カテゴリ:※好きな絵本(コミック)( 18 )

『だいじょうぶ だいじょうぶ』(いとうひろし)

b0037269_17432848.jpg記事を改めて同じ著者の本を紹介するのははじめてです。もう一冊は紹介するのに数年かかりましたが、この本もずいぶんかかりました。共感しつつも、自分には紹介できないと思っていたのです。

なかなか紹介に踏み切れなかったのは、この書名に抵抗を感じたからだと思います。普段でも「大丈夫」を言うことを迫られる場合がありますが、心のなかで冷や汗をたらしながら「ダ・イ・ジョウ・ブ」なんて言葉をカクカクプルプルしながら言うのがやっとで、それをひらがなで二度も繰り返すなんて、至難のわざだと思えるからです。

「大丈夫」を言うには知識と、未来を予見する力が必要でしょうが、予見する力なんか誰にもないから、どうしてもカクカクプルプルしてしまうのです。でも、そんな力がないとわかっていても、米俵三俵を担いでなんぎしているひとがいれば、「もしもしそこの方、その米俵を一俵担がせてくれまいか」などと、まんが日本昔ばなし風に思わず口走ってしまって、担いだとたん、意外な重さに腰を抜かしてしまう‥‥なんてこともひとの情なのでしょう。

「大丈夫」を言うのは、知らない未来を知っているふりをするという意味では、「あえて愚か者になること」です。そしてそのことは、本当に担げるかどうかわからない負担を共有しようとするという意味でもそうなのです。 「大丈夫」と言うことは、 “向こう見ず” を引き受けることなのだと思います。そんな向こう見ずの姿を見ることも、子どもにとっては、いや子どもに限らず私たちにとっては大切なことなのでしょう。「大切なことっていうのはね、たいてい、じわじわとしか効いてこないもんなんだよ。(ホントか)」(by enzian)。

by enzian | 2010-02-27 19:14 | ※好きな絵本(コミック) | Trackback | Comments(10)

『壜の中の鳥』(寺山修司、宇野亜喜良)

b0037269_22533869.jpg久しぶりに絵本を紹介します。今回は、大人に向けて作られた大人の絵本です。物語は寺山修司、絵は宇野亜喜良。どちらも、いわずと知れた才人。前半は書名の物語、後半は寺山修司によるアフォリズム(箴言)集になっており、宇野亜喜良の絵が彩りを添えています。後半は寺山らしく(?)、男と女の関係への傾きが強すぎて酔ってしまうので、ぼくが推すのは前半です。

少年と少女の恋の話。恋する者同士ゆえのすれちがい、といったストーリーです。オヘンリーの短編にも似たようなストーリーがあったような、なかったような。宇野の描くアンニュイ(物憂げ)な、この世ならぬ方向を見つめる表情のキャラクターたちが人の心の多様さ、とりとめのなさ、不条理さを印象づけておりますな。切ないストーリーもよいのですが、ぼくがうなったのは次の詩です。

消えるという名のおばあさん
消えるという名の汽車に乗り
消えるという名の町へ帰る
さよならさよなら
手をふったら
あっという名の
月が出た
どうしてうなったのか‥‥は説明不能。詩の才のない者には自分がよいと思う詩のよさを説明することなどできないのです。宇野によるおばあさんの絵と合わせてご覧ください。そして、真にうなったのは次。

ママが鳥になってしまったの、鳥とあそんでいたら、そこへ、べつの鳥が飛んで来て同じようなのが二羽になってしまったの。どっちがママなのかわからないので、困っていたら、そこへズドン!と鉄砲の音がして一羽に命中してしまったの。でも、死んだのがママなのか、びっくりして飛び去って行ったのがママなのか、見わけがつかないので、ぼくは泣いたほうがいいのかどうか、迷っているところなのです

泣いほうがいいのかどうかわからないこと――これほどの悲しみはないと思う。

by enzian | 2009-12-20 00:00 | ※好きな絵本(コミック) | Trackback | Comments(20)

『けむり仙人』(椋鳩十)

b0037269_10121780.jpgしばらく探して見つからない絵本がある。『けむり仙人』という本だ。小学生のときに先生にもらったのだが、高校生ぐらいのころだったか、実家の部屋を掃除したときに紛失してしまった。せっかくいただいたのに恥ずかしいことをした。

ほんとのことを言うと小学生のころはこの本の意味がよくわからなかったのだけど、いざ無くしてしまうと、いまのいままでその内容が気になってしかたない。あるとき考えるところあってけむりのようになった仙人が自分の命を自由にあやつっていろんな生き物として生まれ変わって‥‥というような話だった気がする。なぜわざわざ先生がくれたのか、皆目わからない本だった。

