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1000投稿目 (≧o≦)ノ~''オメデトでちゅ♪

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というわけで、1,000投稿目です。2004年の5月30日がはじめての投稿でしたから、ここまで12年半ぐらいかかりました。ぼくって継続性あるよなぁと、自分で祝って自分で喜ぶという自己完結型のお祝いをしております。

今日は写真ではなくイラストを添付します。ブログの初期のころ、たくさんコメントを書いてくれた座敷童氏に描いてたもらったものです。なぜぼくが羊になっているのか……その意味をわかる人はもういないかもしれませんね。座敷童さん、その節はありがとう。正直、いまどのような方がこのブログをみておられるのか、わかりません。いまはわからないのですが、このブログがきっかけになって知りあった人はたくさんいました。ブログをみて哲学科に来ました、という人も相当の数になります。

記念の投稿をどういう内容にしようかと思ったのですが、あまりいい手が思いつきませんでした。思いつかなかったので、これを区切りとすべく、個人的に印象に残っている過去の記事を、タグをつけたもののなからちょこちょこと選んで、下にあげておきます。もうほんとうに単なる自己満足にすぎません。

■おちゃめなやつ。
①ちょっとウェットなトロピカル気分 http://enzian.exblog.jp/16010513/
②ホームポジション http://enzian.exblog.jp/15576650/
③全身クッツキムシ男の怪 http://enzian.exblog.jp/9876272/
④眼に沁みる香り http://enzian.exblog.jp/4639780/

①と②は東京時代に書いたもの。②は近所で千鳥っていた酔っ払いの話です。②で書いたような東京の飲みの文化から少しずつ馴染みはじめて、すっかり東京が好きになりした。③と④は書き方が似ていますね。ばかなことを書いているようで、実際にばかなことを書いているのですが、柔軟に多角度からあれこれ考えるという意味ではいちばん哲学的な記事なのかもしれません。

■哲学的ではありませんが、ぼくにとっては忘れられない情景を描いたもの。
⑤善知識 http://enzian.exblog.jp/17442267/  
⑥すべてを捨てる http://enzian.exblog.jp/14176175/
⑦鍬 http://enzian.exblog.jp/13090261/
⑧ミーニャ http://enzian.exblog.jp/12914831/
⑨バレンタインデーの贈り物 http://enzian.exblog.jp/12836663/
⑩プランクトン http://enzian.exblog.jp/12486008/
⑪ヘッドライト http://enzian.exblog.jp/12078408/
⑫「利他的衝動」 http://enzian.exblog.jp/10756001/
⑬小さな出来事 http://enzian.exblog.jp/7892301/
⑭書くということ http://enzian.exblog.jp/7659358/
⑮サワガニとモクズガニ http://enzian.exblog.jp/3964604/
⑯どうしようもないことも、ある http://enzian.exblog.jp/3095188/
⑰ストライク http://enzian.exblog.jp/2231693/
⑱美と崇高 http://enzian.exblog.jp/1609343/
⑲立派なおっちゃんを見た http://enzian.exblog.jp/1037115/
⑳学問との出会い http://enzian.exblog.jp/675918/

⑤はぼくの大学時代の二人の恩師について書いたものです。残念ながらお一方は鬼籍の人となられましたが、いまでもぼくにとっての変わらぬ善知識です。⑥はぼくが敬愛するキリスト教の聖人、アッシジのフランシス(フランチェスコ)について書いたもの。⑦と⑫は祖母ですね。⑨~⑫は母がかかわっている。⑬は大学の職員さんについて、⑰はぼくの親友について、それぞれ一瞬にして揺さぶられた出来事を。二人は気づいていないでしょうけど。⑲がなぜ印象に残っているのかこれまで不思議だったのですが、ごま塩頭のおっちゃんは、どうも父に似ているらしいといまになってわかりました。外見の話です。そして、20個あげた記事のなかで最も印象に残っているのがじつはこの記事なのです。ぼくはこのおっちゃんのような人になれたら……と思ってやってきたのです。なれないですけどね。

そんなわけで、これまでありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。

by enzian | 2016-12-31 17:40 | ※その他

役割

夜遅く喉がかわいて台所に行ったらカネタタキを発見した。君も喉がかわいて水場に来ていたのか。しばらく鳴いていなかったので心配していた。ドタバタしてなんとか捕獲し、庭に放す。君たちがなぜ侵入しようとするのかはぼくにはかいもくわからないけど、もう入って来ないように。なぜか今年は、これでもう自分の役割は果たしただろうと思うことがよくあった。そしてその仕事がむだでなかったらよいのにと思うことがよくある。

