カテゴリ:※好きな人・嫌いな人( 18 )

ウソは最低の防御なり。

b0037269_10115813.jpg誰しもそうだろうが、ウソが好きではない。自分はきわめて腹黒い人間だから、ウソで厚化粧して生活しているが、他人につかれるのは楽しくない。

ウソそのものがキライというより、ウソをついてバレないと思っているひとの了見が痛ましくて、残念でしかたないのだ。「痛ましい」なんて言葉がどれほど思い上がったいい方かはわかっているつもりだが、ぼくは正直だから、感じたままをいうしかない。ややこしいことをいうな。

つかざるをえない事情があるのだろう。事実を語れば関係を壊してしまう、苦労してつかまえた相手の信頼を失ってしまう、都合よく利用できなくなってしまう、と考えているひともいるのだと思う。じっさい、上手にウソをついておくほうが有利な相手も多いのかもしれない。だが、事情があるにしても、ぼくは見え透いたウソをつかれるのが世の中でいちばんキライなのだ。生理的に受けつけない。「私には包み隠さずほんとうのことをいって下さい」なんていうつもりはないし、いえる権利もないと知っている。だから、ぼくの心は、ウソでぼくとの関係を守ろうとしはじめたものをみたとき、なにもいわず、そこから去ってゆく。

by enzian | 2011-11-22 22:58 | ※好きな人・嫌いな人 | Comments(2)

そうかもしれない。

b0037269_2138164.jpg「なつかしい(懐かしい)」という言葉を長く間違えていました。「なつかしい」は「心がひかれる」という意味なので、現在のことにも使えるわけですが、過去のことにだけ使う言葉だと思っていたのです。もちろん、「なつく」や「なつっこい」は現在のことにも使いますが、「なつかしい」というかたちで現在のことに使うのは、いまではあまり多くないのでしょう。こういう過去のことに向けての使い方が多くなるのは、「なつく」が「馴れ付く」に由来する言葉であることによるのかもしれません。

相手が人間と見れば誰彼なしに尻尾を振る、高度にひとなつっこいイヌならまだしも、ひとがなにかに「馴れ付く」ためには、すったもんだの時間経過が条件となります。そうした時間のなかにはさまざまな思いが詰まっていて、そうした過去の時間の重層のうえに、「馴れ付く」ということも起こったり、起こらなかったりするのでしょう。

このごろ思うことがあります。ぼくがなつかしいと感じるのは、こうした時間の重層が、なんとか隠そうとする努力にもかかわらず隠し切れずに、音も立てずに漏れてくるようなひとのようなのです。ここには自分の層を他人のものと同化しようとする危険な志向が働いているかのようです。いちおう社会人なのですからこういう嗜好はなんとかせねばならないのでしょうが、いかんともできず。まぁそれがばれてしまうようなドジは踏みませんが。

by enzian | 2011-04-29 21:42 | ※好きな人・嫌いな人 | Comments(0)

「行きつ戻りつ」

b0037269_14145749.jpg今日も雨が降っている。先月の末ごろから雨が降ったり晴れ間がのぞいたり、春らしくなったかと思ったらすぐまた冬を想わせたり、をくりかえしている。この時期の雨は嫌いではない。

大学院で指導を受けた二人の指導教授には、共通する二人の師がおられた。二人の師はともに京都学派に属していたが、学問的な性質を異(こと)にしていた。ひとりは明晰判明を絵に描いたようなひとであり、どのように複雑な思想も――おそらくはオリジナルな思想さえ超えて――最小限の言葉で明瞭にまとめた。もうひとりは、オリジナルな思想にある “いびつさ” をいったんそのままに取り出したうえで、その地下にある水脈を探しているように思われた。いびつさに追随しようとする思索はやはり晦渋(かいじゅう)にならざるをえず、その論述は容易には読む者を寄せつけなかった。

惹かれたのは “いびつな思索” だった。枕元に置いていた研究書の前書きには読者への詫びの言葉があった。「行きつ戻りつする論述で読みにくいことと思う」。この「行きつ戻りつ」が、ぼくのそれまでを取りまとめ、研究を続けてよいと背中を押してくれた。

by enzian | 2010-03-06 13:09 | ※好きな人・嫌いな人 | Comments(0)

やさしいということ

b0037269_11285127.jpgやさしいとはどういうことなのだろうか。やさしいと言われることもないし、人生においてやさしい人をめざしているわけでもないが、いつも耳にするわりには意味がわからなくていまいましいので、ちょっと考えてみる。

