『となりのトトロ』と『スタンド・バイ・ミー』

映画館のない町に育ったせいか(今もない)、映画を見(観)に行くという習慣がありません。レンタルビデオ屋さえ近所にない田舎在住ゆえ、映画を見るとすれば、テレビで放送されるものだけ、ということになります。しかも、放送されれば必ず見るかというと、そうでもありません。録画すると安心してしまうようで、何年も前のお正月映画たちが誰に見られることもなくじっと鎮座しているというありさまです。

そんなテイタラクですから映画についてあれこれ言うのはおこがましいにもほどがあるのですが、放送されれば必ず見ようとする大好きな映画もあります。例えば、『となりのトトロ』もそうです。おもしろい!と思うことに四の五の理由をつける必要などないのですが、四の五の言うことを生業としていますのでお許しいただくとして、ぼくが『となりのトトロ』を見て、よくできてるなぁと感心する理由をあげましょう。

ひとことで言えば、“宗教心の芽生え” がうまく描けていると思うからです。宗教とはなんであるか?なんてことをまともに考えはじめますと生涯を無駄にする恐れがありますので、ここでは、とある学者の言葉を借りて、お手軽に、「聖なるものへの思い」という風に言っておくことにしましょう。

「聖なるもの」というのは「俗なるものもの」と対になっている言葉です。「俗なるもの」は私たちがよく知っている見慣れたもので、特別な能力をもちません。そういう意味で畏れるに足りぬものです。これに対して、「聖なるもの」は私たちが知らないものであり、私たちの知識や経験の限界を超えるもの、境界線の外にあるものです。これは、私たちが知らない特別な能力をもち、うまく接すれば恩恵を受けることができますが、接し方を誤ると、その特別な能力で私たちに祟りや罰を与えかねない恐ろしいものでもあります。

【俗なるもの】
・見慣れたもの(境界線の内)
・畏れるに足りぬもの
・特殊な能力なし

境界線――――――4・5歳
            ↓
          ‥‥‥‥10歳
              ↓ 
            ‥‥‥‥13歳
【聖なるもの】
・見慣れないもの(境界線の外)
・畏敬感(畏れと尊敬)を与えるもの
・特殊な能力→恩恵
          祟り、罰


人がなにを「俗なるもの」や「聖なるもの」と考えるかは、知識や経験の量によって変わってきます。例えば、4・5歳の幼児にとっては、家の屋根裏や家の裏側は、行くことを禁じられている見慣れぬ場所であり、そこに行けばなにか悪いこと(祟りを受けたり、罰を受ける)が起こる気がする場所かもしれません。知識や経験が増えた小学生には屋根裏や家の裏側は単なる遊び場のひとつでしょうが、それでも、地区の神社や鎮守の森の奥にはなにか得体の知れないものの存在を感じるかもしれません。幼いころに身近にあった「俗なるもの」と「聖なるもの」との境界線は、知識や経験が増えてゆくにつれて、遠くに離れてゆくものなのです。

空間的な境界線だけでなく、時間的な境界線もあります。たとえば、元旦は、すでに見慣れて俗っぽくなってしまった古い年が終わって新しい年がはじまる、特別な意味のある日です。新しい年を迎えるにあたって、門松を立ててしめ縄を飾って正月を迎える準備をするのは、聖なる新しい年の特別な能力をあらかじめ封じておくためです。人が誕生することは、その人が、それまでいた死の世界から新しい生の世界へと移動することです。聖なる生の世界の特別な能力を封じる儀式が誕生の祝いです。死の儀式はその逆です。結婚式は、未婚という俗なる世界から既婚という聖なる世界への移行のための儀式です。初物が特別な力をもつのは、勝手知った俗なる季節の外にある、新しい聖なる季節を告げるものだからです。

さて、『となりのトトロ』に戻りましょう。この作品には、ところどころで「俗なるもの」と「聖なるもの」とのかかわりが取上げられています。「真っ黒黒助」(表記は不明)は、メイやサツキには見えますがお父さんには見えません。メイとサツキの「俗なるもの」と「聖なるもの」の境界線は家のなかにありますが、知識量の多いお父さんの境界線は家の外、いやもっともっと遠くにあるのです。小さなころは見たというおばあちゃんも、すでに知識が増えてしまった今では家のなかに「真っ黒黒助」(聖なるもの)を見ることはできません。

