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すでに勝負は決している。

百貨店などちょっと慣れない場所に行くと、入ったときはいいけど、帰る際になるとどうやって入ってきたのか忘れてしまって、帰り道をまちがえる。ぼくはとっても自分にスィートなひとで、個人の問題を全体に帰することで精神の平安を保っているタイプの人間だから、まちがえるのは誰しもそんな具合で、自分だけの問題ではなく、それは “人類に共通する弱点” なのだと思っていたが、どうもそうではないらしい。ちゃんと来た通路を覚えていて、まちがえずに帰って行くひともいる。なにかがおかしいぞ。

考えてみると、ぼくは棚に並んでいる本を取り出したときも、引き出しからなにかを取り出したときも、取り出したときはいいのだけど、いざそれを戻す段になると、それがどこに並んでいたり、入っていたのかをすっかり忘れている。いや正確にいえば、「忘れている」のではなく、「もともと覚えていない」のである。同じように、なにかていねいに包み込まれたいかにも日本的なものをもらったときも、よろこんで開けるのはいいのだけど、もとの包み方に戻すことは決してできない。開けたら戻せないタチなのだ。

ぼくはつねづね、整理整頓ができるひととできないひとの差は、なにかを使ったあとにすぐ戻せるかいなかに勝負のポイントがあると思っていたが、ひょっとすると両者の分かれ目は、すでになにかを使う前に決しているのかもしれない。

by enzian | 2012-04-29 09:05 | ※その他 | Comments(7)

化粧の底力

こういうことをいうときっとまたイヤミなことをいっているのだろうと思われるだろうが、ぼくは真剣に化粧が偉大だと思っている。あのアイテムの多様さ、謎の深さということもあるのだが、きれいになったのかどうかは美的センスのないぼくにはわからないにせよ、少なくとも使用前使用後で別人になっている、ということはいえるからだ。

あるとき、もうずっと前の話で時効だろうから書くけど、コンパの日に誰かが個研のドアをノックした。ぼくは入ってきたそのひとが誰かしばらくわからなかったのだけど、声を聞いたらゼミの4年生でびっくり仰天したことがある。どこぞの百貨店の化粧品コーナー(こういう呼び方でいいの?)に行って、ぱたぱたとやってもらったらしい。見慣れた顔を識別不能にしてしまうとは‥‥このときぼくは化粧の底力に度肝を抜かれたのだ。

河原の石とか、畑のじゃがいもとかに化粧をして競うような番組やコンテストはできないだろうか。じゃがいもなんか、かなりの美貌になる気がする。「つぎのエントリーは、北海道○○町のメークインさんです」とか。河原の石なら、「さて、続いて長良川の石灰岩さんです」とか「関東からは利根川左岸のチャートさんです」とか、おもしろいと思うけどな。じゃがいもの場合、化粧品が可食のものなら、最後の評価を「美味」にして、参加者たちを肉じゃがにして賞味したら、食べ物を粗末にすることもない。そのうち、生身の人間を超える美貌をもったミス野菜とか、岩石クイーンたちが出てくるかもしれない。

by enzian | 2012-02-11 23:06 | ※その他 | Comments(0)

本性

酔っ払ったときに本性がでるのか、それとも、酔いというのは本来の自分を覆い隠してしまうものなのか、どちらの考え方もあるだろう。ぼくは前者だと思っているのだけど、同じことは、すごく忙しいときにもいえるのではないか。忙しいときにこそ、そのひとの本性が出るように思うのだ。そういう意味では、忙しいとは、よくいわれるように「心を亡くす」のではなく、「ふだん隠されていた心が現れる」ということになる。なかにはわざと忙しくして自分の反社会的な本性が顕現しないようにしているひともいるようだが、そういうひとのことは考えないでおく。

とすれば、忙しいときこそ、たくさんの仕事を抱えたひとは「みられている」と思う必要がある。忙しいときこそ、ひとへの応対、身のこなし、指先の動き、会話の語尾、言葉の強弱といったものを測られてしまう。「つい忙しくて、ゴメン」という弁明は成り立たず、周囲は「なるほど、そういうひとなのか、よくわかった」とみるわけだ。ぼくは本性をひた隠しにしておきたいので、忙しくなりたくない。忙しくなると、必ずマフラーを落とす。

by enzian | 2012-02-06 23:46 | ※その他

笑い声の音

笑うときの音、笑い声というのはどう決まるのだろうか。笑い声は一定の条件下、たとえば不意を突かれた場合とか、相手を警戒させたくないときなどに息が口から出るときの音なのだろうけど、「あ」で笑うひともいるし、「い」で笑うひともいる。「う」も「え」も「お」もいる。もちろん、ア行だけでなく、そのほかの音で笑うひともいる。