「やさしい」というのは漢字では「優しい」と書くので、「人が憂う」ことだと――きっと語源的には間違えているだろうけど、これは論文(タスケテ)ではないので――勝手に考え散らかすことにする。

人が憂うということだから、やさしいということには、人(自分)が人(他人)を憂うという場合と、人(自分)が人(自分)を憂う場合が含まれている。では、憂うというのはどういうことか。それは相手や自分が好ましくない状態に陥る(陥っている)のではないかと心配することだろう。心配とは心を特定の方向に振り向けることだ。この振り向けは「思いやり」とも表現される。さて、このように人が好ましくない状態に陥っているのではないかと心を振り向けることでやさしさの第一条件がクリアされるなら、逆に、やさしさを成り立たせない第一条件は、人に対して心を振り向けないこと、つまり心を動かすことのない無関心となる。

次に「相手や自分が好ましくない状態に陥る(陥っている)」というのはどういうことだろうか。このような状態は、一般に「苦しんでいる」「傷ついている」「痛んでいる」といった言葉で表現される。したがって、心を振り向けるとは、人の苦しみや傷や痛みに対して心を追随させようとすることであると言える。このような追随は「共感」と言われるが、当然のことながら、共感するということは一つの心を共有することではない。他人の心は言うまでもなく、自分の心でさえ共感しようとすれば、“共感しようとしている心” と “共感されようとしている心” という二つの心に分断されてしまうのだ。

共有しなければならないという強い(すぎる?)思いは、やがて、どうしようもない “分断” の前に絶望する。絶望は呻(うめ)きとなるが、憂いが絶望に至ることを知った心は、自分の呻きがまた別のやさしい心を絶望させることを拒否する。こうして、人に知られないよう呻くこと、これがやさしさの意味となる。――というのはやさしさの無茶な定義だが、ここでは “人知れぬやさしさ” を考えてみたかった。

“人知れぬやさしさ” と “人知れるやさしさ” を分かつのは、共有への思いをそこそこで見切れるかどうかだろう。前者のやさしさについて、世の中の役に立たないとか、形として見えない(前者と無関心は外見上では区別がつかない)から意味がないとか、甘っちょろいとか言う手合いは多かろうが、自分は案外こういうのが好きだったりする。

by enzian | 2009-08-23 23:49 | ※好きな人・嫌いな人 | Trackback | Comments(0)

他人を見る目のない人

いつものように自分のことを棚に上げていうなら、根本的に他人(ひと)を知らない人、他人を見る目がない人がいるのではないか。そんな気持ちが年々強くなってきている。この気持ちが強くなってきたのには、何年か前に、人としての道を外している、と思える講演をあるところで聴く機会があって、誰しも自分の思いを共有してくれるだろうと思っていたら、それを絶賛する一群の人たちがいることを知って絶句した経験が大きい。そのとき、ぼくは自分がこれまで受けてきた教育はなんだったのかと思ったし、おおげさに聞こえるかもしれないが、自分はこの星の住人であってはならないのか、と思ったほどなのだ。

さらに根拠のないことをいえば、他人を見る目のない人は他人に興味のない人なのではないか。人が好きではない人だといってもよい。好きであれば辛抱強く待つこともできるだろうが、そういう人たちは待つことができないものだから、とことん見ようとせず、そこそこで(面倒くさくなって)わかったつもりになって、知りもしないのに切ってしまうか、逆に、はたから見れば気味の悪くなるような不相応の神格化を施すか、のどちらかなのだ。したがって、そういう人たちの特徴は、80%の人間には不条理だと思えるほど高圧的でぞんざいで冷淡だが、20%の人間(→神)には “馬鹿” がつくほど慇懃(いんぎん)で絶えず賞賛をくり返すといったアンバランスさになる。さっきまで畳に額をすりつけて挨拶していたかと思えば、次の瞬間にはふんぞり返って命令している。そうした低頭さと高圧さの “高低差” をエネルギー源として、自らに心酔しながら日々の生活を送っている。

人を嫌いになるという結果にいたる経過にはたぶんいろいろあって、また、その複雑さがぼくを惹きつけて止まないのだけど、少なくとも結果として見れば、人間嫌いの人(そこにはきっと自分も含まれている)というのは、おうおうにして、人間を知らない人、人間を知ろうとする労をとろうとしない人なのだろうと、いまのところは思っている。

by enzian | 2009-06-08 11:50 | ※好きな人・嫌いな人 | Trackback | Comments(22)

