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人間方位磁石

関西人の正しい金曜日の夜の過ごし方は、激しかった一週間をしみじみ振り返りつつ、11時15分からは「探偵!ナイトスクープ」を観て笑ったり泣いたりする、というものなのだが、昨日の “人間方位磁石” の女性の話は抜群におもしろかった。その女性は日頃、自宅の寝室で頭を南東に向けて寝ているそうなのだが、寝ている姿勢をとれば、それが寝室のなかでなくても(室外でも)南東がわかる、というのだった。

本当なの?というわけで、番組は、まず室内で実験をする。布団を敷き、寝そべって、「(頭の向きが南東とは)反対!」と反転する女性。「なにが反対と思わせたの?」という問いに、「雰囲気」と女性は答えた。続いて女性は目隠しをして山中へ連れていかれ、磁石なしのオリエンテーリングをする。布団とマイ枕をもった女性は、岐路にさしかかるごとに布団を敷いて寝そべりながら、見事に南東を見極めて、複雑な山道を歩いていく。鈍感なぼくには女性の言った「雰囲気」の意味はわからなかったが、南東向きの道を歩きながら「南東に来とる気がする。カーテンの方に向かっとる気がする」と言ったのは興味深かった。やはり女性はポータブルな “そのなかでは頭が必ず南東を向いている寝室という空間” を、いわば方位磁石として持ち歩くことで方向を定めている(“定位” している)のだ。

誰しも現実の自分の寝室という空間をもっていて、そうした寝室のイメージを持ち歩くことができるだろうが、どちらも、いま目の前にある景色の位置関係とは結びつかない。“寝室” は移動不可能(寝室という空間をそのまま山中に持ち運ぶことはできない)であり、“寝室のイメージ” はあくまでイメージで、いま目の前にある景色とは無関係だからだ。女性は、第三の空間的な感覚(絶対方角感覚?)をもっているのだろうか。

by enzian | 2009-06-20 12:13 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(11)

「命の一滴 いただいて~岩手・漆の里の四季~」 (ハイビジョン特集)

コマーシャリズムやいっときの流行を追いかけ回す人やメディアからは自然と距離を置こうとしてしまう癖がある。言うまでもない、商才も流行をかぎ分けるセンスも当方に欠けているからにほかならない。嫉妬心ですね。こういう嫉妬心をかき立てるものがNHKにも最近目立つようになってきて、NHK大好きなぼくはいったいどうしたらよいものか困っていた。いっそ捨ててしまってきれいさっぱり忘れてしまおうか、などとも思っていたのである。

ところが、「命の一滴 いただいて~岩手・漆の里の四季~」 (ハイビジョン特集)を観てしまった。「ヤノマミ 奥アマゾン 原初の森に生きる」(NHKスペシャル)は鳥肌の立つ秀作だったが、これも出色の出来だった。どちらも、命についてまじめに考えたいと思っているひとには格好の番組だと思えた。やはり、NHKとは観ざるをえないものの名なのだ。優秀なピーナッツのひとつふたつもあれば、それだけで柿の種一袋も食べられるのである。

「命の一滴」は、国産漆の大半を生産する山里で働く漆かき職人の1年を中心に編まれている。6月にはじまる漆かき作業の前に職人は服装やすべての道具を新しくし、神に祈り、神妙な面持ちで山に入る。漆かきは生きた漆の木肌に傷をつけることで樹液を採るが、職人はそれを「殺生」とも「生殺し」とも表現していた。殺生だという意識と、それでもやらねばならぬ生業(なりわい)であるという意識とのせめぎ合いがそうした面持ちを作るのだろう。穏やかに自宅で話す、幾星霜を経たかのような職人の顔もまた印象的であった。長野県にはキノコ狩りを「殺生」と表現する地方があると聞いたことがある。

by enzian | 2009-04-04 17:05 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(0)

久米明

久米明(敬称を略する)が主演のドラマを見た。しばらく久米明がテレビに出るのを観なかったので、バチあたりなぼくは勝手にもうお亡くなりになったのかと思っていた。氏の木訥(ぼくとつ)とした話し方が好きなのだけど、ドラマでも淡々と老人を演じていた。ぼくは演技のデフォルメ(誇張)が強くなればなるほど早くチャンネルを変えるタイプなのだが、最後まで楽しんで観ることができた。いいドラマだった。さすが久米明だ。

久米明を好きなのは小学校のときからだ。当時、日曜日の夜10時から「すばらしい世界旅行」(OPED)というテレビ番組が放送されていて、そのナレーターが久米明だった。久米明のナレーションに導かれながら、ぼくはパプアニューギニアのジャングルやアマゾンで生活する人たちの様子を観ていた。そんなところにいつか行ってみたいと思っていた。この番組を観るときだけ10時すぎても起きていることを許された。日曜日の夜は少しだけ大人になれた気がした。

