カテゴリ:※自然のなかで( 62 )

幻想

b0037269_2223949.jpg窓から賀茂川の見える店で食事をしていたら、黄緑色の小さな虫が入ってきたことがある。ぼくはすぐ、それがカワカゲロウの一種で、羽化してほどなくして死ぬ生きものであることに気づいた。

カゲロウは三本の尾毛をたくわえた尻尾を少しもち上げて、コップの縁にとまっている。ここは君の来る場所じゃない。逃がしてやろうと窓を開けたとき、ウェイターが来て、手にもっていた料理を置いて、カゲロウを捕まえようとした。

「逃がしてやってください」。「いえ、逃がすのです」。ウェイターは手早くカゲロウを外に出すと、キッチンに戻っていった。ぼくは片田舎で自然に囲まれて育ったから、ややもすると自分だけが自然のことを知っていて、自分だけが生物のことを知っていて、自分だけが生命の大切さをわかっていて、自分だけが生命愛護的であるかのようにカンチガイしてしまうことがある。

by enzian | 2012-03-09 22:05 | ※自然のなかで | Comments(3)

ほの暗さ

暦のうえではもう冬になったというが、京都はこれから紅葉の時期を迎える。紅葉は美しいが、京都の秋はどこもかしこもひとだらけで、ゆっくり楽しむどころではない。むしろぼくが好きなのは紅葉もすぎた晩秋。そんな時期、落ち葉の絨毯が敷かれた森を歩くのは楽しい。静かな森には踏みしめた落ち葉のカサカサという音だけが響く。空気が冷えて、星の輝きは日に日に強くなり、海の水は澄んでいく。ハロウィーンがすぎればすぐにイルミネーションとジングルベルで埋め尽くされるのが晩秋から冬にかけての定番となりつつあるが、ハロウィーンとクリスマスのあいだにはしばしの静寂と “ほの暗さ” が欲しい。ほかの季節にはない晩秋のよさをしみじみ味わいたい。

by enzian | 2011-11-10 23:33 | ※自然のなかで | Comments(0)

猿沢池の巨大スッポン

b0037269_20483059.jpg奈良には猿沢池というきちゃない池がある。いつだったか、15年ぐらい前だったのかもしれない。池にきたぼくは、池の小島のようなところに巨大なスッポンがべったりと乗っかって、甲羅干ししているのにでくわした。

その大きさは半端なく、ぼくは全長70センチと目算した。池の真ん中は岸から10メートルぐらはあるのですぐ近くというわけではないが、巨大スッポンの周りにいた20センチほどのスッポンたちの大きさからして、三倍はあるとみえた。いま心を落ち着け、頭上にアイスノンを載せて、泣く泣く妥協に応じたところで、50センチは下らなかった。

ふつうスッポンの甲羅はすべすべしているが、そやつはずいぶんと年を食った年代物らしく、なんかごつごつした、ところどころ白くはげたような甲羅をしていた。が、かといってそれがスッポンでないということはなく、決してワニガメとか、外国のスッポン(その可能性はあるかな‥‥)とかそういうものではなく、たしかに日本のスッポンだった。周りにいたひとたちも、指をさしながら、「あれなんやろか、カメやろか」とかいっていた。それはカメのスケールを超えた、“池のヌシ" と呼ぶにふさわしいものだったのだ。

それは数十年は生きていると思えるものだった。その素性を明らかにしたいと思いつつ、すぐにいなくなることはないだろうとゆだんして、ぼくはそれから身辺忙しくなってしまって、ひさしぶりに2年ほど前に池にいったら、アカミミガメばかりで、もうまったくスッポンはいなかった。もちろん、巨大スッポンの姿もなかった。誰しもあのとき白黒つけておくべきだった、いまとなってはもうどうしようもない、くやじい!といった後悔の思いをいくつかもっているだろうが、ぼくのなかにあるそのうちのひとつは、この巨大スッポンのこと。

by enzian | 2011-06-24 20:58 | ※自然のなかで | Comments(2)

蛙の子は蛙

この時期、近所の山には食べられるキノコがたくさん生えていて、「早く採りに行け」と根源的な欲望がはやし立てるので、いつも内心穏やかではない。

山のキノコを食べなければ生活に行き詰まるわけでもないのだが、睡眠時間を削ってまでして忙しいこの時期に日参するそのアホさ加減の意義を問われても、「そこにハタケシメジがあるから」としか答えようがない。

