カテゴリ:※キャンパスで( 165 )

新学期はじまる

新学期がはじまってしまった。今年の新入生は男性よりも女性が多くて、これは哲学科はじまって以来ではないかと話す。たぶんそうなのだろう。自分が学生だったころまで記憶をたどるが、そんな記憶はない。

べつのゼミに行った2年生以上の学生の連絡先をさくさくと削除する。去年、2年生との連絡はメールを使わないひとがいてラインを使っていたが、これはどうも削除しにくい。やはりメールで連絡しておくほうがよいようだ。今年も自分のコースやゼミには、よほどのことがない限り来ない方がいいという体で話し、書いた。これでいいと思う。

by enzian | 2017-04-02 16:27 | ※キャンパスで

一喜一憂

危惧していたことは危惧のとおり、失敗に終わった。今回は祖母のことに触れてしまったので、居眠る高校生たちを前に、祖母に申し訳ないと思いながら話していた。生徒が居眠るのは、100%、居眠るような授業をした教師の責任なのだ。ひどい出来の授業をして自分が恥ずかしい思いをするのは自業自得だからよいが、勝手に授業の材料にして祖母に傷をつけたという意味で、またぼくは大学の代表として授業をしたわけでもあるわけだから、大学に泥を塗ったという意味で、手痛い失敗をおかしてしまった。もう一度チャンスがあればなんとかできるかもしれないが、授業にもう一度のチャンスはない。

昨日はオープンキャンパスで、なんにんかと話した。1年振りで会った高校生がずいぶん大人になっていて、驚いた。話を聞いていると、いろんな壁があって乗り越えてきたらしい。大学の教員が高校生を相手にして一喜一憂することがあるなんて思いもしないことかもしれないが、事実はそうなのである。

by enzian | 2016-07-18 17:55 | ※キャンパスで

重力と恩寵

貧血で倒れたときの印象を、「神に見放されたような感じ」と言った学生がいたという話を聞く。自分はまったく糸が切れたかのような強い貧血に襲われたことはないが、とても興味深く聞いた。「糸が切れた」というのは、操り人形のようになにものかに操られている印象だから、適切ではないかな。「支えを失う」というのがよいか。誰しも地上で生きている限りは重力を受けて、それでようやく立ったり、座ったり、寝そべったりできているわけだから、そういう意味では、生きている限りはなにかからの支えを受けていることになる。いや、死んで物体になってもそこから免れることはできないか‥‥。もちろん、この文章はヴェイユの『重力と恩寵』とはなんの関係もない。

彼の地で書きためた文章を、もったいないから、ときどきここにも再録することにしよう。どんな拙い文章でも、そのときの自分の心の映しで、分身のようなものだから。「そのときの」ものだから、どうしても時系列はずれるけど。ちなみに、この文章は彼の地に書いたものではない。

by enzian | 2016-05-08 10:33 | ※キャンパスで

水出し緑茶

今日は奨学生候補の面接日。中途半端な時間に終わってしまって、さて、これからなにをしようかとお茶を飲んでいる。はじめて大学で水出し緑茶をつくってみたが、上手くできてご満悦なのである。お湯で出すのよりも、じっくり時間をかけて水から出す方がいいのかもしれない。お茶が旨ければ、大方それでよい。詳しいことは言えないが、とある学生が学生時代の自分とそっくりで驚いた。いやほんと、こんなに(学生時代の)自分に似た男は会ったことがない。「君はぼくか?ぼくなのか?」と言おうとして、言われても相手も困るだろうと思って、やめておいた。これから、人生、いろいろあるぞ。

by enzian | 2016-05-07 16:05 | ※キャンパスで

物見高い

親しく接したことはなかったが、あぁかっこいいなぁとちょと離れたところからちらりちらり見ていた先生がおられた。ときどき書かれる文章を読んで、その美しさと、切れと、じわじわと滲み出てくるなにものかにいつも「うわっすげっ」と、ほとんど中学生のようにはしゃいでいた。あるとき、その方が学校の近くの洋食屋さんでひとり座って食事をとっておられて、その凜とした姿にまたそういう思いを深めた。

その方はもう定年になって学校には来られなくて残念に感じていたが、その方にどこか似ていると思える、やはり女性の先生がおられて、ちょっと離れたところからちらりちらりと見ていた。あるとき、その方の講演を聴く機会があって、あぁまちがいなくこの方は学者なのだ、と改めて感じ入った。内容の学問性の高さだけでなく、その説明の切れのよさといったら、もう。有象無象たちはその片方も持ち合わせていないというのに‥‥。そしてまたあるとき、新しい試みをしたときにその方が見に来られた。「なんとも物見高いことで」と、ややはにかんだような顔で来られたのが印象的だった。想うに、あの学問性と切れのよさは、そういう含羞と同じものから生じたのではなかったのか。いずれにせよ、そのとき、ぼくは「物見高い」という言葉を覚えた。

by enzian | 2016-05-04 10:34 | ※キャンパスで

枇杷の実

校内のいっかくには枇杷の木が生えている。この季節になるとオレンジ色に色づいてくるが、採るひともおらず、毎年落ちるがままになっている。ある年、学生がひとり、コロコロしたものを抱えて、個研に入ってきたことがある。両手を広げると、その枇杷であった。「誰もひろわないので、少しひらってきました」という。下宿に持ち帰って食べてみるのだという。「甘くないかもしれないよ」と言おうとして、言葉を飲み込んだ。

