カテゴリ:※通勤途中( 48 )

落とし物

b0037269_005241.jpg駅に電車が着いて、ホームに降りた。開いたドアに近いホームの上に財布が落ちていた。ぼくが見つけたのと同時に車掌が見つけ、彼が拾うに任せた。てっきり車掌は「どなたか財布を落とした方はおられませんか」というような声を出すのだろうと見ていたら、なにも言わず、財布を持ってすたこら駅舎の方へ行ってしまった。

すぐに誰のですかと聞けばよいのに冷たいひとだと思ったのだが、しばらくして、それは考えちがいだと気づいた。まったく関係ないひとが「自分のものです」と言って、それを鵜呑みにして渡してしまえば、もとの持ち主に迷惑がかかるからだ。「自分のものです」と言ったひとが勘違いしたのなら、そのひとにもあとあと迷惑(窃盗の嫌疑)がかかる。やさしさとか、責任を果たすといったことは、すべてを信じ込むこととは別のことなのだろう。

by enzian | 2011-03-26 23:46 | ※通勤途中 | Comments(0)

輪ゴム

電車のなかで隣に座っていたおばあさんが腕に輪ゴムを巻いていた。あぁこういうことをするひとがやはりいるのだと思った。いつも祖母が腕に輪ゴムを一本巻いていたからだ。その当時から輪ゴムを巻く理由はわからなかった。必要なときにいつでも使えるように巻いているのだろうと思っていた。若いひとには想像できないかもしれないが、輪ゴム一本が貴重だった時代があった。輪ゴムがきらきら輝いていたときがあったのだ(大げさか)。

だが、あるとき、祖母が腕のところに、ふつうの裁縫で使うような糸を巻いていたことがあった。「これなに?」と聞いたら、「まじない」と祖母は答えた。なんのまじないかは聞かなかった。――そうしてぼくは、腕の輪ゴムがいつでも使えるようにか、謎のまじないのためか、それともそれ以外の意味があるのか、わからなくなったのだ。いまでもその理由はわからないのだが、この謎を解きたいとは思わない。

by enzian | 2010-08-03 22:26 | ※通勤途中 | Comments(0)

ミミズの謎

自宅から最寄りのバス停までの道には、ときどきミミズが大量にはい出してきていて、ひからびたり、小さな蟻たちから攻撃を受けてのたうち回ったりしている。こういう風にミミズがはい出してくるのは雨が降って溺れることのないようになのだと聞いたこともあるが、不思議と、昨日のように雨などまったく降りそうないような日にも出てきている。奈良に地震があったものだから地震と関係するのかもしかして?なんてことも考えたりしたが、なんとも言えない。いまのところ、ミミズがはい出てくる日の法則性はわからないでいる。

こういうことはどこかのミミズ愛好家が理由を調べたりしているだろうから、ネットで調べれば瞬時に答えらしきことはわかるのだろうが、検索をかけようとは思わない。そんなことをしてしまったら、通勤時の楽しみのひとつがなくなってしまう。それに、調べなくても、あと10年も考えていたら、自分なりの答えも出るだろう。ヒマ人のぼくにとっては、そういうのをあれこれ考える方がきっと、楽しい。

by enzian | 2010-07-24 08:27 | ※通勤途中 | Comments(0)

電車から呼ぶ声

「○○(ぼくの名前)さん」。地下鉄のホームを歩いていたら、逆方向へ行く電車から呼ぶ声が聞こえた。同じ学科ではないが、ゆえあって何年かいっしょに仕事をさせてもらっているひとだった。そのひとが笑っていた。ぼくは声をかけてもらったことが嬉しくて、帰途はいつにもましてごきげんだった。なぜそんなに嬉しかったのだろうか。

たぶん、声をかけなくても気づかれないままであったろうに、声をかけなくてもなんの不都合もなかっただろうに、あえて声をかけてくれたことが嬉しかったのだろう。きっと誰も同意してくれないだろうけど、ぼくは友情がときとして親子の情や男女の情を超える喜びを与えると考えていて、それはこうした理由によるのだろうと思っている。血縁によって、新たな血縁を生じかねないような行為によって結びついた者同士にはなにがしかの “拘束力” が発生するだろうが、友情にはそれがないからだ。

by enzian | 2010-06-07 22:48 | ※通勤途中 | Comments(0)

へんてこりん

電車のなか、大学生らしい女性たちが大きな声で話している。「あの先生も変人」。2人の人物の変人度を比較しているらしい。「でも、○○先生より、哲学者の方がイヤだよ」。○○先生は彼女らの学科の先生のようだ。「だってあの哲学先生、人間関係学の最初の授業のときに、この教室、人間関係学だよね?って聞いたんだよ。わたしら、あなたを待ってるんだって。変なの」。彼女らはぼくの大学の学生らしい。この言葉を聞いて、驚くやら悲しいやら反省するやら、朝から複雑な気持ちになってしまった。

