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美しい言葉

数頁読む。鉛筆で線を引く。めくる頁、めくる頁にこちらの思考を刺激してくるものが埋め込まれていて、しばらく考えてしまう。先を読みたい心を無理に封じて、じっと目を閉じる。思考は際限なく広がって、なにか大切なものの鉱脈の在りかをぼんやり示す。鉱脈を忘れるのが怖くなって、先に進めなくなる。すでに忘れてしまったものはないかと数頁戻って、また線を引いたところを読み返す。こんな本に出会ったのは久しぶりかもしれない。

生まれてこの方、見たこともない表現が使われている。文学を知らない自分が言うのもおこがましいが、こんな美しい日本語があるのかと思わせる文章が列をなしている。たまらず、その一つ一つに二重線を引く。この文章全体に漂う “気品” はなんなのだろう。藤本としの本を読んだときにも気品を感じたが、この著者には、かつての跳ね馬が長い経験のなかで御(ぎょ)されたような、上質な力強さが一体になった気品を感じるのだ。

特別の本だけを入れる小さな本棚にその本を置いた。

by enzian | 2009-12-29 00:05 | ※好きな本 | Trackback | Comments(23)

『墜落遺体――御巣鷹山の日航機123便』(飯塚訓)

b0037269_103278.jpgこういうことを言うと叱られるかもしれないが、人の命日をほとんど覚えない。かわいがってくれた人たちの命日でさえしっかり覚えていなくて、通り過ぎそうになったら、周りの人が教えてくれて、あぁそうだったな、と思い出す。ぼくは人が “いつ” 死んだのかということにはほとんど興味がないのだ。お許しください。

ただし、命日というわけではないが、多くの方が亡くなったある事故の日については、どういうわけか、どうしても忘れることができずに、毎年思い出す。23年前の今日。日航123便の墜落事故の日だ。

あまり気分のよい文章ではないと思います。

by enzian | 2008-08-12 10:58 | ※好きな本 | Trackback | Comments(6)

『釣れなくてもよかったのに日記』(福島昌山人)

b0037269_21343447.jpg「追悼 福島先生」。突然の文字に、パソコンの前でしばらく固まってしまった。まだ大丈夫だろうと思っていた自分の甘さを悔いた。

小学生から中学生にかけて、『釣の友』という月刊誌を定期購読していた。釣りが好きだったこともあるが、二つの連載を読みたかったからだ。福島昌山人さんの「釣れなくてもよかったのに日記」(以下、「日記」)と、山本素石さんの「釣山河」だった。

ひたすら純文学を避け、物心ついたときからへんてこりんな本ばかり読んできたぼくには、この人の文章にこそ影響を受けた、と言える人がほとんどない。福島さんと山本さんはその例外なのだ。「釣山河」からは情景描写を、「日記」からは遊び心を学んだ。

「日記」を読み返してみて、しかし、その認識には誤りがあると気づいた。情景を描く際にも、知らず知らずのうちに「日記」からの影響を受けていたのだ。その人の一生についてまわる景色を原風景と呼ぶように、その人に根強くついてまわる文章を「原文章」と呼ぶことが許されるなら、ぼくの原文章はまちがいなく二人の文章なのだ。

「命」という言葉はあまり使いたくない。より曖昧な「いのち」であれば、なおさらのことだ。それを継承性(世代を超えて伝えてゆくこと)とつなげる考え方にも一抹の抵抗がある。もしそれが尊いものなら、過去や未来を抜きにして、一瞬一瞬に存在するということだけですでに十分に尊いと考えたいのだ。もちろん、過去も未来もない現在の瞬間がないこと、他者なしの自分がないことは、わかっている。そのように命をほとんど使わないぼくだが、この度は禁を破って使いたい。福島さんや山本さんの文章の命はぼくの文章のなかにも生きている、と。

福島さんには、その気にさえなれば、いつでもお会いできるものだと信じていた。会いたいと思う人には会わねばならない。会えるチャンスを逃してはならない。

by enzian | 2008-04-19 23:20 | ※好きな本 | Trackback | Comments(0)

『地面の底がぬけたんです』(藤本とし)

b0037269_0225952.jpg著者の藤本としは、若くしてハンセン病に罹患(りかん)し、手足の指、ほぼ全身の身体感覚、視覚を失った女性。穏やかな語り口のなかに、隠しきれない気品を漂わせている。構成は、第1部の随想と第2部の口述筆記。

