朽ちてゆくハト

線路わきにハトが死んでいるのを毎日見ている。寒空の下でも、日一日と朽ちてゆく。あのハトは自分がいずれ死ぬことを知っていたのだろうか?‥‥ぼんやり考えている。すぐに打ち消す。もし “知る自分が無くなること” が死なら、自分の死を “知る” ことなんて、誰もできないのではないか?そもそも死がなんであるかなんて、よくわからないけど‥‥。「自分が死ぬこと」を知っていることが「人間の尊厳」だと言った人もいた。その意味は、まだ実感できない。

by enzian | 2005-12-10 10:57 | ※通勤途中 | Trackback | Comments(70)

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Commented by htoritori at 2005-12-10 11:49
enzianさん、「知る自分が無くなることが死」なら、お姑さんはもう死んでいます。生きているけど彼女は死んでいると思っていました。死が何か分かるのなら、生きていることも
何か分からねばなりません・・・。
Commented by kozou_17 at 2005-12-10 13:38
何かの番組で学者さんが「人間は知能が発達して、先を予測することができるようになり、そして”死”を発見してしまった」と言っていました。この「死を発見した」という表現が、なんだかボクの胸の中のスキマにストンと落ちた感じがしました。きっと鳩は生存中に死を発見してはいなかったと思います。
「死」に関する考え方が、これだけ多様に発達したのは、人間にとって死の恐怖がそれだけ大きいことの証だと思います。ボクはある人の言葉が好きです。こんな言葉でした。
「どんな人にも死は訪れる。何かの途上で突然訪れる。その時、何の途上であったのかが重要なのだ」
Commented by gauche3 at 2005-12-10 16:44
死の瞬間って想像も出来ないくらい苦しいのだろうけど、出来ることならば意識を保ったまま、死んでいく瞬間を感じていたいなぁ、と思っています。
心残りばかりだろうけれど、「まぁいいっか」って思えるといいかなぁ、と考えたりもします(^^ゞ
Commented by ともきん at 2005-12-10 21:32 x
初めまして。初コメントです。
ところで死の瞬間って、やっぱりそんなに苦しいんですかね?
茶化すつもりは毛頭無いんですが、たとえば涙を流したり、くしゃみをしたり、おしっこしたり、『身体から何かを吐き出す』という行為は全部快感を伴うと思いません?
勝手な想像にすぎないんですが、魂が身体から抜け出る瞬間は、ものすごい快感を神様が用意してくれていると小生は考えたりしてます。
しょうもないコメントですんません。
Commented by rei_ayakawa at 2005-12-10 21:33
死が常に身近にあることを意識することが、有意義な人生を送るコツなのかもしれません。
ひょっとしたら、明日自分は死んでいるかもしれない。
可能性はゼロではない。
だから、いつそうなってもいいような生き方をしたいものです。
悔いのないように、悔いのないように。
Commented by 毒きのこ at 2005-12-10 21:42 x
 ハトはそもそも生きていたんでしょうか。朽ちるハトを哀しむ、仲間のハトはいたんでしょうか。ここならば・・・楽になれるさ、じきに・・・ってわざと線路付近を選んでとまっていたのでしょうか。・・・・・・わたしも、なんだかぼんやりしてしまいました。はとの気持ちはわからないけれど。(@@)

>「自分が死ぬこと」を知っていることが「人間の尊厳」だと言った人もいた。

歳末謝恩”尊厳”セールでございますっ!尊厳ある昼寝・尊厳あるくしゃみ・尊厳あるチラ見・尊厳ある空腹・尊厳ある凹み・尊厳あるウケ狙い・尊厳ある・・・・・あ゛ーこれじゃ売れ残ったクリスマスケーキになるかもねっ☆
Commented by at 2005-12-10 23:06 x
死について 
 先日亡くなった私の母は、もともと身体が弱く晩年は認知症が進行して5分前の事も忘れるような状態でした。病院へ行くことを異常に拒み、病気があったのかどうかも不明ながら、少しずつ生き物としてのエネルギーを減らしていき、最後はそれを使い果たして自宅で亡くなりました。トイレに行こうとして心臓発作を起こしたのが直接の死因です。オムツを着けていたのですが、どんなにわけがわからなくなっても、トイレだけは自分で行きたかったようです。彼女の人間としての尊厳は自分の力ででトイレに行く事だったのでしょうか。
 私はそんな彼女を見ていて、魂が少しずつあの世に移動しているという感じを受けていました。だから亡くなったことがあまりにも自然でショックもなく涙も出なかったんです。いろいろな死があるのでしょうが、幸せな死だったのではないでしょうか。何を言いたいのかわかりませんが、死には突然訪れるケースや苦しんでそこへ至る場合の他、緩慢に死へと移動する場合もあるようです。
 enzian様。私のブログにコメントありがとうございました。本当に嬉しかったです。
 
