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バランス

チューリップを痛く賞賛する人たちに解せぬ思いを抱いてきた。あの花は葉っぱや茎(?)に比較して、あまりにも花が目立ちすぎるからだ。「わたくしこそ花です」といった自己主張の強い花は、敬して遠ざけることにしている。

NHKのとある番組を観ていたら、チューリップの自生地が映し出されていた。映像を見て、なにかがちがう、と思った。プランターにひしめくように、庭の一角を真っ赤に埋め尽くすように咲いている日本のチューリップとはちがうのだ。自生地では、ほかの花やたくさんの緑にまじって、いいぐあいに野生のチューリップが点在している。そうした草原のさまは美しいと思った。

自生地から抜いて来て、チューリップからすれば心外なほどの密度で狭い囲いのなかに並べて無理な自己主張を強いているのは人間なのだ。チューリップよ、ぼくが悪かった。

by enzian | 2008-05-22 23:31 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(0)

敢然さ

日本の災害救助隊が被災地に到着したという。阪神大震災以降、安全は証明できないと思う自分、なにごとも他人ごととは思えない自分がいる。

流れてくる映像の多くは見事な救出劇だが、瓦礫(がれき)の下で亡くなる被災者はその何百倍、何千倍なのだろう。だとしたら、レスキュー隊員は、1人の救出までにおびただしい数の手遅れと手の施しようのなさを、つまり自らの能力の無効さをくり返し体験しなければならない。レスキュー活動がぼくの胸を打つのは、救出のドラマティックさや、そうした救出に至るまでに積み重ねられてきたであろう努力の痕跡であることは言うまでもないとして、こうした無数の無効さにも屈しようとしない敢然(かんぜん)さなのである。常日頃、小学校や中学校で、いや家庭でなぜもっと早く気づいて手を打ってきてくれなかったのだ、もう遅すぎるではないか、と愚痴をこぼしているどこぞのおやじとはえらい違いなのである。

たとえその多くが無効だとしても、災害救助は、そんな感傷に浸っていられるほど悠長(ゆうちょう)な任務ではないということもあるのだろう。そういう意味で、長期にわたる活動であれば、側面からの支援を行う心理家の同行が必要なのかもしれない。

by enzian | 2008-05-16 23:33 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(0)

子どもが水辺で遊ぶのを止めることはできない。

水辺で事故が起きて、ニュースが現場を映し出す。またか‥‥。池はすり鉢状のなめらかなコンクリート張りになっており、何かのひょうしで池辺で滑れば、一気に水面まで落ち込むような構造になっている。滑り落ちれば、どこにもつかまるものはない。大人であっても、はい上がるのはむずかしいだろう。子どもを助けようとした大人が亡くなるというニュースも多い。

こういうとき、なぜ池(や川辺)がすり鉢状になっているのだろうと思う。もともと水辺には危険がつきものだが、つるつるのコンクリートを張ってその危険を高めているのは人間なのだ。ともあれ、こういう事故を起こしてはならないと、どの池でもフェンスが張られるようになってきているが、子どもがそうしたフェンスを乗り越えて、かいくぐって事故が起こることもある。水の冷ややかな感触、水辺にいる生き物たち‥‥それを求めるなと言っても、好奇心旺盛な子どもには土台、無理な話なのだ。

池の近くで遊ぶな、フェンスを乗り越えるなと言われても、子どもは水辺で遊ぶ生き物なのだ。いまどき、水辺でどんどん遊びなさい、とはとても言えないだろう。だったら、せめて、すり鉢状の池→危ないからフェンスを張る、から、どうしても子どもは水辺で遊ぶもの→フェンスを張る+落ちてもはい上がれるように池に段差をつけ、つかまるところがあるようにする(要は、落ちても決して溺れられないようにする)、という風に考え方を転換できないだろうか。

by enzian | 2008-04-20 21:49 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(0)

自分でよかった。

b0037269_22542562.jpgとても重い病気になった人が、「病気になったのが自分でよかった」と発言していた。その言葉には動かされたのだけど、自分が同じことを言えるのか?と問われれば、わからない。風邪ぐらいなら、家族でなくて自分でよかったと思えるだろうが、非常に重く辛い病気であれば、相手が家族でも、自分でよかったと言える100パーセントの自信はない。