トトロを家の敷地内で見たのはメイでした。メイにとってはトトロ(聖なるもの)は「となり」にいました。メイよりも微妙に多くの知識を身に付けたサツキは、敷地のなかでトロロを見ることはできませんでしたが、危急存亡のとき(メイを見失い、途方に暮れたときなど。それは知識が意味をなくしたときでしょう)、自宅から少し離れたところで、トトロに会うことができました。

トトロが呼んだネコバス(聖なるもの)を、メイとサツキは見ることができました。ネコバスに運んでもらった二人を、お父さんは見ることができませんでした。お母さんはネコバスに運んでもらったメイとサツキが松の枝に「ちらりと見えた気がする」と言います。お父さんの境界線よりもお母さんの境界線の方がずっとそばにあるからなのでしょう。

『スタンド・バイ・ミー』もまたぼくの大好きな映画のひとつですが、ここにも「俗なるもの」と「聖なるもの」とのかかわりが出てきます。勝手知った町中で遊んでいた少年たちは、やがて町を出て森の奥にある死体を探しに行くことになります。未知の、それゆえ、それまで「聖なるもの」であった郊外を歩き通し、それまで「聖なるもの」であった死を目の当たりにしたとき、少年たちは、「俗なるもの」と「聖なるもの」の境界線をぐっと外に追いやったのでした。そして、それは、少年たちがもはや少年でなくなったことを意味し、少年たちが、少年である友人たちの「そば」にもはやとどまることはできず、まもなく大人として「ひとり立ち」して行かねばならない、ということをも告げる一夏の出来事だったのでしょう。

by enzian | 2005-10-09 21:28 | ※その他 | Trackback | Comments(42)

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Commented at 2005-10-09 22:21
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Commented by enzian at 2005-10-09 22:50
鍵コメさま

トトロは一昔前の田舎暮らしの描写がとてもうまいのですが、
それは、鍵コメさまにはわからないかもしれないですね。

単純素朴に、ネコバスがサツキを迎えに来るところなんか、
感動しません?
ぼくなんか、涙なしにには見られないね(また、ウソをつきました)

>感想

ヤダ。
Commented by toko_chai88 at 2005-10-09 23:03
こんばんは。こそっとお邪魔します。

未知の聖世界から既知の俗世界を構築してきた「近代」という時代。
「神は死んだ」というのは「トトロを殺した」ということやったんでしょうか。
でも子供の絵本の世界の中ではまだまだ生きているんですよね。

「知識が意味をなくしたときトトロに会えるかも」
記事を拝見し、こんなフレーズが頭の中でこだましました。

enzian「では、これからは、気楽にコメント書いてくらはい。」
とこ「えっ、で、でも、き、きんちょ~ 」(ドキドキ) ←やっぱり小心者

質問:「enzian」という文字表記はどのような音声表現をもっているのですか?
Commented by 毒きのこ at 2005-10-09 23:19 x
 スタンドバイミーの”線路”が、印象に残ってます。

こんばんは。

自分は非常に俗っぽい、子どもでした。聖なる系を純心に受け入れている近所の子どもや弟などをちょっとシレ~っとした目つきで見ていました。幼い頃から、もしかしたら生まれながらにして俗やら毒やらにまみれていたのかもしれません。(かわいくないー。)でも、大人になるにしたがってファンタジーやメルヘンチックやら聖なる系に強い憧れを持つようになりました。冷めた子ども時代だった分、ばあ様になって行くこれからは、部屋の中にいるトトロと会話しているような人材?になってみたいものです。(それはぼけのはじまりだったりして~)

 ちなみに、わたしの聖なる系?のダイスキ映画は”ネバーエンディングストーリー”です。初めて、映画館で見た洋画でした。
 
Commented by enzian at 2005-10-09 23:26
toko_chai88さん

では、そっとレスします、ヒソヒソ。
そんなにきんちょーしますかねぇ~ふしぎ、ふしぎ。

>未知の聖世界から既知の俗世界を構築してきた「近代」という時代。
「神は死んだ」というのは「トトロを殺した」ということやったんでしょうか。

そういうとこ、あるかと思いますよ。

>でも子供の絵本の世界の中ではまだまだ生きているんですよね。

そうですね。

>「知識が意味をなくしたときトトロに会えるかも」
記事を拝見し、こんなフレーズが頭の中でこだましました。

でも、それは現代人の大人にとっては、
一種の限界状況に陥ったとき(このとき、宗教体験をする)でもあると思いますので、
危なくもあります。

>質問

「エンツィアン」と読みます。
ドイツ語で「リンドウ」の意味です。
ポエムでしょ!?

