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一本

大学のパソコンに入っていたデータをUSBメモリーに移し換えた。このパソコンは置いていくのだ。こつこつと長い時間をかけてつくってきたデータだったから、小さなメモリー一本で足るか心配だったが、なんのことはない。メモリーの残量はありあまっている。不勉強だからだろうといわれればぐうの音も出ないが、このさきめいっぱい勉強しても、ぼくが作り出したデータなど、このメモリー一本を満たすこともできないだろう。

メモリーに移し換えて、心配になった。この一本が壊れてしまったら、これまで大学生活のすべてがなくなってしまうではないか。一本に賭けるというのは聞こえがよいし、それはしばしばぼくにとっても魅惑的に感じられるものなのだが、不必要にやると滅亡を早めてしまう。ぼくが学生として学んでいたころの大学は、さながら各種のはちゃめちゃな変人たちを陳列する博物館の情趣があったが、いまは均一の製品をつくる工場のようになった。そして困ったことに、こういう均一化、均質化の作業のいったんは自分も担っている。

by enzian | 2011-03-05 21:25 | ※キャンパスで | Comments(0)

まさかの笠地蔵

少し長い休みをはさんで学校がはじまると、帰省していた学生たちが郷里のおみやげをもってくる。次々と学生たちがおみやげをもってenzian個研前に列をなす風景は、「enzian詣で」と言われ、冬休み明けの大学の風物詩となっている。そんな物をもらってしまって、あとあとアンフェアなことが生じはしないのか?enzianの正義とはどこにあるのか?などといった白熱した議論がなされているとも漏れ聞くが、勝手に白熱しておればよいのだ。恥じらいなしで大仰に哲学する者ほどやっかいなものはない。話がずれた。

注意しておきたい。enzian詣では特権階級のゆえではない。これは常日頃、enzianにひとかたならぬお世話になっている学生たちの、わずかでも恩返ししたいという切ない願いの現れなのだ。ひとえにenzian個人の人徳ゆえなのである。その切ない気持ちは痛いほどわかる。わたしとて与えすぎを望まぬ。与えることではなく、ときには受け取りつつほどよい程度に与えることがまことの愛であり、慈悲なのである。今日、会議から帰ってきたら、ドアの前に米が置いてあった。

by enzian | 2011-01-12 23:38 | ※キャンパスで | Comments(0)

弟子走

もう師走も終わってしまいそうということで、年末と年始に論文の締め切りをかかえている当方といえば、とろりとろりと脂汗を流しながらパソコンに向かっている。師走というぐらいだから、師を教員といいかえれば、当方もそのはしくれとして忙しくてかなわないということなる。なるほど年々休日出勤と雑用は増える一方で、振り替え休日などもちろんなく、研究時間は減る一方だと、ウソかマコトかわからないことをいいたくなる。

とはいっても、当方は今年、あびるほど勉強させてもらって、またひとまわり偉くなってしまった(とカンチガイしている)ことだし、長く生きてきた年の功ということもあって、膨大な雑用を小手先でひねって表面だけつるつるに加工したり、よしんば、つるつるでなく凸凹だと指摘されても、「きっと気のせいでしょう」とゴマカす手練手管を身につけているので、たいていのことはなんとかする。

このようにそれなりの年の功スキルをもったおっさんはよいのだが、気の毒なのは、だれぞの弟子たちたる学生諸君だ。若いから仕事をさばく能力にも長けていないだろうし、ヒマを買うだけのお金もない。よほどアルバイトやらに精を出さねばならん。思えば、学生時代のぼくは、決まってこの時期は郵便局におった。あぁ懐かしい。ちなみに、当方には昔から配下の眷属(けんぞく)も、子飼いも、弟子もおらん。そんなもんいらんのだ。

by enzian | 2010-12-29 23:11 | ※キャンパスで

趣味

就職活動をしている学生が嘆いている。集団面接で趣味について聞かれて、「趣味はボランティア活動です」と答えて、嬉々として、生き生きとそのことを話しはじめる学生が多いらしい。「生き生きと話す学生に面接官は関心を示すのだろうが、自分はあんなふうにボランティアを趣味として公言することに抵抗を感じる」、という。