リーダー

どこぞの小学校の案内を読んでいたら、「未来のリーダーを養成する」と書いてある。すごい小学校があったものだと驚く。いったいどんなカリキュラム(授業編成)なのだろうか?いやカリキュラム内容よりも、校舎をヨーロッパの宮殿風、給食は三つ星店シェフに作ってもらって、学費をバカ高くすればそれなりの社会的地位をもった親の子どもしか入学できないから、おのずと2世として、いずれそこそこのリーダー的立場になるだろうなどと、どす黒いことを考えている。根がどす黒いから、こんなことを考えるのはお手のものなのだ。

リーダーというのはどういう人なのだろう。数歩離れてリードひも引っ張る御主人よろしく、引っ張られる者とのあいだに主従関係(命令する者と命令に従う者の関係)があって、圧倒的な能力の差があって、立場の差がある、特別に選ばれた者のことを言うのだろうか。だとすれば、ぼくがそういう人に心惹かれることはない。ぼくが好きなのは、いつも人のなかにあって、頼まれもしないのに他人のことをあれこれ考えて、人より多く抱え込んで、人より多くの責任を感じて、果たせなかったと人より多く悩んでいる不器用な人。

by enzian | 2008-10-12 21:58 | ※好きな人・嫌いな人 | Trackback | Comments(16)

人を嫌いになるということ

ここしばらくは事情があって、自分で自分に、そんなに我慢することはないよ、人を嫌いになってもいいよ、と甘い声をかけ続けてきた。でもむずかしいもので、なかなかそう簡単には嫌いになれない。いや、もう少し正確に言うと、8割方嫌いという状態には簡単になれるのだけど、100パーセントまでは嫌いになれないのだ。例えば、ぼくが一番嫌いな人は父親で、この人のようにはなるまいと思ってこれまで生きてきたのだけれども、彼にしても、100パーセント嫌いになれるか?と問われれば、とたんに口ごもってしまう。

でも、そんなことはやはり当たり前のことなのかもしれない。ぼくは自分とそれなりに関係のある人を嫌いになるのだろうけど、関係があるからには、なにかしらお世話になっていて、愛情を注いでもらっているわけで、100パーセント嫌いになんて、なれはしないのだ。

ぼくは、ぼくとまったく関係のない人(Aさん)に無関心でいることはできるけど、「ぼくはAさんが嫌いです」とは言いにくい。Aさんは、好きでも嫌いでもない、ぼくとは無関係の人だからだ。ぼくはたとえわずかであっても好ましい要素のある人に「嫌い」と感じるのであって、「100パーセント嫌い」とか「純粋に嫌い」といった言葉は矛盾なのだろう。

by enzian | 2007-08-12 15:00 | ※好きな人・嫌いな人 | Trackback | Comments(24)

食べればわかる?

どこかの会社の社長(?)が就職希望者を食事に連れていって、ひそかに食事の仕方を見てその人の資質を判断しているという話を聞いて、頭のいい人だなぁと感心したことがある。食事というのは、人の生(なま)の欲望がはっきり剥き出しになる場面だから、剥き出しになる欲望を統制して相手に気づかせないようにする方法がテーブルマナーにもなっている。

ぼく自身は、こまごましたテーブルマナーにはあまり興味がない。もちろん、相手を不快にしないようそれなりの配慮はするけれども、自分の欲望の発露とそれにたいする相手の監視の視線を気にするあまり人と食事できない人が多いことを見るにつけて、むしろ、もう少し肩の力を抜いて美味しいものなんだから楽しく食べようよ、などという思いの方が強くなってしまう。

ただ、これだけは見るに堪えないと思うことがある。食べ残しだ。食べ残すというのは、満腹になってどうしても残してしまった、ということではなく、器に盛られたものをきれいにさらえる(方言かな?)習慣のない人が、来る皿来る皿に食べ物を残したまま店員に下げさせて、最後の御飯ものにいたっては大量の御飯粒を器に残したまま、あぁ満腹なり、といった顔をしているような光景のことだ。ぼくはこういうだらしない人を見ると、きれいにさらえない動物と会食しているような気分になってしまうのだけど、そういう思い込みは動物に失礼なのだろう。

by enzian | 2007-06-30 12:39 | ※好きな人・嫌いな人 | Trackback | Comments(43)

Uさんのこと

今年も心待ちにしていた年賀状が届いた。韓国の有名な古刹で僧侶をしながら、大学で宗教学を教えておられるUさんからの年賀状だ。「わたし、○○さん(ぼくの名前)が韓国に来られたら、車でどこでも案内します」。Uさんが言った言葉を思い出した。気長にお待ちください、必ず遊びに行きますから‥‥心のなかでつぶやく。Uさんは、ぼくが助手のような仕事をしていたときの大学院生で、尼僧の留学生だった。アメリカでの留学を終え、引き続き日本で宗教学の研究を続けていた。

