夜がふけていった。あるとき「お前も観てるか?」と聞いたら、やっぱりニヤリと笑った。

# by enzian | 2009-11-21 22:34 | ※その他

人間垂直角度

地下鉄の駅の上に学校があることもあって、ふだんぼくが学生としゃべっている場所は、主に以下の3地点となっている。

1.個研
2.学校から駅へ至る道
3.駅

なにかと騒がしい2や3でなく1で話すのを好む学生が多いわけだけど、なかには1よりも2や3の方が気さくに話せるのもいる。おそらくどこに座ろうと(なんらかの角度で)視線を合わせねばならない個研よりも、互いに進行方向を向いたままほとんど視線を合わせる必要のない2や3を好む学生がいるのだろうと思っていた。

ほとんど1では話せないのに、思いがけなく2で楽しく話せた学生もいた。1や3とちがって2は歩き続けているわけだから、一定のペースで体を動かすことが会話することに影響するのかもしれない。いやそうではなく、歩くことと、会話のもとになる考えることが関係しているのかな‥‥などとポツポツ歩きながら考えていた。考えながら歩いていた。

だけどあるとき、3で「これくらいの身長差が話しやすい」と言われて、はっとした。(座ったままの)1ではほとんど話さない学生だった。以前の記事で、ひとにはそれぞれ、これぐらいの角度に他人がいれば安心できるという “人間角度” があるのだろうと書いたことがあるが、人間角度は水平方向だけでなく、垂直方向にもあるのかもしれない。だとすれば、上方2度がよいので自分よりも10センチ背の高いひとが話しやすいとか、下方1度が好みで5センチ低いひとがちょうどだから8センチ高いひとはイヤだ、とかいう “人間垂直角度” があることになるだろう。以前の記事の人間角度を “人間水平角度” と修正したい。

興味深いのはそういうことが生じる理由だ。高さがなんらかの考え方(うまく表現できないあぁ)から生じるとすると、人間水平角度が相手を問わず一定なのにたいし、人間垂直角度は相手の立場によってちがうなんてことにもなるだろう。上司として適切なのは5センチ高いひととか、部下として適切なのは2センチ低いひと、とか。もちろん、1でも2でも3でもなく携帯でのみ話すひともたくさんいるが、それについては別に考えることにしよう。

# by enzian | 2009-11-21 14:05 | ※キャンパスで

傍若有人

>哲学的に、とはどういうことなんでしょうか。

「哲学的に考える」(=哲学すること)という場合の
「哲学的に」ということを説明すれば、
以下のような要素を含んでいるでしょうか。

一つのテーマ(日常の当たり前)について、
①常識にとらわれずに柔軟に考える
②(①と重なるが)いろいろな角度から考える
③(②と重なるが)ねばり強く考える


ただし、①にしても②にしても③にしても、
考える際には最低限のルールが必要です。
それをあえて言えば、
④論理的に考える
ということになるのでしょう。

AはBである。
BはCである。
したがってAはCである。

これは論理的に正しいですが、

AはBである。
BはCである。
したがってDはCである。

これは論理的に正しくありません。
①②③は④を前提条件としているのです。

①から④の要素を満たすには、
本当に正しいのだろうか?他の意見がないだろうか?と
自分で自分にツッコミを入れながら念入りに考えることが必要になります。
ツッコミを入れるためには自分のなかに自分以外のひとの視点が必要です。
A君ならこう言うかも、でもB先生ならこう言うかもしれない‥‥といった感じの。
(④については、野矢繁樹『新版 論理トレーニング』が参考になります。)

つまり、最後は自分で決定せねばならないという意味で哲学は孤独な営みですが、
同時に、ひとりで哲学することはできないのです。
傍若無人(傍らに人が無いかのように振る舞う)という言葉がありますが、
哲学はつねに “傍若有人” でなければなりません。

最後に哲学体質のひとにお伝えしておきたいことがあります。
それは、哲学体質のひとはどこまでも考えてしまいますから、
そうしたひとのなかには、正確に考えようとしてきりがなくなって
ぐるぐるとした渦のなかに入り込んで、
自分がつくった渦のなかで溺れてしまうひとがいることです。

ときにはふっと力を抜いて、
むずかしいことを考えずに友だちとだべったり、
ぎゅっと子犬を抱きしめたり、ぼ~っと自然を眺めたり‥‥
健康に生きていくためにはそのようなことも大切なのです。
このことも忘れないでください。

