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意味づけをしないでおく、ということ。

オリンピックの放送をみていたら、やたらと競技者の物語を聞かせるようなアナウンサーがいて、思わず消音ボタンを押してしまった。さして知りもしない競技者について、お父さんがどうたら、なくなったお母さんとの約束がどうたら、スポーツと人間ドラマをなにかと結びつけようとしているのだが、知りもしないなら、素になって競技をアナウンスせよ、と思ってしまうのだ。いつからはじまった傾向なのかわからないが、とくに民放ではこういう「人間ドラマ化して、出演者を意味づける」という手法がまかりとおっている。対象のことをよく取材して伝えることは大切なことだろうし、物語のなかに落とし込んで意味づけよう、理解しようとすること自体は人を理解しようとする態度として問題ではないが、それが行きすぎて知りもしない者に勝手な意味づけをすることになれば、それは暴力以外のなにものでもない。

事実、実況放送のなかでも勝手に作ったストーリーのなかに競技者を落とし込んで、「それっ○○、いまこそお母さんとの約束を果たすときだ!」みたいな自己陶酔型の実況をえんえん続けられると、さらにインタビューでの質問までそんな感じだと、アホかと興ざめしてチャンネルを変える。そういうのは競技者自身が言うことであって、会ったこともない者がわけ知り顔で言うことではないのだ。さらに、こういう意味づける手法があまりにまかりとおると、「人間ドラマのないタイプのスポーツはスポーツでない、涙のないスポーツはスポーツではない、だからもっとドラマ化せよ」といった風潮まで出てこないだろうか。民放が好んで応援するスポーツ的なものにはそんなことはないだろうか。ときと場合と立場によっては下手な意味づけをしないでおく、という抑制も必要だと思う。

by enzian | 2016-08-18 16:37 | ※テレビ・新聞より

「きっと会える!大好きな人に」

NHK「歴史ヒストリア」、「きっと会える!大好きな人に~渋谷とハチ公 真実の物語~」の回を観た。ぼくらは誰か大切なひとが帰ってくるのを待っているような気がするし、大切なひとのもとに帰りたいと願っているような気がする。だとすれば、いつまでも大切なひとの帰りを待ち続ける姿に、打たれないひとは少ないだろう。番組を観ながら、何度も涙腺がゆるんできて困った。そして、この話の背景にそんなことがあったとは知らなかった。それなりに美談化している部分もあるのかもしれないが、どこもかしこも猛りはじめようとするかのような時代にこんなぴりりと利いたストーリーを作った気骨に、やはりNHKだと思った。

上野博士との再会像は今度東大に行ったときに見てこよう。あとで調べたら、この像をつくろうという発案をしたのは東大の哲学研究者だった。

by enzian | 2015-10-26 20:22 | ※テレビ・新聞より

聖なる物語

なんでもかんでも東北のためにとか、被災地に勇気を与えるために‥‥といったストーリーで意味づけるひとがいて驚いてしまう(ついでに言うと、この「勇気を与える」という言葉づかいには違和感を覚える)。揚げ足をとられては困るのではっきり言っておくと、被災地のためになにかをすることにとやかく言っていっているのではない。そんなこと、言うわけないじゃないか。そうではなく、まったくそんなつもりもなくスポーツをしたり、働いたり、趣味に興じたりしているだけなのに、それを第三者が「それは被災地の方のためですよね?」といった感じで強引に結びつけるのはいかがなものかと思うのだ。

もちろん、被災地のためになにかをするのは立派なことだと思う。それは当たり前なのだが、純粋に自分が勝つためにスポーツしたり、自分の儲けのために仕事をしたり、キノコ鍋にするためにキノコ狩りに行ったりするのも大いにけっこうなことなのだ。ひとの行動を勝手に自分好みの聖なる物語の一部にすることは、個人の空想のなかでは自由だが、それを三次元の他人に押しつけるのは暴力以外のなにものでもないと思う。

by enzian | 2011-08-26 21:27 | ※テレビ・新聞より | Comments(2)

「山で最期を迎えたい―ある夫婦の桃源郷」

二年ほど前に、「山で最期を迎えたい―ある夫婦の桃源郷」(山口放送制作)というドキュメンタリーを紹介したことがあります。どなたか覚えておいででしょうか。紹介しながらも、もう再放送されることはないかなと思っていたのですが、youtubeにアップされていることに気づきました(6本に分割してあります)。このような時期ですが、いやこのような時期だからこそ、ひとが慣れ親しんだ、大切な誰かと苦楽をともにした土地で生きることの意味を考えさせてくれる立派な作品だと思います。  1 2 3 4 5 6

by enzian | 2011-05-02 21:42 | ※テレビ・新聞より | Comments(0)

