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「送ったのは能面」

ヤフーニュースのトピックスを見ていたら、「○○が△△側に送ったのは能面」というのがあって、○○も思い切ったことをやるのね、とひとりきゃっきゃっと喜んでいた。○○と△△は芸能人カップルで、○○が女性。要は、度重なる△△の御乱行に、ついに○○が三行半を突きつけた、というわけなのだ。人ができちゃった結婚しようが、別れまいが芸能レポーターでないぼくには関係のないことだが、その能面の種類がなんであるのか、は気になった。

自分だったら、送りつけられて一番イヤなのはなんだろうか。明らかに怒っている般若(はんにゃ)*や鬼太鼓面(おんでこめん)なんかは、さして応えないだろう。というか、むしろ逆効果で、反省するどころか逆切れしてしまうかもしれない。翁(おきな)であれば、それなりに効果がある。あの笑いは決して ^^ や (^0^)/ といった平和的なものではなく、その背後には、にこやかに笑って「おこしやす」とかなんとか言いつつ隣室にはしっかり逆さ箒が立てられているような、京都的一見さんお断り精神が禍々しくとぐろを巻いているような気がする(お前は京都が好きなんじゃなかったのか)。裏にあるものが怖いのですな。

やっぱり(なにがやっぱりかわからないが)、一番イヤなのは、小面(こおもて)だろう。あれは勘弁して欲しい。翁の表情は裏の意味を想像させるけど、そもそも表情のないものに表(=面)も裏もないのだ。あのウルトラ無表情**で夜中にじりじり近寄って来られたら、「極めて遺憾でありました」などと余裕をかませるはずもなく、正座に三つ指ついて、「ごめんなさい、わたしが悪うございました」云々、と心から謝罪の言葉を縷々述べざるをえない。――そんなこんなをあれこれスリリングに考えていたのだが、翌日よく見たら、「送ったのは書面」だった。

*仏教の真理を意味し、般若の面は仏教の真理をめざす際の強い意志を表すとされる。**ひとつの(無)表情で、喜怒哀楽を含むすべての精神状態を表現すると言われる。

by enzian | 2006-11-06 23:44 | ※テレビ・新聞より | Trackback(1) | Comments(2)

教えることの恐ろしさ

テレビを観ていて、おおよそ教育者とは縁遠いと思える人物が、教育論やら子育て論やらを若い大勢の親たち相手にとうとうと高圧的に説いていて、しかもどう考えても無茶な論理なのに親たちもそれなりにうなずいたりしていて、教えることは恐ろしいことだと再認識した。人を指導することや人を教えることは、やりようによっては自己顕示欲や支配欲を充たす格好の手段ともなるのだ。指導者や教育者になりたがる者が跡を絶たないことの理由の何割かは、この事情による。

教える側の自己顕示欲や支配欲を充たす手段としての指導や教育(?)と、教えられる側の能力を伸ばしたり回復したりするための指導や教育は、見た目ではまったく区別できない。外見では区別できないから、昔から教育者には高い倫理性が求められてきたのだろう。教師は教祖ではない。もし教えられる側に「○○先生でなければダメだ」とか「○○先生のためなら命を投げ出してもいい」などと思わせるなら、教師としてどこか問題があるのだ。(なんだかわからない文章ですね、スイマセン(--;)

by enzian | 2006-04-19 22:01 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(29)

1秒のチャンス

どこかで凶悪な犯罪が起きた場合、犯人が住んでいた近所の人たちが、犯人がどんな人だったのかを説明するインタビューに答えることがある。答えの相場はだいたい決まっていて、「特に派手なような様子はなかった」とか「ふつうに挨拶できる子だった」とかいった、わかったようなわからないようものが大半になる。

犯人像は一向に浮かび上がらないが、ここから一つのことが言える。派手かどうか、挨拶できるかどうか、が親しくない人を判断する際の大切な基準になることだ。人の心や性格なんて外見や言葉の端々から推測することしかできないのだから、ずいぶんといい加減なことで、そしてこのいい加減さがひょっとすると若い人の一部を失望させているのかもしれないけど、親しくもない人の心を推測するには、どうやってみたところで、目立って派手であるかどうかとか人並みの挨拶ができるかどうか、ぐらいしか基準はないのだ。