『けむり仙人』を思い出すたび、「忘れられない」というのは「覚えていない」「知っていない」ということなのではないかと思う。知っていれば安んじて忘れ去ることができるのだ。

by enzian | 2009-02-22 01:15 | ※好きな絵本(コミック) | Trackback | Comments(14)

『つみきのいえ』(加藤久仁生 監督)

b0037269_18143416.jpg海底から伸びてわずかに海面から突き出たタケノコの先のような小さな家におじいさんがひとり暮らしている。壁には古い写真が掛かり、おじいさんは床の穴から釣り糸を垂らす。おじいさんはなにも話さない。

そうこうするうちに床にひたひたと波が寄せくる。おじいさんはレンガを積みはじめる。やがて古い家は水に沈んで魚の住処に。おじいさんは、古い家の上に積み上げられた新しい家の床穴から海を覗き込む。はじめて家族をもったときの小さな家が海底に残っている。彼はこうして家を積み上げ続けてきたのだ。

ひたひたと忍び寄って現在を過去へと引きずり込む波は時(とき)の象徴。海中の過去はおじいさんの記憶。海底から積み重ねられた“つみきのいえ" はおじいさん自身なのだ。おじいさんの記憶のなかで、いや、おじいさん自身のなかで、おじいさんの一部となった最愛の人は待っている。ぼんやりとしたヴェール越しにしか大切な人に会えないことに切なさはつのる。だが、その切なさが「切り離されることはない」の意味であれば、その意味をしみじみ味わいながら暮らしていくこともできるのだろう、と信じてみたい(が、きっと無理だ)。

*この作品にナレーションは不要です。DVDにはナレーション抜きとナレーション付きの2つのバージョンが収録されていますが、もしご覧になるなら、ナレーション抜きを。

by enzian | 2009-02-10 18:43 | ※好きな絵本(コミック) | Trackback | Comments(16)

『おさるはおさる』(いとうひろし)

b0037269_21105158.jpgずっと以前にブロガーさんに教えてもらい、授業にも使える良い本だとわかっていたので早く紹介したかったのですが、その良さをうまく説明することができなくて、今になりました。といっても、やっとこさ上手に紹介できそうだというのではなく、書名だけお知らせしますので、ご自身で手にとって判断ください、ということなのです。

主人公は、「おさる」君。仲良しの友だちたちと南の島でのんびり暮らしています。友だちたちとおさる君の外見はそっくりで、毎日の行動も同じ。おさる君自身でさえ、どれが本当の自分なのかわからなくなるほどです。

ところが、そんなおさる君を震撼(しんかん)させる事件が起きます。おさる君の耳をカニがはさんで離さなくなってしまったのです。耳にカニをぶら下げている猿など、おさる君以外にはいません。おさる君は突然ひとりぼっちになってしまったのです。心細くなったおさる君はおじいちゃんに相談します。おさる君はこのピンチを乗り切ることができるのでしょうか?

ぼくがこの本から読み取ったことを少しだけ。

by enzian | 2009-01-13 21:57 | ※好きな絵本(コミック) | Trackback | Comments(7)

『100万回生きたねこ』(佐野洋子)

b0037269_11184429.jpg広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしゆいぞう)を見た。ソウルの国立中央博物館で見た弥勒菩薩のイメージを忘れないうちに見たかったのだ。ソウルでは中宮寺の弥勒菩薩よりも惹かれるものがあると感じたが、広隆寺ではソウルのものと甲乙つけがたいと思った。そういえば、ソウルで会った友人も、両者は甲乙つけがたいと言っていた。

広隆寺の弥勒菩薩の前には畳敷きのちょっとした、気の利いたスペースがしつらえてあって、訪れた人たちは老いも若きもそこに座って、衆生を救おうと思惟する菩薩をただ見つめている。

しばらく座って、人の心をそのまま吸い込むかのような柔らかな表情を見つめていたら、隣に、きちっとした身なりをした、白髪の紳士が座った。菩薩を見上げながら般若心経を読むその顔を見れば、滂沱(ぼうだ)の涙なのであった。奥様らしき方は、少し遠くに立っていて、その様子を何言うでもなく、じっと許しておられる。懺悔の涙なのか、それとも、美を前にした感動の涙なのか‥‥

その様子を見て、先日のオープンキャンパスの模擬授業で、佐野洋子の『100万回生きたねこ』を題材にして、「なぜ猫はもう生き返らなかったのか?」を考えたことを思い出した。あれこれ考えてみたのだけど、ぼくの秘かなお気に入りは、猫の退屈な生と死を繰り返させたのも、ついにそれを断ち切ったのも涙だ、という解釈だった。自分よりも美しく愛おしい者に流された涙が、単調な繰り返しを終わらせることになったのだ。

by enzian | 2008-08-08 13:01 | ※好きな絵本(コミック) | Trackback | Comments(30)