冒頭の人なら、「辛い病気だからこそ、家族でなくて自分でよかったのだ」と言うのだろうが、たぶん、ぼくは「自分でよかった」より、「なぜ自分が?」ということにこだわって生きている。

相手が誰であろうと「自分でよかった」と言えるような人、「なぜ自分が?」から「自分でよかった」への完全な転換ができている人とは、どんな人なのだろう。宗教であれば、そのような人は人であってすでに人でない、ということになるのだろうか。完全とか100パーセントとかにこだわる必要なんて、ないんだけど。

by enzian | 2008-03-25 22:45 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(0)

歯切れの悪さ

マルチ商法のセミナーを観る。嬉々としてホワイトボードに書き殴っている。文字に丸をつけ、勢いよく矢印を引っ張ってくる。「われわれが扱っているのは人間の真理なのです」。セミナーの参加者たちは大きくうなずく。こういう明瞭な物言いに酔わされる人は多いのだろう。この明瞭さは言葉を単純に言い切る「強さ」であって、言葉の意味の明瞭さではない。言葉の意味よりも、その強弱を求める者は少なくない。

ただ、というか、だからというか、酔わされる人は自分がなにもわかっていないことに気づいていない。一方、詐欺師たちは自分がなにも知らないことを十分に承知している。それが詐欺師の詐欺師たるゆえんなのである。しかし実は詐欺師たちよりもっと事を深刻にするのは、自分がなにも知らないことを承知しようとしないまま、承知しようとしない怠惰の責任を他人に押しつけたまま、平気でこのような発言をする者たちなのだ。

いかにも情けないような、歯切れの悪い人でいたい。

by enzian | 2008-03-06 12:21 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(0)

喰われる

読んで気分のよい文章ではないので、隠します。

【R18】

by enzian | 2007-09-20 18:42 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(34)

ほとんどすべて思い込み。

石垣島の某名物おばぁが長生きの秘訣を聞かれて、若いころに、売られそうになっていた海亀を助けたことがあるからだ、と自信たっぷりに答えていた。それを見たぼくは「浦島太郎かっ!」というようなつっこみは入れず、むしろ、なるほどなぁと深くうなずいていたのであった。このおばぁにとっては、あの日あの時の善行がしっかり現在に至るサクセスストーリーの起点となっているわけだけど、えてして人の一生とは、こういうタイプの、ほとんど根拠のない無数の思い込み物語によって編み上げられた織物のようなものなのだろう。

そしてこのことは、言い方を変えれば、どんなささいな善行であっても、そこから、想像力たくましい人間は絢爛豪華な成功物語を織り上げることができる、ということでもある。ひょっとすると、人が善いことをすることの効用は、こういう、手前味噌的な物語の起点となりうるところにあるのかもしれない。「情けは人の為ならず」も、そういう意味なのか。

困ったこともある。ささいな善行が絢爛豪華な成功物語の起点になるなら、ささいな悪行もまたなんの根拠もない自虐的、阿鼻叫喚失敗物語の起点になるだろうからだ。そういうことだから、善いことはたとえ誰に知ってもらえなくてもした方がいいし、悪いことはたとえ誰にばれなくてもしてはいけない、ということなるのか?おばぁ。

by enzian | 2007-07-16 22:47 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(21)

いずれ手のひらを返す。

オウム真理教事件の余韻もいまではすっかり消えてなくなって、テレビはまた朝から深夜まですっかりオカルト盛りになっている(ここでオカルトとはなにか、という説明はしない)。ふんぞり返った占い師にしても、ゴージャスなスピリチュアル師(?)にしても、“とんでも科学” をまくしたてて欲望を刺激するエセ科学師(?)たちにしても、いずれ馬脚をあらわす。それはいいにしても、ぼくがむしろキライなのは、そういう人たちをあるときいっせいに告発して、集団で非難キャンペーンをはじめるというやり方だ。

