弁明の記事

誰もなんとも思っていないだろうが、前二回の記事が矛盾したことを言っているように見えるので、補足しておきたい。やさしさや責任ある行動がすべての人間の行動を信じ込むのとは別だということと、人間が信頼に値するということは両立するのか?ということだ。すべての人間の行動を信じ込むことができればよいが、できそうもないと考えたのは、人は誤ると思うからだ。もちろんぼくは “全世界人間全数調査官” でもなんでもないからすべての人間を確かめたわけではないので完全無欠な人もいるかもしれないが、少なくともぼくの家族は揃いも揃って見事なほどにミスりまくっていたし、かく言うぼくもミスりまくる。くり返し、くり返し。

ただし、大切なことがある。「誤る」という言葉は、全体として見れば誤らない可能性が十分見込める者にのみ言う言葉なのだ。「隣の家のウーパールーパーが回覧板を回す順番を間違えちゃってね、まったく困ったもんだ」なんという井戸端会議は成り立たない。そもそもウーパールーパーが正しく回覧板を回してくれるはずがないからだ(正しく回してくれても、にちゃにちゃして困るが)。正しく行動する可能性がある者がたまたま期待されたとおりの行動をとらなかったとき、人はそれを「誤った」と評価する。

ぼくは人間が完全無欠の純潔存在だと思っている人が人間関係のなかでもつに至らざるをえない人間にたいする疑惑とか怒りとか絶望ほどやっかいなものはない、コワイヨタスケテママと思っている。そして、逆に、まったく誤らない存在にはあんまり興味がない。放っておいても誤らないからだ。話がずれた。要は、「誤るからこそ、信じるに値する」と言いたい。終わり。

by enzian | 2011-03-28 22:13 | ※その他 | Comments(0)

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