シェレシェフスキー関係の本は一冊出版されていたようですが、
入手が困難なようです。『<忘却>の文学史』は読んでみたいと思います。
Commented by enzian at 2005-10-09 23:35
毒きのこさま、こんばんは。

>スタンドバイミーの”線路”が、印象に残ってます。

あの線路はとても重要だと思います。
線路がそこに横たわる枕木は、
一本一本が境界線へと向かう目盛りになっていると思っています。

>自分は非常に俗っぽい、子どもでした。聖なる系を純心に受け入れている近所の子どもや弟などをちょっとシレ~っとした目つきで見ていました。‥‥大人になるにしたがってファンタジーやメルヘンチックやら聖なる系に強い憧れを持つようになりました。冷めた子ども時代だった分、ばあ様になって行くこれからは、部屋の中にいるトトロと会話しているような人材?になってみたいものです。

おもしろいですね。
一般に人間はある程度の年齢まで俗なるものと聖なるものの境界線が遠ざかって行きますが、ある程度の年齢にまで至ると、再び境界線が近づいてくるのかもしれません。
毒きのこさんの場合は、遠ざかっていないので、戻ってくるのが早いのかな(^^)

>ちなみに、わたしの聖なる系?のダイスキ映画は”ネバーエンディングストーリー”です。

さまざまな解釈を許すような、エンデの名作のひとつだと思います。
Commented by 座敷童 at 2005-10-09 23:53 x
子供の頃の私にとってトトロは「こわいもの」で、
たぶん見慣れなかったからだと思いますねえ。
マックロクロスケは好きだったんですが。
あれですかね、ゴッキーに印象が近いからですかね。うーん。
どっちも畏敬感はなかったような気がしますが・・・。

私がいまでも覚えてるのは
「チョコレート工場の秘密」(現在公開してる前の作品)
かなり小さいときに初めて見た映画で、
最後を覚えてないほどショックを受けました。
友人の母親(いわゆる教育ママって人です)に
無理矢理連れて行かれて観たんですが、
工場が未知なる、おそれ多きものになりました。
煙突を遠くからみているだけで、
フェンスの中に入ると自分が無くなると思っていましたよ。
一年後・・・パン工場の見学で打ち砕かれました・・・。
あの未知の領域で、芳ばしい香りとともに
目の前を列をなして流れていくクリームパン達。
クリームパンってこうやってできてたんだー!(俗化)
Commented at 2005-10-10 00:35
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by enzian at 2005-10-10 00:38
座敷童さま

>どっちも畏敬感はなかったような気がしますが・・・。

あのね、そなたのやっていることからして、知ってると思うけど、
人がなにを聖なるものとするか、は人によってまったく違うの。
その違いは経験に起因する。
ゴッキーを神だと思った、って言った学生もいたくらいなの(実話)。

そういう意味で、
「工場」が聖なるものになる場合もありうる。
煙突が聖なるものになる可能性だってあるし、
クリームパンが聖なるものになる可能性だってある。

そういう具体的なものはすぐに俗化するけどね。
すぐに俗化するのがいやな場合には、
すこし捻りをかけて、抽象的なものを聖なるものにする。
「縁起」なんていうのは、その最たるものだね。
Commented by enzian at 2005-10-10 00:45
鍵コメ2さま、こんばんは。

お疲れさまでしたね。
そうですね、忘れないうちに。。。

映画を題材にするというのはめったにないことなのですが、珍しくなのです。
その想像はあ・た・りです(^^)

宮崎アニメ、そうですね。
この作品に限られるわけではありません。
もののけ姫やナウシカとかもそうですね。
書かれたら、拝見します。

あの本については、ゼミの先生?が評価しておられたようですね。
若い研究者の方々にお読みいただければ、
柏祐賢氏もさぞやお喜びでしょう。
Commented by えほんうるふ at 2005-10-10 07:32 x
色んな意味で、ありがとうございます。読み応えのある素敵な記事でした。「トトロ」は私にとっても思い入れの深い作品です。後ほど改めてゆっくりコメントさせていただきます。
Commented by supica-hosi at 2005-10-10 10:46
宮崎映画は子どもの心理描写を細やかに描いて私も好きです。
言葉よりも、風景・時間描写で描かれているのがすばらしいです。
昔は今よりも、田舎には語り継がれた「聖なるもの」「結界」「見えないもの」が
たくさん息づいていました。それは熟し老いた「人」からまっさらの子どもという「人」
の間を自由に行き来できたように思います。
そしてそれは、おとなになることの儀式を通過しながら枝分かれしてゆく諸々の
源泉だったのでは、ないでしょうか。