もうひとつ楽しいことがある。山には公園が隣接していて、そこの一角、ほぼ1㎡のところに、毎年決まってアカガエルが一匹いるのだ。今年もいた。毎年ちがう個体のようなのだが、なぜ一匹きりなのかはわからない。水場がない場所なのでどうやって発生しているのかもわからない。去年の個体の関係者であろうことは推測できるが、詳しいことはわからない。わからないが、ともかく追っかけ回して撮らせてもらう。写真はそやつ。

小学校のとき、「子」という字を使う言葉にどんなものがあるかと問われ、友人が「蛙の子は蛙」と答えて、教室が爆笑の嵐になったことがあった。みるみる顔が赤くなって、友人は椅子のうえで小さくなっていくように見えた。そのようなことわざがあることを知らず、子どもたちは友人がしごく当たり前のことを言ったと思ったのだ。それからぼくは長い時間を生きてそのようなことわざがあることを知ったが、いまもことわざの意味はよくわからない。
(写真をクリックすると拡大します。)

by enzian | 2010-10-16 22:28 | ※自然のなかで | Trackback | Comments(73)

鐘と鉦

b0037269_129830.jpg昨日は一年に一度だけ行くところに行った。小さなところ。帰り少し時間があったので、梨木神社に寄ってみた。ちょうど萩祭りだった。猛暑が続いたせいか、まだほとんど咲いていない。萩は咲いていないが、秋虫は鳴いている。聞くと、カネタタキの声がする。あちらでもこちらでも。カネタタキは自宅に着くまでのいたるところで鳴いていた。

どっかにポイッした記事でカネタタキの声を「聞き慣れない」と書いたけど、訂正したい。これまでも彼の声は聞こえてはいたが聞いていなかったのだ、と。彼を知らなかったから、秋虫の声のなかで彼の声を聞き分けることができなかった。これも以前、まだポイッしていない記事で入相の鐘(いりあいのかね)のことを書いたが、カネはカネでも、原稿用紙が書けていないときに鐘が聞こえないというのと、混じり合った秋虫の声のなかで鉦(かね)の音を分けられないというのでは意味がちがう。

by enzian | 2010-09-19 12:20 | ※自然のなかで | Comments(0)

重なり合いつつ移行する

b0037269_095574.jpg家を出て少しぶらぶらしていたら黄色いオミナエシが咲いている。夏がすっかり終わって、秋らしくなってから咲く花かと思っていたが、そうではないらしい。オミナエシにはたくさんの虫が集まっていて、見ていてあきない。花粉がよいのだろうか、蜜がよいのだろうか。「どちらなのだい?」と聞いてみようか。

もくもくと湧き上がる入道雲の下、秋空でもないのに赤トンボが群れをなして飛んでいる。ひとつのことがはじまり、旺盛(おうせい)になって、やがて衰え尽きてから、ようやく新しいことがはじまる。あることが0からはじまり、100になって、またいつか0になって終わって、ようやく別のものが0からはじまる――こういう考え方になじみすぎているのだろうか。

たくさんだとこんがらがるから区切る。たくさんが同時並行となれば骨が折れるから一本線にする。そんな方向になれているから、逆に、たくさんのことに同時並行的にかかわれることが一種の才能として尊敬されたりもする。だけど、ぼくが考えている以上に、もともと物事は全体として重なり合いつつ移行しているのかもしれない。赤トンボが肩にとまった。

by enzian | 2010-08-15 00:13 | ※自然のなかで | Comments(0)

道すがら

奈良の山奥でつららを見た。うっすらと雪景色に染まる山里を、軒先からつららを垂らした古刹の舞台から見下ろす。あるところには変わらずあるのだな。ずっと昔、友人といっしょに奈良と三重の県境にある渓流を訪れたことを思い出した。久しく忘れていた記憶。

長く、 “渓流の宝石” と呼ばれる魚をこの手にとってみたいという衝動に駆られていた。サケ科独特の銀色をベースにして、体側にはパーマークと呼ばれる小判型の青紫の斑紋が数枚。全体には赤い小さな斑点が散りばめられている。郷里にはいない魚だった。しんぼうできずに、友人2人をさそって釣りに行くことにした。こういうとき必ずひとりで行動するはずのぼくにとっては珍しいことだった。 14歳だった。