今でも久米明の木訥とした話し声を聞くと、そのときの高揚したような、それでいて胸を押さえつけられているような不思議な気持ちがよみがえる。ぼくからすれば、なんとしてもいつまでも元気でいて欲しい方なのだ。ドラマの最後の場面では、すでにお亡くなりになっている設定だったのだけどね。

by enzian | 2009-02-15 23:33 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(11)

ユキヒョウには共感しても、ホオジロサメには共感しない。

お正月に録っていた「プラネットアース」を見たのだ。プラネットアースは多くの名作を擁する「NHKスペシャル」のうちでも名作中の名作だと思うが、今回のは、長大なプラネットアースのうちでも選りすぐりの名場面集なのだという。自然界の話だから、どうしても喰うか喰われるか、というのが多いのだけど、ときにはハイスピードカメラを交えた最新の映像が映し出す “現実” を前に、ぼくの心は右に左に揺れた。喰われる者を応援しているかと思ったら次の瞬間には喰う者を応援したり。喰う者と喰われる者の組み合わせによっては、もうどちらの肩をもったらいいのかわからなくなるような場面さえあったのだ。

ただ、どちらの肩をもつかという心の揺れは、組み合わせによってはまったくない場合もあった。その“振幅”には、組み合わせによって大小があったのだ。以下の例で考えてみよう。(左が喰う者、右が喰われる者。)

1.ユキヒョウ――― アイベックス?(野生の山羊?)
2.ホオジロザメ―― オットセイ
3.ライオン―――― ゾウ
4・ワニ―――――― ヌー(野生の牛?)

このうち、ユキヒョウとアイベックスの組み合わせでは、ぼくの心はぐらぐらと揺れた。腹を空かしたメスライオンと若いゾウの組み合わせでもそれなりに揺れた。しかし、ワニと無数にいるヌーの組み合わせではほとんど終始ヌーの肩をもち、ホオジロザメとオットセイに至っては完全にオットセイの側にまわった。つまり、振幅の大きさは1>3>4>2なのだ。ぼくのなかではこの順序はほとんど不動だが、その理由を説明するのはやっかいだ。

by enzian | 2009-01-12 12:38 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(7)

「ぼくを待っているから。」

テレビをつけたら、かわいらしい子牛たちに少年がミルクをやっているところだった。家は酪農家なのだろう。取材者が少年に問う。「なぜミルクをやるのが好きなの?」少年にはむずかしすぎる問いだとぼくは思った。たとえ答えられたとしても、「牛が好きだから」がせいぜいのところだろう。答えられそうにない問い、答えられたとしても一定の答えしか期待できそうもない問いなど、問う方が愚かなのだ。そう思った。

だけど次の瞬間、ぼくは驚いてしまった。少年はこう答えたのだ。「ぼくを待っているから」。愚かなのは取材者ではなく、ぼくであった。

番組は進み、以前から少年が登ってみたいと思っていた山にチャレンジする段になった。天候が崩れてしまい、少年は途中で登頂を断念しなければならなくなった。エンディングの場面になり、悔し涙を流す少年に同行していた父親がやさしく話しかける。「おばあちゃんも待っているし、牛も待っているよ」。この父親にしてこの少年ありなのだな、と思った。

by enzian | 2008-08-26 21:58 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(27)

インテリジェント・デザイン・セオリー

ID(インテリジェント・デザイン)、つまり知的存在によって世界が作られたという説を進化論にかえて(併記して)教科書に記載すべきだという議論がアメリカの一部の州で高まっていると聞いて驚いた。すでに数年前にバチカンが進化論を一部受け入れ、全世界の創造説をあきらめて、生物は進化してきたが、進化する生物の魂をはじめに創ったのは神であるという、“魂(のみ)の創造説” にトーンダウンしていたからだ。

IDは(教科書の記述から特定の宗教思想を排除するため)、はっきり「神」と言わないところが “味噌” で、神が世界を創ったという創造説の代理として使われる。IDの支持者の論理はけっこう単純で、進化論には問題があるからIDしか残らない、ということだ。

ぼく自身は、進化論の問題を知らないわけではないが、かといって創造説をとるほどの “勇気” はない。進化論に飛躍(いわゆるミッシングリンク=進化の空白がある)があるから知的存在による創造を認めるというIDの考え方の道筋には進化論以上の飛躍があると考えるからだ。もちろん、答えはどこかにあるのだろう。IDか、進化論か、それ以外の考えか――答えはやっぱり、神の味噌汁、神のみぞ知る?