指導的立場にもかかわらず、むしろ人間として多くを学んだのはぼくの方だった。朝、研究室を開けると、くりくり頭のUさんがグレーの僧衣(?)に運動靴の姿で入って来る。Uさんはぼくよりずっと年上だったけど、かわいらしかった。冬はマフラーを巻いていて、なおいっそうかわいらしく見えた。謙虚で、さりげない思いやりがあって、なにより明るくて、周りにいる人を前向きな気持ちにする人だった。

助手と院生とでお花見に行ったことがある。食べ物を買うことになって、一瞬、幹事が口ごもった。Uさんが禅僧*であることを思い出したのだ。その一瞬を見逃さずにUさんは言った。「わたし、ハンバーガーでもなんでも食べます。アメリカでも食べてました。こだわりさえしなければ、いいのです」。聖職者のなかには、聖典の戒律の字句は暗記していても、人の心の機微がわからない人がままいることをぼくは知っていた。でも、この人は違うと思った。

*禅宗には食事制限など、厳しい戒律がある。

by enzian | 2006-01-03 22:53 | ※好きな人・嫌いな人 | Trackback | Comments(47)

ウェルカムな人(4)

思わず、車間距離ならぬ人間(じんかん)距離を無視して、50センチよけいに近寄ってしまう、「ウェルカムな人」の四人目は、変わった人、であります。

私、自分の “新奇探索傾向” (しんきたんさくけいこう=新しいことを試みようとしたり、新しい世界に飛び込んでみようとしたりする性質)の乏しさをつくづく自覚いたしまして、昨日あたりから、“自分を変える楽しい週末企画” と題しまして、ついに自ら新しいブログを発見しようとする試みをはじめました。これまで、私のブログに来てくださったのは、自分から訪問してくださった酔狂な方ばかりで(ほめ言葉です)、私の方はと言えば、訪問を受けるがまま、コメントを書いていただくがまま(お一人だけ、こちらから先にコメントを書いた例外がありますが)、ありがたく授業のネタをいただくがまま、愛情をそそがれるがままであったわけです。

しかし、「求める愛」よりも「与える愛」を重視する私といたしましては、そのようなテイタラクではいけない。愛による奉仕の実践をせねばならぬというわけで(議論がすりかわっているゾ!)、自分からもいろいろな方のブログを訪問し、あわよくばコメントまで書いてきてしまおうという斬新なプロジェクトを、寒空に黄色いTシャツ一枚にて、はじめたわけであります。

有名どころの遠洋ブログは、哲学エッセイブログの記事でも書いたように、行ってもすぐおなか一杯になるので、近場の近海(?)ブログを攻めることにいたしました。なんせ、exciteブログだけで17万もあるのです。宝の山です。とりあえず、リンクしていただいている方のリンクを伝ってゆくという数珠繋ぎ方式でいくつかのブログを拝見しましたが、すでに大漁です。わざわざ遠くに行く必要などなかったのです。おいしそうです。そうです。私は近海魚が好きだったのです。寿司屋(いつも回ってますけどね)に行っても、食べるのは近海魚ばかりなのです(いつ寿司ネタの話に切りかわったんだい?)。

ただし、近海魚であればすべてOKということにはなりません。近海魚でありかつ、市場では見かけない魚がいいのです。高級魚ということではありません。ハマチとかタイとかヒラメとか、ああゆうどこにでもいる、ありがちな高級近海魚はいらないのです。

食べたいのは、ギンポとかネズミゴチとかヒイラギとかキューセンペラとかネンブツダイとか、一般受けしないようなやつなのです。多くの人が、ちゃんと食べもしないで、「まずい」とか「ネコまたぎ」 (魚好きのネコさえ跨いで食べない、の意味)だとか雑魚(ざこ)だとか言うやつ、そんな魚が食べたいのです。そういう魚だけがもつ人知れない旨みを見つけ出し、味わいたいのです。市場価値がなくて商品にならないので、漁師が漁港でポイッと捨てるような魚。そんな魚こそ、私をドキドキさせるのです。そしてもう一つ。無理なおねだりと承知しているのですが、そういう希少性に加えて、昼間でも岩陰に隠れてなかなか出てこないような 、どこか “影のある魚” であれば、なおポイントが高いのです。心臓バクバクします。

すべからく、ぼくはそういう変わった人が好きなのです。「一人ぼっちの人」とあまり変わらないかしらん。

by enzian | 2005-02-19 17:05 | ※好きな人・嫌いな人 | Trackback | Comments(18)