2005年 12月 29日 ( 1 )

サワガニとモクズガニ

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郷里には井手川(いでがわ)という川が流れていました。川幅せいぜい数メートルほどの小さな川でしたが、夏でも水が枯れることはなかった。農業用水としても重宝されていたようです。

水のなかにはさまざまな生きものがいて、それらと戯れるのは、地区の子どもたちの楽しみのひとつでした。魚の種類は多くなく、フナ、カワムツ、タナゴ、ヨシノボリ、ドンコの五種類だけでした。

一番たくさんいたのはカワムツでした。一般にカワムツはオイカワ(ハエ)釣りの外道として嫌われるようですが、子どもたちにはよい遊び相手でした。かなり大きいのがいたように思います。一番の大物は、バケツに入った魚体が折れ曲がっていたことを覚えていますから、優に20センチを超えていたのでしょう。繁殖期のオスは婚姻色に染まって、それはそれは美しかった。網に入った美しい婚姻色を見てそれで十分に満足した少年たちは、そっとカワムツをもとの流れに戻してやるのでした。 

(2)
繁殖期のカワムツをもしのぐ美しさを誇っていたのがタナゴ(バラタナゴ)でした。「バラ」は婚姻色の美しさをバラの花にたとえた呼び名ですが、じっさいには、バラ色というよりも、青紫や緑や桃色を絶妙にまぜた、小さな宝石箱のような魚でした。

美しい魚は、謎を秘めた魚でもありました。井手川のたった一箇所でしか姿を見ることがなかったのです。集落にほど近い、墓地へと続く道に架かった橋の下の小さな淀み、「はかんか」と呼ばれた池から出た水が流れ込む場所でした。

「はかんか」という呼び名は、「墓の角にある池」がなまったものでした。あるとき、はかんかの護岸工事がはじまりました。重機が持ち込まれ、たくさんの人たちが働き、夜には酒盛りの声が聞こえることもありました。半年も続いた工事が終わって行けば、はかんかの周りにはおびただしい数のドブガイの貝殻が捨てられ、積み重なっていました。その量たるや、はかんかのドブガイすべてを食べつくしたのではないか、と思えるほどでした。貝殻の焼け跡から、工事の人たちが夜な夜なそれを焼いて食べていたらしいことは、察しがつきました。

工事の後、井手川で小さな宝石箱を見ることはなくなりました。タナゴがドブガイに託卵をする珍しい習性をもった魚であることを知ったのは、ずっと後になってからでした。

(3)
フナは清流よりも泥深い湖沼を好みますので、タナゴと同じように、大半は、はかんかの池から流れてきているようでした。ふだんはそれほど数は多くなかったように思いますが、とつじょとして井手川がフナで溢れかえることがありました。一年に一度、池の水を抜く池さらい(池干し)がはじまったときです。

たくさんの人がこの時期を楽しみにしていました。池の水が徐々に少なくなってくると、魚の逃げ場がなくなって、ジャコトリ(雑魚取り)ができるからです。すっかり水がなくなった池には、それまで水底だった泥地がひろがっており、ところどころにホテイアオイや、鋭い棘がついた実を茹でると栗のような味がするというヒシ(菱)が乗っかっていました。

水草もそこそこに、大人も子どもも泥だらけになって、逃げる魚を追いかけまわしました。網もなく、なんの造作もなしに魚が手づかみにできるのです。楽しかった。全身泥だらけになって、フナで一杯になったバケツを提げて意気揚々と家に戻りました。フナは祖母の大きな鍋で甘露煮になりました。

はかんかには噂がありました、骸骨があるという。教えてくれたのは二人の幼なじみでしたが、にわかには信じがたいことでした。犬でもなければ猫でもない、人間の骨なのです。好奇心が恐怖心をわずかに寄り切り、二人の案内を受けることにしました。数日前まで水底であったところに、それはありました。頭骨の上部のお皿の部分だけが、緑色に変色して横たわっていました。

甘露煮への食欲はうせました。自分ひとりでは抱え切れなくて、祖母に告げました。「はかんかにな、骨あってん」。甘露煮を見ながら、祖母はさも当たり前のように答えました。「はかんかはな、上にある墓から骨やらリン(燐)やらが流れてくるさかい、(魚は)美味いねんで」。墓地は土葬でしたから、雨などでリンが流れることあるかもしれないとは思いましたが、骨が流れ出すというのはどういうことなのか、よくわからないままでした。

謎は謎のままで、次の日も楽しいジャコトリに集中することにしました。その日は泥の池には入らず、池の水が流れ出る排水口の周囲で魚を取ることにしました。はじめてすぐに素足に当たる鋭いものがありました。取り上げれば、それは背骨でした。驚いて水に戻して、周りを見れば、あたり一面、骨だらけでした。排水口から出る強い水流で泥が洗い流され、池の堆積物が姿を現していたのです。

