入相の鐘

自分の存在感が希薄になることは離人感と言うが、遠い昔に自分と同じような人間がいたことをリアルに感じられないことはなんと言うのだろうか。それは、当たり前だろうか。古刹で何百年か前に描かれた僧の姿を見ながら考えていた。

以前、長く住んでいたところで縄文時代の住居跡が発掘されたことがあったが、そのときも、ひょっとするとどこかで自分と血の繋がった人のものかもしれないと思いつつ、そんな大昔に自分と同じ人間がいたことをリアルには感じとることはできず、ただぼんやりとして、気が遠くなるような感覚だけが残った。

夕暮れに鑑真の御廟に立った。瓊花(けいか)が一本、墓石に枝垂れかかるようにして咲いている。鑑真が遷化して1200年後に、国外持ち出しの禁を押して、故郷の揚州から贈られたものだという。また気が遠くなって立ちつくしていたら、ゴーンと入相の鐘が鳴った。



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by enzian | 2007-05-05 12:57 | ※山河追想 | Trackback(1) | Comments(13)

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Tracked from 枕中洞 at 2007-05-13 18:07
タイトル : はっきりぼんやり
この記事は、小さな哲学~雑想の世界 enzianさんの 「気が遠くなる」 へのTBです。 遠い昔にも、いや、自分が生まれる前にも人間が生きていたのだということを、知ったのはいつだっただろう。 墓地という場所を知った時かもしれない。物の形をかたどるところから漢字ができてきたと知ったときかもしれない。あるいは、偉人の伝記というものを読んだころかもしれない。いずれにしても、そこに人がいたということをくもりなく信じていた。自分という人間が今ここにいることと同じように。 それがいつからだろう、...... more
Commented by 毒きのこ at 2007-05-05 14:01 x
>遠い昔に自分と同じような人間がいたことをリアルに感じられない

いたんだけど
いない
あるのに

なんとももどかしいような
妙な気分になりますね

悠久のかくれんぼ

・・・かなぁ^^
Commented by 006 at 2007-05-05 14:43 x
描くことを追求している人には「何百年か前に描かれた僧の姿」から、
建てることを追求している人には「縄文時代の住居跡」から、
そこに向かっていた人を実感できるような気がします。

以前ゴッホの絵を見たときに、その荒々しい「描いた跡」から、そこに向かっていた人を何となく実感したのを覚えてます。「あぁ、描いてたんや~」って。
僕は描くことを追求してるわけじゃありませんが(-_-)

enzianさんにも他にそういう対象があるんじゃないでしょうか。
Commented by enzian at 2007-05-06 00:04
毒きのこさん

>なんとももどかしいような
妙な気分になりますね

もどかしいような妙な気分、そうですね。

>悠久のかくれんぼ

なるほど。^^
Commented by enzian at 2007-05-06 00:10
006さん

>描くことを追求している人には「何百年か前に描かれた僧の姿」から、
建てることを追求している人には「縄文時代の住居跡」から、
そこに向かっていた人を実感できるような気がします。

そういうのは、あると思います。
ぼく自身、前に書いたことがあるのですが、
仏像を観るのが好きなのは、そこから、
リアルな求道者のイメージを受け取りたいと思っているからのようです。

>enzianさんにも他にそういう対象があるんじゃないでしょうか。

たしかに、哲学の古典なんかを読んでいる場合は、
そうでないといけないですよね。

そうそう、記事とは関係ないけど。
薬師寺に28メートルだか30メートルだかの背の高いクヌギがあったよ。
あんな高いクヌギ、見たことない。
唐招提寺には、立派なサルスベリがあった。
やっぱり古刹には、いい木があるね。
Commented by gauche3 at 2007-05-13 01:41
僕は古刹で仏像や掛軸などを観るとき、そこに居た人やそれを描いた人などを強く思い描いてしまいます。
ときどきリアルに感じるのですが、それは人間がいたというリアルさとは違うような気がします。何とも形容し難いリアルな感覚なんですが・・

入相の鐘。
いいですよね。
ウチの近所にお寺があって、毎日夕方に鳴らしていると思うのですが・・休日家族と話をしているときやテレビを観ているとき、鐘の音に気付いたことはまず無く、何か考え事をしているときに決まって鐘の音に気付きます(^^ゞ
Commented by enzian at 2007-05-13 11:16
猿夫さん

>僕は古刹で仏像や掛軸などを観るとき、そこに居た人やそれを描いた人などを強く思い描いてしまいます。
ときどきリアルに感じるのですが、それは人間がいたというリアルさとは違うような気がします。何とも形容し難いリアルな感覚なんですが・・