かなりの人数の学生が面接での自己アピールの手段としてボランティアという言葉を出しているということは、そのような面接指導をしている大学があるのかもしれない。ぼく自身は冒頭の学生と同様、(1)ボランティア活動を「趣味」だとすることに、しかも、(2)そういう場でなんらかの手段としてそれを公言することになんともいえない違和感をもつが、こういう考え方は、すでに時代遅れになってしまったのかもしれない。

by enzian | 2010-12-28 00:04 | ※キャンパスで

ぬるぬる准教授

とある授業に行くと、毎週毎週、どうしようもなくマイクがぬるぬるだったことがあった。辟易するのだが、たくさんの聴講者を前に「ぬるぬるなので、授業をはじめることができません」と泣き言を言うこともできず、下手をするとつるりとすべりそうになるマイクをもちながら授業をはじめると、いつしかぬるぬるのことも忘れてしまうのであった。

その日もぬるぬるだった。マイクをもった手でノートをめくると油が染みついた。「前の授業の担当者はどこまで脂性(あぶらしょう)なひとなのか」などと言いたかったが、脂性に罪はないのだ。しかもそんなことを言えば、たちまちその教員の名前は調べられ、「ぬるぬる准教授」とか言われかねない。ぼくとて、授業評価アンケートの「プライバシーに配慮している」項目の点数を下げられてもかなわんので、そんなことは言えぬ。進退きわまったぼくは、おもむろに学生たちに背を向け、チョークの粉をそっとマイクに振りかけた――。

by enzian | 2010-12-23 23:11 | ※キャンパスで | Comments(0)

浄財

「奨学生の募集を停止する」――見覚えのある育英財団からの掲示であった。

大学院のころ、二箇所から奨学金をもらっていた。ひとつは国、ひとつは宗門の育英財団から。奨学生に採用されることが決まって、宗門の財団を訪れたとき、ぼくはなにごとかを言われるのではないかと内心穏やかではなかった。ぼくには僧籍はなかったし、しかもそのころ身を置いていたのはキリスト教系の大学院であった。ぼくはクリスチャンでもなかった。ぼくはどこでも “よそ者” であった。宗門の方から本山の紹介を受ける。「こちらが○○で、こちらが○○です」。案内が終わり、奨学金を貰った。けっきょく恐れていたようなことはなにも言われなかった。恐れていたようなことは言われなかったが、「これは浄財です」という言葉が心に残った。心に残ったが、「浄財」の意味はわからなかった。

けっきょく学費や生活費はすべてアルバイトでまかなって、国からの奨学金も、浄財も、そっくりそのまま後の結婚費用にした。果たしてそれが浄財の使い方として正しかったのかどうか、いまもってわからない。わからないが、よそ者にしてなお浄財を受けることが許されたということ、この一点が、おそらく自分が生きている限りは変わらないであろう影響、ひとつの思いを、ひねくれ者のぼくに与えたことは確かである。

by enzian | 2010-12-17 23:24 | ※キャンパスで | Comments(0)

「あなたの文章は作文であって、論文ではない。」

b0037269_071598.jpgきまってこの時期は文章を書いてもらって、OK を出すまで書き直してもらうことにしている。情け容赦ない添削によって学生の文章は切り刻まれ、いたるところに手ひどい注意を書き込まれて、なんども突き返されることになる。

一日に50回は「根拠がない」をくり返して、恨めしそうな学生たちの顔をみれば、エラそうなことを言えた義理でもない自分のことをかえりみてしまって、ほとほとイヤになる。

「あなたの文章は作文であって、論文ではない」と言われて傷つかない者がいるものか。苦労して書いた文章が「意味をなしていない」とコメントされて頭に来ない者がいるものか。そんなことはわかっている。ときどきいたたまれなくなって、添削の手を止めて窓の外をみる。学生のころ、悪友たちとそばで無駄話をしていたキンモクセイが生えている。

by enzian | 2010-12-10 00:24 | ※キャンパスで

消しゴム

昨日は高校生を対象とした「学びフォーラム」というのがあって、朝から授業をした。しとしと降る雨のなかいつもの学校に着くと、高校生がうじゃうじゃいた。高校生の波を縫いながらいつもの道を歩いていると、消しゴムが落ちている。高校生に配っているものらしい。誰かが拾うかと見ていたが、高校生たちは消しゴムをまたいですたこら行ってしまう。授業を終えて通りかかると、同じ場所にさっきの消しゴムが落ちている。何度か踏まれたらしく、ゴムをくるんだ包装紙はなくなり、靴裏の模様がついたゴムだけが濡れていた。あれだけたくさんの高校生がそばを通って、ひとりも拾う者がいなかったのだ。