Commented by kaoruck at 2005-10-10 11:36
記事の内容と関係ないのですが・・・こういうの、横レスって言うの・・・かな???
「エンツィアン」=「りんどう」
だったんだー!!ポエムですね^^
確かに~よく見るとドイツ語の発音だ~E(エー)、Z(ツェー)。
数年前、NHKのドイツ語会話を熱心に見ていたんですよ。ドイツの作家が書いた児童書を原著で読んでみたかったのです。忙しくなったのと、あきちゃったので挫折したけど。犬の散歩のとき、「アー、ベー、セー、デー、エー、エフ、ゲー・・・」とつぶやいてました。怪しい人でした。
Commented by enzian at 2005-10-10 21:32
えほんうるふさん

いえいえ、お約束を果たしただけのことであります。

でも、下手な講義のようなわかりにくい文章でゴメンナサイ。
もう少し丁寧に書かないといけないことはわかっているのですが‥‥
Commented by enzian at 2005-10-10 21:43
supica-hosiさん

>言葉よりも、風景・時間描写で描かれているのがすばらしいです。

なるほど。
言葉でなく、むしろ風景・時間描写ですね。

>昔は今よりも、田舎には語り継がれた「聖なるもの」「結界」「見えないもの」が
たくさん息づいていました。それは熟し老いた「人」からまっさらの子どもという「人」
の間を自由に行き来できたように思います。
そしてそれは、おとなになることの儀式を通過しながら枝分かれしてゆく諸々の
源泉だったのでは、ないでしょうか。

そうですね。
今は、そういったものが昔ほどは自由に行き来できなくなっているように感じます。
昔ほどのつながりがなくなってきて、自由な行き来が分断されてしまっているのですね。
そういう意味で言えば、現代人は、さまざまに展開してゆくものの源泉を
喪失してゆく傾向にあるのかもしれませんね。
この源泉(故郷のようなものでしょうか)、あるなしで、
人間の安定感を左右するほど大切なものなのではないか、と思います。
Commented by enzian at 2005-10-10 21:46
kaoruckさん

>「エンツィアン」=「りんどう」
だったんだー!!ポエムですね^^

そうどす。
詩人でもあるのです。
よく覚えておいてください(どこが!)。

>確かに~よく見るとドイツ語の発音だ~E(エー)、Z(ツェー)。
数年前、NHKのドイツ語会話を熱心に見ていたんですよ。ドイツの作家が書いた児童書を原著で読んでみたかったのです。忙しくなったのと、あきちゃったので挫折したけど。犬の散歩のとき、「アー、ベー、セー、デー、エー、エフ、ゲー・・・」とつぶやいてました。怪しい人でした。

フフッ。
そうです、ドイツ語の発音ですよ。
懐かしいですか?
Commented by banri at 2005-10-10 22:01 x
enzianさん、こんばんは。
今ちょっと凹んでおりましたが2本とも大好きな映画の話だったので
ちょいと復活しました^^

「となりのトトロ」
自然に対する畏怖や微妙な関係をとっても良くあらわしている映画ですよね。
メイがしたような遊びを自分もしたことを思い出して懐かしく、物悲しい思いになります。
ただ「もののけ姫」はまたちょっと違うなぁと私は感じてしまってます。
こっちのほうがより一層「banri的」な気がすると思いますが・・・

「スタンド・バイ・ミー」
この映画、映画館に何回見に行ったか判りません。
私がソラで歌えるたった一つの英語の曲です^^
一番好きなシーンは主人公が朝方に線路でシカと出会うシーン。
自然の静粛で神聖なものと出会い、そして別れるという少年期の終わりを
あの1シーンで全てあらわしているように思えます。

いやぁ、本当に本当に両方とも大好きな映画です!!
Commented by enzian at 2005-10-10 22:19
banriさん、こんばんは。

凹んでましたか、元気になってくらはい。

>ただ「もののけ姫」はまたちょっと違うなぁと私は感じてしまってます。

トトロは自然と人間が微妙な関係を保っていますけど、
もののけ姫は、そのバランスを人間が壊してしまっていますね。
そのしっぺ返しが人間に来るというところ、それは赤いろうそくと人魚風であり、
banriテイストになります(^^)

>「スタンド・バイ・ミー」
この映画、映画館に何回見に行ったか判りません。

お好きですか。

>一番好きなシーンは主人公が朝方に線路でシカと出会うシーン。

ありました。
いいシーンです!