腹を割って話せる人なんてそうそういるわけではないとしたら、人と人の関係のほとんどはさして親しくもない関係にすぎない。そういう意味ではたかが1秒ほどの挨拶もあなどりがたい機会だと言えば、あまりに計算高いか。

by enzian | 2006-03-06 15:29 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(0)

正直者がバカを見る社会

あるテレビ番組で、“逆玉” に乗った男性ゲストが
一晩で飲み代6000万円を使ったことを告白し、番組は大盛り上がりだった。
「飲む打つ買う」を男の甲斐性と考える時代錯誤の “武勇伝” と
一笑にふそうかとも思ったが、ある言葉を思い出し、笑えなくなってしまった。
夜の飲食店で学資を稼ぎながら学業を続けていた学生の言葉だ。

「俺、もう、わかったんすよ。
成功している人は、みんな、ずるいこと、汚いことをやってる人なんすよ。
俺も、ずるく生きてゆこうと思ってます。」

モラルなどもろともせず、法の網をかいくぐることを生業にする人たちが大手を振る。
その周りには、金の臭いを嗅ぎつけたハイエナたちが
二重三重に取り巻き、拍手喝采を送る。
正直者はバカを見るばかり。

生まれながらの偶然の賜物が最高の価値をもち、人もうらやむブランドとなる。
ブランドの周りには、手っ取り早く付加価値を得ようとうする善男善女で黒山の人だかり。
生まれを違えた努力家は失望するばかり。

あるいは学生の言葉は怠惰の口実にすぎないとしても、
そのような口実をやすやすと言わせる状況にも、やはり問題はあるのだ。
やっきで否定する気分にはなれなかった。

by enzian | 2006-02-18 16:24 | ※テレビ・新聞より | Trackback(1) | Comments(45)

悩みの相談員

有名人による悩みの相談室というのはどこのメディアでもやっていると思うけど、ぼくにはこういう “相談員” をあまり信用していない節がある。以前は相談者の言うことをろくろく聞かずに、自分の価値観を押し付ける暑苦しい人が多かった気がするけど、ここ何年かは、相談を受ける前にとりあえず臨床心理学もどきというか、一億総カウンセラー系(?)の本をかじってからはじめる人が多いらしく、いかにも相手の言うことをよく聞いていますよ、受け入れていますよ、というような常套句からはじめる “型” どおりの対応をする人が多くて、「素人なんだから、カウンセラーを装う必要もないだろうに‥‥」などと余計なことを考えてしまう。

そんなこんなで悩みの相談室系コラムは素通りすることにしているのだけど、この方の回答なら読まずにおけないという人もいる。ひとりは重松清(以下、敬称略)で、この方のことは「今週のピックアップ・ブロガー」のインタビューで書いたので、そこをお読みいただくとして、もうひとりはピーコだ。どこがいいのかと問われれば、厳しいなかにもやさしさが感じられるところ。ダメなことははっきりダメだと言うのにそれでいてまったくイヤミがなく、ふさぎ込んだ相談者に寄り添おうとする気持ちがひしひしと伝わってくる。突き放されたようでいて、はっと気づくとそばにいてじっと自分を見つめている、というような絶妙の距離感なのだ。

先日も、自分がゲイであることに気づいて悲しんでいる男子高校生の相談に、押さえるべき点は押さえてけっこう厳しいことを言っているはずなのに、なぜか最後にはやさしい気持ちだけが残るような温かい回答をしていた。ゲイであることを「悲しい」と言う高校生は、ピーコにとってはいわば自分自身の存在を否定しているに等しい相談者のはずなのに、回答のなかではそれを気に留めているそぶりをまったくみせなかった。簡単にまねできることじゃないと思う。

by enzian | 2005-12-19 22:15 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(34)

お肌ツルツルの秘密

○HKのBS1で先日はじまった「今日の美容」は、美容なんてものとはまったく縁のないぼくでも楽しく見ることができる好番組だ。昨日は、「今なら間に合う!クリスマス直前の必勝美容術」という特集をやっていた。いったいなにが「必勝」なんだ!などとおとなげないツッコミを入れながら、○HKも思い切った特集をやるようになったと感慨にふけりつつ、テレビっ子はけっこう真剣に見ていたのだ。

