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善知識

b0037269_18182961.jpg人間関係で判断に困ったとき、「あのひとであればどう判断するだろうか?」と、許可も得ていないのにかってに登場いただく、〈脳内の常連〉とおぼしきひとたちがいる。

そのひとりはカントで、ひとりは祖母。それぞれ、ぼくにとっては一定の範囲内での押しも押されぬ権威者として、脳内にどっかと鎮座ましましている。祖母はカントなんて名前、それどころか、哲学という言葉も知らなかったけれど、祖母のおかげでぼくは哲学と、そしてカントに出会うことができた。

もうふたりは大学の恩師。とくに学生との関係で迷ったときに、いつもふたりを思い出して、「先生ならどうなさるだろうか?」と思いをめぐらす。記憶のなかにしまってあるふたりの言葉に検索をかけて、類例がないかどうか、参考になるものがないかどうか探しはじめる。そうすると、ひとりはやさしいままに微笑みながら、ひとりは思いやりに満ちた暖かい心を押し殺して明晰に、語りはじめる。ぼくはふたりの言葉にじっと耳を澄ます。

by enzian | 2011-12-24 18:20 | ※キャンパスで | Comments(0)

柿を食うということ。

個研でくるりくるりと柿を剥いていたら、コンコンとノックの音がして、入ってきた学生がこう言いよりました。「ギャー、センセイが柿をむいている!」と、そしてそれだけ言って、バタバタとどこぞへ走って行きよりました。ぼくはただ柿が食べたかったから剥いていただけなのです。なのにギャーだなんて‥‥。失礼しちゃうわ(死語か?)、なのです。いったい学生はなにを「ギャー」と感じたのでしょうか。考えてみましょう。

(a)柿が珍しかった。
→(コメント)残念です。リンゴやらミカンなど、「いかにもフルーツ」といったものがもてはやされる昨今ですが、柿大好きのぼくとしては、やや日陰の身の柿ではありますが、そのよさも見直してもらいたい。いかにも「ペット」といったイヌやネコ、水族館のラッコがもてはやされる昨今ですが、けっきょく頼りになるのはカワウソだと心得ておくべきなのです。

(b)柿を剥いているおっさんが珍しかった。
→わからないではありません。柿が豊富な地域で育ったぼくでも、ぼく以外のおっさんがニヤニヤしながら柿を剥いている光景を見たことはありません。

(c)柿を剥いているおっさんのテツガクシャが珍しかった。
→誤解です。おっさんのテツガクシャといえども、かすみを食って生きているわけではないのです。柿を食いもすれば、牡蠣を食って当たることもあるのです。

(d)柿を剥いているおっさんのテツガクシャであるenzianが珍しかった。
→誤解ですが、しかたありません。ぼくが台所にマイ包丁をずらり並べる包丁人で、かつアウトドア・果実採集系であり、さらには骨の髄までの体育会系であることを知っているひとなど、ぼくの同僚にさえひとりもいないくらいですから、学生たちがぼくをインドア・本の山埋もれ系ケケケ男だと思い込んでいたとしても、まったく無理のないことなのです。

by enzian | 2011-12-02 22:45 | ※キャンパスで | Comments(6)

週一の拷問

やりにくくてしかたない授業がひとつある。おかしい、おかしいと思ってはいたが、なぜなのか理由がわからず、ごまかしながら続けていた。ごまかしていたつもりだが、書き落としをしたりして、やはりミスが出てしまう。まじめに授業を聞いている学生に問題はない。問題はまちがいなくこちらにあるが、なぜその教室での授業だけ落ち着かないのかわからなかった。その理由が今週やっとわかった。授業中、教卓の両サイドにある窓ガラスに自分の姿が映るのだ。これまで大教室の授業を遅い時間帯にしたことがなかったから窓ガラスに自分の姿が映るというのは経験したことがなかったが、辺りが真っ暗になると、窓ガラスが鏡面のようになって講義者の姿を映し出してしまうのだ。