『すてきな三にんぐみ』(トミー・アンゲラー)

b0037269_12211879.jpgトミー・アンゲラーの『すてきな三にんぐみ』です(原題は、The Three Robbers)。以前の記事(気になる本があったら、教えてください)で、あるブロガーさんに教えてもらって読んで以来の好きな絵本です。

絵は、もう表紙を見ただけでもその幾ばくかは伝わるかと思いますが、不思議な絵です。漆黒の闇に暗躍する盗賊たちの話で、黒と暗い青が基調になった絵なのですが、少しも暗さを感じさせません。むしろ、どこか、おちゃめな感じさえする絵柄なのです。

三人の盗賊の持ち物もおかしい。吹けばぷーぷー音が出そうなラッパ銃と、くしゃみが止まらなくなりそうな胡椒吹きつけ器、凶器と言うよりは夜に羽ばたく派手な鳥といったオレンジ色の大まさかり。三人は通りがかりの馬車を襲って金品を強奪して生計を立てているようですが、これらの持ち物で人間自身を傷つけたりしたことは、きっと一度もないのでしょう。

ある日、いつものように通りがかりの馬車を狙った三人でしたが、その日の馬車には、いじわるなおばさんのところへ送られる途中だった、みなし子のティファニーちゃんただひとり。おばさんのところよりもおもしろそう、とついてきたティファニーちゃんを大切に大切に抱きかかえ、隠れ処に連れて行ったときから、三人の新しい生活がはじまったのでした。

これから先はネタバレになるし、しかも長ったらしいのです。

by enzian | 2007-08-16 19:49 | ※好きな絵本(コミック) | Trackback | Comments(29)

『わたしのいもうと』(松谷みよ子)

b0037269_0121892.jpgいま小学校や中学校や高校で起きているいじめについては、四六時中そのような現場に詰めているわけでもないぼくには、なにごとかを言う資格はない。

それでも、そういう学校でいま起きているいじめを苦々しく思いつつ、日々の仕事をしている。なんのことはない。いまの大学生の何パーセントかが、かつて酷いいじめを受けていた小学生や中学生や高校生であったからだ。

そういう人たちは、傍目からもなんとなくわかる。人目についてしまって再びいじめられることのないよう、自分を覆い隠す無数の仮面を選択することに汲々としながら、周囲の視線におびえつつ、心安らぐことのない張り詰めた生活に疲れ切っていることが見てとれるからだ。傷の根は深い。こちらとしてはそのような傷をどうこうできるわけでもなく、いたずらに4年(4年であれば上出来なのだ!)の歳月が流れ、同じ傷をこれからも背負って生きてゆくだろう背中を、卒業式で送り出すことになる。

いじめの恐ろしさは、いじめられた者の人格や存在を短期的に否定したり無に等しくすることばかりではない。いじめという行為が終わっても、その影響は長く、かつていじめられた者の心をじわじわと蝕んでゆくのだ。そうした影響力が、松谷みよ子の『わたしのいもうと』に描かれた「いもうと」を完全に無きものにするまでに要した時間は、7年だった。

  「わたしを いじめたひとたちは もう わたしを わすれて しまった でしょうね
  あそびたかったのに べんきょうしたかったのに」

*ちなみに、この本をいじめを抑制するために学校に置いたところで、さして効果はないだろう。むしろ、自分たちの行為がいかに効果的なものであるかを教えて、いじめる者を勇気づけることになりかねない。

by enzian | 2006-11-19 15:41 | ※好きな絵本(コミック) | Trackback | Comments(22)

『てぶくろをかいに』(新美南吉)

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新美南吉の『てぶくろをかいに』です。新美は29歳で夭逝した才人。『ごんぎつね』の作者でもあります。『てぶくろをかいに』は、新美、20歳の作品です。ここでは、暖かい絵柄の、わかやまけんの絵を選びました。

いつものようにストーリーの説明は省略し、ぼくがいいなぁと思うところを書いておきましょう。

まず、光の描写の新鮮な美しさです。雪に反射した日光は子ギツネの目には鮮烈です。「かあちゃん、目に なにか ささった。ぬいてちょうだい」。雪のしぶきは走る子ギツネの後ろで七色の虹になり、はじめて町の明かりを見た子ギツネは言います。「かあちゃん、おほしさまは、あんな ひくい ところにも おちてるのねえ」。店の光のあまりのまばゆさに、子ギツネは人間の手の方を差し出してしまったのでした。家の窓からは暖かい光が漏れ、月光は森へ急ぐ子ギツネの背中を銀色に照らします。雪に残る足跡にはコバルトの影がたまりました。

二つ目は、相手を思いやる気持ちの描写です。「おててが ちんちんする」という子ギツネに母ギツネは手袋を買ってやろうと決心します。帽子屋のおじさんは子ギツネにも手袋を売ってやるのでした。森では母ギツネが小ギツネの帰りをふるえながら待っています。

