出欠をとるということ

学生たちと話していると友人たちの話がしばしば出てくるわけだけど、そうした場合、たいてい友人たちはファーストネームかニックネームで呼ばれる。以前は、教員(ぼく)と話す場合には、「○○」君や「○○」さんといったかたちでファミリーネームにして、いちおう、“よそ行きの言い方” をしてくれたのだけど、このごろはとんとそういうことをしてくれなくなった。自分の友人はその場にはいないニュートラルな第三者として話してくれる場合が多かったのだが、このごろは自分の友人を自分の友人のままで話すことが多くなったのだ。ひとによっては自分の飼い犬やら飼い猫やら飼いウサギまで愛称で呼ぶ。てっきり別のゼミの学生のことを話していると思ったらハムスターの名前だったこともある。

こうしてぼくは、自分の学生だけでなく、その学生の親しい友人のフルネームやニックネーム、ときには飼い犬の名前までも覚えるようにしている。最近ことに頭の回転が鈍ってきて、記憶力減退傾向の著しいじいにはやや荷の重いことなのだ。なんぼかわいくても、他人様(ひとさま)の犬の名前まで覚えてられへん。百歩譲って犬猫や、ほ乳類までは認めるにしても、両生類とかはさすがに勘弁して欲しい。げろげろ。

この理由がどうしてなのだろうとときどき考えてみたりするのだけど、よくわからない。学生というのは総じてクラスメイトのファミリーネームを覚えていないものだからなぁと思ったこともあるが、そんなこと、いまにはじまったわけでもないのだ。でも最近、はたと気づいたことがある。ぼくは自分のクラスの学生の出欠をとるとき、いっさい点呼しない。名前を呼ばないのだ。ぱっと顔ぶれを見て、黙って閻魔帳(えんまちょう。死語か?)につけてしまう。そう言えば、ぼくが閻魔帳をつける際の一瞬の沈黙が怖いと言った学生がいたっけ。出欠をとるというのは、ひょっとすると教員のためだけのものではないのかもしれない。

by enzian | 2010-10-30 22:09 | ※キャンパスで | Comments(0)

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