Commented by runa at 2005-12-11 02:40 x
うひゃー。。゛(/><)/ ヒィ!
ヘビイな題材ですね。

「死」という選択肢を持つのは人間だけなのではないでしょうか。
動物の選択肢は「生きる」事のみ・・・

「死」への誘惑も人間だけのもの。

人間は知りたがり屋だから、自分を認知したくて、その代償に授かった影が「死」

いつもついてくる・・・




Commented by enzian at 2005-12-11 08:28
htoritoriさん

??どこのお姑さんの話でしょうか。
Commented by enzian at 2005-12-11 08:34
kozou_17さん

>「死」に関する考え方が、これだけ多様に発達したのは、人間にとって死の恐怖がそれだけ大きいことの証だと思います。

まったく同感です。

>何かの番組で学者さんが「人間は知能が発達して、先を予測することができるようになり、そして”死”を発見してしまった」と言っていました。この「死を発見した」という表現が、なんだかボクの胸の中のスキマにストンと落ちた感じがしました。きっと鳩は生存中に死を発見してはいなかったと思います。

その学者の言葉で言えば、ハトは死を発見していなかったのだ、とぼくも思います。
発見という言葉に触発されて少し考えてみたのですが、
ぼくは、「発明」、あるいはより正確には「考案」した、と言いたいかな。
見つけることができないものが死だと今は思っているからです。
だから、死のイメージを考案した、と。

>ボクはある人の言葉が好きです。こんな言葉でした。
「どんな人にも死は訪れる。何かの途上で突然訪れる。その時、何の途上であったのかが重要なのだ」

いい言葉ですね。
Commented by enzian at 2005-12-11 08:39
猿夫さん

>死の瞬間って想像も出来ないくらい苦しいのだろうけど、出来ることならば意識を保ったまま、死んでいく瞬間を感じていたいなぁ、と思っています。

あ~なんとなくわかる気がします。
最後の最後ですから、その最後のところで曖昧な感じは
イヤですからね‥‥
その瞬間に総括ができれば、いいかなぁ。

>心残りばかりだろうけれど、「まぁいいっか」って思えるといいかなぁ、と考えたりもします(^^ゞ

そうですね。
そう思えるように準備しておかなくっちゃ、とは思っているのですが、
なかなかなのです(^^;
Commented by enzian at 2005-12-11 08:50
ともきんさん

はじめまして、enzianです。
コメントありがとうございます。

>ところで死の瞬間って、やっぱりそんなに苦しいんですかね?

いろいろだと思いますよ。
臨死体験者の話でも、辛い苦しみも、
かなりギリギリのところでは快感になった、というのが多いですし。
過度の苦痛に対して快感物質が分泌されるのでしょうね。

>茶化すつもりは毛頭無いんですが、たとえば涙を流したり、くしゃみをしたり、おしっこしたり、『身体から何かを吐き出す』という行為は全部快感を伴うと思いません?
勝手な想像にすぎないんですが、魂が身体から抜け出る瞬間は、ものすごい快感を神様が用意してくれていると小生は考えたりしてます。
しょうもないコメントですんません。

いえ、排出のときにはたしかに快感をともなうようですね。
問題は、死が、魂が身体を抜け出すことかどうか、でしょうね。
Commented by enzian at 2005-12-11 08:53
rei_ayakawaさん

>死が常に身近にあることを意識することが、有意義な人生を送るコツなのかもしれません。
ひょっとしたら、明日自分は死んでいるかもしれない。
可能性はゼロではない。
だから、いつそうなってもいいような生き方をしたいものです。
悔いのないように、悔いのないように。

たまに体調を壊したりすると、
あ~もう死ぬのかな~だったら、もっとちゃんとやっておいたらよかった‥‥
なんていつも後悔しています^^
Commented by enzian at 2005-12-11 08:58
毒きのこさん

>ハトはそもそも生きていたんでしょうか。朽ちるハトを哀しむ、仲間のハトはいたんでしょうか。ここならば・・・楽になれるさ、じきに・・・ってわざと線路付近を選んでとまっていたのでしょうか。・・・・・・わたしも、なんだかぼんやりしてしまいました。はとの気持ちはわからないけれど。(@@)