驚いたというのは、その程度のことを尋ねたぐらいで、変態やら変人と酷評されねばならないことに、だ。悲しいというのは、学生が教員の意図をまったくわかっていないことに、だ。大教室でおこなう最初の授業で、学生に授業を確かめるというのはぼくもよくするのだけど、それは文字通り確かめているというのではなくて、大教室の授業なんていうのはこちらが一方通行的にしゃべるだけのつまらないものだから、せめて1人でもコミュニケーションをとろうと、絶対に答えに窮しないような問いでもって話しかけているのだ。この意味で、上の学生は、教員がマイクを持つ前に、ほかならぬ自分が最初の講義対象として人間関係学の授業がはじまっていたことにまったく気づいていない。知らないというのは恐ろしいもので、ぼくの同僚の試みは見事に侮蔑のゴシップの対象となってしまっている。

反省したというのは、上のように学生だけを責めるのもおかしいということだ。そういう学生の性質を知らずに話しかけるこちらにも責があるのだ。ぼくはこの話を哲学科の学生に話したのだけど、その学生はすぐさま教員の意図を読み取った。そういうわけで、ちょっとひねった同僚の意図を読み取ろうとする学生がいるにしても、物事や言葉を直線的に受け取る学生もまたいるのだ。授業のことをいちばん知っているはずの教員が授業を受ける側の学生に教室を確かめるというのは、素直に考えればへんてこりんなことなのである。

by enzian | 2009-09-02 23:49 | ※通勤途中 | Trackback | Comments(0)

取り憑かれたように草むしりをする人

最寄りのバス停の標識は、地区の周回道路を挟んで東西、二箇所に立っている。二箇所に止まるバスはそれぞれ系統がちがうが、どちらもたいして変わらない所要時間で最寄りの駅に着くので、その日の気分で使いわけることにしている。東側のバス停のそばにはソメイヨシノがある。ソメイヨシノは季節折々の美しい顔を見せてくれるが、根もとの草むらにはヤブ蚊が多い。西側のバス停は日当たりがよく、夏は日射しが強すぎるぐらいだ。裏手の土地にはイガをたくさんつけた大きなクリの木が植わっている。

東側のバス停では、ソメイヨシノの根元の雑草と格闘している体格のよい女性とよく会う。ソメイヨシノの根元には手入れされることなくだらしなく伸びた芝生が生えている。芝生というのは意外にしっかり根を張る植物で、それなりの量まとめてひっこ抜くには大変な力が必要なのだ。その人は、ぼくがバス停に着くころにはいつもベンチに荷物を置いていて、しゃがみ込んで両手で芝生を抜こうとしている。その力の入り具合には尋常ならざるものがあり、腕と脚を地面と並行に伸ばして力いっぱい雑草を引っ張る頬(ほお)はぷるぷると小刻みに揺れ、紅潮している。ぼくは女性をひそかに「綱引き選手権」と呼んでいる。そうこうするうちにバスが来るが、女性はいっこうに乗る気配がない。ヤブ蚊に刺されないだろうかなどと窓の外を案じつつ、ぼくは駅に向かう。

東側だけだと思っていたら、先日、西側のバス停でも会った。女性は地べたに荷物を置いたまま、焼きつけるような日射しがじりじり照りつけるなか、四つんばいになって、舗道の敷石のあいだから伸びた小さな雑草を慎重に抜いていた。力一辺倒ではない女性の姿であった。それは、高層ビルから地面に降りた一瞬、地面に手足をつけたスパイダーマンの姿のようでもあった。バスが来ても、取り憑かれたように草をむしり続けている。日に焼けないだろうかなどと心配しつつ、エアコンのきいたバスでぼくは涼やかに駅に向かった。

by enzian | 2009-08-20 20:20 | ※通勤途中 | Trackback | Comments(38)

白い犬

バス停に立っていると、初老の男性に連れられた白い犬が前を横切っていく。鼻先が地面についてしまうのではないかとハラハラするほど犬の首はうなだれていて、いつ倒れるとも知れないような足どりでよたよた歩いている。男性は犬の前をゆっくりと一定のスピードで歩いていて、振り返って犬を見ることはない。いつもの朝の風景なのだが、はっとした。この街(山里)に住みはじめたころ、若い女性がワンワンと騒がしい白い犬に引きずられるように散歩しているのを毎日のように見たが、あの犬がこの犬なのであった。

