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絆創膏

b0037269_22153892.jpg定期試験も終わり、大学はお別れへの助走期間に入った。たくさんのさよならをするのだ。

ぼくは「また会いましょう」という言葉をほとんど使ったことがない。方々で「鬼」と評され、そしてその評価はじつに正確なのだが、かといって「また会いたい」という気持ちがないわけではない。ひとたび出会って情が移れば、もう二度と会えないなんて誰だってやなこった。そんなの、当たり前じゃないか。

ぼくが「また会いましょう」といわない理由はふたつ。ひとつは、再び会っても、喜んでもらえるようなものはなにも持ち合わせていないと思うからだ。もう会わないことは、運悪く一度出会ってしまったことへのおわびのしるしなのだ。もうひとつは、ぼくの場合、追いかける(というより、正確には追尾する)能力が人並み以上に備わっているので、追わないでおくこと、視界に入れないようにすることに全力を尽くさねばならないからだ。もう逃がしてあげなきゃ。目を閉じて、包帯をぐるぐるに巻いて、その上に絆創膏を貼って留める。

by enzian | 2010-01-31 22:18 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(12)

アンダーライン喪失

個研には本を置いているわけだが、どう気をつけていても、年に数冊は紛失する。たいていは誰かに貸してそのまま行方知れずになるのだが、たしか誰かに貸したという記憶はあっても、それが誰だったか、思い出すことができない。もちろん、何パーセントかの紛失が生じることは織り込み済みだし、買い換えればよいことで、そのためのお金など惜しくないのだが、打ち明ければ、ひとつがっかりすることがある。

ぼくは自分が読んでおもしろい、勉強になると思った本しか貸さない。つまらないと思った本は、「読んでも時間のムダだからやめておいた方がいい」とはっきり言う。あまりに主観的な‥‥と思うひともいるかもしれないが、自分が貸す本ぐらい勝手にさせてもらう。おもしろいと思った本には必ず鉛筆でアンダーラインが引いてある。さらにおもしろいと思った箇所には余白部分に◎が書き込んである。それは自分が最初に読んだときにおもしろいと思った箇所、そのとき抱いた自分の気持ちを示すものなのだ。

ときどきぼくはどんなところにアンダーラインを引いているのかと、好きな本を開けることがある。かつての自分に会おうとするのだ。未熟だと思うときもあるし、何年も前にこんなことに気づいていたのかと自画自賛することもある。そうして、しみじみ自分を懐(なつ)かしむ。アンダーラインを引くことによって、ぼくは著者のみならず、自分自身とも対話することができる。当たり前のことだが、買い換えた真新しい本にアンダーラインは引かれていない。

by enzian | 2010-01-08 22:11 | ※キャンパスで | Comments(0)

救われる

b0037269_9453382.jpg前を歩く少し腰の曲がったコート姿は老人らしい。据え置きの消毒液の前で止まり、液を手につけ、またトコトコ歩き出す。

見かけない方だ、どこの方なのだろうと思ったが、わずかに横顔が見えて、わかった。3年前に立ち話しした際にはもう少し背はまっすぐ伸びておられたはずだが。横顔の雰囲気からも、ずいぶんお歳を召されたように見える。後ろからお見かけしただけだから、それはたんなる思い違いなのかもしれない。

ゆっくり歩く老人を追い越さないように歩く。ここで働きはじめて、どれほどの学生がこの老人のお世話になったことか。先日もまた、この方は一人の命を救ったのだった。腰が曲がってもなおここに足を運び、もくもくと縁もゆかりもないひとの力になろうとする。このひとを動かすものはなんなのか――小さな老人の背中を見つめながら考えていた。自然に頭が下がってしまって、困った。救われているのは、学生よりもぼくの方なのかもしれない。

by enzian | 2009-12-29 22:39 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(8)

もっとたんたんと話せないものか?