そもそも生きているということ自体がわからなくなってきますね。
悲しむハトはいなかったのでしょうね、たぶん。
楽になれるさ、じきに‥‥ってことは考えていたのでしょうか。

>歳末謝恩”尊厳”セールでございますっ!尊厳ある昼寝・尊厳あるくしゃみ・尊厳あるチラ見・尊厳ある空腹・尊厳ある凹み・尊厳あるウケ狙い・尊厳ある・・・・・あ゛ーこれじゃ売れ残ったクリスマスケーキになるかもねっ☆

「尊厳」という言葉が、軽々しく使われ過ぎの
きらいがありますね。
Commented by enzian at 2005-12-11 09:04
響さん、どういたしまして。

>死について 
 先日亡くなった私の母は、もともと身体が弱く晩年は認知症が進行して5分前の事も忘れるような状態でした。‥‥彼女の人間としての尊厳は自分の力ででトイレに行く事だったのでしょうか。
 
とても考えさせられるお話でした。
特に、最後の一文が、です。
ありがとうです。

>私はそんな彼女を見ていて、魂が少しずつあの世に移動しているという感じを受けていました。だから亡くなったことがあまりにも自然でショックもなく涙も出なかったんです。いろいろな死があるのでしょうが、幸せな死だったのではないでしょうか。何を言いたいのかわかりませんが、死には突然訪れるケースや苦しんでそこへ至る場合の他、緩慢に死へと移動する場合もあるようです。

いろいろな場合がありますね。
お母さんは、ゆっくりと死を迎える準備ができたのでしょうね。
Commented by enzian at 2005-12-11 09:09
runaさん

朝からへビィです、゛(/><)/ ヒィ!

>「死」という選択肢を持つのは人間だけなのではないでしょうか。
動物の選択肢は「生きる」事のみ・・・

なるほど。
動物には選択肢がない、
と言ってもよいのでしょうか。

>「死」への誘惑も人間だけのもの。

人間は知りたがり屋だから、自分を認知したくて、その代償に授かった影が「死」

いつもついてくる・・・


うんうん。
自分を知ることには光の部分と影の部分があるのでしょうね。
そういう意味で、いつもついてくる。
Commented by 006 at 2005-12-11 18:26 x
もし、ハトが、生き物が、「死」を知らないのだとしたら、生き物はいったい何を恐れているんでしょう。
近付くと、なぜ逃げていくんでしょう。
Commented by enzian at 2005-12-11 20:37
006さん

その問いは、006さんだけでなく、
ほかの方の問いでもあるのだと思います。

【R】
例えば、包丁を持った男が追いかけてきた場合、
006さんは逃げますか?
たぶん、逃げますね?

では、006さんは、ご自身(自分)が死んだ状態をご存知ですか?
自分の葬式を見ているような場面とか、
自分の死体を見ているような場面のイメージではありません。
なぜなら、その場合、葬式を見ている「自分」とか、
自分の死体を見ている「自分」が前提されているからです。
そういう「自分」が一切ない状態をご存知ですか?
もしその答えが「知らない」であるなら、
006さんという生き物は、
必ずしも死を知らなくても、なにかを恐れて逃げてゆくのだ、
ということにはならないでしょうか?
Commented by yasaiseikatsu10 at 2005-12-11 22:18
人って、「死」を定義して「人間はいずれ死ぬ」って言いはするけど、
語ることができる限りその「死」の経験はできないから、「死」が何であったか語り継がれることはない。
「死ぬこと」について語ることはできても「死」そのものって予想することしかできないんですよね。
そういう意味では、人間もハトも大差ないような気がするのです。。
なんだかありきたりでごめんなさい。

どうして人間って「尊厳」を持ちたがるんでしょうね。
アイデンテティじゃ足りないのかなぁ。
Commented by enzian at 2005-12-11 23:13
yasaiseikatsu10さん

>人って、「死」を定義して「人間はいずれ死ぬ」って言いはするけど、
語ることができる限りその「死」の経験はできないから、「死」が何であったか語り継がれることはない。
「死ぬこと」について語ることはできても「死」そのものって予想することしかできないんですよね。

あい、そうです。

>そういう意味では、人間もハトも大差ないような気がするのです。。
なんだかありきたりでごめんなさい。

いえ、ぼくの考えていたことでもあります。
ありがとう。

>どうして人間って「尊厳」を持ちたがるんでしょうね。
アイデンテティじゃ足りないのかなぁ。

アイデンティティってひとりじゃ確保できない、
そういう意味でぐらぐらしたものでしょ。
だから、もっと違うタイプの保証を欲しがるんじゃないでしょうか。
Commented at 2005-12-11 23:58 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2005-12-12 00:29
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by unnyo8739 at 2005-12-12 11:42
生きる事そのものが、無意識的な死の自覚ではないかと考えております。
生と死は同一線上に存在して、
常に死は到着点であり、逃れられない事柄であると。

