カテゴリ:※通勤途中( 48 )

ハートの坊さん

忘れかけたころに会う坊さんがいる。今朝も電車で会った。どうして覚えているかというと、いつも落ち着かない風に電車のなかを見回し、貧乏揺すりなんかをしており、 “聖職者” という感じにはほど遠い人だからだ。

今日も、いつものように無精ヒゲを生やして、なにかをつぶやきつつ、片方の地下足袋の親指と人差し指のあいだには朝顔の葉っぱ(ハートの形)を1枚、はさんでいる。どこの草むらに踏み込んだら、そんなところにラブリーな葉っぱをはさむことができるのか‥‥と考えていたら、ぼくは朝からおかしくてしかたなかったのだ。

電車は混んできて、座っている坊さんは決まりが悪そうだ。坊さんは、ほっぺをぷるぷるさせておどおどきょろきょろしている。前に白髪混じりの50歳ぐらいの女性が立った。坊さんよりも少し歳下ぐらいか。座席から坊さんはちらりちらりと女性の顔を仰ぎ見ている。迷いに迷ったあげく、ついに坊さんは立ち上がり、一目散にどこかへ行ってしまった。

座った女性の前には、ハートの形の葉っぱが1枚落ちていた。

by enzian | 2008-06-03 23:57 | ※通勤途中 | Trackback | Comments(66)

ごめんなさい!

できるだけ「すいません」を減らせないものかと考えていた。「ありがとう」のときも「ごめんなさい」のときも「すいません」を使うが、感謝を伝えるなら「ありがとう」、謝罪するなら「ごめんなさい」と言った方がいいのではないかと思ったのだ。

でも、感謝の気持ちを「ありがとうございます」と言うのは簡単でも、改まってわびを入れる場合、子どもならまだしも、大人であれば「ごめんなさい」は、やはり使いにくい。しかたなく、「申し訳ございません」や「すいません」を使うことになる。

混み合う車両で「ごめんなさい!」という男性の大きな声が響いたことがある。電車が揺れて体が当たったりしたのだろう。それにしても、大人が「ごめんなさい」とは珍しいこともあるものだ。どんな人が言ったのだろうか? ちらりと見えたその人は、白い杖を握っていた。

by enzian | 2008-04-04 00:01 | ※通勤途中 | Trackback | Comments(0)

循環バス

夜、片田舎の循環バスに乗る。自宅はもうすぐだ。引き続き、中村久子の本を開く。バスの発車を告げる声を聞いたような記憶がある。動き出した車窓から、昼間の雨で濡れた漆黒の路面をちらりと見た記憶もある。が、その後40分間の記憶はない。気がつけば、もとの駅前に戻っていた。酔っぱらって一つ前のバス停で降りた日も、居眠って二つ先で降りた日も疲れていたが、昨日はそうではなかった。集中して、一冊を読み切ったのだから。

違うのかもしれない。なにごとかに “没頭してしまう” ことは、むしろ他のなにごとかに疲弊(ひへい)していることの裏返しではないのか。中間管理職とはつまらぬものだ。

by enzian | 2007-05-26 08:56 | ※通勤途中 | Trackback | Comments(16)

源流からの距離

通勤電車には奈良やら京都やらのガイド本を広げた人たちがたくさんいて、平日より混み合っているくらいだ。三連休のあいだに京都と奈良を楽しむのだろう、いいなぁ。ぼくは京都と奈良の境に住んでいて、京都にも奈良にも親しみをもっているけど、京都と奈良のどちらが好きか、答えよ!と凄まれれば、きっと「京都」と答える。そう答えるだろうけど、その理由を説明するのは、むずかしい。たぶん、いくつか理由がある。

1.京都の方が(ここでぼくが言う「京都」とは京都市、「奈良」とは奈良市ぐらいの意味)山が迫ってきていて落ち着くから。狭~い隅っこが好きなぼくにとっては、奈良(「均す」に由来するという説もあるとかないとか)は、だだっぴろ過ぎて、隠れ場所のない広場に投げ出された小動物よろしく落ち着かないのだ。

2.京都の方がしっとりしている。奈良はかさかさしている気がする。京都は地下水の貯水量が多いらしいが、鴨川や高野川や桂川が流れる京都に対し、奈良には大きな川がないことも原因なのだろう。豆腐と生命には水が必要なのどす。

1と2だけが理由だと思っていたのだけど、今日、もうひとつあるらしいことに気づいた。

3.京都は、中心に鴨川(賀茂川)が流れているから。川には上流と下流があるが、これと比較することによって自分の立ち位置がわかる、ということが安心感を与えるらしい。ぼくはどうも、源流からの距離が気になるタイプのようなのだ。

by enzian | 2006-11-04 00:03 | ※通勤途中 | Trackback | Comments(3)