どうしてそんなドラマティックに話そうとするのかと感じる場合がある。よく面接をする機会があるが、若いのに、異様なほどに強弱のアクセントをつけながら話すひとがいる。なかにはアクセントのうえに身振り手振り、顔振りを交えながら話すひとさえいる。どうも面接慣れしているひとらしいのだが、どうして面接慣れしてくると異様に抑揚がついたり体のアクションがついてくるのだろうか。それは総じて面接やら社会のさまざまな場面というのがそういうのを求めるからなのだろう。簡単なことだ。求められるからそうするのである。

自分を前面に押し出し、次から次へと長所を全身でアピールをしてくる “面接エリート” たちを見ながら、いかにも冷酷にこう考えている。もっとたんたんと話せないものか?研究ができるかどうかなど書類を見ればすぐわかる。ぼくがいま見ているのは、あなたが自分の拙さをどれほど知っているのかということだけなのだ。

by enzian | 2009-12-17 14:27 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(0)

リンゴ

戻ってきたら、ドアのところにリンゴの入った袋がかけてあった。袋を部屋に持ち込むと、部屋中に爽やかな香りが漂った。リンゴにこれほどの香りがあるとはちょっと驚きであった。寝室に置けばよく眠れるという話を聞いたような気がするが、本当なのかもしれない。リンゴはあこがれだった。「リンゴ」と聞いただけでほんの少し幸せな気分になれた。関西に育ったぼくはリンゴが実った木を見たことがなかった。このような美しい形のものが房なりに実ったさまをいつか見たいものだと思っていた。

本物のリンゴが実っているさまを見るのが待ちきれなくて、姫リンゴの苗木を買って欲しいとねだった。2年目の秋になって、待ちに待った姫リンゴが実った。ぼくは赤くて小さなリンゴをかじった。それはさして甘いものでもなかったが、たしかにリンゴの味がした。

by enzian | 2009-12-12 22:37 | ※キャンパスで | Comments(0)

第一級の恐怖体験

b0037269_20514380.jpg12月といえば大学は論文の季節。卒業論文やら修士論文(厳密には大学院生だけど)を書いている学生たちが遅くまで研究室に残っている。

教職員も休みを返上して、学生生活集大成のドラマをバックアップしようとする。学生からの熱と教職員からの熱とが混じり合って、12月が深まるにつれて、大学全体は一種独特の雰囲気に包まれてくる。ぼくはそんな雰囲気が好きなのだ。

教員もふらふらだけど、学生たちはもっと大変だろう。論文は自分の姿を映し出す怪物なのだ。外国語が読めないもどかしさ、まともな日本語さえ書けない恥ずかしさ、考える力のなさ、怠惰‥‥おのが拙さをトータルで認めよと迫る論文に学生たちはたじろぎ、弱い自分に、弱さを認められない自分に気づく。真正面から自分を見つめること――これほど恐ろしいことがこの世にあろうか。学生生活集大成のドラマ、というより第一級の“恐怖体験”だが、これを乗り越えてもらえたらと思う。それは徒労ではないのだから。

by enzian | 2009-12-05 20:58 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(8)

消耗戦

「この春、ほんとうに大学を辞めようと考えていたのです」。出張に居合わせた同僚がしみじみ語った。「どうしたのですか?」「体がきつくてきつくて、研究もできませんし」。ぼくが秘かに学生思いのすばらしい教員だと思っている人だった。奥さんと話しあって、けっきょく、自分にはこれ以外の仕事もできないないだろうし、今回は辞めるのを思いとどまったという。こんなすばらしい教育者が、まじめに仕事を引き受けるがゆえにやめざるをえない大学というのはどういう機構なのだろうかと思う。

多くの有能な教員を見送ってきた。いずれも研究をあきらめられない人たちだった。ぼくは自分の研究をすることは半ばあきらめているから、そういうこともあまり考えなかったが、そうとばかりも言えなくなってきた。誰だったか、認知症になった父親を自分で介護していた人が、敬愛し続けた父親であったが、痴呆がひどくなって疲労の極限にたっしたときに「もう私はこの人を愛せない」と思って、施設に預けることになったと言っていた(一般論として、自分で介護し続けることがよいことだと言っているのではない、念のため)。今日、ひとつの仕事を区切ったときに、しばらく意識を失った。さすがに限界かもしれない。

by enzian | 2009-11-27 23:10 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(4)

人間垂直角度

地下鉄の駅の上に学校があることもあって、ふだんぼくが学生としゃべっている場所は、主に以下の3地点となっている。

1.個研
2.学校から駅へ至る道
3.駅

なにかと騒がしい2や3でなく1で話すのを好む学生が多いわけだけど、なかには1よりも2や3の方が気さくに話せるのもいる。おそらくどこに座ろうと(なんらかの角度で)視線を合わせねばならない個研よりも、互いに進行方向を向いたままほとんど視線を合わせる必要のない2や3を好む学生がいるのだろうと思っていた。