でも、生物学的に言えば(ほんとに生物学的かは微妙ですが)、
順応する能力、多様性を得る為には死が不可欠だったという、
味も素っ気もない言葉で終わらされるのかもしれませんね。
Commented by mao_ring at 2005-12-12 12:26
こんにちは。

死を意識すると、同時に生を考えます。
いずれ死を迎えることはわかっているけれど、それがいつなのかわからないし、敢えて考えない(意識しない)。だって、今、生きているんですから。
でも、死が間近に迫ってくる(身内に死が訪れる)と、やっと生と死について真剣に自分の身に置き換えて考えるんだなという気がします。
ハトは、やがて近いうちに自分に訪れる死をちゃんと受け入れていて、群れから離れたか置いていかれたかはわからないけど、静かに土に還っていくのだと思いました。
目に見えるものだけでは判断してはいけないのかもしれないなぁと思ったり・・・。
難しすぎますね。混乱します(苦笑)
Commented at 2005-12-12 17:16
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2005-12-12 17:17
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2005-12-12 17:23
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by enzian at 2005-12-12 21:16
鍵コメさま

>人は死ぬ事や怪我をする事を知っているから逃げるのだと思います。

ケガをしたときの痛みは知っているでしょう。
自分が痛い目をしたことがあるのですから。
それが一つの理由となって、人も人以外の動物も逃げます。

ですが、それと同様に、死を体験したことはあるでしょうか?
そこが、死ぬこととケガをすることを同列に「知っている」
とは言いにくいところだと思います。

そういう意味で、人以外の生き物だけでなくて、
人もまた死ぬということ自体の認識はないのではないでしょうか?
それは、鍵コメさんも、人は「死」自体を解らない、
とおっしゃっているので、同意してもらえるように思います。
Commented by enzian at 2005-12-12 21:21
mao_ringさん、こんばんは。

>いずれ死を迎えることはわかっているけれど、それがいつなのかわからないし、敢えて考えない(意識しない)。だって、今、生きているんですから。
でも、死が間近に迫ってくる(身内に死が訪れる)と、やっと生と死について真剣に自分の身に置き換えて考えるんだなという気がします。

そうですね。
ふだんはなかなか意識できないのですが、
親しい人の死が、それを身近なものとしてくれるのですよね。

>ハトは、やがて近いうちに自分に訪れる死をちゃんと受け入れていて、群れから離れたか置いていかれたかはわからないけど、静かに土に還っていくのだと思いました。
目に見えるものだけでは判断してはいけないのかもしれないなぁと思ったり・・・。
難しすぎますね。混乱します(苦笑)

動物は自分の死期を悟って、死期が迫ってくると
飼い主から離れようとする場合がありますね。
ちょっとロマンチックなことを言えば、
昔は、動物としての人間にもそのような能力があったのかもしれません。。。
Commented by enzian at 2005-12-12 21:24
鍵コメ2さま

はじめまして。
「知る」ことと「感じる」ことは違います。
ただし、一般的に言って、わたしたちが「感じる」という場合、
それは「感じることを意識している」ことを意味します。
意識には「自分」がついてまわりますから、
感じることにも知ることにも、自分が必要になると思います。
Commented by enzian at 2005-12-12 21:36
unnyo8739さん

>生きる事そのものが、無意識的な死の自覚ではないかと考えております。
生と死は同一線上に存在して、
常に死は到着点であり、逃れられない事柄であると。

生きていることそのものが、なんらかのかたちでの死の自覚であるという
ことには同意します。ただ、はっきり自分の考えを言うなら、
「死のイメージの自覚」と言いたいと思います。

そういう意味で、死は生と同一線上にはなく、
生という線がそこへと伸びていって、点線になり、
やがてそれが消滅した点だと思います。

>でも、生物学的に言えば(ほんとに生物学的かは微妙ですが)、
順応する能力、多様性を得る為には死が不可欠だったという、
味も素っ気もない言葉で終わらされるのかもしれませんね。

生物学的にはそういうことになりますね。
生物学的な死の定義では、個体の死はあくまで種全体のための死であって、
「この私の死」の意味を問うことはしないのでしょうね。
Commented by enzian at 2005-12-12 21:47
鍵コメ3、4、5さま