>私がソラで歌えるたった一つの英語の曲です^^

覚えとこっと。φ(._.)メモメモ
いざというときに、うひひ。。。
Commented by toko_chai88 at 2005-10-10 22:49
>そんなにきんちょーしますかねぇ~ふしぎ、ふしぎ。

ただのアガリ症です。いえ、常にときめいていたいだけかも知れません。
でも、このトキメキが生活に潤いをもたらしてくれるのだと思います。

>一種の限界状況に陥ったとき(このとき、宗教体験をする)でもあると思いますので、
危なくもあります。

実は身近にいた者が二人も宗教につかまりました。
一人は立ち直りましたが、もう一人はドツボにはまったままです。
完全に言葉が通じません。彼女、つらかったんやろと思います。
でも宗教は本当に怖いです。いえ「宗教」の名を借りた集団は恐ろしいです。
二人とも何かの「体験」をしたようですが、うちにはさっぱりわかりません。
理解したいと思うのですが理解できるものでもないやろし、たとえ理解できたとしても
だからといって彼女を救えるとも思えません。やるせなさだけが空回りします。

>ドイツ語で「リンドウ」の意味です。ポエムでしょ!?

ええ、ほんと、ポエムですなぁ(〃∇〃)すてき☆
漢字で書くと「竜胆」やとか。それもステキ♪
Commented by enzian at 2005-10-10 23:10
toko_chai88さん

>ただのアガリ症です。いえ、常にときめいていたいだけかも知れません。
でも、このトキメキが生活に潤いをもたらしてくれるのだと思います。

ふふっ。常にときめく、いいですね。
そうでなくっちゃ!

>実は身近にいた者が二人も宗教につかまりました。
一人は立ち直りましたが、もう一人はドツボにはまったままです。
完全に言葉が通じません。彼女、つらかったんやろと思います。

そうですか。つらかったんでしょうね。
でも、もう言葉は通じないと思いますよ。
Commented by enzian at 2005-10-10 23:13
(toko_chai88さん、続き)

>二人とも何かの「体験」をしたようですが、うちにはさっぱりわかりません。
理解したいと思うのですが理解できるものでもないやろし、たとえ理解できたとしても
だからといって彼女を救えるとも思えません。やるせなさだけが空回りします。

手っ取り早く体験しようとすれば、いくらでも方法はあるのですよ。
でも、そんな体験、わからずともいいのです。
理解する必要はありません。
理解したとたん、たぶん、救おうという気もなくなるでしょう。

マインドコントロールを解こうとするなら、
こちらの生活を賭してまでやる、という決断があればやればいいでしょうが、
それ以外は、放置するしかありません。
相手もまた、大人なのですから‥‥

>ええ、ほんと、ポエムですなぁ(〃∇〃)すてき☆
漢字で書くと「竜胆」やとか。それもステキ♪

そういうスタンスが生活に潤いをもたらすのですね。
まっ実際ステキだけど‥‥(^▽^ケケ
Commented by えほんうるふ at 2005-10-11 03:11 x
さてと。「宗教心のめばえ」ですか。なるほど〜!
「千と千尋」しかり、「もののけ姫」しかり、宮崎作品はいつも、日本人にとって宗教とは何だったのかということを、観客である私たちに思い出させてくれますね。個人的には「千と千尋の神隠し」の重要なモチーフとなっている「八百万の神」という概念、その豊穣さに私はいたく感動したのですが、ジブリ第一作目の「となりのトトロ」で既にその「めばえ」を表現していたのだとしたら、出来過ぎで怖いほどです。
「聖なるもの」への思いというか畏れというか、自然の恵みに身をゆだねる農耕民族であった私たちにとってそれはものすごく身近で重要なものだったはずで、すでに農業と縁のなくなった自分でさえ、いつも彼らの存在を無視できないでいる。
「となりのトトロ」を観る度に感じる懐かしさは、自分がかつて境界の内側にいた証拠なのかもしれませんね。
Commented by u-wakaroku at 2005-10-11 09:33
ほぉ。わたしもトトロが好きですが、こんなふうに
分析したことはありませんでした。
妹の存在や、祖父母の古い家(奈良県高取町)を思い出しながら
いつも単純によろこんで観ていました。
cubit-papaさんが紹介されていた『このままじゃダメだと…』を
読むと、わたしにとって祖父母の家の存在がどれだけ大きいか
よくわかりました。
Commented by aroomwithaview at 2005-10-11 16:42
どちらも好きな映画です。
うちにはTVがないのですが、数少ない映画で子供たちが見たことのあるのが“となりのトトロ”なんです。