とりわけ随想38篇は珠玉の佳品。幾重にも積み重なった内省と葛藤の襞(ひだ)からようやく滲み出した一滴一滴を見る思いがする。外向きの感性の喪失がかえって豊かな内向きの感性を生み出したことは事実だとしても、それはやすやすと、時の経過につれて自然に、必然的に、著者のうちに生まれたようなものでは決してない。

「闇の中に光を見出すなんていいますけど、光なんてものは、どこかにあるもんじゃありませんねぇ。なにがどんなにつらかろうと、それをきっちりひきうけて、こちらから出かけていかなきゃいけません。‥‥自分が光になろうとすることなんです。それが、闇の中に光を見出すということじゃないでしょうか。」(第2部、322頁)

いつか自分が光になれるという保証など、どこにもない。ましてや、あなた自身が光になりなさい、と人を諭(さと)すことなど、できはしない。それでも、そのような人がかつて確かにいたことは、今を生きる者のかすかな励みになるかもしれない。

by enzian | 2007-05-01 19:31 | ※好きな本 | Trackback(1) | Comments(22)

『無人島に生きる十六人』(須川邦彦)

b0037269_1693395.jpg無人島が好きということもあってか、事実に基づいた漂流記が好きです。いったいこれまでどれほどたくさんの方々が漂流し、命からがら絶海の孤島にたどり着き、ぎりぎりの生活をしながら、何年、あるいは何十年の望郷の思いを胸に抱きつつ、願い叶わず死んでいったことか‥‥。失礼しました。今日はそういう話は書かないのです。

というわけで、ここでは、しゃれこうべだらけの吉村昭の『漂流』や、読むからに寒いシャクルトンの『エンデュアランス号漂流記』(全員帰還したけどね)は漂流記の名作とわかっていてもその辺にうっちゃっておいて、この本をご紹介します。楽しく読めるからです。読めば元気になること、受け合いだからです。

これからお読みなるつもりの方は、開かない方が。

by enzian | 2007-04-14 16:54 | ※好きな本 | Trackback(1) | Comments(18)

『学問の道標』(柏祐賢)

b0037269_12442754.jpg以下は、他のブログで書いた記事の転用です。このブログの趣旨とは合わない本ですが、絶版状態になっているのを残念に思っている本なので(しばらく本を紹介していないこともあって、汗)、こちらにも載せておきます。

柏祐賢『学問の道標―学究者におくる』(未来社、1984年)です。学生諸君のなかには研究者を志す人もいるでしょう。本書は、文系の研究者を目指す人の心構えを説くために書かれた――そして、読む者の心を動かしうる――数少ない書のひとつです。著者は京都学派、とりわけその方法論としては、哲学者であった高坂正顕の影響を強く受けています。

学問とは一体なんであり、学問を志す研究者はいかなる人格を養わねばならないのか――20年以上前のものですが、著者の考え方を時代遅れと感じる者があるなら、それは、時代の趨勢に流されることのない学問の本質をいまだ知らない者だと言わざるをえないでしょう。すでに絶版となり、入手の非常に困難な書物ではありますが、研究者を目指す人であれば、一度は目を通してもらいたいものです。

著者の「はしがき」を締めくくる言葉を記しておきましょう。
 
「これから、この学問研究の厳しい道にわけ入ろうとする諸君に、ここで強く申したい。すなわち、この道の何であるかを十分にわきまえ、これこそ、自らの真に進むに値する道であると自覚し、もってまっしぐらにつっ走ってもらいたい。学問の道は、自らの生涯をかけ、燃え尽きるにふさわしい一本道である。」

こちらに、土偶さんによる、けっこうなブックレビューがありますので、ご参照ください。

柏祐賢氏がお亡くなりになりました。その謦咳に接する機会に恵まれた者ではありませんが、この書より得た学恩に感謝いたします(2007.3.17追記)。


b0037269_22354768.jpg『学問の道標』の増補版(柏久編著『「生きる」ための往生―李登輝台湾前総統恩師柏祐賢の遺言』)が、柏祐賢氏の追悼本として再版されました。その「あとがき」によると、このブログ記事もまた、再版のきっかけとなったとなった、とのことです。