何度も何度も読み返しました。
力作のコメント、ありがとうです。
ちゃんとお返しできませんが。

最初のイヌの話、興味深かったです。

次の、死への「恐怖」「恐れ」については、
一口に恐怖や恐れと言っても、
それはさまざまなものの複合なのですね。
それは、鍵コメさんのような体験をしてみないと、
わからないのかもしれません。

症状が快方に向かうという意識がなければ、
とても耐えられなかったというのは、
そうなのでしょうね。
不可逆的だと知ったときの失望、
想像するだけで絶望します。。。

死のイメージが宗教の問題となるのは、
やはりそういうことなのでしょうね。。。
Commented by 006 at 2005-12-12 22:07 x
こんばんは!

>「自分」が前提されているからです。

そうなんですよね。「自分とは何か?」っていう大きな哲学になってきますね。

もし自分の中に、意識(知る)と、無意識とがあるとするなら、(「あるとは何か?」については今は置いといて)死後、つまり意識(知る)が一切無い状態になっても、無意識はあり続けるような気がするんです。無意識って、身体の細胞のその前の前の前の前の何か最初のモノから生じるような気がするからです。
そんで、その無意識という自分が死を(経験とは無関係に)「知って」いて、恐れを生み出すような気がするんです。
ただ、人間は意識がある(強い?)分、無意識に鈍感になっているような気もしますが。
そう考えると、「自分」と「死」はとても似てるなぁと思ったり。

・・・全部「もし~」が前提の話なので曖昧だ-"-
「ような気がする」の連発すんませ~ん!
コソコソ|_-))))
Commented by enzian at 2005-12-12 22:47
006さん

_・)ソォ-ッ

すごく考えましたね。
では、ディープな世界へ行きましょうか(^^)

ぼくは意識というのをかなり限定した、高次の意味、
ほとんど「自己意識」というくらいの意味で使っています。
しかし、じつは意識という言葉には、
かなりいろいろな意味のとり方があって(無機物が意識をもつ、とする考えもある)、
そういう広い、低次の意味で意識をとるなら、
006さんの考えるような、
細胞レベル(あるいはそれ以前のレベル)での
意識があるという考え方もいけるかもしれません。

(ちなみに、「最初のモノ」という006さんの考えは、
ライプニッツっていう哲学者の「モナド」という考え方に似ています)
無意識が死を知っている‥‥ということまでは、
ぼくはなんとも言うことができませんが(^^;

>ただ、人間は意識がある(強い?)分、
無意識に鈍感になっているような気もしますが。

そうかもしれませんね。
Commented at 2005-12-12 23:07 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by 座敷童 at 2005-12-13 00:24 x
私は“逆”だったらと考えます。
(単純な意味での「意識」として)
本当は意識は残っていて、肉体が朽ちていく、としたらと考えます。
ハトは毎日自分の横っちょをおじさんが気にしながら通っていくことを知りません。
ハトの意識はそこに留まっています。
自分の羽は抜け落ちて、体はひからびて行きます。
でもハトを「見るものたち」は皆、ハトが死んでいると肯定するので、ハトは死んでいます。
・・・って考え方なのです。

ハトが朽ちて行く>
いや、洒落にならないです。
私の、ご、豪邸のベランダはハトが迷い込むんですから。
Commented by 006 at 2005-12-13 01:11 x
調べましたヨ。

>では、ディープな世界へ行きましょうか(^^)

それでもだいぶ簡単に書いていただきましたよ~。
個⇔意識(自覚的であるないに関わらず)⇔個 → 「表象」ということですね。ムズッ!

デカルトは動物は機械だと見なしたのに対して、ライプニッツは人間以外の生物にも意識の存在を認めたってところに親近感を抱きました。これは、僕の最初のコメントに関係してますね。
「微小表象」≒「無意識」というのがありましたが、(=「低次の意識」ですね)動物が地震などの自然災害を予知できるのは、彼等のモナドとしての有り方によるのでしょうね。
「恐れ」は何かの自覚で生まれるとも限らないのかもしれません。
そういう意味で哲学ってソコから遠ざかるもののような気がします。
でも、人間は社会性動物だから、低次の意識に自覚的になろうとする更に低次の意識が働いているのかもしれませんね。死の意識には裏があった!みたいな。

>すごく考えましたね。

だってenzian先生が鋭いツッコミ入れんねんもん!

