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迷い猫

なぜか学校に三毛猫が迷い込んでいて、しばらく遊ぶ。まだ大人になり切っていないらしく、か細い足で左右に倒れそうな様子でたどたどしく歩く。「かわいらしい」は本来、「相手がいたいたしく見るに耐えない」という意味らしいが、本当にかわいらしいヤツだった。ちゃんと飼い主の許に戻れただろうか。

by enzian | 2004-09-27 23:59 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(0)

嵐の三日間

卒論合宿を終わる。嵐の三日間だった。台風一過して、明日からは穏やかな日々を満喫できると思っていたが、甘かった。卒論とは何かをまったく理解していない学生がいることが判明。書き直させる羽目に。こういうことのないよう、強力な網をかけてきたつもりだが、いとも簡単にかいくぐられてしまった。合宿終了後、ある学生に「舐められてんのかなぁ?」とため息まじりで聞いたら、すかさず、「先生は甘すぎる」と答えられた。怒り狂っていても「アホちゃう」ぐらいにしか思われていないんだろうな。きっと。

by enzian | 2004-09-15 23:59 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(0)

脱力文化

ルーズソックスやダボダボズボンに見られる若者の現象を「脱力文化」と呼ぶ人がいる。脱力文化の美徳は「あきらめ」。単なる横並びのファッションだと言えば身も蓋もないが、そこには、「しっかり」「きっちり」「たしか」「すっきり」といった既成のモラルを否定する(詳しく言えば、この否定の方法は以前は暴力的であったが、今はあくまでも力を込めず、スマートに “いなす” )ことによってアイデンティティを確かめたいというアナクロな思いとともに、努力した後に否応なしに見えてくる自らの無力さに傷つきたくないという切ない現実逃避も隠されている。

ルーズソックスこそ見ないが、大学もまた脱力文化の花盛り。教壇で努力や忍耐を声高に叫んでも、アパシーの静けさのなかで空しい思いをするのが関の山。これが山の頂なら、せめて木霊なりと返ってくるだろうに‥‥。

by enzian | 2004-07-13 23:59 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(0)

野田又夫氏

もう少し前のことになるが、京都大学の名誉教授であった哲学者、野田又夫氏が逝った。かつて感銘を受けた野田氏の言葉を一つ。 
「現実の内在的批判によってのみ真実はみとめうる、ということがソクラテスの生死をささえた。こういう仕方で求められる限りにおいてのみ、求める真実と善とは、現実をはなれた夢想たらざることを得るのである。そしてこのことについては、むかしもいまも、根本において変りはないと思われる。
 もちろんわれわれ自身、現在の状況において、真実と善とを、ソクラテスやプラトンの示したような規模において求めようとするとき、われわれみずからの新たな工夫と新たな勇気とを必要とする。かれらの後二千数百年の歴史の示す事実は、かれらの信じたところ教えたところの実現へとわれらを励まし勇気づける事実のみではない。むしろそのことの困難を、いなほとんどその不可能すらも思わせる幾多の事実を、人類は経験した、といわねばならないであろう。むしろ絶望することの方が正直だといいたくなることもあるであろう。
 しかしながら、だからといって、すべてに絶望して人間を見限り、理論を見限ることは、多くの場合かえって安易なのである。人間のことをよく知らぬ者が、えてして人間ぎらいとなる。たとえば、たやすく人を信じる者が、いったん裏切られるとまたたやすく人間ぎらいとなる。同様にして理論的吟味の苦労を知らぬ者が、たやすく理論ぎらいとなる。こういう人間ぎらいや理論ぎらいは、現実の問題の困難を深く知った結果であるというよりは、未熟のせいに過ぎないであろう。」(「人生と真実」より)
難しいと思う人は、最後の段落だけでも目を通して欲しい。特に若い学生に。

by enzian | 2004-06-24 23:59 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(2)

暴風雨警報下の学校にて

暴風警報のなか大学へ行く。休講のにおいを鋭く嗅ぎ分けるのが学生の本能、だが明らかに休講でもやってくる希少なのもいる。希少な学生との、とりとめない会話。
「小さい頃、台風と聞くと、わくわくしなかった?」
「しましたねぇ。」
「どうしてだと思う?」
「非日常だからでしょう。」
「人間は非日常を求めているということ?」
「そうなりますね。」

by enzian | 2004-06-21 23:59 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(0)