by enzian | 2016-09-05 21:30 | ※その他

曰く言い難し

ものの捉え方、たとえばものをどういうふうに覚えているのか、いや、日常流れてくる音をどういうふうに感じるかでもいいし、食べものの味をどんなふうに感じるかでも、匂いをどういうふうに感じているかでもいい。そういう日常の当たり前のものの捉え方が自分と他人とでどう違うのかということを考える機会をもっと早くもつように働きかけてもらえないか。自分と他人との違いを「わがまま」とか「強情」とか「変わり者」に詰め込んでしまって、もうそれ以上なにも考えようとはしなくなって、考えさせようとする刺激も与えられてこなかった大人に、一から説明し、解きほぐして組み直してもらうとする作業があるとすれば、その際のいかんともしがたい手遅れ感をどう表現すればよいものか。

by enzian | 2016-09-02 23:58 | ※その他

「自分の意見」

むずかしい判断をしなければならないことはある。だけど、そのときに、(1)自分以外の人の意見を聞いてみる、そのうえで、(2)最終的には自分で判断する、という二つのことができる人は、当たり前のことのようでいて、意外に少ないと感じる。いつも(1)しかないのにそれをそのまま(2)であるかのように思い込んでいる人、逆に、(1)の回路がまったくない人もいる。ふだんは(1)(2)があるけど、なぜか、ここぞという判断のときだけ(2)が消失してしまう人もいる。こんな風にいろんな人がいるのにはいろんな理由があるのだろうけど、「自分の意見」というのは、(1)を経た(2)以外にはないと思う。それはふだんの人間関係であろうと学問の世界であろうと同じことだろう。

by enzian | 2016-08-30 23:31 | ※その他

すでにつながってしまっている。

「人と人がつながる」というのは、必ずしも友好的にみえるとか、波風が立たないとかいうことではないだろう。もちろん、つながっているという実感があって見た目も友好的な関係であるということはあって、その方が好ましいに決まっている。が、たしかにどこかでつながっているという実感があるのだけど、残念ながら見た目も、中層的なところ(どこ?)でも反発やら敵対心やら嫉妬やら恨みやらが渦巻いていて、ようやくどこか別のところ(どこ?)で結びついているか、線のはじまりとはじまりが近くにあって微弱に影響を及ぼし合っているぐらいだ、ということがよくあるような気がする。

見た感じは友好的な関係にある人たちがいるが、そういう人たちであれば必ずつながっているとはいえない。互いにまったく関心もなく、感化し合うこともないが、利害関係があったり、義務関係があったりしてつき合っていることも現実としてある。それは当たり前のことだ。だが逆に、利害関係も義務関係もなく、友好的でないと見える人たちであっても、まちがいなくつながっていると確信のもてる人たちがいる。そういう人たちのなかには頻繁に会うわけでもないし、声を聞くことも、ひょっとしたらもう顔を合わせることもないと思える場合もあるが、いつかあるときにつながってしまっていて、それはもう切れることがなく、いまもたしかにどこかでつながったままなのだ。それは、いわゆる「腐れ縁」といったものではない。

ぼくは関心がない人の文章を読もうとしないから、たぶん同じようにぼくに関心のない人はぼくの文章を読もうとしないだろう。もし、ぼくがこのブログに書いている文章をひそかに(ひそかでなくてもいいけど)読み続けてくださっている方があるなら、その方は幸か不幸か、もうぼくとつながってしまっている人なのだろうと思い込んでいる。いや、それでまちがいないだろう。

by enzian | 2016-08-16 10:27 | ※その他

「ここにしかない徳島」

徳島へ行ったときに、高校での授業が終わって、眉山というところに登ったのだけど、そのときに流れていた歌。https://www.youtube.com/watch?v=Ulcq4PgHrfM
徳島は、海があって山があって、吉野川が流れていて、なんともよいところだと思った。「夏にはみんなであほになる」だよね。今年の夏は祭りに行きたくなった。

by enzian | 2016-06-26 18:29 | ※その他

美味しいということ

日本酒を飲むようになってきた。昔からさして飲めもしないのに地方へ行くと酒を買ってきて、飲みもしないのに家に置いていたが、ついに飲むようになってきたのだ。土地にはその土地によって育まれてきたものがあって、日本酒も土地ごとに違う。ぼくは親父が飲んだくれだったということがあって、また自身も体質的にアルコールに強くないということがあって、さらには職業柄あんまり方々をちどって歩くわけにもいかないだろうと思っていて、日本酒を飲むのをずっと避けてきたが、日本酒を飲むことで、それをかもし出してきたなにかを感じることができると思うと、美味しく感じてくる。

幼いころ、豆腐は好きで高野豆腐は好きではなかった。でも、それが土地で育まれた豆腐を凝縮したもので、土地での豆腐の食べ方だと思ったとき、とたんにその晩に食べた高野豆腐が美味しく感じられて好きになった。