・・・あ~ムツカシ!オヤスミナサイ!
って・・・寝たら全部忘れてしまいそー! ←低次の記憶力
Commented by tone-color at 2005-12-13 21:43
死についていろいろ考えたのですが、わけがわからなくなりました。難しいことはわからないのですが、私が思うことは予期しない死は確かにあって、それは残された人たちにとってもその予期できないで死んでしまった人にとってもここより向こう側に行く時間のほうが長いのではないのかと思います。それは時間の長さというよりも思いや感情そして感覚的な重さという点においても。(ジョンレノンのミュージックビデオを見ながら考えたのでこのような感じのコメントになってしまいました。。。)
Commented at 2005-12-13 23:00 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by enzian at 2005-12-13 23:50
鍵コメ6さま

人間を含めて、動物には他者を恐れるという本能があります。
そういう意味では、たとえ相手が凶器を持っていなくても、
恐怖心を抱くことはあると思います。
それも逃げる理由のひとつになるのでしょう。
Commented by enzian at 2005-12-14 00:07
006さん

すごいですね。どうやって調べたんですか?
ライプニッツのモナド論は難物なのですが、
正確に理解しておられて、びっくりしました。

>デカルトは動物は機械だと見なしたのに対して、ライプニッツは人間以外の生物にも意識の存在を認めたってところに親近感を抱きました。これは、僕の最初のコメントに関係してますね。

そうですね。
動物以外、植物にも、石ころや金属といった無機物にも意識を認めます。

>「微小表象」≒「無意識」というのがありましたが、(=「低次の意識」ですね)

微小表象は無意識の一種です。

>でも、人間は社会性動物だから、低次の意識に自覚的になろうとする更に低次の意識が働いているのかもしれませんね。死の意識には裏があった!みたいな。

そうかもしれません。
では、おやすみなさい(^^)
Commented by enzian at 2005-12-14 00:10
座敷童さま

その考え方はちょっと違った角度からの見方で
独創的だと思います。
だけど、それだけなら、あやしい霊媒師でも言うことであって、
どうやって、その考え方が正しい、
と自分以外の人を説得しますか?(^^)

自分にはそう見えているんだ!って言っても、
人は、なかなか「うん」とは言ってくれないですよ。

>ハトが朽ちて行く>
いや、洒落にならないです。
私の、ご、豪邸のベランダはハトが迷い込むんですから。

ベランダにはたくさんハトの意識があるの?
Commented by enzian at 2005-12-14 00:15
tone-colorさん

tone-colorさんのおっしゃりたいのは、
予期できない死に方で短い生涯を閉じた人は、
かえって、残された者の記憶にとどまり続ける、ということでしょうか。
生涯が短ければ短いほど、かえってのこされた者にとっては
強烈な印象を与え、その印象のなかに長く逝き続けるのだ、
ということでしょうか?

もしそうであれば、そうだなぁと思います。
違うなら、「ちがう!」って言ってください(^^)
Commented by enzian at 2005-12-14 00:26
鍵コメ7さま

それはとても難しいご質問で、簡単には答えることができないのです。
なぜ難しいかと言いますと、「心」にしても、「意識」にしても、「人格」にしても、
極めて多義的で、どのような立場で考えるかによって、
何通りもの答えが必要になるからです。

無意識はやはり意識の一種ですから、
無(何も無い、の意味)とは区別すべきものだと思います。
ただし、宗教体験を指す専門用語として使われる
「無」(すべての存在を包括するものとしての)とのつながりはあると思います。

この辺りの事情については、
興味がおありなようなら、
鈴木大拙『禅』(ちくま文庫)をお読みいただければ、と思います。
Commented by tone-color at 2005-12-14 20:58
うーん。そうでもある。
例えば簡単に言えば、ハトが死んで朽ちていく時、それが土にかえりそしてそこへ豊かな土地ができるのに時間がかかりますよね。そう言った意味での時間。つまり死を迎えてからにもそこに時間があるということで。。。
そして心の中に残るというのは確かにenzian様の言う通りで、
死という現象の重さは時間の長さだけではなく、心の中にその事実が残る時に、「時」よりももっと別の、「時間」というものではどうしようもない「感覚的」な「感情的」な「重さ」を持つということではないでしょうか。むしろ残るというよりも、混乱や破壊に近いものもあるのではないかということ。
時間が壊れるような感じ。時間が止りながら現実では時間が過ぎていくような乖離していくような感覚。死とはもしかしたらそんな感じを受けます。
Commented by tone-color at 2005-12-14 20:59
つづきです。
つまり残るという感じですが、死の、その事実の後には、様々な感情が周りの人にも、そして死を迎えた人にも、語りつくせないような時間というものがあると、思うのです。
つまり本当に乗り越えて進めるまでには相当の時間がかかるのではないかと思われるのです。
残された人の感情でもあるのですが、死を迎えた人を知っている人にとっては、死を迎えた本人がどこかで幸せでいるように思おうとする。そこにも時間が必要であるということ。
死の理由のよっては多少の期間の長い短いはあると思いますが。
(わかりにくい説明ですが、わからないですかね…^^;)
Commented by enzian at 2005-12-14 22:18
tone-colorさん