流れ出る甘い汁はみんなで吸っておいて、旗色が悪いと見るや手のひらを返したように同じメンバーが告発をはじめる。はしごをかけて「さぁさぁせんせい、どうぞお上りください」とおだてて屋根へ上らせておいて、とつじょはしごを取り去って、屋根に残された人の顔に向けていっせいに石を投げつける。そのとき、誰が屋根に上げたのかはすっかり忘れている。そういうのが恥ずかしいことだとつねづね感じているので、そもそもそういう怪しげなモードにははじめから乗らない、と思っているが、しっかり乗っかっているのかもしれない。

by enzian | 2007-04-07 13:59 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(18)

負けを認めること

NHKのBSで『あしたのジョー』特集をやっていて、夢中になって見てしまった。子どものころは毛嫌いしていたアニメなのに、どういう心境の変化なのかと思いながら、画面にかぶりついていた。もちろん、いくつになってもキライなものはキライだ。孤独、不信、暴力、嘔吐、罵声、怒号、汚れ、貧困、流血、死、そして、総じて男とはこうあるべきだというステレオタイプの “男観”‥‥。幾つになってもそういうものをすんなり受け入れることはできないけれど、なにがそんなに惹かれるのかと考えていたら、矢吹丈にしても力石徹にしても、けっこう負けることに気づいた。いつもいつも放送時間残り時間5分で大逆転勝ちを収める常勝主人公には飽きてしまう天の邪鬼なので、これは嬉しい。

でも、矢吹や力石が負けることなど、昔から知っていたはずだ。今回、惹かれたのは、矢吹や力石が負けるだけでなく、彼らがその負けを認め、同時に、ぎりぎりの努力をもってしてもかなわない相手のとてつもない強さを称えていることに気づいたからなのだ。8回戦で力石に敗れた矢吹に段平が、同時代に力石のようなボクサーがいることはわれわれにとって不幸だ、というようなことを言ったときの矢吹の答えは、かつての救いようのない荒くれ者の印象のかけらも感じさせないものだった。「ちがう。そういう立派なボクサーと闘えたことを心底幸せだと思う」。敗北は相手に対する優先権の “喪失” なわけだけど、心から負けを認めるとき、すでに敗者は勝者から少なからぬ影響を受けているのであって、多くのものを得ているのだと思う、と言えば、あまりにも当たり前か。

難易度:中の下(虫がお嫌いな方は、開かない方が‥‥)

by enzian | 2007-04-01 22:48 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(29)

怒り続ける力

テレビを見ていたら、今日も老人が烈火のごとく怒っている。怒りは収まるどころか、炎は勢いを増しているようだ。番組のゲストは、もうよいお歳なのだから、それぐらいで許してあげたらいいのに‥‥などと言っているが、もともと老人の肩をもっていたぼくは、そのコメントを聞いてますます、それいけ、やれいけ、と無責任に老人を応援する。

だいたい、これほど怒り続けられる、というのがすばらしい。そもそも怒るというのはエネルギーのいる作業なのだけど、“怒り続ける”というのは莫大な燃料のいる仕事なのだ。エネルギッシュでよいではないか。

それに、ゲストのような考えの人は多いのだろうけど、どうして、よい歳なら怒ってはいけないのか、わからない。燃料が尽きた後の反動が困るから‥‥という配慮からならわかるけど、どうもゲストの言い方は、いつまでも怒り続けるのはすでに一家をなしたこの国の老人としては大人げない、とでも言いたげな風だった。ゲストもぼくも本当の事情は知らないわけだけど、老人も好き好んで怒っているわけでもないだろう。あれほど怒らざるをえないのだから、きっと自分が自分であるために必要な部分を傷つけられた、と思っているに違いない。

そんなとてつもない怒りを、どうして大人しく我慢したり、冷やして固めたり、取り除いたり、さっさと水に流してきれいさっぱり忘れ去ったりしなければならないのだ。わかったような顔をした他人にそんな風にせよ、と説得される筋合いもない。自己の存亡を賭けた闘いの真っ最中に、他人がみっともないと思うかどうかを気にする余裕などない。怒り続けることもときに大切だとぼくは思っている。自分自身を傷つけない限りで。

難易度:中の上

by enzian | 2007-03-05 19:26 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(45)