うちにサツキとメイ(みたいなのが)がいます(笑)
娘2人のうち、下の子は、ほんとメイちゃんみたいです。
私には見えないものが見えていますよ。
彼女の目を追いかけるのは楽しくもあり驚きでもあります。

Commented by enzian at 2005-10-11 21:15
えほんうるふさん

>「となりのトトロ」を観る度に感じる懐かしさは、自分がかつて境界の内側にいた証拠なのかもしれませんね。

懐かしさ‥‥そうだと思います。
あれは、大人にそのような懐かしさを抱かせる作品になっていますね。

>「聖なるもの」への思いというか畏れというか、自然の恵みに身をゆだねる農耕民族であった私たちにとってそれはものすごく身近で重要なものだったはずで、すでに農業と縁のなくなった自分でさえ、いつも彼らの存在を無視できないでいる

そうですね。

千と千尋は、八百万の神を取り扱っていますね。
あの作品のおもしろさは、一部の神に非常に人間臭い要素を
取り入れていることだと思います。
なんせ、遊郭をモデルにした温泉に集まってくる神様ですからね。
必ずしも畏敬感を与えない、俗っぽい神々(笑)ですね。
Commented by enzian at 2005-10-11 21:20
u-wakarokuさん

>妹の存在や、祖父母の古い家(奈良県高取町)を思い出しながら
いつも単純によろこんで観ていました。

あっそうか!妹さんがおられたら、感情移入しやすいかもしれませんね。
ぼくは妹が欲しかったというのがあったみたいで、
変に感情移入するようです^^。

それと、奈良って、
ああゆう里山と農家という感じのところが残っていますからね。
ぼくの今住んでいるところ(京都と奈良の境)もまさにそんなところです。

>cubit-papaさんが紹介されていた『このままじゃダメだと…』を
読むと、わたしにとって祖父母の家の存在がどれだけ大きいか
よくわかりました。

それ、知りません。
papaさんところに見に行くことにします。
Commented by enzian at 2005-10-11 21:24
aroomwithaviewさん

>どちらも好きな映画です。
うちにはTVがないのですが、数少ない映画で子供たちが見たことのあるのが“となりのトトロ”なんです。

テレビないのですか、へぇ~

>うちにサツキとメイ(みたいなのが)がいます(笑)
娘2人のうち、下の子は、ほんとメイちゃんみたいです。

キャハハ、クチビルがたらこみたいになってた娘さんですね(^^)

>私には見えないものが見えていますよ。
彼女の目を追いかけるのは楽しくもあり驚きでもあります

島には島のトトロがいるのかもしれませんね。
Commented by noe.saeki at 2005-10-11 23:53
知人の縁戚関係にある女の子が、大人の目に見えないお友達といつも遊んでいたそうですが、ある日を境にその子の話をしなくなったのだそうです。尋ねると、知らないと答え、今までその子と遊んだことや、大人たちに話してくれたエピソードもそっくり忘れていたそうです。・・・という話は、今回のテーマとは少し違いますかね。
ところで、「トトロ」は私もジブリ作品の中で一番好きです。語り出したらキリがないくらい。
Commented by kozou_17 at 2005-10-12 10:42
なるほど、知識によってその境界線が広がっていくわけですね。そういう見方をすると、「となりのトトロ」は本当に良くできていますね。このテーマとは関係ありませんが、ボクは、ひとりであぜ道を歩くメイの心細さの描写がたまらなく胸に来ます。