難解ですよ^^

ちなみに、ぼくの前のレスの「長く逝き続けるのだ」は「長く生き続けるのだ」の
誤字でした。

死というのは、死んだハトが朽ちて、土に還って、そこに草木が生える
までにはそれなりの時間がかかるように、のこされた人にとっては、
いったん心についてしまった傷が癒えてなくなって、
そこになにか新しい心が芽生えてるまでには時間がかかるのだ、
ってことでしょうか?

言い換えれば、死を消化(昇華)するには時間がかかる、
ってことでしょうかね。
Commented by 006 at 2005-12-15 00:44 x
もちょっと考えました。

人間は知ることで恐れが生じると思います。「包丁持った男が追いかけてくる」というのも、これらの組み合わせで何が起きるのかを知っているから、恐れ、に繋がる。

反対に、知らないものや慣れてしまったものには、恐れを感じなかったりする。
遺伝子だって組み替えてしまうし、
時速60kmで車を運転していても、本当は衝突したら恐ろしいことになるのを知っているにも関わらず、平気で携帯を触ったりする。

これは高次の意識なんですよね。
そして同じように、死を「知った」ことで、死を恐れたり、興味を持ったりしてしまうような気がします。
でも死は「知る自分」がなくなることであり、知ることとの距離は縮まらない。
更に、低次のモナドにおいては、(身体においても意識においても)「死は無い」と言えるのかなぁと考えましたが、どでしょ?
ところで、なんで意識(特に低次の)はあるんでしょうね。何か、大きな存在を感じずにはいられません。
Commented by tone-color at 2005-12-15 19:54
本当だ。難解。。
すごく観念的ですよね、私の意見。
つまり「しょうか」するための時間とは、「死」を何らかの「破壊」とみるとすべてがもとに戻るのに、または進む為には時間が必要という意味かな。。。
たぶんenzianさんの言うことと同じだと思います。
難解なのを読んでくださってありがとうございます。
いろいろ難しく考えて、疲れちゃいました。。。
でもここに少しでも形にできて嬉しくも思います。
そういった機会を与えてくれてありがとうございます。
Commented by enzian at 2005-12-15 22:40
tone-colorさん

一気呵成に紡ぎ出した自分の考えを、
あとでちょっと距離を置いて見つめるのもよいことですね。

でも、考えすぎて疲れないようにしてください^^
では、また~
Commented by enzian at 2005-12-15 22:44
006さん

>人間は知ることで恐れが生じると思います。「包丁持った男が追いかけてくる」というのも、これらの組み合わせで何が起きるのかを知っているから、恐れ、に繋がる。

そうですね。
それはありますね。

>反対に、知らないものや慣れてしまったものには、恐れを感じなかったりする。
遺伝子だって組み替えてしまうし、
時速60kmで車を運転していても、本当は衝突したら恐ろしいことになるのを知っているにも関わらず、平気で携帯を触ったりする。

それもありますね。
動物には他者を恐れるという本能があると言いましたが、
他者であったものが見慣れたものとなったとき、
それは恐れる必要のないものとなるのでしょうか。
Commented by enzian at 2005-12-15 22:52
006さん、続きです。

>これは高次の意識なんですよね。
そして同じように、死を「知った」ことで、死を恐れたり、興味を持ったりしてしまうような気がします。

なるほど、それはあるでしょうね。

>でも死は「知る自分」がなくなることであり、知ることとの距離は縮まらない。

そうですね。
距離が縮まらないものだから、
求めてしまう人もいるのかもしれません。

>更に、低次のモナドにおいては、(身体においても意識においても)「死は無い」と言えるのかなぁと考えましたが、どでしょ?