学生たちに向かって話していると、同時に、視界の両方の端に学生に向かって話している自分の姿が見える。ぼくはもともと自分の姿を見るのがキライだ。散髪屋にいっても、ほとんど鏡を見たことがないぐらいなのだ。しかも、視界に映るその姿は、おそるべきことに「教壇に立つ教師の姿」なのだ。〈自分=教壇に立つ者〉という自覚のまったくない、というかそれをひたすら避けてきたぼくには、これは拷問に等しい。

by enzian | 2011-11-26 22:59 | ※キャンパスで | Comments(10)

思い切る

「思い切る」という言葉はずっと「決心する」の意味だけだと思っていたが、「断念する」「あきらめる」の意味を含んでいると知ったのはいつのことだったか。『星の王子さま』を読んだときだったかもしれない。「こころ切る」とか「精神切る」という表現はなくて、「思い切る」という表現があるのは、「思い」には、なんとなく粘着質で、枝垂れ柳のようにどこまでも長く伸びて、なかなか区切りがつかない働きのニュアンスがあるからなのだろう。

こちらに戻ってきて一ヶ月が経とうとしているが、研究どころか、昨年度の積み残しの仕事にさえ着手できていない。これでは総倒れの憂き目を見てしまうので、来週からは、自分の責任のなかにあってどうしても必要なこととそうでないこと、言いかえれば、〈内と外〉を区別して、外は思い切ることにする。〈外〉のものごとよ、非情と言うなかれ。

by enzian | 2011-10-27 23:18 | ※キャンパスで | Comments(2)

慧眼の士

b0037269_23343271.jpg半年間のブランクを埋めることに追われる。資料を整理していたら、校医の先生が退任なさっていたことに気づいた。思わず「しまった」とつぶやく。

その名前は学生時代からあったし、たしかに今年まであった。その名前があることが安心でもあった。慧眼の士。昨年見かけて、足下がおぼつかない風であったので覚悟していたとはいえ、なにかがはらりと落ちたように感じた。私的な関係にあったわけではないとしても、ひとこと、伝えたかった。これまでぼくはいつも最後の瞬間を逸してきている。気づけば、いつもすでに事は終わり、ぽつんと取り残されているのだった。別れはいつか来るものとはいえ、できることなら、お世話になったことのお礼の気持ちを示して別れたい。

by enzian | 2011-10-07 23:36 | ※キャンパスで | Comments(0)

いつも前から歩いてくるひと

ときどき向こうから歩いてくるひとがいる。誰だか知らない。脇目もふらず、まっすぐ前を向いてどうどうと、ゆったりと歩いている。こちらに興味を示す様子はない。決まって手ぶらだが、ときどき小さなウェストポーチらしきものをつけていることもある。毛むくじゃら系だが、それなりに荒っぽくまとまっている。背丈は大きくない。彼に最初出会ったのは、ぼくが19歳のときで、大学の構内でのことだった。ぼくは一目でその顔を覚えた。なるほど大学とはこのような人間が闊歩するところなのだ、と思った。あのときから彼の風貌はまったく変わらないままで、ときどき忘れかけたころに前から歩いてくる。いつも前から歩いてきてすれ違うばかりで、後ろから来て抜かれたことは一度もない。

by enzian | 2011-10-07 22:47 | ※キャンパスで | Comments(0)

後ろ向きのまなざし

あたりまえだけど、学生もいろいろ。教師と学生の関係はいわゆる「師弟関係」だけだと考えているかたもおられるかもしれないが、ひととひととの関係だからそんな単純ではない。学生のなかには、「自分の方が能力のある人間であること、より高級な生まれの人間であること」をぼくに知らしめるために、ぼくのゼミを選ぶようなものもいる。権威主義的な傾向のひじょうに強いひとだと思うが、それじたいは悪いことじゃない。

こっちとしては学生が自分よりも優秀だったらうれしいし、さっさと抜き去って、いろんな方面で活躍してもらえたらと切に願っている。そしてもしできることなら、自分が抜き去ったひとたち、後に残されたひとたちがそれをどんな風に感じているかを考えられるような、“後ろ向きのまなざし” もわずかにもち続けているなら、なお魅力的だし、自分(学生自身)を知ることにもなる、と思っているのだが、これはぼくの趣味の問題なんだろな。

by enzian | 2011-10-02 10:02 | ※キャンパスで | Comments(0)

