カテゴリ:※街を歩く( 66 )

手動ポンプ

b0037269_172854.jpg街を歩いていて、まれに現役の手動ポンプに出くわすことがあると、ぎーこぎーこやって、水を出してみたくなる。出した水に手をひたしたくなる。

手をひたしたくなる衝動は誰よりも手の体温(今年、自分より体温が高いひとに会って驚いた)が高いぼくの特徴なのだろうか。

幼いころの記憶のなかには一場面だけ、自宅の手動ポンプが動いていて、水がじゃーじゃー出ていたシーンが残っている。ハンドルは重かった。水を手に入れるのは簡単なことじゃない、という印象がわずかにあるのだ。

by enzian | 2012-09-17 17:10 | ※街を歩く

カラスはカラス

カラスがゴミ場をあさっている。怖がらないものだから、まじまじ見る。非常に精悍で、利口そうな顔をしている。羽根の色はつやややかに黒い。ぼくには美しく見えるのだが、これほどまでにこの鳥がきらわれるのは、この黒がいけないのだろうか。であれば、めでたく紅白に塗りつぶせばよい。

羽根色の問題ではなく、ゴミ場にいるのがいけないのか。であれば、優雅な蝶のように、花から花へと蜜を吸い飛ぶようにしつければよいのか。それでもなおカーカーという鳴き声がイケナイというのなら、小鳥のようにぴぃーぴぃーと鳴くよう教えようか。

そんなことをすれば、カラスがカラスでなくなってしまう。

by enzian | 2012-08-11 14:41 | ※街を歩く

紙風船

b0037269_0255932.jpg学校からはさほど遠くないところに「ユリヤ商会」というおもちゃ屋があった。店先にはいつも玉を追っかけまわすキツネのようなアライグマのような動物のおもちゃが動いていて、ぼくの学生のころから変わらず老夫婦が店を切り盛りされていた。

かなりの高齢のようで、いつまで続くかと、大きなお世話だろうに、その前をとおるたびにひやひやしていた。正月になれば、ゲイラカイトやらが置かれていて、季節によって商品を変えているのだと驚いたことがある。

客が入っているのを見たことはない。いつかなにかを買ってみようと考えていて、紙風船がいいと思いついた。好きなのだ。ゴムでできているわけでもないものが風船になることが、小さなころは不思議だった。ふっと息を吹き入れて、ぽんと音をならして空に打ち上げると、すっとではなく、ゆっくりふわりと落ちてくる。またぽんと打ち上げる。

先日、店前をとおったら、シャッターは降りており、閉店を告げる紙が貼られていた。誰しもそうだろうが、衰退していくのを見ることには胸をしめつけられる思いがする。伸長していくひとたちを見るのが仕事であったことに胸をなでおろす。

by enzian | 2012-07-01 00:30 | ※街を歩く

しゃべる自販機

b0037269_12161575.jpg飲み物を買うと、べたべたの大阪弁やらでべらべらと話しはじめる自動販売機がある。ジュースを買った女性が友人にいっている。「恥ずかしくて、ひとりでは買えんかったわ」。

自販機というものができたとき、どこでもいつでも買えるという便利さを喜んだひとは多いだろうけど、その便利さのなかには、「あぁこれでひとと話さずにものを買うことができる、やれやれ」ということも含まれていたのではないか。「いらっしゃいませ」「まいど」「どれにいたしましょうか」という話しかけは、円滑なコミュニケーションの手段であるにしても、買い手の側にも都合があって、今日に限っては話しかけないで欲しい、この店については「まいど」といってほしくない、そっとしておいて欲しいということもある。