はかんかと墓地のあいだには竹薮がありました。墓地は明治以降の比較的新しい墓地(はかち)で、竹薮は江戸時代以前の人たちの墓地(はかち)であったこと、池の水が少しずつ竹薮を浸食して、そこから昔の人たちの骨が池に流れ込んでいることを知ったのも、しばらく後のことでした。

今、はかんかを見下ろす墓地には、あの日、甘露煮を作ってくれた祖母が眠っています。何百年かして、やがて祖母が生きていたことを知る人が誰もいなくなったころ、現在の墓地もまた、はかんかに侵食されて、祖母の骨も池に流れ込むのかもしれません。

(4)
命を育み、夏も枯れることのない井手川の水はいったいどこから流れてくるのだろうか。いつしか、井手川を遡り源流を突き詰めたいという押さえがたい思いが芽生えていました。井手川は、「神が鎮座する山」の意味をもつ甘南備山(かんなびやま)から流れ出ていました。その山は子どもが行くことを禁じられていた “聖域” でした。

あるとき、禁を破り、井手川の源流を求める “小さな冒険” に出ることを決意しました。タナゴがいる淀みを過ぎ、はかんかを通り過ぎて、道は遥かに続きます。心細くも、とぼとぼと歩き続ければ、そこは山間(やまあい)の地区にしてなお「山田」と呼ばれた山深い場所でした。いつしか井手川は魚の影も見えない小川となり、甘南備山の手前で、山の麓を取り巻くように東西に分かれていました。

東の流れはやがて小さな沼に続いていました。うっそうとした木々が覆いかぶさっています。浅く、水は透明でした。水面は鏡面のようで、木々のあいだから射し込んだ光を反射していました。美しいながらも、長くいてはならないと本能的に感じるような幽鬼漂う場所でもありました。早々に立ち去り、二度と行くことはありませんでした。

見つけたいのは、水がこんこんと湧き出る場所、そここそが井手川の源だと言える場所でした。西の流れはさらに山間へと続いていました。小川を伝い、萱原を、木々をかき分け、山に分け入ります。ポインターを連れた二人のハンターと出会いました。「坊(ぼう)、こんなところに来たら危ないぞ」。そんなことは、はなからわかっているのです。二人をそこそこにやり過ごし、山をよじ登ります。やがて、わずかな流れが崖を伝っている、滝と言うには程遠い場所にたどり着きました。山はとつじょとして急峻となり、根っこで岩を抱え込んだ木々がせり出しています。源まであとわずかに思えましたが、これ以上子どもが登るのが無理なことは明らかでした。夕暮れも迫っていました。

この、岩伝う、いかにもたよりない流れが求めていたものだったのか――はっきりとしたなにかを見つけられるはずだという思いは肩透かしにあったような気がしました。下流で遊び相手になってくれたカワムツもタナゴもフナもそこにはいません。寂しい思いが全身を刺しはじめ、甘南備山に登ってはならぬという大人たちの言葉が脳裏をよぎったとき、足元の石と石の隙間に動くものがありました。サワガニでした。石を裏返せば、小指の爪ほどの小さなサワガニたちが這い出してきました。下流では見たことのない生き物でした。うれしかった。

(5)
少年時代も終わりを告げるころ、井手川で、それまで見たこともないカニを見つけたことがあります。二つのハサミに藻(ないし毛)のようなものを生やした20センチほどの大きなカニでした。それがモクズガニと呼ばれるカニであることは図鑑からの知識で知っていましたが、なぜ井手川にいるのかわかりませんでした。モクズガニは海で孵化して川を遡り、成長するとまた川を下る(降海、あるいは降河口する)カニです。そのようなカニが、海から遠く離れた山里の小さな川にいる理由がわからなかった。戯れに誰かが放したのかとも思いました。

戯れではありませんでした。橋から井手川を見下ろせば、数匹のモクズガニが淀みの底をうごめき、死んだフナに集(たか)っていました。ながく井手川とともに暮らしながら、そのようなカニがおそらく毎年のように遡上していたことに気がつかなかったのです。

モクズガニは少年を不安にしました。甘南備山のサワガニには感じなかった感情でした。井手川を遡ろうとした少年にも、川を下ろうという気持ちはついぞ起きなかったのに、モクズガニははるばる海から自分でやってきた。小さな井手川は大きな木津川に流れ込み、木津川はさらに大きな淀川となってやがて海に注ぎます。遥かに遠く、どこまでも茫洋たる突き詰めようのない巨大ななにか。それが海のイメージでした。モクズガニは海を知っていましたが、山里に “陸封” されていた少年は海を知らなかったのでした。 (了)

by enzian | 2005-12-29 15:24 | ※山河追想 | Trackback | Comments(40)