私はWikipediaではない。

アドレスをあちこちでさらしているから、あちこちからメールがくる。いちばん多いのは中高生からのメール。哲学書についての質問や、どこそこの大学の哲学科にはどんな先生がいるのか?といった質問も多い。ぼくは営利目的でWeb上にアドレスをさらしているわけではないから、相手がどんなひとかまったく知らなくても(ほとんど無記名)、たいていの問いの内容について、自分が所属する以外の大学のことであろうと、知っていることはもちろん、調べてわかることは調べて伝えるようにしている。ひとりのメールの内容に半日をかけるようなことも少なくない。そんなの、立場上、あたりまえのことだ。

でもどうしたことだろうか。こちらからなにかを伝えても、それっきり、なしのつぶてなのである。原稿用紙10 枚にも及ぶ堂々たる “大作” を送っても、「わかった」の一言もない。こちらからすれば、送信ミスをやらかしたのではないか、鈍な自分のことだからきっとそうにちがいないと心配になって、なんども送信ボックスを確認する羽目になる。送ったことになっているから、情報さえ得られればそれでよいという生活信条のひとだったのだ、としか思いようがない。でもそんな風にあわてたのは数年前のこと。いまでは、メールを送ってくるひとの十中八九がそんなひとたちなのだ。たまに「参考になりました」なんて返してくる例外的なひとがいると、聖人に出会ったようなさわやかな気分になれる。

なしのつぶてさんが大の大人であればまだよい。営利が至上課題であるなら、しちめんどくさい礼節やらをわきまえるよりも、さっさと只で仕入れた情報をどう利用するか、つぎのステップに移るほうがスマートだろう。じっさい、こういう類(たぐ)いのメールはこれまで山ほどあった。そうして、展覧会会場で、企業HP上で、ふと読んだ雑誌記事で、ぼくがメールに書いた言葉そのままを自分の言葉として使っているひとたちを見つけて驚愕するのだ。だが相手が中高生なら、まだこちらも夢を追い求めて、というか、こちらの夢を押しつけてよいと思うのだ。フッサールを読もうとするのはよい。サルトルの『存在と無』にチャレンジするのもよいことだ。でもその前に、ひとの道をはずしてはいけない。あなたの液晶画面の向こうに座っているぼくはこれでもいちおう人間で、Wikipediaではないのだ。

by enzian | 2011-05-19 19:12 | ※その他 | Comments(0)

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