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鬼畜

方々で言われる。毎日言われる。老若男女を問わず言われる。「怖い」と。そらそうだろうと思う。自分が授業をすっぽかしていても時間にはうるさいし、手を抜こうとする学生には零下20度ぐらいの心で接する‥‥等々。残念だが、こうした怖さについてはなんとかできそうもないし、心底なんとかしようとも思っていない。

とはいえ、「怖い」と思われてよいことなどない。恐怖による支配は建設的なものをなにも生まないし、いったん「怖い」と背を向けた心を元に戻すことは至難だろう。そこで、参考までになにが怖いのか聞くようにした。「厳格だから」を予想したのだが、「目が怖い」ということだった。そういえば、私語を注意したぼくの目を「鬼畜の目」と評した学生がいると聞いたことを思い出した。この目は母からもらったもの。なにを言われてもさしてこたえないが、そのときばかりは、しみじみ母に申し訳ない気持ちになった。

by enzian | 2010-07-24 13:49 | ※キャンパスで | Comments(0)

短冊

授業が終わったら、学生が短冊をもってきて、なにか書けという。去年まで教えていた学生だ。どこかに笹でもあって、短冊をかけるのだろう。風流なことをする。すでに書いてある短冊があって、いま指導教員となっている同僚の名前が見える。はっとするようなことが書いてあった。ぼくはなにを書こうか。一瞬の判断をせまられて、こう書いた。「私一人が幸せでありますように ○○」。もちろん、ふざけて書いたのだ。矛盾しているよなと思いつつ、矛盾していることに気づけてよかったな、と思いつつ。

by enzian | 2010-07-07 23:05 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(6)

星を見る

ゼミの3年生と4年生とが9月に星空を見る合宿をするという。個性派ぞろいの哲学科のなかでもぼくのゼミはとりわけの逸材ぞろいだから、うまくやれるか心配していたのだが、なんのことはない、ゼミ発表での「心臓から口が出るような思い」を経て、いつのまにか、かってに仲良くなっているのだ。ほっと胸をなでおろし、幸せな気分に浸る。

彼らの多くとは彼らが大学に入る前に知り合っている。責任が重いのはわかっているが、就職活動についても資格についても、現実的なことではさして力になってやれない。申し訳ないと思いつつ日々の生活を送っている。せめて、いっしょに行きませんかという誘いを叶えてあげられたらと思ったのだが、その日も学会が入っているのであった。

by enzian | 2010-07-04 23:04 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(2)

「行ってらっしゃいませ」の文化

「教材準備室」という部屋があって、学生アルバイトたちが教材のコピーをつくってくれたりして、とてもお世話になっている。授業がある日には、日に何度かそこに寄って必要なものを調達したりして教室へ行くわけだが、部屋を出る際にはいつも、アルバイトたちが「行ってらっしゃいませ」を合唱する。ぼくはその言葉を聞くのが怖くて、部屋に置いてある白いチョークを2本、黄色いチョークを1本握りしめたら、あわてて回れ右をし、「行ってらっしゃいませ」が聞こえないよう、素速くドアを開け、そそくさと逃走する。

アルバイトをしている学生たちのなかには、もとぼくの学生だったのがいて、「あの行ってらっしゃいませ、は気持ち悪いからやめるように言ってくれない?ほかの先生方からも評判悪いよ」などと言っているのだが、やめてくれない。どうやらあるときアルバイト先をカンチガイした学生がはじめたようなのだが、それが代々引き継がれる “文化” になっていて、そう簡単にやめられないらしい。まぁ教材準備室に限らず、どこでもある話だ。

鍵を借りたときなどは教材準備室に戻らないといけない。ぼくはおそるおそるドアを開ける。「お帰りなさいませ、ご主人さま!」とか言われたらどうしよう‥‥

by enzian | 2010-06-20 22:56 | ※キャンパスで | Comments(0)

発見の喜び

b0037269_2252334.jpg全体を見て「ここは誤りである」と指摘した場合、この言葉はどういうことを意味しているのだろうか。

まず、「ここは誤りである」という表現は、「ここ以外の部分に誤りはない」「これ以外の部分は正しい」ということを前提しているのではないだろうか。だとすれば、「ここは誤りである」という表現は、「ここを修正さえすれば、それは全体として正しくなる」「ここを修正さえすれば、それはさらによくなるだろう」ということを志向しているのではないだろうか。

だがぼくたちは、というか少なくともぼくは、自分よりも年若い者と接するとき、とりわけ学問にかかわるときには、そうしたニュアンスをすっかり省いてしまって、「誤り」の部分にのみ目を向けてしまいがちなのだ。そしてやっかいなことに、“学問的な厳密さ” を口実にしてそういったアンバランスさを大目に見てもらおうと甘える。

「誤り」にこだわる理由は簡単だ。全体のなかにわずかに見え隠れする誤りを探し出すことは、“発見の喜び” の相を呈するからだ。曖昧に隠れているもの、不明確なままであったもののなかから明確なものを見つけることが学問の喜びだとすれば、こうした “誤りの発見” は学問の喜びと境を接しかねない。学生と対峙するとき、ぼくたちは上のような削ぎ落としてしまいがちなニュアンスを掬い上げ、表現するようつとめることも大切だと思う。

by enzian | 2010-05-22 21:25 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(2)

