信じて欲しいこと。

ぼくは自分に甘くて他人に辛い。それは自分でも認めているし、自分以外の人もよく知っている。知っているから、かわいそうな少数の人たちがびくびくしながらぼくと付き合っており、大多数の人たちは忌避している。しかも忌避する人の数は年々増加していて、目も当てられない。当人も情けない、申し訳ない、淋し過ぎると思っているが、性根がそういう風にできているようで、いかんともしがたい。25歳ぐらいのころのぼくは、今はダメでも、それなりに歳をとれば人格も円満になって、ちょっとは立派なひとになれるのだろうと思っていた。でもそんなことはなくて、もう修正のしようもなく、命を閉じるまではこのまま一直線に進みそうな勢いなのである。

それはそれで仕方ないとあきらめているのだけど、どうしても無念に思っていることががひとつだけある。それは、そんな自分でも少なからぬ人を認めていて、尊敬もしているということだ。矛盾しているようだけど、ぼくが認めている人は少なくない。尊敬している人もいっぱいいる。それはカントや祖母や恩師といったぼくのなかでの定番?の人たちだけでなくて、いっしょに働いている人たち、ぼくよりもはるかに歳若い学生たち、小さな子どもたち、そういった人たちの、決して目立つことはなくても、たとえ他の誰にも知られることがなくても確固としてあるやさしさやら思いやりやら、温かさやら誠実さやら頑張りやらには心底惚れ込んでいて、尊敬しているのだ。ぼくはこの事実をある時点までほとんど伝えることがなかったが、最近はときどき伝えるようにしている。一生懸命伝えているつもりなのだが、ほとんど誰からもまともには取り合ってもらえない。

人がなにを信じるかは、その内容よりもむしろそれを誰が言ったかによる場合が多い。信じるべき内容だから信じるのではなく、信じざるをえない人が言うから信じるのだ。信じざるをえない人格ができあがったとき、同時に聖なる言葉もできあがっている。反対に、例えばちゃらちゃらした人が「人間は清貧であるべきです」と言っても、誰も信じないということにもなる。そういうわけでぼくがやさしいことを言っても受け入れにくいのは重々承知しているのだが、それでも、ぼくがほめた内容については信じて欲しい。

by enzian | 2016-01-23 22:34 | ※その他

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