それと、見慣れないもの、畏敬感といえば、渓流釣りで、人がなかなかいかない山の奥まで沢を登り「こんな所に?」というようなところで大きな滝に出くわしたとき、決まって「何かいる」感じがします。それは動物などの個体ではなく、もっと大きな漠然としたもの。滝で修行したくなる気持が解ります。
Commented at 2005-10-14 00:07 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by enzian at 2005-10-14 07:44
noe.saekiさん、レスが遅れました。

>知人の縁戚関係にある女の子が、大人の目に見えないお友達といつも遊んでいたそうですが、ある日を境にその子の話をしなくなったのだそうです。

子どもの想像力には、なみなみならぬものがあると思います。
自分のイメージを完全に直観像化する能力が大人よりも強いのかもしれません。
いつもながらなんの根拠もないことを言えば、
そういう想像力が多重人格を作りやすくするのかもしれません。

>ところで、「トトロ」は私もジブリ作品の中で一番好きです。語り出したらキリがないくらい。

語ってください^^
Commented by enzian at 2005-10-14 07:51
kozou_17さん

>ボクは、ひとりであぜ道を歩くメイの心細さの描写がたまらなく胸に来ます。

そうですね。
メイの心細さがよく描けていたと思います。
心細さの描写はあぜ道がいいのでしょうね。
狭くて足元もおぼつかない‥‥そこをひとりで歩く‥‥

>それと、見慣れないもの、畏敬感といえば、渓流釣りで、人がなかなかいかない山の奥まで沢を登り「こんな所に?」というようなところで大きな滝に出くわしたとき、決まって「何かいる」感じがします。それは動物などの個体ではなく、もっと大きな漠然としたもの。滝で修行したくなる気持が解ります。

大きな瀑布や波打つ大海や聳え立つ山並みに感じる得たいの知れない感情‥‥
それは美学的に言えば崇高感と言われるもので、
崇高感と宗教的な畏敬感と呼ばれるものは非常に近いものです。
Commented by enzian at 2005-10-14 07:57
鍵コメさま

感心していただき、幸いです。

これらは新・旧とは別物ではありません。
新・旧というもののなかにもすでに価値感が入っていますが、
それがどうしてなのかを考えるのもおもしろいかもしれません。

蛇足ですが、ひとつ加えておけば、
年頃になって、自分とは違う“異性”が存在すると気づき始めた人にとっては、
異性は聖なるものなのかもしれません。
トトロでは、カンタという少年がサツキをいじめますが、
それは聖なるものへの畏敬感の裏返しだと思います。
Commented by banri at 2005-10-15 00:18 x
こんばんは、enzianさん。

やっぱり凹んでます。
しかしですね、さっき仕事の帰り道で「シカ」に出会ったんですよー♪
かなり凹みが戻りました。

自宅のすぐ近所の山ですが実は遭遇は2回目なのです。
奈良に住んでいる訳でもないのにシカ遭遇率高いです、私。

すみません、何となく「スタンド・バイ・ミー」みたいで嬉しかったのでつい・・・^^;
Commented by enzian at 2005-10-15 09:37
おはようございまふ、banriさん

おー、シカに会いましたか!
それはすごいです。
似非ナチュラリストのこの私めでさえ会ったことがないのに^^
奈良に近いのになぁ(ボソッ)

きっと、よいことがありますよ^^v
Commented at 2005-10-15 14:42
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2005-10-15 14:52
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by enzian at 2005-10-15 17:28
鍵コメさま

そちらに書きますね。
Commented at 2005-10-15 19:08
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by enzian at 2005-10-15 20:46
鍵コメさま

そちらでちょっと蛇足を(^^)
Commented by kourin-mama at 2005-10-17 00:10
遅いコメントですみません。
何かが見える、という人っていますよね。俗にいう、霊感が強い、という。
そういう人は境界線が遠のいていない人なのかなぁ。

上の記事や皆さんのコメントも、とてもおもしろく読ませてもらいました。(^^)
Commented by enzian at 2005-10-18 18:55
kourin-mamaさん

>遅いコメントですみません。

いえいえ、そんなことありません。
それより、レスが遅くなりました。

>何かが見える、という人っていますよね。俗にいう、霊感が強い、という。
そういう人は境界線が遠のいていない人なのかなぁ。

子どもにはいろんなものが見える子が多いようですから、
そうかもしれませんね。

>上の記事や皆さんのコメントも、とてもおもしろく読ませてもらいました。(^^)

ここは、たぶん、記事よりもコメントを読む方が楽しいと思います(^^)

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