批判精神を忘れないために~やれやれ来週はもう少しやさしくしよう

「○○通信」51号の「我が授業風景」というコーナーに、哲学科演習Ⅲ-2の授業風景の紹介として掲載されたものです。この年の哲学科演習Ⅲ-2は初めて担当したゼミでもあり、ゼミとは何か今ひとつわかっていない私のカン違いぶりをありありと伝える文章になっています。その後、すっかり改心し(?)、少しはましなゼミにしたつもりなのですが‥‥

「先生、この単語、辞書にのってません」
「先生、この文章、訳せません」

月曜日の個人研究室。水曜日の本番を前に、今週のゼミ担当者三人が次々と質問に訪れます。テキストはカントの『純粋理性批判』。18世紀のドイツ語、しかも相当の悪文とあって、ドイツ語の基礎をかじったぐらいではなかなか歯の立つ代物ではありません。

なかには、読みにくさをよほど腹にすえかねたとみえて、テキストを非難する学生もいます。
「先生、何でこんなテキストにしたんですか? 演習Ⅱのテキストおもしろかったのに」

学生はカントの何がよいのかわからないらしく不満顔です。それもそのはずです。700頁をこえる本文のうち、これまで授業で読めたのはほんの数頁に過ぎないのですから。これから一年かけても、学生諸君がどこまでカントの議論を読み進め、理解できるのか――テキストを選んだこちらとしても格段の自信はありません。

しかしそんなことは端からわかってもいたこと。それでもこの本を選んだのは、自分の指導教授がゼミで使ったお墨つきであることに加え、私自身も苦労して読むだけの価値があると考えたからにほかなりません。細かな理解は無理にしても、何かしら伝わるものがあると思ったからです。もとより、何が伝わり、何を読み取るかは学生それぞれの資質が決めることであり、自由です。かつての私は、ここから疑いえるものへの敢然さと、疑いえないものへの自己抑制の精神を学んだのでした。両者あいまって批判の精神であると理解し、前者には共感し、後者には惹かれたのです。今読み返してみても、その思いは変わりません。

水曜日の三限。月曜日の三人に一人の逃亡者もなく、どうやらレジュメも間に合ったようです。まずは翻訳から。〈プレゼミ〉の効果もあり、訳文ができあがります。
「〇〇君、今の△△さんの訳、問題ない?」
「じゃぁ△△さん。続けて、今訳してくれた箇所の説明してくれる?」
「今の△△さんの説明、何か疑問点はない? ないなら、次は僕からきくけど‥‥」

ここであの手この手の〈つっこみ〉が私から飛びます。その多くはプレゼミでは隠蔽されていたものです。もちろん、発表者としても演習Ⅱ以来の付き合いである私の〈芸風〉を知っているわけですから、それなりの対策を練ってきてはいるのでしょう。それでも、ものを斜めから見て相手の揚げ足を取ることにかけては、こちらに一日の長があります。
「この部分のレジュメの説明は、さっき△△さんが言ったことと矛盾しない?」
「この日本語は何?」

文字にしたが最後とばかり、質の悪い揚げ足取りは学生のレジュメの細かな表現に集中します。学生は手元のレジュメを見つめ、じっと嵐が去るのを待っています。それっ追い討ちを!、と続けてレジュメを検査しようとして、はたっと先日指導教授の個人研究室を整理したときのことを思い出しました。

指導教授は十年以上も前のゼミのレポートやらレジュメやらを保管して(仕舞い忘れて)いたのです。そのなかにあった自分のレジュメを見たときは顔から火が出ました。B4用紙にびっしり書き込まれた力作ぞろいのレジュメのなかに、B5用紙にちょろっとだけ書かかれた粗末なものが一枚。それが若き私のレジュメでした――はたして今の自分だったら何と言うだろう?それでも、そのとき叱られた記憶はないなぁ――。恐ろしくなって、すぐ焼却箱に投げ入れたのでした。

やれやれ‥‥。それまでの容赦ない揚げ足取りも突然穏やかになります。来週はもう少しやさしくしよう。

by enzian | 2004-10-24 09:29 | ※どこぞに載せたもの | Trackback | Comments(0)

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