思えば『学問の道標』と最初に出会ったのは、私がまだ20代の院生であったころ、京都の小さな古書店においてでした。すぐに一読し、柏祐賢氏については詳しいことはなに一つ知らぬまま、いつか自分が研究者になることがあれば、この書を学生たちに紹介したい、と望んだことをよく覚えています。

いま、ブログの記事を介するというかたちで、この書が広く若い読者に読まれることの一助となれたということでしたら、これに勝る悦びはありません(2007.7.14追記)。

by enzian | 2007-02-07 13:00 | ※好きな本 | Trackback | Comments(7)

哲学エッセイの白眉

b0037269_21191546.jpg煮詰ってまいりました。ちょっとフレッシュな記事が書けそうにないので、今日は、何ヶ月にもわたって、ここで紹介すべきかすべきでないか迷い続けてきた一冊を、勢いにまかせてえいやっ!と紹介します(どうせヤダと言われるので、著者の了解は得ておりません)。

池上哲司『不可思議な日常』です。著者はぼくの同僚。この微妙な関係が紹介を思いとどまってきたいちばんの理由です。自分びいきは得意技ですが、身内びいきは苦手なのです。ジャンルは哲学エッセイ。仏教系雑誌の同名コラムに連載されていたエッセイ80篇が収録されています。仏教系雑誌の記事であったことが躊躇した二つ目の理由です。著者もぼくも特定の宗教への個人的な関係をもち合わせていませんが、紹介することでそのような誤解や予想外の影響が生じることを恐れました。文章については、著者は自分の母親にもわかるように書いたと言っていますが、読み通しておもしろいと感じるには、かなりの忍耐力が必要でしょう。紹介しても、どれだけの方が読むことができるのか‥‥。楽しく読み通せない本など、どれほど深遠であろうと、たんなる紙の束にすぎない。それが、ぼくを迷わせた三つ目の理由です。

それでも今回、紹介しようと決心したのは、この本が哲学エッセイとして素直にスゴイと思うからです。ぼくのエッセイなど比較の対象にもならない。構成は 「遠い記憶」「こころの不思議」「生命へのおそれ」「不意の電話」「過ぎ去った時間」「渦巻き猫の死」の6章からなります。お世辞にも明るいとは言えず、むしろしんみりさせるタイプの本ですが、もし読み通せれば、著者の、家族や動物への愛情に満ちたやさしい眼差し、そして、さりげない言葉のなかに秘められた含蓄の深さに、たちまちにしてファンになる人も多いことでしょう。すでにアマゾンでは品切れ表示が出ていますが、興味のある方はここをごらんください。在庫があるようです。

by enzian | 2006-02-27 21:28 | ※好きな本 | Trackback | Comments(16)

キノコの本

b0037269_17104632.jpgぼくの記事を読んで、キノコに興味をもたれた方もおられるかもしれませんので、今日は、おすすめのキノコの本(写真集)を一冊、紹介することにしましょう。

大作晃一・吹春俊光『見つけて楽しむ きのこワンダーランド』(山と渓谷社)です。100頁ほどの薄い写真集です。昨年、出版されたもので、説明にはほとんど問題がありません。

キノコの写真はずば抜けて鮮明で、しかも珍しく原寸大の写真を採用しています。読者は、目の前に本物のキノコがあるかのように感じることができるでしょう。ちなみに、グロテスクなキノコはしっかりそのままグロテスクですので、それなりの覚悟もしておいた方がいいかもしれません。


b0037269_17121114.jpg本の紹介だけでは寂しいので、ちょっとおまけ。なんの変哲もない写真ですが、裏山です。ここがぼくとキノコとのランデブーの場。ぼくの秘密の遊び場ですね。


b0037269_17512912.jpgハタケシメジ(畑占地)の幼菌です。ホンシメジと並び立つ第一級の優秀な食菌です。加熱しても消えない貝柱に似た歯ごたえに、十分な旨みをもっています。どのように料理しても美味しいキノコです。最近、人工栽培がはじまりましたが、野生のものは栽培ものよりもはるかに大型でずっしりしており、味も野生的です。