三つ目は、次の小ギツネの言葉です。
「かあちゃん、にんげんって ちっとも こわかないや。」
「ぼう、まちがえて、ほんとうの おてて だしちゃったの。
でも ぼうしやさん、つかまえやしなかったもの。 
ちゃんと こんな いい、あたたかい てぶくろ くれたもの。」 


(2)
もう一つ、好きな点をあげておきましょう。この本に見え隠れする “人間観の葛藤” です。雪や太陽の光や虹といった自然の美しい描写に対して、相手が人間(あるいは人間の比喩としてのキツネ)の場合には、美しさとともに醜さもまた描き出されているからです。

母ギツネが子ギツネの片手だけを人間の手に変えたのは無配慮でした。自分だけ安全な森に残って子ギツネ独りで危険な町に買い物に行かせたことは、今風に言えば幼児虐待にさえなりかねない危険な行為でした。帽子屋は子ギツネを不憫に思って手袋を売ったのではありません、「これは 木のはじゃない ほんとうの お金だ」と思ったから売ったのです。それは純粋な商売でした。子ギツネの渡したお金が「木のは」であることをわかりつつも博愛家の店主は手袋を売った、という風には著者はしませんでした。森に戻った小ギツネは人間はちっとも怖くなかったと言いますが、母ギツネはつぶやきます。「ほんとうに にんげんは、 いいものかしら」。無邪気に信じる子の前で、親は猜疑心にさいなまれています。

子ギツネの思いと母ギツネの思いは、そのまま新美のなかにあった人間観の葛藤であったのかもしれません。葛藤には可能性がありますが、一方的なものの見方はいずれ行き詰まります。日々流されるニュースには人間への警戒心をいやがおうにも煽り立てるものが多いにしても、だからといって人間すべてが、人間そのものが信用するに値しないとは言えません。わずかな部分であったとしても、人間への信頼なしには何事もはじまらないのです。

by enzian | 2006-03-29 20:09 | ※好きな絵本(コミック) | Trackback | Comments(13)

『とんぼとりの日々』(長谷川集平)

b0037269_18303723.jpg久しぶりに絵本の紹介(?)です。長谷川集平の『とんぼとりの日々』です。以前、「絵本の哲学」という記事を書いて、授業に使えそうな哲学的な絵本を教えてくださいとお願いしたときに、ブロガーの方から教えていただいたものです。長谷川集平の絵本としては、森永砒素ミルク事件*の被害者である著者の少年時代の苦い体験を描いた『はせがわくんきらいや』が有名かもしれませんが、ぼくは『とんぼとりの日々』を紹介します。

このあらすじを書くことは避けたいと思います。単純なストーリーなので、書いてしまうと、未読の方は読む気が失せてしまうだろうからです(単純なストーリーであることは、この本の味わい深さを少しも差し引くものではありません)。代わりに、ぼくがこの本を好きな理由をぼんやりと表現している過去の文章(「どうしようもないことも、ある」)を再録しておきます。特にその第3段落を読んでいただければと思います。バッタをトンボに読み替えて。

運動会の競争で順位をつけない小学校があると聞いたことがある。詳しい事情は忘れたが、順位はつけず、走った全員に参加賞を渡すということであった。足の遅い子が傷つかないように、という配慮なのだろう。

学校がなにを学ぶ場であるのか、間違いなく言えるほどの自信はないが、そのなかには、努力して達成することの喜びだけでなく、努力してもいかんともしようのないことの確認も含まれているのではないか。どんなに勉強をしてもかなわない頭のいいヤツがいて、どんなに練習をしてもかなわない足の速いヤツがいて、どうしても負かされてしまう喧嘩の強いヤツがいること‥‥。自分の力で、自分の努力でなんとかできることは思いのほか多く、努力してもぎ取った果実の味は格別に甘いにしても、自分の力ではどうしようもないこともまたある。ときには負けることも甘受しなければならず、そのこと自体は決して恥ずべきことではない。生きるための工夫はそこからはじまるのだ。

町内の草刈に行った。ピチピチバッタ(ショウリョウバッタ)がピチピチと逃げ回っている。少年たちに手荒にいじりまわされ、バッタは死んだ。「動きよらへんようになったで」。少年たちは取り返しのつかないことをしたのだ、もう誰もバッタを再び動かすことはできない――そのようなことも、ある一定の時期に知っておかねばならないのだろう、過度に傷つかない程度に。


*森永砒素ミルク事件とは
1955年に森永乳業徳島工場で製造された乳児用のドライミルクに含まれていた砒素によって少なくとも1万人以上の乳児が身体に異常を来たし、多数が亡くなった事件。中坊公平弁護士が被害者側に立って支援活動を行ったことでも有名。

by enzian | 2006-02-19 19:08 | ※好きな絵本(コミック) | Trackback | Comments(38)