趣味判断(美しいと判断する)では、美しいと感じるために知識が必要かどうかがときどき問題になる。例えば、キリスト教美術とか仏教美術とか。もちろん、ここではそんなややこしいことはどうでもいいけど、少なくともぼくが酒を好きになることにはなにがしかの知識が影響している。生まれた風土の違い、長い時間のなかで積み重ったなにか、それを凝縮した精華。いまは地の日本酒やビールぐらいの話だけど、いずれ焼酎や泡盛も、さらには難度の高そうな花酒も、いやもっとべつのものさえも好きになることだろう。

by enzian | 2016-06-19 12:34 | ※その他

円筒形

いかん、連休だというのにいっこうに仕事がはかどらない。あれこれの締め切りが迫っているのに、なんだかんだと言い訳ばかりしている。半ば空気が抜けた風船のようになって、どこに行くでもなく、自宅でころころしている。それでまた、4年前より、より円筒形になったものだから、よく転げもするのだ。

こんなことではいかん、人間性を取り戻さねばならぬと、ハードディスクに記録してある平良修さんの番組を観る。ぼくはあんまりひとのことを褒めないけど、平良さんの言葉にはいつも動かされてしまう。今日もまたひとつ学んだことがあった。ここでは言わないけど。

それにしてもなんど観てもどうしても踏み込めないことがある。小さき者になにかをなすことが、すなわち神になにかをなすことであり、神を愛することでもあるということ。小さき者になにかをなすこと、そのこと自体には違和感を感じないが、小さき者を愛そうとするひとのなかにはしばしば、四六時中、自分より小さき者探しをしているのではないかと思える水晶のごとき瞳をもったひとがいて、その曇りのない瞳に違和感を感じることがあるのだ。ぼくはこの瞳の “やさしさ" に自己の尊厳を傷つけられたことがある。もうひとつは、ぼくはいまのところ、自分の外に小ささ探しをするのではなく、自分自身の小ささを見つめたい、と思っているから。もちろん、こうした違和感に理解不足が含まれていることは知っている。知っているが、それをまだ認めることができない。

by enzian | 2016-05-03 21:30 | ※その他

あれこれ

久しぶりに親友に電話をしたら、ものの1秒で学生時代の雰囲気に戻った。その爽快さといったら、もう。春に会おうという約束を交わす。いかにも彼の地は遠いが、やつなら来るだろう。時間と空間の空白を一瞬で埋めるものがあるのだと思った。いや違う。きっとそこには空白はなかったのだ。これから恐怖の一般入試だが、もうすぐ立春。晴れやかな気分で窓の外を見ると、紅梅が咲き始めていた。

先日、学生と飲んでいたら、在学生と飲んでいるときと卒業生と飲んでいるときでは先生の表情が違うと指摘された。保護の対象と友人とでは別なのだ。

by enzian | 2016-01-31 10:48 | ※その他

信じて欲しいこと。

ぼくは自分に甘くて他人に辛い。それは自分でも認めているし、自分以外の人もよく知っている。知っているから、かわいそうな少数の人たちがびくびくしながらぼくと付き合っており、大多数の人たちは忌避している。しかも忌避する人の数は年々増加していて、目も当てられない。当人も情けない、申し訳ない、淋し過ぎると思っているが、性根がそういう風にできているようで、いかんともしがたい。25歳ぐらいのころのぼくは、今はダメでも、それなりに歳をとれば人格も円満になって、ちょっとは立派なひとになれるのだろうと思っていた。でもそんなことはなくて、もう修正のしようもなく、命を閉じるまではこのまま一直線に進みそうな勢いなのである。

それはそれで仕方ないとあきらめているのだけど、どうしても無念に思っていることががひとつだけある。それは、そんな自分でも少なからぬ人を認めていて、尊敬もしているということだ。矛盾しているようだけど、ぼくが認めている人は少なくない。尊敬している人もいっぱいいる。それはカントや祖母や恩師といったぼくのなかでの定番?の人たちだけでなくて、いっしょに働いている人たち、ぼくよりもはるかに歳若い学生たち、小さな子どもたち、そういった人たちの、決して目立つことはなくても、たとえ他の誰にも知られることがなくても確固としてあるやさしさやら思いやりやら、温かさやら誠実さやら頑張りやらには心底惚れ込んでいて、尊敬しているのだ。ぼくはこの事実をある時点までほとんど伝えることがなかったが、最近はときどき伝えるようにしている。一生懸命伝えているつもりなのだが、ほとんど誰からもまともには取り合ってもらえない。

人がなにを信じるかは、その内容よりもむしろそれを誰が言ったかによる場合が多い。信じるべき内容だから信じるのではなく、信じざるをえない人が言うから信じるのだ。信じざるをえない人格ができあがったとき、同時に聖なる言葉もできあがっている。反対に、例えばちゃらちゃらした人が「人間は清貧であるべきです」と言っても、誰も信じないということにもなる。そういうわけでぼくがやさしいことを言っても受け入れにくいのは重々承知しているのだが、それでも、ぼくがほめた内容については信じて欲しい。

by enzian | 2016-01-23 22:34 | ※その他