「新世界より」

奈良から京都へ向かう電車のなか。関東からの修学旅行の女子中学生が三人、ドアにもたれかかって立ったまま、うとうとしている。何回も「ガクッ」とか「ビクッ」とかなっていて、その度に、「いま、わたし、ビクッとなった」などと言っている。寝ている友人たちが見ているはずがないとわかっていても、言わずにはおれないなにかがあるのだろう。昨夜はたくさん “告白” することがあって、なかなか眠れなかったのだろうか‥‥ぼくはニヤニヤしながら見ている。

カーブにさしかかり、電車が揺れる。倒れないようにドアにかけた手の角度が変わり、わずかに塗られた薄いマニキュアがかすかに光を反射している。昨夜、友だちどうしで塗ったのだろうか、それとも、旅行の前夜、家で塗ったのだろうか。うれしくてしかたないのだろう。

彼女たちにとっては、奈良の大仏よりも友人と過ごす宿の夜の方がわくわくする体験なのかもしれない。家を、故郷を遠く離れて夕暮れを、夜を迎えるということの特別の意味、親しい友人と一緒であればなおさらだろう。小学校のとき、帰るのが遅くなると、構内にドヴォルザークの「新世界より」が流れていたことを思い出した。今でも「新世界より」を聞くと、どきどきするようなわくわくするような、あのときの感覚がありありと甦る。

by enzian | 2006-06-03 11:45 | ※通勤途中 | Trackback | Comments(38)

眼に沁みる香り

電車で楽しく本を読んでいたら、眼に沁みるような強烈な香りを漂わせた人が隣に座る。人工的な苦手なタイプの香りだ。とても耐えられそうにないので、次の駅で降りるふりをして隣の車両に移動する。ぼくは上品な人だから(ツッコミましょうね)、「失礼ですが、気分の悪くなるような香りを漂わせておられるので、席をかわっていただけますか?」などとは口が裂けても言えないのだ。それでも口惜しかったので、移動しながら、はっきり「臭い!」とは言えないにしても、どうしたらよかったのか、次善の策をあれこれ考えた。

(解決策1)「香りのバカ~」とかなんとか叫びながら、
夕陽(海も可)に向かって走ってゆく。
(問題点)周囲から痴話げんかと勘違いされる。しかも、夕陽などない。

(解決策2)扇子で扇いで香りを返す。
(問題点)手がだるくなる。

(解決策3)おもむろに酸素を吸いはじめる。
(問題点)体調が悪いと思われる。

(解決策4)おもむろにマスクを取り出す。
(問題点)たんなる風邪か花粉症と思われる。

(解決策5)鼻をつまむ、もしくは鼻にテイッシュを詰め込む。
(問題点)売り物の美貌\(-_-)ピシッ をそこなう。

(解決策6)いっそのこと呼吸をやめる。
(問題点)死んでしまう。

(解決策7)好みの香りの御香を焚いて中和する。
(問題点)即効性がない。

(解決策8)テントを張って、なかに引きこもる。
(問題点)変な人だと思われる。

(解決策9)「日本人はこれでなくっちゃ!」とかなんとか言いつつ、
七輪でマツタケを焼きはじめる。
(問題点)なんの解決策にもならないし、意味もわからない。

くたびれたので、寝ます。
ぐうぐう(-_-)zzz

by enzian | 2006-05-11 23:05 | ※通勤途中 | Trackback | Comments(33)

言葉の伝染力(【R】)

マスクもせず電車内で盛んにクシャミをしている男性が「風邪をひいた」とかなんとか言っているのを聞いて、「こやつは無差別殺人者に等しいのではないか?」などと思ってしまう。この男性がハクションしたバイキンは何人かの乗客に風邪をひかせ、風邪をひいた何人かがまたハクションして、やがてネズミ算式に患者は増えてゆく。そのなかにはもちろん高齢の方も含まれていて、亡くなる方もおられるだろう。この電車でクシャミをしている男性は、めぐりめぐって何人かの人を死に至らしめるというわけなのだ。

風邪をひいたらマスクをするぼくだが、それでも人を死に至らしめていないとは言えない。たとえば、ぼくは口の悪い人だから、辛辣なことを言ってこれまでたくさんの人たちを傷つけてきた。なかには、それが原因で死に至った人もいるかもしれない。直接的に死に至らしめないとしても、ぼくの言葉で誰かが不機嫌になって、不機嫌になったその人の言葉で第三、第四の誰かが深く傷ついたかもしれない。そういう意味では、冒頭の “クシャミ男” とぼくとは同じ穴の狢というわけなのだ。言葉とは恐ろしい。冷たい言葉は投げかけられた人の心を冷たくし、冷たくなった心はまた違う誰かに冷たい言葉を投げかける。冷たい言葉は伝染するのだ。