ぼくはこういうひとが好きだし、こういうひとに会いたくて仕事をしている気がするが、なぜ好きなのかを説明するのはむずかしい。

by enzian | 2012-06-03 11:18 | ※キャンパスで | Comments(6)

出会ったひとと別れることはないし、出会わなかったひとと別れることもない

三月の半ば過ぎにある毎年の行事。華やかなことが苦手なぼくは、きらきらした式よりも、個研で4年間のことをしみじみ話したり、二次会に行って、ほろよい気分でこのさきのことを案じたりすることの方が大切だと思い込もうとするきわめて恣意的な自己弁護作業に忙しい。すいません、式は大切です。毎年この時期に思うのは、出会ったひとと別れることはないし、出会わなかったひとと別れることもないということ。一度出会ってしまえば別れることはないし、もともと出会ってもいないのに別れることなどない。この時期には、ふたつの意味での別れのなさが明確になって、錯綜する。

by enzian | 2012-03-17 11:25 | ※キャンパスで | Comments(0)

「お疲れさまです」の意味

授業での授業(教室での多数を相手にする指導、の意味で使ってみる)や学生指導(研究室等での個別の指導、の意味で使ってみる)が終わると、学生から「お疲れさまです」と言われることが多くなった。「あざーっす」と発音する学生もいる。ほとんど、クラブやアルバイトさきでの乗りなのだろう。昔はなかった用語法だし、少し引っかかりがあるので自分ではなるべく使わないようにしているが、やはり使わざるをえない。これ以外にひとをねぎらう言葉が思いつかないのだ。なにに引っかかっているのか、以下に箇条書きにしてみる。

(1)授業にしても学生指導にしても、ぼくはボランティアでやってるわけではなく、実質的には、学生たちが払う学費から給料をもらってやっていることなのだから、学生がぼくの行為をねぎらう必要はない。(もちろん、学校は利潤追求を至上命題とする企業ではないから、そんなこと承知したうえでなおねぎらってくれる気持ちこそ、大学らしい心のやりとりだと思っている。)

(2)授業にしても学生指導にしても、ぼくは給料が欲しいからやっているのではなく、個人的動機としては、趣味の一環としてやっている(こういうことをいうと、職業意識がないとか難癖をつけるひとがいるだろうが)のだから、ねぎらう必要はない。これはとくに学生指導に当てはまる。

(3)教室での授業ごとき、大した仕事量でもなく、また特別にむずかしいことではない(ちなみに授業をバカにしているわけではない。学生指導とは困難さのレベルが違うと言っている)ので、ねぎらう必要はない。(学生指導には高度の能力が必要だと思うが、(1)(2)の理由からねぎらう必要はない。)

というわけだが、ひょっとすると「ねぎらう」には「労(ねぎら)う」だけでなく「祈(ね)ぐ」の意味も含まれているのかもしれない。だとしたら、学生たちは「お疲れさまです」というねぎらいの言葉で、「もっとしっかり授業や指導をして欲しい」と言っていることになり、やや(゚◇゚)~ガーンとなり、にわかに問題は緊迫の度を増してくる。

by enzian | 2012-03-05 23:13 | ※キャンパスで | Comments(0)

寸鉄

b0037269_225055100.jpg学生からの言葉がずっと心に残ってしまうことがある。ここ二年ほどでもふたつあった。ひとつは、いまここで詳しくいうわけにはいかないが、初心を忘れかけていたぼくの胸を刺す寸鉄となった。

夜半、怠け心がおこったとき、ぼくはこの言葉と、そのときの学生の切なげな表情を思いだして、なんともいえない気分になる。その願いを果たせないなら、自分がいま大学にいる必要はない。それはたしかなことだ。だがそれにしても、それを果たすことは可能なのだろうか。自分にそんな能力があるのだろうか。そんなことを考えつつ、ぼくはまた、もう少しだけと、誰もまともに認めることなどないであろう研究のために、古ぼけた書物を読み進める。

by enzian | 2012-03-02 22:57 | ※キャンパスで | Comments(4)

善知識

b0037269_18182961.jpg人間関係で判断に困ったとき、「あのひとであればどう判断するだろうか?」と、許可も得ていないのにかってに登場いただく、〈脳内の常連〉とおぼしきひとたちがいる。

そのひとりはカントで、ひとりは祖母。それぞれ、ぼくにとっては一定の範囲内での押しも押されぬ権威者として、脳内にどっかと鎮座ましましている。祖母はカントなんて名前、それどころか、哲学という言葉も知らなかったけれど、祖母のおかげでぼくは哲学と、そしてカントに出会うことができた。

もうふたりは大学の恩師。とくに学生との関係で迷ったときに、いつもふたりを思い出して、「先生ならどうなさるだろうか?」と思いをめぐらす。記憶のなかにしまってあるふたりの言葉に検索をかけて、類例がないかどうか、参考になるものがないかどうか探しはじめる。そうすると、ひとりはやさしいままに微笑みながら、ひとりは思いやりに満ちた暖かい心を押し殺して明晰に、語りはじめる。ぼくはふたりの言葉にじっと耳を澄ます。

by enzian | 2011-12-24 18:20 | ※キャンパスで | Comments(0)