# by enzian | 2009-11-14 23:59 | ※その他

宿題

いつだったか、「アルバイトをしてもしても服を買うお金が足りない」とこぼす学生に、「学生なんだから、服なんて清潔なものを着ておげはいいんじゃない?」と言ったら、思い詰めたような顔をして「かわいらしい服はいましか着られない」とポツリと答えた。なんでもない会話の一言だったけど、忘れられない言葉でもある。ばかにならない体力を使って、予習のための時間を圧迫して、苦労して入った大学の学業にかんして自分を窮地に追い込んでもよいほどに、かわいらしい服を着ることが大切であるとする信念を目の当たりにして、ぼくはまったくうろたえてしまったのだ。いまでもときおりこの言葉の意味を考えようとするが、まっすぐに考えようとするとすぐなにかが邪魔をする。

# by enzian | 2009-11-14 22:54 | ※キャンパスで

半透明

記事が書けないので‥‥

# by enzian | 2009-11-09 23:38 | ※写真

スズメのふわふわ

めっきり屋根や木に登っている人を見なくなったなぁと思います。もちろん、屋根瓦を修理するためとか木の枝を切るためとか、そういうちゃんとした理由があって登っている人ならたまに見ますが、ただ登りたいがために登っているような人は見ないような気がします。

小さなころ(今もあるのですけどね)、家の庭には柿の木が植わっていて、よく登ったものです。柿の木はすぐ折れるから登ってはいけないと言われていたのですが、登らないわけがないじゃないですか。木の上から見ると、いつもとはちがう風景が見えるのですよ。正面からしか見たことのない隣のおばちゃんのつむじが見えたりした。屋根にも登りました。最初は叱られたのですが、言っても聞かないものだから、いつのまにか黙認されてました。家の裏側にあった柿の木を伝って登るのですが、首尾良く登れると、それだけで少し偉くなったような気がした。

屋根には瓦と板のあいだにところどころ隙間があって、毎年スズメが巣作りをしていました。手をつっこんで、指先で雛を探します。傷つけないようにそっと取り出すと、手のひらの上にはふわふわして丸くて温かいものがじっとしています。しばらく見つめてそれだけで十分に満足して温かなふわふわを隙間に戻すのでした。毎年屋根の上でそんなことをしていましたから、近所の人たちはさぞやアホな子だと思っていたでしょうね。隣のおばちゃん、いろいろやさしくしてくださって、ありがとうございました。

# by enzian | 2009-11-01 23:14 | ※山河追想 | Trackback | Comments(18)

雨の2日後

キノコを餌とする生き物とキノコオタクとの競争が繰り広げられる。

呼吸を整えて、自己責任のもとでクリックしてください。

# by enzian | 2009-11-01 21:48 | ※写真

enzian、ひそかに京都の里山を歩く、の巻

キノコブログを公称している(いつ公称したのだ)のに秋になってもキノコを載せないようではキノコブロガーの名がすたるというわけで、久しぶりに「リュック背負って」カテゴリーを使うのです。爬虫類がお嫌いな方はクリックなさらないよう。

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# by enzian | 2009-10-26 22:05 | ※リュック背負って | Trackback | Comments(23)

むなしいということ

むなしいというのはどういうことだろうか。世界というおぼろげなもののなかに、自分こそがふさわしいという場所をわずかでさえもっているとは思えない、という意識だろうか。いや、こう言うべきかもしれない。むなしさとは世界がおぼろげにしか見えないということであると。世界とはどういう意味なのだろうか。それはすべての物の総体といった意味ではないだろう。それはわたしたちが勝手知った、さりとて自分ではない一群の人たちを意味しているのだろう。こうして、むなしいとは、他者のなかに他の人では代わることのできない、自分だけの位置をもっているとは思えない、という意識であることになる。

少し違った言葉を使って考えなおしてみよう。きっとここからは難解。全体のなかに自分しかもてない位置を占めていると思えることは「意味がある」と表現される。全体のなかに自分の一定の位置をもつというのは自分が全体の部分であるということだから、全体に部分としての定位置をもつことが「意味がある」という表現の意味だと言える。全体の部分という表現には違和感もあろうが、全体のなかに自分しかもてない位置を占めている部分は代替不可能であり、“消費品” ではない。全体でさえその部分に依存しているのであるから、たんなる“歯車” でもない。それでも、自分は全体の部分にも歯車にもなりたくない、そんな理屈っぽいことを言うからやる気がなくなるのだ、といったありがちな反論もあるだろうが、そういう人もやはり「そのような部分も歯車もない世界」に部分として属したいと願っているのだ。ともかく、全体は世界と言ってもいいから、「むなしい」とは、世界に意味を感じることができないという心の状態を表現する形容詞であることにもなるだろう。

さて、全体のなかに部分をもつことは「役割をもつ」とも表現される。(つづく?)

