円筒形

いかん、連休だというのにいっこうに仕事がはかどらない。あれこれの締め切りが迫っているのに、なんだかんだと言い訳ばかりしている。半ば空気が抜けた風船のようになって、どこに行くでもなく、自宅でころころしている。それでまた、4年前より、より円筒形になったものだから、よく転げもするのだ。

こんなことではいかん、人間性を取り戻さねばならぬと、ハードディスクに記録してある平良修さんの番組を観る。ぼくはあんまりひとのことを褒めないけど、平良さんの言葉にはいつも動かされてしまう。今日もまたひとつ学んだことがあった。ここでは言わないけど。

それにしてもなんど観てもどうしても踏み込めないことがある。小さき者になにかをなすことが、すなわち神になにかをなすことであり、神を愛することでもあるということ。小さき者になにかをなすこと、そのこと自体には違和感を感じないが、小さき者を愛そうとするひとのなかにはしばしば、四六時中、自分より小さき者探しをしているのではないかと思える水晶のごとき瞳をもったひとがいて、その曇りのない瞳に違和感を感じることがあるのだ。ぼくはこの瞳の “やさしさ" に自己の尊厳を傷つけられたことがある。もうひとつは、ぼくはいまのところ、自分の外に小ささ探しをするのではなく、自分自身の小ささを見つめたい、と思っているから。もちろん、こうした違和感に理解不足が含まれていることは知っている。知っているが、それをまだ認めることができない。

by enzian | 2016-05-03 21:30 | ※その他

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