みんなかどうかはわからないが、少なくともぼくは、いつもつながりを意識しながら生活しているのではなく、つながりを微妙にオンオフしながら生活している。どうしてもつながりという言葉が必要なら、つながりを維持するためにつながりをオンオフしている。四六時中つながりを十分に意識できなければやっていけないというなら、そのほうが非常事態なのだ。「いらっしゃいませ」を全店員で “輪唱” する合唱系の飲食店や、マニュアルどおりに店全体で前のめりになって話しかけてくるコンビニが多くなってきたなかで、ものいわぬ自販機は、ときに、つながりを過度に求める時勢のなかでは「いま飲みたい」という渇きを癒すときのオアシスなのではないか。もちろん、話しかける自販機がこうして話題になること自体がメーカーとしての広報的な狙いなのだろうが。

by enzian | 2012-05-06 12:26 | ※街を歩く | Comments(0)

歩きながら考える

b0037269_194271.jpg初夢は不思議な夢だった。見えない乗り物に乗っているようで、地面から少し浮いていて、浮いたまま移動している。それであれこれの場所に行ってみる、という夢。夢のなかでは、「なるほど楽だけど、やっぱり歩くのが好きなんだ。好きなひととしかいっしょには歩かないよ」なんて言っている。いったいだれと話していたのやら。

歩きながら考えるのが好きで、ひょっとすると、パソコンの前でうんうんうなっているよりも、ぷらぷら歩いているときの方がよい考えが浮かんだりする。リラックスもできる。

といっても、どんな道でもいいというのではなく、車がビュンビュンそばを通り過ぎていくような道路はイヤだ。ひとが歩く道、ずっと昔からたくさんのひとが行き交ってきた道がいい。そういう昔のひとたちの気配を感じながら、昔のひとたちを懐かしく思いながらそのひとたちといっしょに歩ける道がいい。

昨年は、文章を書くのに行き詰まるたび、下町をあちこち歩いていた。東京で書いた文章は、それまで書いていた文章とはちがうものになっている。それは、研究方法を少し変えたということもあるのだけど、歩いてきた道のせいもあるのかもしれないな。

by enzian | 2012-01-04 19:39 | ※街を歩く | Comments(4)

金の星

b0037269_023215.jpgはじめて聞いたときは調子外れに感じたが、しだいに耳慣れてきた。春と夏のころには「夕焼け」といっても、西日が照りつけていたが、このごろはそれが流れる17時になると、ちょうど夕焼けがはじまろうとしている。夕刻を告げるためにどこからか流れてくる「夕焼け小焼け」に耳を傾けるのが、いつしか楽しみになっていた。

この半年間、街を歩き、たくさんのひとと出会った。肉屋のおばさん、ミニスーパーのおじいさん、天ぷら屋のご夫婦、パン屋のおじいさん、甘味屋のおじさん‥‥。みな忘れられないひとになった。ここに戻ることがあるかどうかはわからないが、ときどき思い出し、また幸運にも近くに来ることがあれば寄り道をして、元気なのだろうか、と気づかれないよう顔を見にいこうとするだろう。

ぼくは最初たいていのものが嫌いだが、けっきょく、たいていのものが好きになる。これまでもそうだったし、これからもそうだろう。東京も多分に漏れなかった。なにがわかったというわけでもないが、この街が好きになった。それは、ここで生活しているひと、ここで学んでいるひとに心惹かれたということなのだ。夜空にきらめく金の星はほとんど見えなかったけれど、昼の星たちとは申し分なく会えた。さあ京都に帰ろう。

by enzian | 2011-09-29 19:00 | ※街を歩く | Comments(12)

106年

b0037269_2210131.jpg本郷館という建物がある。木造三階建ての下宿で、築106年。中庭があって、それを囲むようにして76室がある。先日の震災にも耐えたが、老朽化のために取り壊されることが決まった、という話は聞いていた。

ぷらぷら歩いていたら、取り壊しを前に、本郷館をしのぶ集いをしませんか。懐中電灯だけお持ち下さい。といったことが書いてある。明るいうちにひとしきり写真を撮り、記されていた時間に、ふたたび立ち寄ってみた。そこには、館を残そうとしたひとたちや、別れを惜しむひとたちがいるらしく、しずかにその思い出を語っておられた。明治以来、ここに多くのひとたちがいろんな目的のために、比較的長い期間の宿を求めてやってきたのだろう。