# by enzian | 2009-10-25 22:44 | ※その他

子どもの仏

録り貯めた録画のなかに円空仏の放送があった。かつてその地を訪れた円空は仏を彫って宿代にしたという。傷だらけの円空仏が伝わる家の主によれば、その家の円空仏が傷だらけなのは、それが昔から持ち出し自由で、子どもたちの遊び相手になってきたからなのだ。川で遊ぶ際、子どもたちは木の仏を浮き輪代わりにしたらしい。両手で掴まるのにちょうどよい大きさで、山の木から切り出したような荒々しいつくりの仏であれば、子どもたちがそれを川遊びの道具とすることにもためらいはなかっただろう。円空仏は文字通り身をもって子どもの命を守ってきたわけである。

円空が彫ったとされる仏をめぐっては、持ち出して遊ぶ子どもたちを叱った大人が逆に夢枕に立った仏に叱られたといったような逸話は多いが、大切なのはこういった逸話が真実かどうかではなく、そのような物語を数多く作らせるものが円空仏には宿っているということなのだ。高い台座から見下ろすような金箔貼りの絢爛(けんらん)たる仏像は、大人のための仏にはなっても、子どもの仏にはならないだろう。

# by enzian | 2009-10-12 20:34 | ※テレビ・新聞より

シジミチョウ

カボスを買ってきた。柑橘類が好きなのだ。買ってきたカボスの袋にシジミチョウが一匹紛れ込んでいた。動いてくれればよいのだが、そのように願うときにはたいていそうであるように、もう動かない。死んでいるのだ。買ったときには袋のなかで生きていて、運んでいる途中に死なせてしまったのか、はじめから死んでいたのか、わからない。さほど感傷的なタイプではないが、手にとって爪先ほどの大きさの羽に美しい模様を散りばめているさまをじっと見ていたら、小さなチョウがやけに憐れに思えてしかたなくなった。ごめん、君を紀州に帰すことはできない。ティッシュペーパーに包んで、土に埋めた。

# by enzian | 2009-10-06 22:17 | ※その他

これがアカガエルだっ!

力強い表現に特段の意味はありません。童、大きい写真が欲しかったらあげるよ。

# by enzian | 2009-10-06 22:00 | ※写真

ヘッドライト

紀州路を歩いた。なにも忙しい秋に行くこともあるまいにと思うが、ときどき生活の地から少し離れて、それなりに傾斜した土の道を足裏で感じないことには、胸の奥の方がざわざわして、落ち着いて仕事もできない。根源的な田舎者の性が頭をもたげてしまうのだ。

最低限のことは計算して出発するが、どうやらそういうことを望んでいるようでもあって、いつものように乗り継ぎミスを犯した。今回のはちょっと痛いミスで、重ね塗りされた白いペンキがところどころはがれた壁に貼られたスカスカの時刻表をにらみながら、無人の駅舎で相当の時間を過ごさねばならない。付近に店などない。自動販売機の光だけが降りしきる雨粒を照らし出している。蜘蛛の巣に絡まった蛾がぷらぷら揺れている。体が冷えてきた。ぼんやり線路を見ていたら、こんな駅に電車が来るのか不安になってきた。同じ気持ちを以前に感じたことを思い出した。いつのことか、わからない。母とどこかの神社の前にあるバス停に立っていた。辺りは真っ暗で、強い雨風に吹かれた竹藪がざあざあと恐ろしい音を立てていた。母はしゃべらなかった。バスは来ない。無限とも思える時間が過ぎ、濡れた体は冷えてゆく。

バス停の記憶は遠くにバスのヘッドライトが見えた場面で終わっている。そこでほっとして緊張が解けたのだろう。かすかな音がして、無人駅にも電車の光が近づいてきた。人間が近づいてきたのだと思った。とてもひとりでは生きられないと思った。

# by enzian | 2009-10-06 20:31 | ※その他

試金本

学校の部屋にはできるだけ学生にとって役立つような本を置くことにしている。学生に役立つといっても、いろんなパターンがある。学生の座り位置に近いところに置いてある絵本たちがこれまでの学生指導でどれほど役立ってきたか、なんてことはまだ書かない。これをぼくは定年後に微に入り細に入って書くのだ。