昨年、同僚にはっきりと「し」で笑い続けるひとを発見して、ちょっと珍しいなと感動した。もちろん、ひとりのひとがどの音で笑うかは完全には一定していていないのだろうけど、作為的な笑いとか外交的な笑いをべつにして、不意をつかれたときの笑いがどの音になるかは、それなりに決まっているのだろう。

「あ」の口で笑う〈ア段のひと〉と、「い」の口で笑う〈イ段のひと〉etc‥‥そこにはなにか差があるのだろうか。それとも、それはまったく偶然なのだろうか。また、寒い地方は口を開けにくいからイ段とかウ段で笑い、暖かい地方は比較的、ア段とかオ段で笑うとか、笑いの地域差はあるのだろうか。ちなみにぼくは「ウケケケ」と笑うといわれたことがあるが、それはぼくが全体から漂わせる悪しき印象によるもので、じっさいにはとっても爽やかに、「あ」か「う」で笑っていると思う。そうにちがいない。

by enzian | 2012-01-28 21:58 | ※その他 | Comments(0)

長押し

なんかいカチカチしても百円ライターの火がつかない。液状のガスは残っているものだから、壊れているとばかり思って、「所詮100円の代物とはこんなものだ」とか、「製造地が悪いのだろう、いったいどこで製造されたのか」などと好き放題いっていた。それが今日、ひょんなことから火がついた。どうしてだろう?と考えはじめたら理由は簡単で、ぼくは火花を出す部分だけを懸命に動かしてカチカチやっていたのだが、ガスが出る部分を長押しせずに、さっさと手を離してしまっていたために火がつかなかったのだ。

われながらバカだなと思ったし、自分は一事が万事こんな調子なんじゃないかなと反省もしたけど、それにしても、「長押し」というのは、ぼくには意外にむずかしい。瞬時に押すことには慣れていても、じわっと長く押すという発想が弱いのだろう。

by enzian | 2012-01-21 16:50 | ※その他 | Comments(0)

外向的なウナギと内向的なアナゴ

東京ではわたしくしはウナギであったが、京都にもどるとやはりアナゴになっているのである。というようなことをいうと、「ついにenzianがおかしくなった」というひとがいるかもしれないが、もともと総じておかしいから、これ以上おかしくはならない。

そういうことではなくて、わたくしにとっては、ウナギとは店の軒先でぱたぱたと焼かれていて、その恐るべき匂いで行き交うひとの足を止め、大金を払わせるという外向的であからさまなものであり、アナゴとはもっぱら穴のなかに閉じこもっているもの、料理されるとしても人知れず奥の調理場で調理され、特別の匂いでひとを寄せるということもなく、はっと気づくと深川めしに乗っているような内向的で奥ゆかしいものなのである。

25日以降はほとんど家を出ず、家アナゴのような生活をしている。わたくしはアナゴが好物であるが、かといって毎日毎日アナゴではくたびれてしまう。たすけてウナギ。

by enzian | 2012-01-07 23:54 | ※その他 | Comments(0)

生きることに即した思考能力

入らなかったらよかったと後悔するような店にまれに出会う。そういう店は比較的小さく、扉を開けたとたん店長(シェフ)と出くわすような店なのだが、目が合ったとたん、二人の視線がバチバチとぶつかりあって、ぼくはなにかを感じ、相手もぼくが感じたことを瞬間的に読み取る。相手がなにかを読みとってぼくを警戒すべき人物と判断したことをぼくもまた瞬時に読み取る。この間、およそ1秒。こうして、辺りにただよう警戒感に、来てはいけなかった店に来てしまったことを後悔しつつ、重苦しい食事がはじまってしまう。

今年もこういう経験が二度あった。一度は東京で、はじめてもんじゃ焼きを食べたのがそういう店だった。警戒電波をヒリヒリ感じていたから自分で焼きたかったのだが、あいにく未知の食べ物だったから焼いてもらわざるをえなかった。こうして、記念すべきもんじゃ一号はどんな味かもわからないまま終わった。もんじゃ焼きはそれっきり。二回目は奈良で、若いシェフの目をみたとんいかんと思ったが、よりによって珍しくもコースを予約していたことが災いして、美味しいサラダからはじまる気まずいコースを堪能した。