彼岸花

b0037269_23555824.jpgもうすぐ彼岸というので、彼岸花がどこかに咲いていないか探しながら歩いていた。大学の片隅に一株だけ、雨に打たれて咲いているのをみつけた。

まだ授業のはじまらない学校にも学生は行き来しているが、この花に気づくものはほとんどいないだろう。こんなところに彼岸花の球根を植えたひとがいたのだ。自分の好きなことをして、それでなにかを失ってしまうというなら自分はそれで後悔もないが、悲しませるひとの数は少な目ですませたい。学生が京都の彼岸花の写真を送ってきてくれた。このブログをはじめたころ、彼岸花はたしかに嫌いな花だったが、いつのまにか好きになっている。そろそろ荷造りをはじめよう。

by enzian | 2011-09-22 00:33 | ※キャンパスで | Comments(7)

牧歌的対話

立派なひとがいると思う。ここでいう立派なひととは、生活や世界の全体にわたって肯定的な読み方ができるような回路を張り巡らそうとするひとで、けっこうどこにでもいる。自分の周囲が立派なものだと思うだけならよいが、自分もまた立派にならねばならぬと思うようで、いつもつま先立って、前のめりになって走りだそうとしていて、走り出すとなかなかストップがかからない。学生にもこんなひとがいるらしく、「完璧な世界」構築旅行の途中で燃料切れになってJAFのお世話になっている姿を、ちらほらみかける。

こういう学生をみかけると、「ちょっと、ちょっと、どこのゼミの方か知らぬが、そこのお方。そんな立派になってどうしようというのです、もっと肩の力を抜きましょうよ~ モ~ メェ~(牛や羊たちの声)」などと牧歌的に声をかけるが、ほとんど聞いてはもらえない。一本気な性質が災いして、じぶんをゆるさないのである。人間なぞ8割方どす黒いものだ(ちなみに、2割も大切ですよ、青少年のみなさん)、いつなんどきなにをしでかすかわかったものでない、などとは夢にも思ってはいけないと信じているのである。

こう書くと、燃料切れ学生のなかには反論するひともいるだろう。「そんなことおっしゃいますが、先生のゼミは厳格だと有名です。シラバスには3分の2以上の出席がないと評価対象としない、とか殺伐としたことを書いてるし。ゼミ生たちもみんなガクブルしてると聞きます。そんな牧歌的な声を出しても、本性バレてます」。それを聞いてぼくは「いまの君のその気持ち、決して忘れないで欲しい!」とだけ熱く告げて、去っていくのである。

by enzian | 2011-08-14 12:22 | ※キャンパスで | Comments(6)

昔話

いま学校で起こっていることを話すのはむずかしい。書くにしても、よほどの慎重さが必要である。そんな理由もあって、けっきょく書くのは昔の追想ばかりになる。ただそれにしたって、小学生のころの話だけでなく、いろいろあった大学のころのことも書いてもよいものなのだが、ここにはほとんど書かない。

大学3年生のいまごろ、ぼくはときどき図書館で本を借りたりなんかして、大学の昔のことを調べようとしていた。カウンターには、いつも同じ職員さんが座っていて、ときどき書類を書きまちがえるアホ学生にも、やさしい物腰で接してくれた。そうやって、大学の昔のことを書いた本、昔の教員の論文や写真なんかを一日中見ていた。飽き足らずに、教員のところに行って、大学の昔の様子を聞くこともあった。それはちょうど、小さな子どもが大人に昔話をせがむようなものであったのかもしれない。

ぼくのなかに、その必要があるなら、昔の大学のことも書いてみようとする気持ちはあったと思うが、いまその必要を感じることはない。ほとんどの学生はめくるめく変化のなかでいまをやりすごす対処策を探し求めるのに忙しくて、昔の大学のことを考えているひまなどないのだろう。それどころか、彼らはたいてい、自分たちがそうした対処策の示唆を求めるために近づいている眼前の物体がどのような歴史をもった人間なのかも知らない。
(写真は求道会館、クリックすると大きくなります)

by enzian | 2011-05-30 23:45 | ※キャンパスで | Comments(0)