そうこうしているうちに、立派な木製の警棒をもった巡査が三人、自転車でやってきた。あらかじめ集会の通報を受けていたのだろう。「みんな懐中電灯を持っている」などと連絡を取り合っている。このようなしめやかな会でさえ警戒しなければならないと誰かが思うような経緯がそこにはあったのだろうが、いっしゅん、別の国の風景かと思ったのだった。

by enzian | 2011-08-09 22:32 | ※街を歩く | Comments(2)

116年

街をあちこち歩いてるのには散歩というだけでなく、すこし理由もある。ぼくが勉強しているなんにんかのひとたちが百年ほどまえに、このあたりであれこれしていたからだ。そのときどきの場所に足を運べば、いくら文字覚えが悪くても、たやすくは消えないなにかが体のどこかに残るだろう。

そんなことを考えているが、ひとつ、どうしても見つからない場所がある。とある中学校なのだが、1895年に「谷中真島町」に置かれたというだけで、正確な位置を示す郷土誌はもうないらしい。そのあたりを歩いているご老人に尋ねても、彼らでさえ生まれる前のこと、詳しいことはわからずじまい。

そこには大きな校舎があり、たくさんの生徒たちの生活があって、教師たちもいたのだろう。高名な校長がいて、街のひとたちとも交流があったのだろう。そのころ、谷中でこの学校の存在を知らないというひとはいなかったはずだ。それから百余年、ひとりの人生に余るとはいえたった116年で、もうその位置をたしかめるすべさえ残っていない。

by enzian | 2011-07-17 13:12 | ※街を歩く | Comments(2)

五叉路

b0037269_22591717.jpg五叉路に出くわすと、なぜか道に迷ってしまう。これまで五叉路にはあまり出会わなかったせいか、四方に方角を当てはめるのが習慣になっているからなのか、よくわからない。いやそんなむずかしいことを考えなくても、分母が多いと正解率が下がるのは当たり前のことか。

それにしても分母の大きな街だと思う。上から下まで、白から黒まで、天使の良心から悪魔のたくらみまで、ありとあらゆる選択肢がぐちゃっとなって路傍に転がっていて、雲の上に頭を出しているひとからすでに人間をやめてしまったひとまで、ありとあらゆる種類の人の形が跋扈している。

大きな分母の街で生きることは、選択能力という実力をもったひとにはチャンスだろうが、もたないひとにとっては、一歩のミスで身を滅ぼす、このうえない危険だともいえる。これは大学にもいえることだ。入学後半年で自滅するひとをどれほど見たことか。もう一種類、こんな街に向いていると思うのは、考えすぎて自分を追い込んでしまうような性質のひと。巨大な分母の前で思考停止に陥ることができるからだ。きっと楽になれるだろう。

by enzian | 2011-07-10 23:09 | ※街を歩く | Comments(0)

自分の道づくり

b0037269_2153415.jpg行きたい方向のめぼしがあったのに、道なりに歩いているうちにもとの通りにもどってきて、びっくりしてしまった。びっくりしたといえば大げさに聞こえるかもしれないが、山道ならまだしも、街中では長くこんな体験がなかったのだ。

こういう体験がないことを持ち前の方向感覚の鋭さによるものだろうと自画自賛してきたが、今回のことでどうもちがうような気がしてきた。要は、しばらく街といえば碁盤の目のように通りが整理されたところばかり歩いていたので、もとにもどってくるはずがなかったのだが、ここのような下町の曲がりくねった道を歩いていると、よほど慣れていないと、おのずとそういうことになってしまうのだ。

同じ道を行くなら、学校の行き帰りであっても、できるだけ細くて曲がった、昔からの道を歩きたい。そんな道には意外な出会いがあるし、迷いながら苦労して歩いた道は自分の道になって体のどこかに残るからだ。曲がりくねった細い道には自分のものにできるというよころびがある。それは誰にも開かれたまっすぐの道(路)にはない密やかな愉しみ。あと三ヶ月、どれだけ自分の道ができるだろうか。

by enzian | 2011-06-30 22:04 | ※街を歩く | Comments(0)