ぼくはかつて品行方正(もう少しべつのいいかたはないのかな)でなかったひととか、いま品行方正でないことをウソでごまかしているひとであることが目を見ればだいたいわかってしまう。そしてそういうひとたちというのは自分の隠そうとしていることを見破られることをいつも警戒しているから、見破るぼくのことがわかるのだろう。

こういうのを第六感とか特殊な直観能力というひとがいるかもしれないが、ちがうと思う。ぼくは一日を生きるために品行不方正から自分を守ることを、ウソを見抜くことを強いられてきた生活が長かったから、痛い経験たちを蓄積したデータベースと、データーベースに検索をかけて瞬時に行動を選び出す(=分析する)ような〈生きることに即した思考能力〉をもってしまっただけで、特殊な直観能力があるわけではない。たぶん、ぼくの心の動きを瞬時に判断した店主たちも同じような思考能力をもっているのだろう。

by enzian | 2011-12-30 22:38 | ※その他 | Comments(0)

紐帯

b0037269_16174957.jpg新幹線のホームでは多くのひとが電車を待っていた。なかにひとり、どうしても違和感をぬぐえないひとがいた。

正確にいえば、それは「ひと」というより、もっとべつの生きもののように思えた。彼は終始うすら笑っていた。ときおり周囲に目をやっているが、彼が見ているのはこの世界ではなく、スクリーンに映された影像なのではないか。彼の世界とスクリーンに映された世界はべつの世界で、スクリーン上の人間と彼が交わることはない。混じりあうはずのないものを意味もなくえんえんと見せられ続けている――そういう齟齬(そご)の感覚が彼のうすら笑いになっているのではないか、ぼくにはなぜかそんなふうに思えてならなかった。

電車がホームに入ることを告げるアナウンスが響く。まもなく電車が着いて、車両に乗り込もうとする姿を見てはっとした。彼と、彼の後ろから乗り込もうとする男性の手首は、太い綱で結びつけてあった。

by enzian | 2011-11-19 15:52 | ※その他 | Comments(0)

観念

「授業中にとつぜん先生の目つきが鋭くなって、なにかを狙っているのだなと思った」。こちらのちょっとした目つきの変化で心の動きを察知されていたと聞いて、その鋭敏さに驚く。たしかにそのとおりで、そのときぼくは授業をしながら、あることのタイミングを狙っていたのだった。そしてそれはじつにろくでもないことで、そんな気持ちをほかの学生にも見抜かれていたのかもしれないと思うと、情けなくなった。ときどき盛り上がって、できるだけひとに迷惑をかけないで生きていきたいなどと願うこともあるが、たちまち無理だと思い知らされて、ほうぼうに迷惑をかけながらやっていくしかないと観念する。

by enzian | 2011-11-06 23:45 | ※その他 | Comments(0)

粘土細工

昔、ぼくが学生時代、いつも大教室のいちばん前の席に座って、ろくろく授業は聞かず、一心不乱に紙粘土で怪獣をつくっている学生がいて、ぼくらはそやつを「粘土」と呼んでいた。何度か話しかけようとしたが、けっきょく、粘土と話すことはなかった。

ひとの悩みらしきものを聞いていると、多くの場合、いかようにも脱出する方法はあるのだが、その方法を使わないようにしているのは悩んでいる当人だと感じる。場合によっては出口はいたるところにあって、一歩でも足を踏み出せば外の世界にかってに行ってしまうぐらいの状態なのに、まず足を石膏で固定して、ついでひとつひとつの出口を粘土で念入りに目止めしているようなひとたちをみると、悩みとは出口がないということではなく、そこにあるとわかっている出口を利用できない愚かさの自覚なのだ、とさえ思ってしまう。

当然、そういうひとたちに「出口はある」と伝えてもなんの意味もない。求められてもいないものを全力で提示し続けることを、ひとは「徒労」と呼ぶ。おそろしい言葉だ。こうした粘土や石膏の心当たりが自分にもあるのではないかと自問自答してみようともするが、めんどくさいので、自問自答の働きを粘土と石膏でびっちり固めておく。

by enzian | 2011-11-02 23:18 | ※その他 | Comments(0)