地面を埋め尽くすように大量に群生していました。このキノコの味を知っている人が見れば狂喜乱舞の光景ですが、誰も採ろうとしません。知らないんでしょうね。今回は、採りませんでした。まだ冷凍庫が春に採ったこやつでいっぱいなもので‥‥


b0037269_17145057.jpg山栗(栽培された栗よりも粒が小さい)がたくさん落ちていますが、やはり誰もひらう人はいません。



b0037269_1717253.jpgカエラーのみなさん、何ガエルか、おわかりですね?^^



b0037269_17181430.jpgノーマルなカマキリです。山間ということもあって、もっとぽってりしたハラビロカマキリ(腹広蟷螂)も多いですね。ちなみに、【R】ハラビロカマキリは、必ずと言っていいほど、気持ち悪いにもほどがあるハリガネムシを体内にもっています。



b0037269_17213858.jpgアカトンボですね。大した写真ではありませんが(^^;

by enzian | 2005-11-12 18:19 | ※好きな本 | Trackback | Comments(30)

『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』(井村和清)

b0037269_1641271.jpg祥伝社のノン・ブックシリーズの一冊として1980年に発売され、三年前に文庫化されたものです。100万部以上を売り上げたかつてのベストセラーであり、ご存知の方も多いでしょう。

天邪鬼のぼくとしては、ベストセラーを紹介するのは本意ではありません。それでも紹介するのは、文庫版が出て増補がなされたこと、すでに過去の書となり、若い世代にはこの書を知らない人も多いだろうこと、を考慮してです。

著者は井村和清。医師であり、「飛鳥」と「まだ見ぬ子」の父親でもあります。病に犯され、死を覚悟し、亡くなるまでに井村が書き続けた文章がこの書の主な内容です。徐々に進行する自らの病を医師として冷静に見つめ、その一方で、自らが愛する人たち――両親、妻、子ども、患者たち、病院の同僚たち‥‥――への思いを切々と綴っています。その思いは、やがて遺されてしまう者への深い慈愛に満ちたものです。なかでも、飛鳥への思いを綴った部分は、父親の子どもへの思いを素直に語ったものとして、白眉の文章だと思います。

ひねりはありません。特別に名文というわけでもありません。それでも、読む者の胸を打つ逸品です。この書をもとにして制作された番組(「NHK特集」)のビデオ(「妻へ飛鳥へ そしてまだ見ぬ子へ」)も、かつて発売されていました。美しい映像と宇野重吉による朗読が溶け合った見事な作品でした。もし幸いにして入手可能なら、是非、ご覧いただければと思います。

(追記)
ビデオ「妻へ飛鳥へ そしてまだ見ぬ子へ」が「NHK特集名作100選」として発売されました。次はDVDで、そして、もう少し安価で発売してもらいたいものです(VHSビデオは7800円)。(2007.10.27)

by enzian | 2005-06-05 17:16 | ※好きな本 | Trackback | Comments(28)

『化外の花』(けがいのはな)(太田順一)

b0037269_17491047.jpg久しぶりに本を紹介します。以前の記事で少し触れたことがありますが、太田順一『化外の花』(けがいのはな)、写真集です。いつも一般受けする本は紹介しないのですが、この写真集は相当に変わっていて、極めつけです。なんせ、「化外」(法的な権力の及ばない地域)というくらいですから、“アウトロー” だと自己主張しているような “花の写真集” なのです。ただし、甘ったれた軟弱なアウトローではありません。骨太のアウトローなのです。

誰も買わないだろう写真集(失礼!)ですが、ぼくがたまらなく惹かれるのは、この写真集がぼくの偏見を完膚なきまでに打ちのめしたからです。ぼくにとっては、殺風景とは、人に見捨てられた、それゆえに可能性のない場所であり、生命感のない場所です。写真集の主たる舞台は大阪湾岸埋立地の重工業地帯(かつて小野十三郎が「葦の原」と呼んだ地域です)の一角。まさにぼくが殺風景を感じる場所。太田は、そのような人間に見捨てられた場所でたんたんと咲き続ける花を撮り、花を通じて、殺風景であることと生命がないことには関係がなく、人間の統制があるかどうかと花が咲くことには関係がないこと、いやそればかりか、ときに歪んだ統制は生命にとって重荷になる場合があることを知らせるのです。

太田にはハンセン病療養所を撮った写真集があります。かつてハンセン病療養所の人々が置かれた立場と、重工業地帯の一角に咲く花、そこに「化外」という共通性を見ているのです。太田は言います。「自分もまた〈化外の民〉でありたいと願っています。」

by enzian | 2005-05-29 18:04 | ※好きな本 | Trackback | Comments(58)