汚くなった消しゴムを拾う者はもういないだろう。ぼくは高校生ではないが、消しゴムを拾うことにした。いまぼくの手元にはその消しゴムがあって、今日は朝からよく働いてくれた。ぼくのしたことは厳密に言えば “ネコババ” というものだと思う。

高校生のうちから大学でするような授業を聞きに来て、熱心にメモをとることはすばらしい。そのような勉強をして社会のリーダーになろうとするのは立派なことだ。しかしぼくは、むずかしい授業で熱心にメモをとる学生である前に、ひと目をはばかって迷いながらも落ちている消しゴムを拾い、そのことの意味を考えられるような学生であって欲しいと思う。個人的には、ぼくの大学はそういうことを教える大学だと思っている。

by enzian | 2010-10-31 18:38 | ※キャンパスで | Comments(0)

出欠をとるということ

学生たちと話していると友人たちの話がしばしば出てくるわけだけど、そうした場合、たいてい友人たちはファーストネームかニックネームで呼ばれる。以前は、教員(ぼく)と話す場合には、「○○」君や「○○」さんといったかたちでファミリーネームにして、いちおう、“よそ行きの言い方” をしてくれたのだけど、このごろはとんとそういうことをしてくれなくなった。自分の友人はその場にはいないニュートラルな第三者として話してくれる場合が多かったのだが、このごろは自分の友人を自分の友人のままで話すことが多くなったのだ。ひとによっては自分の飼い犬やら飼い猫やら飼いウサギまで愛称で呼ぶ。てっきり別のゼミの学生のことを話していると思ったらハムスターの名前だったこともある。

こうしてぼくは、自分の学生だけでなく、その学生の親しい友人のフルネームやニックネーム、ときには飼い犬の名前までも覚えるようにしている。最近ことに頭の回転が鈍ってきて、記憶力減退傾向の著しいじいにはやや荷の重いことなのだ。なんぼかわいくても、他人様(ひとさま)の犬の名前まで覚えてられへん。百歩譲って犬猫や、ほ乳類までは認めるにしても、両生類とかはさすがに勘弁して欲しい。げろげろ。

この理由がどうしてなのだろうとときどき考えてみたりするのだけど、よくわからない。学生というのは総じてクラスメイトのファミリーネームを覚えていないものだからなぁと思ったこともあるが、そんなこと、いまにはじまったわけでもないのだ。でも最近、はたと気づいたことがある。ぼくは自分のクラスの学生の出欠をとるとき、いっさい点呼しない。名前を呼ばないのだ。ぱっと顔ぶれを見て、黙って閻魔帳(えんまちょう。死語か?)につけてしまう。そう言えば、ぼくが閻魔帳をつける際の一瞬の沈黙が怖いと言った学生がいたっけ。出欠をとるというのは、ひょっとすると教員のためだけのものではないのかもしれない。

by enzian | 2010-10-30 22:09 | ※キャンパスで | Comments(0)

いらぬ負担

昨日はオープンキャンパスの学科担当で、なんにんかの高校生と話した。ぼくはひとと話すのが好きだから、しかもふだん話すことのない高校生と話すとあって、いつもオープンキャンパスではテンションがあがって困る。きっと誰も気づいてないだろうけど。テンションがあがっても、学科相談で相談を受ける学生とは、その後なんねんもいっしょに勉強していく場合があるので、慎重に対応することにしている。

気をつけてはいるのだが、そんなハイテンションのせいか、一度、失敗をやらかしたことがある。ある年、高校生と長く話し込んだぼくは、その学生が自分の大学の哲学科を受け、入学するにちがいないと思い込んでしまった。そして、あろうことに、「入学後に返してくれればいいよ」と、哲学の入門書を貸してしまった。けっきょく、その名も知らぬ高校生とは二度と会うことはなく、本も戻ってこなかった。本など惜しくはないが、自分の思慮のなさで高校生にあれこれいらぬ負担をかけたのではないかと悔やまれる。

by enzian | 2010-08-08 21:32 | ※キャンパスで | Comments(0)