やさしいということ

b0037269_11285127.jpgやさしいとはどういうことなのだろうか。やさしいと言われることもないし、人生においてやさしい人をめざしているわけでもないが、いつも耳にするわりには意味がわからなくていまいましいので、ちょっと考えてみる。

「やさしい」というのは漢字では「優しい」と書くので、「人が憂う」ことだと――きっと語源的には間違えているだろうけど、これは論文(タスケテ)ではないので――勝手に考え散らかすことにする。

人が憂うということだから、やさしいということには、人(自分)が人(他人)を憂うという場合と、人(自分)が人(自分)を憂う場合が含まれている。では、憂うというのはどういうことか。それは相手や自分が好ましくない状態に陥る(陥っている)のではないかと心配することだろう。心配とは心を特定の方向に振り向けることだ。この振り向けは「思いやり」とも表現される。さて、このように人が好ましくない状態に陥っているのではないかと心を振り向けることでやさしさの第一条件がクリアされるなら、逆に、やさしさを成り立たせない第一条件は、人に対して心を振り向けないこと、つまり心を動かすことのない無関心となる。

次に「相手や自分が好ましくない状態に陥る(陥っている)」というのはどういうことだろうか。このような状態は、一般に「苦しんでいる」「傷ついている」「痛んでいる」といった言葉で表現される。したがって、心を振り向けるとは、人の苦しみや傷や痛みに対して心を追随させようとすることであると言える。このような追随は「共感」と言われるが、当然のことながら、共感するということは一つの心を共有することではない。他人の心は言うまでもなく、自分の心でさえ共感しようとすれば、“共感しようとしている心” と “共感されようとしている心” という二つの心に分断されてしまうのだ。

共有しなければならないという強い(すぎる?)思いは、やがて、どうしようもない “分断” の前に絶望する。絶望は呻(うめ)きとなるが、憂いが絶望に至ることを知った心は、自分の呻きがまた別のやさしい心を絶望させることを拒否する。こうして、人に知られないよう呻くこと、これがやさしさの意味となる。――というのはやさしさの無茶な定義だが、ここでは “人知れぬやさしさ” を考えてみたかった。

“人知れぬやさしさ” と “人知れるやさしさ” を分かつのは、共有への思いをそこそこで見切れるかどうかだろう。前者のやさしさについて、世の中の役に立たないとか、形として見えない(前者と無関心は外見上では区別がつかない)から意味がないとか、甘っちょろいとか言う手合いは多かろうが、自分は案外こういうのが好きだったりする。

by enzian | 2009-08-23 23:49 | ※好きな人・嫌いな人 | Trackback | Comments(0)

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