行くひと、来るひと

5月にドイツに行く用があるのだけど、先日、ルフトハンザが東京からの発着を当面取りやめ、発着空港を中部空港や関空に移動するというニュースを聞いて驚いてしまった。少し前に買ったチケットはルフトハンザではなかったので、特に問題なかったが、フランクフルトに着いてから、日本から渡航した人間だけ余分な検査をされるかもしれないと思ったら、おもしろくない。少し調べてみると、ドイツ外務省は東京の大使館の機能を一時的に大阪に移している。イタリアの航空会社はルフトハンザと同じような措置をこうじている。アメリカが自国民に、どういう根拠からか、事故原発から80キロ圏内からの退去を求めていることはご存じのとおり。まことに慎重というか、ごたいそうな判断だと思って敬服してしまった。ぼくは長いこと、いろんな情報収集とか総合的判断というのは自国よりも欧米(特にアメリカ)の方が強くて正確(客観的)だと信じていたのだが、今回の出来事ではこの考え方を変えた方がよいのではないかと思っていて、事実そうなることを強く願っている。

そんな欧米各国のことはよい。ぼくはまず東京に行かんならんので準備中なのである。ほんとはいまごろには引っ越ししているつもりだったが、3月中は動けないことになってまだここにいて、しかもにわかに忙しい。引っ越し先のインターネット配線は、宮城にNTTのなんとかがあって搬送できないとかでペンディング状態となった。冷蔵庫やらテレビやらは持って行くのがイヤなのでレンタルするつもりだったが、これもまたとつぜんの需要過多で借りられる見通しがつかなくなった。でもそんなのは、はしたこと。哲学なんぞいざとなればこの身ひとつでできるし、なによりもぼくの楽しみは東京の下町巡りなのだ(研究をしろ、研究を)。東京の下町はどこへも逃げないだろう。

by enzian | 2011-03-21 12:06 | ※テレビ・新聞より | Comments(0)

宇宙的関西弁

このネタはもうなんかいか書いたのだけど、また書いてしまう。NHKがアナウンサーたちに厳密な標準的イントネーションの正確さを求めるという話は聞いたことがあるが、一方、NHKが放送するドラマで使われる関西弁の不正確さは目を覆うばかりで、ときに観ていてつらくなることがある。そんなわけで、ドラマはもともとほとんど観ないが、とりわけ関西人設定の登場人物が出るNHKドラマは観ない。関西人設定の登場人物を関西人が演じておればよいではないか?というひとがいるかもしれないが、よくない。そういう関西人もまた、なぜかドラマのなかでは変な言葉を話すからだ。おそらくNHKには方言指導者がいて、ある意図をもって “特種な関西弁” を指導しているのだろう。

もちろん、これぞ関西弁という関西弁というのはないわけだが、広範囲に曖昧に広がる関西弁領域のなかから、聞いた言葉がどの辺りにあるかを瞬時に感じ取り、関西弁であるか否かを判断できるのがネイティヴ関西人なのである。ところがNHKドラマの関西弁はしばしば、イントネーション、ときには語彙をも含めて、ネイティヴの関西人でも使用例を聞いたことのないような独創的な関西弁なのだ。そうした宇宙的関西弁は「どうやら関西弁らしい」ということが文脈によってようやく判定可能となる “文脈依存言語” である。ぼくは長く、実在しないものを流すことになんの意味があるのかと感じていたが、最近は、きっとNHKは独自のユートピア(「どこにもない場所」の意味)文化を創ろうとしているのだろうと思っている。言語文化の創作的脚本としてはおもしろいのかもしれない。

*文脈(コンテクスト)
‥‥この場合、NHKドラマの、関西人設定の登場人物であるということ、など。

by enzian | 2010-07-29 21:27 | ※テレビ・新聞より

大学の責任

先日、定時制高校の教員の話をNHKでやっていたので観た。すごく単純化して言ってみれば、学生との対話を重視している先生の話しで、おもしろくなくはなかったのだが、特別に感心したこともなかった。学生との対話を重視しているというのなら、研究を抱えた大学の教員でも普通にしていることだからだ。むしろ学生との対話という意味なら、個人研究室をもった大学の教員の方が環境としては整っているだろう。もちろん、なかにはいまだに自分を「教壇に立つ者」などと定義する時代錯誤な方もおられるのだが‥‥。

その定時制高校の先生は言っていた。自分がこのように学生との対話を重視するようになったのは、一人の学生の退学を止められなかった苦い経験からなのだ、と。その話を聞く限り、その先生に落ち度はないと思えた(もちろん、話せないような事情もあるのだろうが)。そして、それ以降、一人の退学者も出していないのだという。毎年何人かの学生を退学させてしまっているぼくは、心底、驚いてしまった。