とはいえ、伝染するのは冷たい言葉だけではない。温かい言葉も、温かい言葉をかけられた人の心を温かくし、温かくなった心はまた違う誰かに温かい言葉を投げかけ、この経過はやはり無限に至る。人にやさしい言葉をかけることの一番の効用は、たぶんこの辺りにあるのだろう。口の悪いぼくでも、時には人にやさしい言葉をかけたことがあったような気がする。その言葉で、知らないうちに、めぐりめぐって誰かを助けたこともあるのではないか?――あれこれ都合よく考えていたら、学校に着いた。

by enzian | 2006-04-10 23:52 | ※通勤途中 | Trackback | Comments(27)

「情けは人の為ならず」の意味

とある専門学校で教えていたときに、「情けは人の為ならず」を「情けをかけられた人の為にはならないから、情けはかけない方がいい」の意味だと説明した学生がいて、笑ったことがある。そのときは「情けを人にかけておけば、めぐりめぐって自分の為になることがある」の意味だと説明した。でも今なら、こう言うかもしれない。「もともとの意味は知らないけど、情けを人にかければ、めぐりめぐって自分の為になることがあるかもしれないし、その場ですぐに自分の為になる場合もあるかもしれない」。

先日のことだ。駅のホームに白い杖をもった高齢の女性が前をおぼつかない足取りで歩いていた。改札へ誘導する点字ブロックの位置がわからないらしい。杖を車のワイパーのように大きく左右に動かしているが、離れた点字ブロックには触れそうにない。方向を完全に見失っているのだ。ぼくはいつものように無視を決め込むことにした。会議の時間が迫っているし、彼女が本当にぼくを必要としているかどうかもわからない。場合によっては手を貸すことは大きなお世話かもしれないではないか。しかも相手は女性なのだ。自分に言い訳をしながら足早に追い越した。

それでも気になって振り返ったら、これほどまでに困り切った人の顔は見たことはないというほどに困惑した心細そうな顔だった。失明して間もない方なのかもしれない。ホームに残されたのは女性ひとりだった。ぼくは引き返し、改札へ続くエレベーターに誘導することにした(美談を言おうとしているのではない。同じ状況に置かれたら、誰も無視できなかったろう)。ともあれ、ぎこちなく誘導し、女性はお礼を言って改札を出てゆかれた。避けようのない事情のなかで強いられた親切(?)ではあったが、ぼくはその日一日、いつになく気分よくすごせた。

by enzian | 2006-03-12 21:31 | ※通勤途中 | Trackback | Comments(4)

そこに座らせてもらい!

電車のなか。二人連れのそれなりの年齢の女性。片方の女性(女性A)が、空いたスペースを自分用にキープしつつ、なおかつぼくの隣にわずかに空いたスペース(かなり詰めないと座れない)を指差して、もう一人の女性(女性B)に座るよう誘導する。「あんたも、そこへ座らせてもらい!」割り切れない気持ちになりながらも、もちろん、ぼくは詰める。やがて席がまばらになり、女性Aが女性Bの隣にくる。座るやいなや、家の嫁の悪口を一方的にまくしたてはじめる。たぶん、こういう人に限って、家のなかではお嫁さんとの対話のない人なのだろう。相互的なコミュニケーション能力を欠いている人なのかもしれない。

by enzian | 2006-01-23 21:21 | ※通勤途中 | Trackback | Comments(11)

吹雪の日の奈良交通バス

吹雪のなか、バスはいつにも増して込んでいた。ぼくは最後部の席に座っている。前には母娘が立っている。奇跡的に隣の席が空いて、母が座る。母は自分の膝を指差して、言う。「どーぞ♪」大学生風の娘は迷うことなく母の膝に座る。――たったこれだけのことだけど、ぼくはちょっと感動して、びっくりもしてしまった。これはこの母娘にだけ起こりうることなのか、それとも、どこでもある話なのだろうか?考えてみよう。

1.母(座席)―娘 (膝)
2.母(座席)―息子(膝)
3.父(座席)―娘 (膝)
4・父(座席)―息子(膝)

娘と息子は20歳、父母は50歳としよう。1は今回の事例で、じっさいに起こった。2はちょっと考えにくい。ただし、埼玉から一歩も出たことのない埼玉人のぼくにはわからないけど、日常的にウケを狙っている人種の多い大阪近辺では、一種の “ボケ” として十分に起こりうることではないか(関西在住の方、教えてください)。3は起こりうるが、発生確率は1より低いだろう。4は考えること自体を拒否したくなるような性質のものではあるが、やはり大阪近辺なら、それなりの発生確率があるのだろう。したがって、ぼくの考えでは、発生確率は、1>3>2>4(ただし、大阪近辺ではこの限りにあらず)となる。だから、それがどうしたというのだ。

by enzian | 2005-12-23 12:10 | ※通勤途中 | Trackback | Comments(58)