犬の足取りは見る度におぼつかなくなっていく。ぼくはこれまで動物もまた老いるということを知らなかったかもしれないと気づいた。かつてたった一度だけ飼った犬は、うまくしつけることができなくて鳴き止まない犬となってしまい、知らないうちにどこかに引き取られていった。何度も飼った歴代の猫たちは、自由気ままに生きてぼくを楽しませてくれたが、どれもこれも、いつの間にかいなくなっていた。ぼくは最後まで責任をとったことがない。

by enzian | 2009-06-05 23:01 | ※通勤途中 | Trackback | Comments(0)

「ただいま!」

家路を急ぐぼくの前には中学生とおぼしき女の子が歩いていて、ぼくよりも一足先に家に着いた。玄関のドアを開けて彼女は叫ぶ。「ただいま!」。中からお母さんらしい声がする。「お帰りなさい」。ぼくはその声の横を通り過ぎる。

思い返せば、小さなころからほとんど「ただいま」を言ったことがない。はにかみながら小さな声で言ったことならあったかもしれない。ぼくは人前で大きな声を出すのが好きではない。恥ずかしくてしかたないのだ。今でも人前で話すのは苦手だ。祖母はにこりと笑いながら、なにも言わないぼくを出迎えてくれた。「お帰り」。

ただいまと言う人がいること、ただいまを聞いてくれる人がいること、帰る家があること。行ってきますと言う人がいること、行ってきますを聞いてくれる人がいること、出かける家があること――幸せなことなのだろうと思う。玄関に着いたら、小さな声でもいいから、「ただいま」を言うようにしよう、と思った。

by enzian | 2009-01-23 23:21 | ※通勤途中 | Trackback | Comments(22)

全身クッツキムシ男の怪

早朝の通勤電車。頭の帽子から靴まで、まんべんなく、ぎっしりとクッツキムシ(ヌスビトハギの実)がくっついている男性が乗ってくる。
なぜこのおっさんはクッツキムシを取り除かないまま電車に乗ってきたのであるか?その理由をテツガク的に考察してみた。

(仮説1)
実践的自然愛好家。
要は、ヌスビトハギの分布を増やすために、
自分が種子の運び屋となっているのである。

(仮説2)
ファッション。

(仮説3)
クッツカレスト。
くっつかれていることに生きがいを感じるタイプの人だから。
視線が “くっつく” という意味では、注目されたいから、
というのもここに入るだろう。

(仮説4)
罰ゲーム。
隣の車両からは同僚たちが腹を抱えてその様子を見ている。

(仮説5)
転倒。
草むらで派手にこけたが、遅れてはならぬと、
とりあえずそのままで電車に乗り込んできた。

(仮説6)
大器量。
くっつきむしがくっついていることぐらい、
気にしないのである。

(仮説7)
諦念(ていねん)。
自宅がクッツキムシに囲まれており、
毎朝毎朝、家を出る度に派手にくっかれるので、
すでに諦めてしまった。

(仮説8)
なにか違うもの。
それはクッツキムシのように見えて、
なにか違うものであると言ってよい。
(だから、なんなのだ。)

by enzian | 2008-11-08 21:08 | ※通勤途中 | Trackback | Comments(4)

警戒

エレベーターに女性と乗り合わせて、微妙な雰囲気から警戒されていることに気づく。こんなことはよくあることだから、いつものように、できるだけ驚かさないように、急に変な声を出さないように、急に変な身のこなしをしないように、息を殺して、身動きを止めるようにして、こちらも配慮している。配慮とかエチケットと言えば聞こえはよいが、こちらも犯罪者と思われてはかなわんということで、要は、どちらも警戒しているわけである。

ただ、四六時中、女性と二人でエレベーターに乗り合わせるわけではないのだから、こんなことはなんでもないが、基本的に人間を信用していない人であれば、その負担はいかばかりかと思う。人間だらけの世の中で警戒を解くひまなどないだろうからだ。

人間を信用しない、というほどではないが、ここ数年、小学生ぐらいの少女の警戒心が年々強くなっていることにしばしば気づかされる。もちろんそこには、ぼくの加齢に伴う “怪しいおっさん化” ということもあるのだろうけど。

ランドセルを背負った彼女たちの警戒心は驚くべきもので、電車に乗り込むまでに一度でもおっさん(ぼくのことですな)と目が合えば、十中八九、それまで乗ろうとしていた車両を変える。変え方も手が込んでいて、追跡をかわすためなのだろう、車両に乗り込む寸前まではなにごともない振りをして、乗る直前に、さっと両を変える。ぼくはおっさんをやめることはできない。少女がおっさんを警戒するのも無理からぬことだ。だから、ぼくはせめて、彼女らが気をつかわないですませられるようにと、早い目に、自分から乗り込む場所を変えてあげる。

by enzian | 2008-06-15 22:52 | ※通勤途中 | Trackback | Comments(0)