特におもしろかったのはヒアルロン酸の話だった。ヒアルロン酸は、ご存知のように、人体に含まれる成分で、微量でも大量の水分を保持できることから、お肌を美しく保つためにとても重要だと近頃もてはやされている。ぼくはどちらかと言うとしっとり系なのだけど、さすがに冬になると肌がカサカサしてきて、人前でしゃべるのにあまりみっともない顔はできないということで、それなりに困ったりもしてもいた。体内に含まれるヒアルロン酸を手軽に増やす画期的な方法があるということで、飛びついたのだった。

その方法は至って簡単で、あまり人には教えたくないという気もするけど、いつもお世話になっているブロガーのみなさんへの哲学者からのちょっと早目のクリスマスプレゼントということで思い切って言ってしまえば、“夜明けごろに散歩をして朝日をたっぷり浴びる” ということなのだ。朝日を浴びるだけではだめで、浴びながら適度の運動をしていることが大切だということだった。激しい運動は逆効果で、散歩ぐらいがちょうどよいらしい。

朝日を浴びるとヒアルロン酸が増える理由はまだはっきりわかっていないそうだが、ともかく朝日と適度な運動の組み合わせが劇的な効果を生むらしい。「朝日を浴びて美しくなるセミナー」を主催しているという番組ゲストの講師(?)は、もともと人間は日の出とともに家から出てなにがしかの仕事をし、日が沈むとともに家に戻って眠るというのが自然のサイクルとしてあったから、そういう人間として本来あるべきサイクルが関係している、ともっともらしいことを言っていた。講師の話の真偽はともかく、要は、美容のためには、なんとか水とかなんとかクリームとかいった人工的なものを使うよりも、お金をかけずにそのままが一番いいということなのだ。たしかに、鬱の治療法として朝日に浴びるというのが昔から言われるくらいだから、朝日を浴びてヒアルロン酸の量が増えてもおかしくはない。

ぼくにも心当たりがある。記事には書いたことがないけど、これもプレゼントとしてそっと告白するなら、昨年の冬、ぼくはフェレット(「フェレちゃん」)を飼っていた。後に泣く泣く手放すことになったのだけど、昨年の冬は例年になくお肌ツルツルにしてニ○アスキンクリームが必要ないほどで、学生たちからも「どうして先生、そんなにお肌ツルツルなんですか?」などとうるさく聞かれたものだ。その時期、ぼくは毎朝散歩に行ってフェレちゃんとともに夜明けを迎えていたのだった。そう言えば、フェレットの早朝お散歩仲間(「フェレット倶楽部」)のみなさんも、みんなそろいもそろってお肌ツルツルだった。

ともかく、1週間もあれば十分効果が出るということだった。ハッピーなクリスマスイブを夢見るみなさん、今からでも間に合いますよ、いそげっ!――あ~ウソをついてすっきりした。怒らないでね。昨年の今頃もこんな記事を書いたような‥‥

by enzian | 2005-12-17 14:16 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(40)

「まんが日本昔ばなし」

うれしいことがひとつある。明日から、かつてTBS系で1975年1月7日から1994年9月24日まで放送された「まんが日本昔ばなし」の再放送がはじまるのだ。そこでとりあげられた話のいくつかが成長期のぼくに強い影響を与えたことを思えば、個人的には感慨深い。

さすがに20年近くにわたって放送されたものすべてが再放送されるわけではないのだろう。どの話がピックアップされるのかはわからないが、望むらくは、有名どころの「‥‥ったとさ。めでたし、めでたし」なんてハッピーエンドパターンだけじゃなくて、さしてメジャーでもない、どうしてくれるのだ、この終わり方、この不条理、涙ジョーといった話もぜひ放送して欲しいものだ。天邪鬼のぼくの人格形成に影響を与えたのは、どちらかと言えば後者であったから。

by enzian | 2005-10-18 22:30 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(32)

ファンの心理

「どこのファン(野球)ですか?」というのはとても答えにくい質問だ。もともと、会ったこともないブラウン管(古い?)の向こうに熱狂するほど熱い性質(たち)ではないし、そもそも、よく言われるタイプの熱狂とは一線を画してひっそり生きてきた。