他人から見れば単なる汚部屋にすぎず、学生たちにはいつも、「ぼくって整理できないんだよね~誰か整理整頓してくれないかなぁ~」などとへらへらしているが、各本棚での本の配置は極めて緻密なウケケ的計算のもとに管理されている。

なかでも一冊、学生との関係においてとても重要な本がある。本来こういうことは日々の営業に差し支えるので話すべきではないのだが、いよいよキノコの秋を迎えるという気分の高揚もあり、今日は特別にお話しする。それはぼくが秘かに “試金本” と読んでいる本で、この本を貸して、一週間程度で「おもしろかったです」と返しに来ることができれば、その人は長く哲学することが可能な人である、と判断しているのだ。

長く哲学することができるためにはいくつかの条件が必要だと思っている。自分とは違った考えをおもしろいと思えること、粘り強いこと、孤独に耐えられること、なのだけど、これら3つに、教養する人として生きていく前提条件として誠実であること、を加えて4つのことが身についている人でなければ、上に書いたようなことは生じないのだ。

これはと思った人にはこの本を貸すことにしているのだけど、残念ながらほとんど読み通すことができないまま返しに来るのが大半で、いつも残念な思いをしている。上のような条件を揃えた人は数年にひとりぐらいしか出てこないのかなぁなどとも考えるが、問題がひとつある。記憶している限り、この本を読もうとして読み通せなかった最初のひとりは、ほかならぬ自分自身なのである。

# by enzian | 2009-09-26 22:31 | ※キャンパスで

reflection

父はいつもこの川のほとりを歩きながらタニシを拾っていた。

# by enzian | 2009-09-22 22:42 | ※写真

10円玉リスト

誰しもそうでしょうが、人と付き合っていると傷つくことはあるものです。歳をとれば円熟味が増して‥‥なんてことはなく、歳をとっても変わりませんね。しょんぼりすることが多いものです。若者よ、あきらめなさい。

とはいえ、特に若い人と付き合っていると、小さなやさしさとか、ささやかな思いやりに心を温められることも多いのです。それは、ときに私に向けられることもあるけど、多くは友だちや家族に向けられたものです。10円硬貨か、せいぜい50円硬貨1枚ぐらいのやさしさなのですが、それだけでもう悲しさの1万円札何枚かと両替ができるようなものです。

そういう “10円玉” を拾い集めて、ここに書き記しておきたいと思っているのですが、拾ってもすぐに書くことはできません。10円玉の出所(でどころ)が卒業してしまって、もう(というか、もともと意識していないので覚えていない方が多い)当人もすっかり忘れてしまったころに書かねばならない。いまは書けないから忘れないようにしようと殊勝にも思うのですが、数年もすればほとんど忘れてしまうのです。“10円玉リスト” を作って忘れないようにしようとしたことがありますが、やめておきました。

いただきものを(少しお待ちください)。

# by enzian | 2009-09-15 21:54 | ※キャンパスで

説得

川で事故があった。少年3人のうち1人が溺れ、2人は助けようとしたが助けられず、見つけることもできずに帰宅している。少年2人はそのことを親に知らせていない。以前、川で遊んで叱られたので、また叱られることが怖かったのだという。今回事故にあったのが少年であって、かつて同じ川で遊んでいた自分でなかったことを思った。少年3人のうちの1人であって残り2人でなく、自分ではなかったことはただの偶然なのだ。

少年たちが前に叱られたのは、溺れたりするといけないから、ということだったのだろう。事故が起こってすぐに知らせたとしても少年が助かった保証はない。だとすれば、大人の言葉の大切さを知っていたがゆえに事故を知らせることができずにいた子どもを誰が責めることができるというのか。きっと誰も責めないだろうが、誰も責めないことほど少年たちを責めるものはない。どのような説得も受け容れることなく、少年たちは生きている限り自分の責任を問い続けることになるのだろう。そして、誰の説得も受け容れないことを責めることもまた誰にもできない。そういう風に人間をつくったのは少年たちではないのだから。

# by enzian | 2009-09-08 23:58 | ※テレビ・新聞より

リモコンサーチ機能

勉強をしているのは西日がもろに差し込む灼熱地獄さながらの狭い部屋で、夏の夕方などはエアコンと扇風機のリモコンを一定間隔で押したりしながらパソコンをかちゃかちゃやっている。それで何日か勉強を続けていると手もとに置く本やらコピーやらが増えてきて、いつしか部屋は立錐の余地もないようになってくる。汚部屋になるわけですね。汚部屋といっても、他人が見たらそう見えるというだけの話で、部屋の主にすればそこには絶妙のバランスがあって、美しい秩序が成り立っている。