何人かのなかには明らかに自分の失敗だと思える例がある。これには、歯ぎしりしながら、二度と同じミスは繰り返すまいと誓うしかない。だが、できる限りの時間を費やし、考えうる限りの手段を尽くしても退学を止めることは不可能であったと思える場合は、はるかに多い。退学に賛成して、そこから教師と学生ではない、人間と人間の長いつきあいがはじまった例も少なくない。そのいくつかは墓場まで続くのだろう。4年の教育に責任をもつべきことは当然であるにしても、4年の教育だけが大学の責任なのではない。

by enzian | 2010-01-25 22:48 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(4)

子どもの仏

録り貯めた録画のなかに円空仏の放送があった。かつてその地を訪れた円空は仏を彫って宿代にしたという。傷だらけの円空仏が伝わる家の主によれば、その家の円空仏が傷だらけなのは、それが昔から持ち出し自由で、子どもたちの遊び相手になってきたからなのだ。川で遊ぶ際、子どもたちは木の仏を浮き輪代わりにしたらしい。両手で掴まるのにちょうどよい大きさで、山の木から切り出したような荒々しいつくりの仏であれば、子どもたちがそれを川遊びの道具とすることにもためらいはなかっただろう。円空仏は文字通り身をもって子どもの命を守ってきたわけである。

円空が彫ったとされる仏をめぐっては、持ち出して遊ぶ子どもたちを叱った大人が逆に夢枕に立った仏に叱られたといったような逸話は多いが、大切なのはこういった逸話が真実かどうかではなく、そのような物語を数多く作らせるものが円空仏には宿っているということなのだ。高い台座から見下ろすような金箔貼りの絢爛(けんらん)たる仏像は、大人のための仏にはなっても、子どもの仏にはならないだろう。

by enzian | 2009-10-12 20:34 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(2)

説得

川で事故があった。少年3人のうち1人が溺れ、2人は助けようとしたが助けられず、見つけることもできずに帰宅している。少年2人はそのことを親に知らせていない。以前、川で遊んで叱られたので、また叱られることが怖かったのだという。今回事故にあったのが少年であって、かつて同じ川で遊んでいた自分でなかったことを思った。少年3人のうちの1人であって残り2人でなく、自分ではなかったことはただの偶然なのだ。

少年たちが前に叱られたのは、溺れたりするといけないから、ということだったのだろう。事故が起こってすぐに知らせたとしても少年が助かった保証はない。だとすれば、大人の言葉の大切さを知っていたがゆえに事故を知らせることができずにいた子どもを誰が責めることができるというのか。きっと誰も責めないだろうが、誰も責めないことほど少年たちを責めるものはない。どのような説得も受け容れることなく、少年たちは生きている限り自分の責任を問い続けることになるのだろう。そして、誰の説得も受け容れないことを責めることもまた誰にもできない。そういう風に人間をつくったのは少年たちではないのだから。

by enzian | 2009-09-08 23:58 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(0)

観てしまう

b0037269_1757384.jpgドキュメンタリー「山で最期を迎えたい」(山口放送制作)をまた観てしまった。

以前は民放でひっそり流されているのを観たが、今回は「日本放送文化大賞」のテレビ部門のグランプリを受賞したとかで、NHKでゲスト付きで放送されていた。番組ではなぜこのひとなの?というタレントが感想を語っていて、ミスキャストだと思った。「あたしわぁ~○○と思いますぅ~」といった口調に合うドキュメンタリーではないのだ。以前、興福寺の阿修羅像を取り上げた「NHKスペシャル」で、「阿修羅さま~」を連発するモデル?を多用しているのを観て、あやうく長年の “仏像” への思いが興ざめしそうになった苦い思いがよみがえった(あぁまた毒舌を、バカバカ)。

自分もまたこの名作について話すのに適した人物ではない。むしろぼくが言いたいのは、上で「観てしまった」と表現したことにかかわる。観れば切なくなるとわかっていたのに、なぜ今回もまた観てしまったのか、ということなのだ(ちなみに、この作品は切なさをテーマにしているわけではない)。そうなのである。あの最後のシーンは観ないでおいた方がいいとわかっていたのに、「観てしまった」のである。

ときどき考える。(たいていは、最悪の結果を生みはしないだろう、という前提のもとではあるにしても)無性にひとつの感情を力強く押し進めたい、昂進させたいと望んでしまうのはなぜだろう、と。「楽しい」ばかりが感情であればいいが、「怖い」や「悲しい」や「淋しい」や「切ない」もまた感情なのだ。つねひごろ、感情の “純粋さ” とか “力強さ” という視点とはなるべく距離を置こうと思っているが、再放送があればまた「観てしまう」だろう。

by enzian | 2009-06-21 18:03 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(21)