お花畑と無精ヒゲ

出張から戻ってきての火水木金はいつもにもましてグダグダだった。教室での授業ぐらいはなんとかごまかそうとがんばったつもりなのだが、うまくごまかせたかどうかはわからない。判断するのは学生たちなのだ。集中力がいるはずの個研での面談では、なんどか瞬間的に眠ってしまった。コンマ1秒ほどの夢を見たりもした。ひょっとすると生涯をかけたくらいの相談をしているときに相手が夢を見ているなどとは、それこそ学生も夢にさえ思わないだろうが、現実、不良教師は眠っていたのだった。コンマ1秒のお花畑を見ていたのだ。

火水木とごまかしにごまかしを重ね、なんとか大過なく金曜日も終えることができたと安堵した。夜、自宅に帰って鏡を見て、その朝、ヒゲを剃り忘れていたことに気づいた。きっとどうでもよいことだったろうが、いつもにも増して見苦しいものを見せてしまい申し訳なかったと、関係者一同にお詫びしておきたい。

by enzian | 2010-05-15 18:48 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(0)

上滑り

遠い昔、親類から「困ったときにはいつでも電話してくるように」と言われて、複雑な気分になったことがある。理由はいろいろあった。困ったときもへったくれもなくて、毎日毎夜困っていた。できるはずのない相談だった。そんなこと、あなたは百も承知で毎日知らぬ顔をしているのに、なぜそんなうすら寒いことが言えるのかと、自分を含めて人間がイヤになった。それ以来、「困ったときには連絡してくるように」とはなるべく言わぬようにしているが、ほかに言える言葉もなくて、苦し紛れに言ってしまうこともある。もちろん、そんな、すでに話し手のなかで上滑りしているような言葉がいくばくかの “効力” をもつことなどない。

by enzian | 2010-05-12 23:33 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(2)

誰だったか‥‥

先週のこと、学生が来て、「このマンガはおもしろい、ぜひせんせんに読んで欲しいのです」と教えてくれた。「へぇそうなんだ~」とか言いつつ、それを記憶したつもりだったのだが、すっかり忘れてしまった。「岡田」という人の作品だったようななかったような‥‥その学生は南の方に住んでいる人だったようななかったような‥‥女性だったような‥‥。ひょっとすると夢だったのやもしれない。心当たりのある人は私だ、この本だとメールで教えてください。忘れたことより、せめてメモしておかなかったことが悔やまれる。それは、忘れっぽい者にとっては、他人の言葉を大切にしなかった、ということだからだ。

by enzian | 2010-03-21 16:47 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(0)

「お前はなんなのか?」

学生がとあるコンビニのアルバイトの面接に行ったが、店長にくそみそに言われて、追い返されたという。「そんな大学の哲学科に入って、いったいどうするつもりなのか」と怒鳴られたらしい。それを聞いて、もちろんこちらもすぐに怒り心頭となったが、大学関係者としては学生にたいする申し訳ない気持ちも湧いてきて、二つの気持ちがどこまでも混ざり合わない平行線をたどり、物悲しくなった。店長は「自分で哲学を勉強している」ひとらしい。

店長の言う「哲学」がぼくらが勉強しているのと同じかどうか知る由もないが、いろいろなものに問いを投げかけていく哲学は、ついにはその問いを投げている本人自身をも問うはずのものなのだ。「そのように考えるお前はなんなのか?」と。これは楽しくもあるが、けっこうしんどくて痛い問いかけでもある。いっしょに哲学をしている学生とは、自らをわきまえることを、そして、自分が他人の痛みをわかってはいないことを知りたいと思う。

by enzian | 2010-03-10 23:30 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(0)

虹が見える時

横目で美しい虹を見た。そのときぼくは会議中で、いつものようにたどたどしい議事進行役に懸命だった。京都のちょうどその辺りはよく虹が出る場所として知られていて、考えてみれば、正面に比叡山が見えて、舟形を見下ろすこの会議室からも虹が見えてもおかしくない。最初に窓を見たとき、ガラスに油膜が張っているのかと思った。油膜を通して外からの光が反射していると思ったのだ。そのときはまだ色は分かれていなかった。

会議が進むにつれて、あれよあれよという間にいくつもの色が整然と分かれてゆき、それは紛れもない虹であることが横目でもわかるようになった。会議室は比較的高いところにあるから、下から見上げるのではなくちょうど虹と肩を並べるような感じの位置になっている。虹の “幅” を実感したのだ。それはけっこうぽってりとした厚みのあるもので、色と色の分かれ目がはっきりと見えた。彩られた空気を抱きかかえて持ち帰って自宅に置ければなんとよいだろうと、次に話すべきことを反芻しながら、ぼんやりと考えていた。

今年度最後の会議は、ここ数年間の取り組みを反映するものを見る機会だった。ぼくは会議の最後を虹に触れることで終えようと思った。今後も続く会議の一区切りと未来とを、じょうだんをまじえながらも、ほんの少しは本気で、虹でつなげようと考えたのだ。だが、そのような “締め” を思いついて、進行役の肩の荷が下りていくにつれて、みるみる虹は薄れてゆき、会議が終わるころにはあとかたもなく消えていた。

by enzian | 2010-02-28 11:57 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(0)