そういう話でなくてリモコンです。ともかく暑いので、エアコンと扇風機のリモコンを駆使して快適な勉強環境を整えようとするわけだけど、ちょっと油断をすると、本やコピーの山のなかにリモコンが埋まってしまうのですな。下手すると、本に紛れたリモコン探しで30分くらいかかったりする。リモコンを探そうとして、大切なページを開いたまま重ねた本を閉じてしまったり、本の位地を変えてしまったりするものだから、リモコンが戻っても勉強が進まない、なんてことにもなる。そうやって、刻一刻と貴重な時間が浪費されていく。

メーカーの方にお願いしたい。エアコンや扇風機の本体に、ついつい論文を書きはじめるとリモコンを見失ってしまうおっさん用の「リモコンサーチ機能」をつけて下さらんことを。ボタンをポチッと押すと、リモコンからピピッ♪と音が出るようなね。「ぼくはここにいるよ~」とリモコンが答えてくれるわけです。こういう機能が欲しい、今日この頃。

# by enzian | 2009-09-06 18:48 | ※その他

へんてこりん

電車のなか、大学生らしい女性たちが大きな声で話している。「あの先生も変人」。2人の人物の変人度を比較しているらしい。「でも、○○先生より、哲学者の方がイヤだよ」。○○先生は彼女らの学科の先生のようだ。「だってあの哲学先生、人間関係学の最初の授業のときに、この教室、人間関係学だよね?って聞いたんだよ。わたしら、あなたを待ってるんだって。変なの」。彼女らはぼくの大学の学生らしい。この言葉を聞いて、驚くやら悲しいやら反省するやら、朝から複雑な気持ちになってしまった。

驚いたというのは、その程度のことを尋ねたぐらいで、変態やら変人と酷評されねばならないことに、だ。悲しいというのは、学生が教員の意図をまったくわかっていないことに、だ。大教室でおこなう最初の授業で、学生に授業を確かめるというのはぼくもよくするのだけど、それは文字通り確かめているというのではなくて、大教室の授業なんていうのはこちらが一方通行的にしゃべるだけのつまらないものだから、せめて1人でもコミュニケーションをとろうと、絶対に答えに窮しないような問いでもって話しかけているのだ。この意味で、上の学生は、教員がマイクを持つ前に、ほかならぬ自分が最初の講義対象として人間関係学の授業がはじまっていたことにまったく気づいていない。知らないというのは恐ろしいもので、ぼくの同僚の試みは見事に侮蔑のゴシップの対象となってしまっている。

反省したというのは、上のように学生だけを責めるのもおかしいということだ。そういう学生の性質を知らずに話しかけるこちらにも責があるのだ。ぼくはこの話を哲学科の学生に話したのだけど、その学生はすぐさま教員の意図を読み取った。そういうわけで、ちょっとひねった同僚の意図を読み取ろうとする学生がいるにしても、物事や言葉を直線的に受け取る学生もまたいるのだ。授業のことをいちばん知っているはずの教員が授業を受ける側の学生に教室を確かめるというのは、素直に考えればへんてこりんなことなのである。

# by enzian | 2009-09-02 23:49 | ※通勤途中

どんぐり

今は少なくなったのかもしれませんが、年齢差のある子どもたちがいっしょに遊ぶ場合、年少の子どもにハンデをつけたりしますよね。たとえば、鬼ごっこをする場合、1年生は捕まっても鬼にしない、とか。そういうのないですか。ぼくの郷里ではハンデをつけられた子どもたちのことを「お茶漬け」と呼んでました。どうして茶漬けなんて言い方になったのでしょうね。ささっと食べられるものだからメインにはならない、という意味でしょうか。

あるとき、ぼくの学生たちに、あなたちの郷里ではどう呼んでいた?と聞いたことがあります。おどろいたのはそういうハンデという考え方なんかなかった、という人が多かったこと。ハンデなしにどうやって下級生たちと遊んだのでしょうか。あからさまにハンデというかたちはとらないで、暗黙のうちにそれなりに手加減していたのかもしれません。

とてもいいと思ったのは、「どんぐり」と呼んでいたという学生がいたこと。どんぐりってとってもいいと思いません?なにがよいのかはわかりませんけどね。なにやら心がささくれてきたので、こういうことを書いたってわけです。