ほとんど1では話せないのに、思いがけなく2で楽しく話せた学生もいた。1や3とちがって2は歩き続けているわけだから、一定のペースで体を動かすことが会話することに影響するのかもしれない。いやそうではなく、歩くことと、会話のもとになる考えることが関係しているのかな‥‥などとポツポツ歩きながら考えていた。考えながら歩いていた。

だけどあるとき、3で「これくらいの身長差が話しやすい」と言われて、はっとした。(座ったままの)1ではほとんど話さない学生だった。以前の記事で、ひとにはそれぞれ、これぐらいの角度に他人がいれば安心できるという “人間角度” があるのだろうと書いたことがあるが、人間角度は水平方向だけでなく、垂直方向にもあるのかもしれない。だとすれば、上方2度がよいので自分よりも10センチ背の高いひとが話しやすいとか、下方1度が好みで5センチ低いひとがちょうどだから8センチ高いひとはイヤだ、とかいう “人間垂直角度” があることになるだろう。以前の記事の人間角度を “人間水平角度” と修正したい。

興味深いのはそういうことが生じる理由だ。高さがなんらかの考え方(うまく表現できないあぁ)から生じるとすると、人間水平角度が相手を問わず一定なのにたいし、人間垂直角度は相手の立場によってちがうなんてことにもなるだろう。上司として適切なのは5センチ高いひととか、部下として適切なのは2センチ低いひと、とか。もちろん、1でも2でも3でもなく携帯でのみ話すひともたくさんいるが、それについては別に考えることにしよう。

by enzian | 2009-11-21 14:05 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(0)

宿題

いつだったか、「アルバイトをしてもしても服を買うお金が足りない」とこぼす学生に、「学生なんだから、服なんて清潔なものを着ておげはいいんじゃない?」と言ったら、思い詰めたような顔をして「かわいらしい服はいましか着られない」とポツリと答えた。なんでもない会話の一言だったけど、忘れられない言葉でもある。ばかにならない体力を使って、予習のための時間を圧迫して、苦労して入った大学の学業にかんして自分を窮地に追い込んでもよいほどに、かわいらしい服を着ることが大切であるとする信念を目の当たりにして、ぼくはまったくうろたえてしまったのだ。いまでもときおりこの言葉の意味を考えようとするが、まっすぐに考えようとするとすぐなにかが邪魔をする。

by enzian | 2009-11-14 22:54 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(3)

試金本

b0037269_22301298.jpg学校の部屋にはできるだけ学生にとって役立つような本を置くことにしている。学生に役立つといっても、いろんなパターンがある。学生の座り位置に近いところに置いてある絵本たちがこれまでの学生指導でどれほど役立ってきたか、なんてことはまだ書かない。これをぼくは定年後に微に入り細に入って書くのだ。

他人から見れば単なる汚部屋にすぎず、学生たちにはいつも、「ぼくって整理できないんだよね~誰か整理整頓してくれないかなぁ~」などとへらへらしているが、各本棚での本の配置は極めて緻密なウケケ的計算のもとに管理されている。

なかでも一冊、学生との関係においてとても重要な本がある。本来こういうことは日々の営業に差し支えるので話すべきではないのだが、いよいよキノコの秋を迎えるという気分の高揚もあり、今日は特別にお話しする。それはぼくが秘かに “試金本” と読んでいる本で、この本を貸して、一週間程度で「おもしろかったです」と返しに来ることができれば、その人は長く哲学することが可能な人である、と判断しているのだ。

長く哲学することができるためにはいくつかの条件が必要だと思っている。「自分とは違った考えをおもしろいと思えること(他者に感心をもっていること)」、「粘り強いこと」、「孤独に耐えられること」なのだけど、これら3つに、教養する人として生きていくための条件の「誠実であること」を加えて4つのことが身についている人でなければ、上に書いたようなことは生じないのだ。

これはと思った人にはこの本を貸すことにしているのだけど、残念ながらほとんど読み通すことができないまま返しに来るのが大半で、いつも残念な思いをしている。上のような条件を揃えた人は数年にひとりぐらいしか出てこないのかなぁなどとも考えるが、問題がひとつある。記憶している限り、この本を読もうとして読み通せなかった最初のひとりは、ほかならぬ自分自身なのである。

by enzian | 2009-09-26 22:31 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(0)