その猿夫さんの、形容し難いリアルな感覚を教えて欲しいのです。^^
ぼくもそういうことを思い描こうとしはするのですが、
どうしてもリアルにならないのです。(^^ヾ

>ウチの近所にお寺があって、毎日夕方に鳴らしていると思うのですが・・休日家族と話をしているときやテレビを観ているとき、鐘の音に気付いたことはまず無く、何か考え事をしているときに決まって鐘の音に気付きます(^^ゞ

ピンポン!
ぼくもそう思います。
考えごとをするときにだけ聞こえるのですね。
どうしてでしょう。鐘の音って不思議です。
Commented by gauche3 at 2007-05-13 20:31
そうですね・・
感覚を言葉にした途端に、「違うなぁ・・」と思うときがあって、これもそれに類するもののような気がするんですが・・ちょっと頑張ってみます(笑)

かつて人間がいたという感覚とも、その人間の想念が残っているという感覚とも違っていて、「想念の残像」というか「想念の靄」のようなものが、皮膚の表面から中心に流れ込んで来るような感覚でしょうか。
そのときには個体はあまり感じず、集合体が流れ込んで来るような感覚を覚えます。同時に、自分という実体もなんだか所在無くあやふやに感じます。
矛盾しているのですが・・自分という実体があやふやに感じられるときに、とても深いリアルに包まれているような気がします。

う~ん・・読み返してみても・・なんだかあやふやですね(>_<)
Commented by enzian at 2007-05-13 21:29
猿夫さん

とても興味深く読ませてもらいました。

どういう風に興味深くかというと‥‥
悲しいかな猿夫さんのようなセンスがありませんので、
自分の実感としてわかるということではないのですが、
いくつかの分野で見覚えのある表現なのです。

>そのときには個体はあまり感じず、集合体が流れ込んで来るような感覚を覚えます。同時に、自分という実体もなんだか所在無くあやふやに感じます。矛盾しているのですが・・自分という実体があやふやに感じられるときに、とても深いリアルに包まれているような気がします。

例えば、古典的な美や芸術の考え方のなかでは、
芸術対象(美の対象)と一体感をえることが美である、
とする考え方があります。

また、禅思想などでは、
対象、というか世界全体との一体感を得ることが悟りである、という言われ方もします。
これは、無分別知とか、全人格的直観とも言われます。
Commented by enzian at 2007-05-13 21:32
猿夫さん、続き

こうした一体感は知的直観と言われるものの一種で、
本来の直観は対象との距離感を前提としますが、
知的直観では対象との距離がなくなって、
対象=自分、自分=対象となるわけですので、
ある意味で、自分の実体性があやふやになるとき、
全体との一体感というリアルさを感じるのだ、といわれます。

以前、美しいということに関する記事のときにもこのようなことを
言ったような気がしますが、猿夫さんの言ってらっしゃることは、
上のようなことと近いのではないか、という気がします。
Commented by gauche3 at 2007-05-15 00:05
enzianさん。

「知的直観」というのですか・・
こんな風に説明されると、リアルさを感じていく過程を自分の中でも再認識出来るように思います。
ありがとうございます^^

> 以前、美しいということに関する記事のときにも・・
あぁ・・確か「美しい」ということについて、enzianさんが高校生にお話をするという記事・・ですよね!
あのときはコメントを書きながら、岡ひろみ(高校生)に手ほどきする宗方仁コーチ(enzianさん)を想像してドキドキしていました(嘘です・・ネタがかなり・・古いな・・)。

でも、確かにそのときに書いた感覚と似ていると思います。
突き詰めていくと、おそらく同じなのかも知れません(^^ゞ
Commented by enzian at 2007-05-19 08:18
猿夫さん

えへへ(^^)
(おやじ同士が笑い合っている光景、
はた目からすると、きっとコワイですよね。^^)

>岡ひろみ(高校生)に手ほどきする宗方仁コーチ(enzianさん)を想像してドキドキしていました(嘘です・・ネタがかなり・・古いな・・)。

そういうぼく(宗方仁)をコートの片隅から見ながら、
加賀のお蘭が、ひそかにジェラシーを感じてて、
それをバネにしてサーブの練習にはげんだりするんでしょうね。。。
このネタがわかるのは、ここでは
猿夫さんとぼくだけでは‥‥(^^ヾ
Commented at 2007-05-27 12:32
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by enzian at 2007-05-27 14:20
鍵コメさん

コメント、ありがとうございます。

この続きは、そちらで。^^

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