# by enzian | 2009-08-31 21:54 | ※キャンパスで

葉っぱが一枚

頭のてっぺんに枯葉(くるまっている)を一枚くっつけたおばあさんが歩いていた。

# by enzian | 2009-08-28 00:11 | ※写真

やさしいということ

やさしいとはどういうことなのだろうか。やさしいと言われることもないし、人生においてやさしい人をめざしているわけでもないが、いつも耳にするわりには意味がわからなくていまいましいので、ちょっと考えてみる。

「やさしい」というのは漢字では「優しい」と書くので、「人が憂う」ことだと――きっと語源的には間違えているだろうけど、これは論文(タスケテ)ではないので――勝手に考え散らかすことにする。

人が憂うということだから、やさしいということには、人(自分)が人(他人)を憂うという場合と、人(自分)が人(自分)を憂う場合が含まれている。では、憂うというのはどういうことか。それは相手や自分が好ましくない状態に陥る(陥っている)のではないかと心配することだろう。心配とは心を特定の方向に振り向けることだ。この振り向けは「思いやり」とも表現される。さて、このように人が好ましくない状態に陥っているのではないかと心を振り向けることでやさしさの第一条件がクリアされるなら、逆に、やさしさを成り立たせない第一条件は、人に対して心を振り向けないこと、つまり心を動かすことのない無関心となる。

次に「相手や自分が好ましくない状態に陥る(陥っている)」というのはどういうことだろうか。このような状態は、一般に「苦しんでいる」「傷ついている」「痛んでいる」といった言葉で表現される。したがって、心を振り向けるとは、人の苦しみや傷や痛みに対して心を追随させようとすることであると言える。このような追随は「共感」と言われるが、当然のことながら、共感するということは一つの心を共有することではない。他人の心は言うまでもなく、自分の心でさえ共感しようとすれば、“共感しようとしている心” と “共感されようとしている心” という二つの心に分断されてしまうのだ。

共有しなければならないという強い(すぎる?)思いは、やがて、どうしようもない “分断” の前に絶望する。絶望は呻(うめ)きとなるが、憂いが絶望に至ることを知った心は、自分の呻きがまた別のやさしい心を絶望させることを拒否する。こうして、人に知られないよう呻くこと、これがやさしさの意味となる。――というのはやさしさの無茶な定義だが、ここでは “人知れぬやさしさ” を考えてみたかった。

“人知れぬやさしさ” と “人知れるやさしさ” を分かつのは、共有への思いをそこそこで見切れるかどうかだろう。前者のやさしさについて、世の中の役に立たないとか、形として見えない(前者と無関心は外見上では区別がつかない)から意味がないとか、甘っちょろいとか言う手合いは多いだろうが、自分は案外こういうのが好きだったりする。

# by enzian | 2009-08-23 23:49 | ※好きな人・嫌いな人

走馬燈

線路沿いに建つ家の屋根は舞い上がり落ちた鉄粉が錆びて赤茶色になっていることが多い。小さなころは、こういう赤茶色の屋根を見るのがいやだった。電車からの景色を眺めるのは好きだったが、そういう屋根からは目を背けていた。

どこであれ有刺鉄線が張りめぐらされたような様子はいまでも好きになれない。忘れ去られた土地の一角に冷蔵庫やテレビといった粗大ゴミが棄てられている光景も嫌いだ。複雑な配管が剥き出しになった工場群のことなど考えたくもない。「工場萌え」反対。高速道路や新幹線がひっきりなしに通る高架の下も好きではない。こういった風景は、それを目にすることで自分からなにものかを略奪していくように思える。

母方の墓参りに行く道の途中に、ちょうど、このような風景の集合地帯のようなところがある。この道を行かねば墓には着けないのでしぶしぶ通るが、何度通ってもあまり気持ちのよいものではない。だがややこしいことに、こんなマイナス要素たっぷりの場所であっても、なにかしら、そこを通ることで心を浮き立たせるものがあるのだ。静めるというべきかもしれないが。人はこの世界に別れを告げる際にさまざまな光景が走馬燈のように走り行くのを見るというが、そのときには、この道を歩く自分の姿を見ることだろう。

# by enzian | 2009-08-22 18:35 | ※その他

取り憑かれたように草むしりをする人

最寄りのバス停の標識は、地区の周回道路を挟んで東西、二箇所に立っている。二箇所に止まるバスはそれぞれ系統がちがうが、どちらもたいして変わらない所要時間で最寄りの駅に着くので、その日の気分で使いわけることにしている。東側のバス停のそばにはソメイヨシノがある。ソメイヨシノは季節折々の美しい顔を見せてくれるが、根もとの草むらにはヤブ蚊が多い。西側のバス停は日当たりがよく、夏は日射しが強すぎるぐらいだ。裏手の土地にはイガをたくさんつけた大きなクリの木が植わっている。