う~ん、そうかもしれない。
むずかしいので、逃走!(^^)

>ところで、なんで意識(特に低次の)はあるんでしょうね。何か、大きな存在を感じずにはいられません

困った問いですね^^
キリスト教の影響を受けた思想家のなかには、
「神の栄光を称えるため」と考えた人もいるようですよ。
もちろん、ぼくはそのような考え方はとりませんが(^^)

こんな記事、だれもコメントしてくれないかな‥‥って思ってました。
ありがとう。
Commented by 006 at 2005-12-16 20:45 x
>むずかしいので、逃走!
>「神の栄光を称えるため」と考えた人もいるようですよ。
 もちろん、ぼくはそのような考え方はとりませんが(^^)

( ̄ー ̄)ニヤニヤ

まぁ・・・

・・・( ̄ー ̄)ニヤニヤ
Commented by enzian at 2005-12-16 20:59
006さん

( ̄ー ̄)ニヤニヤ
Commented by 歩く葦 at 2006-10-24 10:06 x
 人間が死を恐れる理由。それは、いずれ必ず我が身に降りかかるであろう事を認識しているにもかかわらず、それがいったい、何であるかに関しては、全く知りようが無いからではないでしょうか。つまり、不安なわけですね。
 でも、死を恐れない人もいます。
 つまり、我々は、死に脅かされているのではなく、無知を恐れる自分自身に脅かされているのですね。
Commented by enzian at 2006-10-24 23:16
歩く葦さん

えぇ、あなたがとてもよく考えているその通りだと思います。
自分を抹殺しようと迫ってくる殺人鬼は恐怖の対象ですが、
死はむしろ不安の対象なのでしょう。
Commented by coeurdefleur at 2006-10-26 02:33
死んだらどうなるのかどこからも学べない。
本当のところは、どこにも書いてないし、誰も教えてはくれない。
分からない(予測がつかない)というのはとても不安なことなのでしょうね。

もっとも、
分からないから出来ることというのもありますが…
Commented by enzian at 2006-10-27 23:38
柊さん

>もっとも、
分からないから出来ることというのもありますが…

そうですね。
例えば人の心なんかがわかったら、社会が成立しなくなってしまうでしょうからね‥‥

>死んだらどうなるのかどこからも学べない。
本当のところは、どこにも書いてないし、誰も教えてはくれない。
分からない(予測がつかない)というのはとても不安なことなのでしょうね。

不安なことでしょうね。
死は、学んだり、教えたりすることのそもそもできないもののようです。
Commented by 忘却者 at 2006-11-02 12:39 x
死は生の一部。生は死の一部。
死の中に生は存在せず、生の中に死は存在しない。
Commented by 歩く葦 at 2006-11-02 12:42 x
「・・・生の中に死は存在しない。」
なるほどですね。
Commented by enzian at 2006-11-04 08:21
忘却者さん、歩く葦さん

>死の中に生は存在せず、生の中に死は存在しない。

そうですね、同感。

>死は生の一部。生は死の一部。

一部である、という言い方がどういう意味なのか、
それが重要ですね。
Commented at 2006-12-12 18:43
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2006-12-12 18:43
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2006-12-12 18:53
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by enzian at 2006-12-12 23:59
鍵コメさま

ぼくは人の文章の癖を覚えてしまいますから、
HNを変えても隠すことはできないですよ。
(でなきゃ、学生の盗作を見抜けないでしょ? ^^)

コメントありがとう。

このコメントの返事については、
簡単には返せないので、
週末までお待ちくださいな。
(*^^)
Commented by 忘却者 at 2007-05-08 15:02 x
尊厳とういう程のことでもありませんしね。
Commented by enzian at 2007-05-12 08:48
忘却者さん

もし知っていたら、尊厳だと思うよ。ぼくはね。
Commented by 忘却者 at 2007-05-14 19:39 x
「私はいつか死ぬ。」
このことは、おそらく誰もが知っていることでしょう。
enzianさんのおっしゃる「知っている」という感覚が、真に直面することによって得られる知覚をさすならば、それは、死ぬまで分からないことですね。

つまりは、死者への尊厳ということでしょうか?

死への想像、何度か試みてはいますが、はじかれてしまい、その先には行くことはできませんね。
Commented by enzian at 2007-05-19 07:52
忘却者さん

>enzianさんのおっしゃる「知っている」という感覚が、真に直面することによって得られる知覚をさすならば、それは、死ぬまで分からないことですね。

そうです。
わかる、という概念の枠組みには入らないことです。
そのような意味ととっているのです。

だからこそ、そのような不可能なことがもし可能なら、
人間事ではないものとして、尊厳に値する、
とややシニカルな言い方をしているのです。
Commented by 忘却者 at 2007-05-22 13:52 x
よくわかりました。
有り難う御座いました。

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