夢のなかで

雨音を聞きながらいたら、いつのまにか眠ってしまっていた。雨音が聞こえはじめると途端に安心して眠ってしまうくせはいくつになってもなおらない。つっぷして眠ってしまっていたので、額に眼鏡の痕がついている。不思議な夢だった。「これは自分の国である、とはどういう場合に言えるのか?」を考えているのであった。論文を書きながら居眠りしているときにまでそんな夢を見る必要もないのにと思うが、夢を制御できたためしなんかない。夢のなかで自分(?)が出したものながら、むずかしい問いだと思う。

自分も属するはずの大きな全体になにか大きな出来事が起きたときに、それが自分とは無関係な一部のひとの全責任によるものだと臆面もなく言えるひとたちが、もう少し丁寧に言うと、そういうことを言ってしまうときの自分が、ぼくはあまり好きではない。今回の震災でも、直接の被害を受けているひとが責任を求めるのはわかるし、またそうあるべきだと思うが、そうでもないお気楽なひとたちのなかで、すべての責任が現政府と一企業にのみある、と迷いもなく言えるひとがいるのを知って、自分とは考えがちがうなと思った。

自分がそこに含まれる全体であるなら、あるときは肯定することによって、あるときは反対することによって、あるときは絶望のなかで、あるときは気づかないままに全体のありようを認め、そこから意識的にせよ無意識的にせよ恩恵をこうむって、ときには甘い汁を吸っておいて、事が起きたとたんに、さぁすべての責任はお前にある私にはない、という言い方はぼくの趣味ではない。よしんば不承不承であったとしてもそのような全体を育ててきたのは自分でもある、という反省のかけらがどこにもない批判であれば、それは今回のことをまた自己の利益のために利用しているだけで、また同じような誤りを繰り返してしまう。

自宅に戻れないひとがいるのなら、その責任の一端は自分にもある。もちろん、だから自分も暖かい布団で眠らないようにしよう、などと言っているのではない。今後のさまざまな判断のなかで、そのような反省を生かすためにはなにができるのかを考えるのだ。全体は、小さな判断が積み重なって出来たものなのだ。眼鏡の痕はまだ消えない。

by enzian | 2011-04-28 18:08 | ※その他 | Comments(0)

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