東側のバス停では、ソメイヨシノの根元の雑草と格闘している体格のよい女性とよく会う。ソメイヨシノの根元には手入れされることなくだらしなく伸びた芝生が生えている。芝生というのは意外にしっかり根を張る植物で、それなりの量まとめてひっこ抜くには大変な力が必要なのだ。その人は、ぼくがバス停に着くころにはいつもベンチに荷物を置いていて、しゃがみ込んで両手で芝生を抜こうとしている。その力の入り具合には尋常ならざるものがあり、腕と脚を地面と並行に伸ばして力いっぱい雑草を引っ張る頬(ほお)はぷるぷると小刻みに揺れ、紅潮している。ぼくは女性をひそかに「綱引き選手権」と呼んでいる。そうこうするうちにバスが来るが、女性はいっこうに乗る気配がない。ヤブ蚊に刺されないだろうかなどと窓の外を案じつつ、ぼくは駅に向かう。

東側だけだと思っていたら、先日、西側のバス停でも会った。女性は地べたに荷物を置いたまま、焼きつけるような日射しがじりじり照りつけるなか、四つんばいになって、舗道の敷石のあいだから伸びた小さな雑草を慎重に抜いていた。力一辺倒ではない女性の姿であった。それは、高層ビルから地面に降りた一瞬、地面に手足をつけたスパイダーマンの姿のようでもあった。バスが来ても、取り憑かれたように草をむしり続けている。日に焼けないだろうかなどと心配しつつ、エアコンのきいたバスでぼくは涼やかに駅に向かった。

# by enzian | 2009-08-20 20:20 | ※通勤途中 | Trackback | Comments(38)

驚くことからはじまるもの

(この記事は、2007年8月17日記事の追記です。)

第二回実験

今回も楽しかったです。
(砂の標本を撮るの、忘れた。^^;)
さっそく、顕微鏡を注文しました。^^
すごい砂の標本、作るもん。

ありがとうございました。

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# by enzian | 2009-08-17 21:54 | ※その他 | Trackback | Comments(12)

水田が近くにある方なら、そばまで行ってご覧ください。風にそよぐ緑がとても美しい。

虫にご注意!

# by enzian | 2009-08-04 21:24 | ※写真

「自分は、ほめられて伸びるタイプなんです。」

ここ何年か、そういうセリフを学生から聞くことが多くなってきた。そういう学生はどの先生にもそういうことを言っているのか、それとも、年を追うごとに教室でのぼくの態度が厳格になってきたことへのバロメーターなのか、よお知らん。ともあれ、夕べ飲んでたときには「水曜日の2限目の先生は般若(の面の)ようです」と告発された。痛快な夜であった。

ほめるべき点に気づかないわけではない。ぼくは一人ひとりの学生をレーダーで追尾してデータを収集している。極めて陰湿なのである。気づいていればほめればいいのだけど、ぼくは不良教師なのでほめない。あからさまにほめてくださいと近寄ってきて、はいそうですかとほめるような、ひねりのないことは恥ずかしくてできない。ほめてください、とはあからさまに言わないにしても、いろいろなカモフラージュ(嘘)を交えつつほめてくださいとアピールしてくるタイプがいるが、やはりほめない。気づかないふりをしてタヌキおやじになる。その程度のカモフラージュでぼくの目をごまかせると考える了見の浅さが気にいらないのだ。だからよけいにほめてやらない。結果、そういう学生たちには徹底的に嫌われる。

とはいえ、ほめないわけでもない。ほめるべき点があり、かつ本人が気づいていない場合には、黙っているわけにもいかないので、ほめるようにしている。気づいていても本人が認めきれずに迷っていると思えるような場合にも、老爺心ながらほめるようにしている。爺のレーダーはそのために平和利用されているのである。けっきょく自分をほめてしまった。

# by enzian | 2009-08-01 20:27 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(30)

「。」の必要性

勤めている学校の高校生向けのキャッチフレーズには「○○が大好きです。」というのがある。ここでは仮に「スヌーピーが大好きです。」だということにしておくと、この表現の最後の「。」が必要かどうかが、とある書類をつくる会議でちょっと問題になった。どうして問題になるかというと、「 」(カギ括弧)を使って文中に引用をする場合、(いくつかの例外があるけど)原則として引用の最後を句点(つまり「。」)にしてはいけないというルールがあって、「スヌーピーが大好きです。」という引用を文中に入れてしまうと、ルール違反を犯すことになりかねないからだ。つまり、以下のような文章はちょっと問題なのですね。