by enzian | 2008-08-18 21:27 | ※テレビ・新聞より | Trackback

黒いサンタ

新聞投稿に見入ってしまった(7月20日、朝日新聞、朝刊)。紹介せずにはおれない気持ちなので、紹介する。 
私の三男が幼稚園の時、他の園児の絵と描き方が違うので、家庭に問題があるのではないかと呼び出されました。そこには三十数人の園児がそれぞれに描いた可愛いサンタの絵がありました。
 その中で、息子の絵はおでことほっぺ、ひげの3カ所が黒いクレヨンで汚れていました。「上手に描けているなぁ。でも、黒いのは何かなぁ」と尋ねてみると、彼は得意満面で、「サンタさんは、えんとつから入ったから、すすがついていて黒いんだよ」。その言葉を聞いたとき、抱き上げて「よう描けたなぁ」と褒めてあげました。
〔全て文章はママ〕
その後、息子さんは絵に興味をもったという話しが続く。常日頃、よくわかりもせんのに普通の人とそうでない人を “選別” し、後者を治療かケアの対象として固定したうえで速やかにしかるべき人に引き渡すことにだけ心を砕いて、うまくさばいた!と爽快な気分になっている自分をぎくりとさせるには十分な内容だった。

by enzian | 2008-07-27 10:27 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(27)

トマト祭り、激しく参加希望

トマトのサラダをお気に入りの豚のガラス皿で食べていたら、昨年、ぼくが「キャー最高!」と思ったテレビニュースを思い出した。まぁこんな感じ。
スペイン東南部、バレンシアの近くでは、
毎年、8月の最終水曜日にトマト祭り(La Tomatina)が行われます。
収穫に感謝する‥(一拍置いて)‥という意味はまったくなく、
ただトマトを投げ合います。
一時間ほどで120トンのトマトを使い切るという。かなり本気で一回参加してみたいなぁと思うアホな自分がいる。日本でも “スペイントマト祭り参加ツアー” みたいな企画をやってみれば参加者がけっこういるんじゃないかなぁと思うけど、どうなんだろうか。

でも、そんなツアー、組まない方がいいのかもしれない。本格的に日本人が参加しはじめたら、“とりわけ投げる際のコントロールにすぐれるトマト” とか、“物陰に隠れたおっさんにも当てやすい、変化球に適したトマト” とか、“見た感じとても柔らかそうだがじつは内側がとても硬くて、口うるさい上司に投げつける際に最適のトマト” とか、そういうものをまじめに品種改良して作り上げ、日本から持って行きそうな気がする。

by enzian | 2008-07-13 15:35 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(0)

小さな粒子と大きな権力

「朝日新聞」、6月18日の夕刊、「素粒子」というコラムに以下のような文章が掲載された。

永世死刑執行人 鳩山法相。
「自信と責任」に胸を張り、
2カ月間隔でゴーサインを出して
新記録達成。またの名、死に神。

この文章のとなりには、「永世名人」として、羽生新名人の快挙を「将棋の神様」として賞賛してあり、死刑確定者の執行了承をしゅくしゅくと行っている法相の仕事ぶり(かつては自分の任期中には一切、刑執行の印を押さない法相もいた)を、それと対照的な「死に神」の仕事として揶揄(やゆ)している。

ぼくは簡単に死刑に賛成する者でもなければ反対する者でもないし、ここで揶揄されている鳩山氏を支持しなければならない縁者でもなんでもないが、一方的に特定の人物を「死に神」呼ばわりする記事を品性を欠いた文章だと思ったし、そうした文章を1面に載せ、おびただしい人の目に触れさせようとする報道機関の姿勢にも疑問をもった。

by enzian | 2008-06-19 22:08 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(0)

腸(ワタ)の味

朝から録りためたハイジを観ていたら、クララが「苦いお薬、キラ~イ」などと言っている。薬は苦いもので、子どもは薬をいやがるものだ――というのは、今でも当てはまる考え方なんだろうか、などと考えている。今の薬はけっこう甘くて飲みやすいものが多くなってきているし、家庭用の常備薬のようなものには、苦いものでも糖衣錠になっているものもある。

子どもは薬をいやがるものだという考え方も、ぼくにはあまりピンとこない。ぼくは注射器を見るとタスケテママタスケテとなる人なのだが、苦い薬には抵抗がない。小さなころから苦み走ったいい少年だったから(意味不明)、苦いものに抵抗がなかったのだ。ちょっと苦みがある食べ物が好きだった。

ぼくは昔から苦みのある食べ物が好きだけど、人の味覚は歳をとるにつれて変わるもので、苦みの美味(うま)さはあるていど歳をとらないとわからない、という話を聞いたことがある。鮎の苦みが美味しいと思えてやっと一人前だというようなことを言う地方があるようだが、「味覚が変わる」というのはどういうことなのだろうか。

それは、さまざまな経験を経てきて、いろんな意味での度量が大きくなって、苦みという苦しみにも耐えやすくなる、ということなのだろうか。それとも、同じ鮎の腸(ワタ)を食べても、感じられる味が子どもと大人とでは違う、というのだろうか。もし後者なら、驚くべきことだと思う。

by enzian | 2008-06-07 11:01 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(6)