釣れなかった。初心者に釣れるような魚ではなかったのだ。帰る段になって、山奥から脱出するためのバスはもうないことに気づいた。ぼくのリサーチミスだった。それでも不思議とぼくらはなにを絶望するわけでもなく、冗談を言いながら、傍らから岩壁がせり出す道をポツポツと歩きはじめた。駅まで十数キロの道だった。なんとかなると思っていた。

ところどころ岩壁からは水が沁み出ているらしく、見たことのない大きなつららが下がっている。まるで巨大な水晶のようだ。渓流を挟んだ対岸では、滝が完全に凍結して、氷の芸術作品さながらの様を呈している。友人たちは手折ったつららをかりぽりと音をさせながら食べはじめた。「美味い、美味い」。なにやら嬉しかった。ぼくも食べた。その美しさは、自(おの)ずと口にせざるをえないような性質のものだったのだ。

軽トラックが近づいてきて止まった。「駅まで歩いて行くんか?ちょうど行くところやから、乗せて行ったろ」。今ではもうすっかりそのおっちゃんの顔を思い出すことはできないが、駅の売店で “ひのなの漬け物” をお土産に買ったことはちゃんと覚えている。

by enzian | 2009-01-12 15:53 | ※自然のなかで | Trackback | Comments(10)

午前様の星空

ある人が、「酔ってよいことは?」と聞かれて、「酔っぱらって帰ると星がきれい」と答えていたのだが、そんなことはあるまい、と思っていた。もうろうとした意識のなかできれいに見えるわけなどないではないか。でもちょっと気にかかる点もあった。酔っぱらった最終電車で女性が美しく見えたことがあったからだ(こんなこと、書かなきゃいいのに‥‥)。そんなわけで、病み上がり体力回復用の養命酒をひっかけて、遅れた年賀状投函ついでに夜半の星空を見てきた。なるほど、とても美しかったのである。

だが、酔っぱらったから美しく見えたということではないのだろうと思った。毎夜遠くに見えている生駒山の鮮やかな光も、今はすっかり消えている。酔っぱらったから視覚がさえたというより、夜半には生活の光が消え、漆黒の闇に包まれて星の光も美しく見えるようになる、ということなのだろう。午前様の見上げる星空が美しいのは、そういうことなのだ。

by enzian | 2009-01-02 23:22 | ※自然のなかで | Trackback | Comments(0)

ドングリ

秋も深まった11月の末にもなると、ぼくは毎年のように学生たちを連れて植物園にゆく。ぼくは紅葉を観て、その年の最後になるだろうキノコを観ながら、晩秋の森を歩く学生たちを見ている。地面を覆い尽くす紅葉のあいだにはたくさんのドングリが混じっている。いつだったか、ドングリをひときわ楽しそうに拾う学生がいた。拾い上げて袖でこすれば、ドングリがぴかぴかと輝きはじめる。「すごいきれい。せんせい、うち、これを宝物にするねん」。忘れられない学生と、忘れられない一言。

by enzian | 2008-12-03 23:35 | ※自然のなかで | Trackback | Comments(2)

ほととぎす

一息ついて、日の当たりにくい庭の一角を見れば、紫色があった。ほととぎすが咲いているのだ。しゃがみ込めば、日本の野花とは思えない色柄、姿形をしている。自分が植えたものがようやく時を得て花を咲かせているのに気づかないとは、無責任なことだと思う。

この夏、ほととぎすには一匹の毛虫(ルリタテハの幼虫)がついていて、そいつは見る見る間に一株のほととぎすの葉を食べ尽くしてしまった。なんとかすることはできたが、ぼくは一匹の毛虫を駆除するのが忍びなくて、ほとどぎすが食べられるままにしたのだった。ほととぎすを捨てて、虫をとったのだ。

毛虫は蝶となって飛び去り、葉無しとなったほととぎすはまるでなにもなかったようにたくさんの花を咲かせていた。対立する価値が両立することが自然のなかではあるのかもしれない。ほととぎすにすれば、ルリタテハの幼虫が葉を食べ尽くすことぐらい織り込み済みなのだろう。織り込み済み――ほととぎすにはできても、ぼくには容易なことではない。

by enzian | 2008-10-18 23:09 | ※自然のなかで | Trackback | Comments(4)