ひっそり山のりんどう峠を越えて、さかなうじゃうじゃ川を見下ろす山の斜面には小さなenzian大学が乗っかっていて、そこのキャッチフレーズが「スヌーピーが大好きです。」であることなど、森の動物たちであれば誰でも知っている。

そこで、そのような “ルール違反” を避けるために、賢明なるぼくの同僚は「。」を削除して「スヌーピーが大好きです」にしたらどうか、と提案した。だが、ぼくは「スヌーピーが大好きです。」と「スヌーピーが大好きです」ではまったく意味が違ってくる、と反論した。両者を以下に並べてみる。

「スヌーピーが大好きです。」
「スヌーピーが大好きです」

で、相手が哲学の同僚だということもあって、「違う」と言ったからにはどう違うのかをすぐさま説明せねばならぬことになるのだが、困ってしまって、苦し紛れに、「最後に『。』があることによって、『ふんわりまとめる』という意味が加わるからです。このキャッチフレーズはそうした効果を狙ったうえで最後に『。』を付けているのだと思います」と答えた。答えた後で「ふんわりまとめる」の意味が不明だと思ったが、同僚はそれ以上ぼくを問いつめ、追い詰めようとはしなかった。そこそこで逃がすことも大切なのである。

# by enzian | 2009-07-25 19:57 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(26)

雨に濡れる

雷が鳴って、横なぐりの雨が降っている。この雨が上がれば、いよいよ梅雨明けか。学校では梅雨明けを待ちきれないセミたちがジージー鳴いていた。雨のなかセミたちはどうしているのだろうか。羽を濡らして難儀してはいないだろうか。

セミのことは知らないが、けっこうな雨に祟られて濡れ鼠(ねずみ)になるたびに、傘にしても合羽にしても、どうしてこう雨を防ぐ効果が低いのかと雨男は恨み言のひとつもいいたくなる。

長い長い人間の歴史のなかで雨はいつもついてまわっただろうし、そのあいだにはいくらでももっと効果的な雨具を考えることもできただろうに、これさえあれば絶対に濡れない!といった “究極の防雨アイテム”――ポータブルな防雨空気層とか風船状の防雨アイテムとかね――が考案されそうな気配はない。天下のATOKでさえ、「ぼうう」と入力して、「防雨」という変換候補を吐き出すことはないのだ。たぶん、誰も、雨に降られることが心底嫌いなわけではないからなのだろうが、なぜ嫌いでないか、は考える余地がある。

小学校のとき、ちょっとアホな同級生がいて、ある日、大雨のなかを傘もささずに走って帰っていた。「なんで傘ささへんねん?」と聞いたら、「それの方がカッコイイやんけ」といいやがった。アホな友だちの一言だったけど、いまいましいことに、いまも覚えている。

# by enzian | 2009-07-19 23:19 | ※その他

蚊帳

小学校のころ寝ていた部屋の上の四隅には釘のようなものが打ち付けてあった。釘は茶色くさびていて、ほこりがたまっていた。無造作な打ち付け方から、部屋にはもともとそのような釘はなく、あとから誰かがなにかのために取り付けたであろうことはわかった。でも、あれこれ考えて、なんのためなのかはわからないまま、いつも知らぬうちに夢の世界に入ってしまうのだった。

夏になると、ときどきカルピスを飲みたくなる。できるだけ長細くて透明のグラスに原液と水、そして氷を入れる。氷の入ったカルピスをマドラーでかき混ぜる。氷がグラスに当たって、カラカラと乾いたような澄んだ音を出す。ぼくにとってはこの音がカルピスの味の一部であり、夏の音なのだ。

カラカラという音に耳を澄ましていたら、長く忘れたままでいた、小学校のころよりもっともっと前の光景が不意によみがえってきた。部屋には黒いベールがかかっていて、夏用のシーツがひいてある。黒いベールは蚊帳(かや)なのであった。蚊帳のなかには言いようのない安心感があった。蚊帳の隅はたしかに四つの釘で留められていた。

インドの蚊帳の写真があったので(コメント参照)‥‥

# by enzian | 2009-07-11 19:40 | ※山河追想 | Trackback | Comments(32)

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