小学生のころはそれなりに巨人ファンだった‥‥というか、阪神がキライだった。近所や学校のガキンチョどもが揃いも揃ってアンチ巨人で、来る日も来る日も巨人に怨念のこもった悪口雑言を浴びせかけているので、自分だけは巨人ファンでいようと堅く決意していた。矛盾するようだけど、阪神も好きだった。性質の悪い阪神ファンだけがキライだった。

阪神が優勝した。前回のこともあり、今回こそ騒ぎは起きないだろうと期待を込めて見ていたが、残念ながらそうではなかったらしい。今回も、公費を費やしてわざわざ設置されたフェンスを乗り越えて川に飛び込む輩がいたし、タクシー数台は群集に囲まれてボコボコ(ベコベコ)にされた。タクシーだけを狙うという了見には、はっきり不快感を覚えた。

便乗者がいることは知っている。だが、「こういうことをする人は阪神ファンでない、単なる便乗者だ」と反射的に反論し、便乗者と自分とをきれいさっぱり切り離そうとする阪神ファンの意見も、身内(自分)びいきにすぎる。阪神ファンにはそういう輩も混入している、というのが正確なところなのだろう。

純粋にあるものが好きだからそのあるものを好きになったり、純粋にあるものがキライだからそのあるものをキライになったりすることは、意外とむずかしいことなのかもしれない。

by enzian | 2005-10-02 11:57 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(13)

処分するという責任

ついにピラニアが琵琶湖で捕獲されたらしい。悪食の外来魚だらけになった湖にいよいよ真打の登場というわけである。よもやピラニアが日本の冬を越すことはないだろうが、それでも釈然としない思いが残った。観賞用の魚が逃げ出したというのなら、仕方ないとまでは言わないにしても、目をつぶろう。だけど、もしそれが飼い切れなくなって、処分に困って――というか、殺してしまうのがかわいそうで――捨てたというのなら、わが愛する琵琶湖のことでもあり、一言二言、言いたくもなる。

ペットショップの住人たちに飼い主を選ぶ権利はない。ただ選ばれるがままだ。飼われる側にはなんの権利もなく、すべての権限は飼う側にある。だが、かといって、飼う側にはなにも負うものがないということにはならない。なんの落ち度もなく飼われるに至った者をせめてやさしく飼い続け、いよいよ飼い続けられなくなったときには処分するという責任がある。処分することのなかには殺すことが含まれるが、生きたまま放置することは含まれない。

これを身勝手な理屈だと言える人がいるなら、その人には、そもそも生き物を飼うということ自体が一種の身勝手であるという意識がそっくり抜け落ちている。むしろ、かつて自分が身勝手な選択を行ったという負い目、それもまた命を育むやさしさに繋がるのではないか。(わかりにくい文章で、ゴメンナサイ!)

by enzian | 2005-09-15 22:24 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(14)

「アウシュビッツ」

NHKで放送された5回シリーズのドキュメント「アウシュビッツ」(制作は、アメリカとイギリス)を見た。フランクルの『夜と霧』やアーレントの『イェルサレムのアイヒマン』を読んでも理解できなかった空白のいくつかが埋まった。

アウシュビッツ収容所で働いていたナチス親衛隊員7000人のうち、虐殺に加担した容疑で裁判にかけられた者は800人(有罪の判決を受けた者はさらに少なくなる)。推定死者130万人にたいする800人とはいかにも少ないが、その程度だろうとも思った。虐殺に直接にかかわった者は「人を殺すことに違和感を感じなくなっていた」と言い、その他の者は「虐殺が行われていたグループの一員だっただけで、直接には殺害のプロセスにかかわらなかった」と弁明した。

人を殺す複数のシステムの攻防のなかで、人を殺すことに直接的に加担する者と間接的にしか加担しない者があるとすれば、人を殺し続けることによって前者の罪悪感を麻痺させ、システム(全体)に埋没させることによって後者に罪悪感をそもそも抱かせないこと、これが戦争が戦争加担者に授ける “恩恵” なのであろう。

by enzian | 2005-08-23 21:40 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(18)