カテゴリ:※街を歩く( 66 )

なぜミョウガであって、白髪ネギではないのか?

やはりちょっとしたスペースにはドクダミがわさわさ生えている。ドクダミといっしょにミョウガが生えた場所もいくつかみつけた。近所には見事なシャガの群生もある。いずれも水気を好む植物。江戸の多くの部分はもともと低湿地帯だったと聞いたことがあるが、ほんとうなのかもしれない。もっともここは台地だから、多くの川が流れていたような場所だったのだろう。そのせいかどうかは知らないが、東京の料理にはしばしばミョウガが使われていて、ミョウガを食用にすることに反対しているぼくは、「なぜミョウガであって、白髪ネギではないのか?」と、ときどき皿と東京人に向かって問いかけることになる。

ミョウガといえば、ぼくにとっては食べるよりも、「みょうがの宿」という昔話のほうが好ましい。そして、みょうがの宿を思い出すと、必ず「とろかし草(うわばみ草)」が連なって出てくる。どちらも、おおかたの子どもには受けない話だろうが、ぼくのなかでは名作。

by enzian | 2011-06-28 23:49 | ※街を歩く | Comments(0)

ウナギの蒲焼きが放つのは香りなのか、においなのか?

「ウナギのいい香りがするぅ~」。前を歩く女子高生らしいふたりがいうので、「ウナギはにおいだろう」と、心のなかでツッコミを入れるが、ツッコミを入れてすぐ自信がなくなる。ひょっとしたら自分が知らないだけで、すでにウナギの蒲焼きは香りを放つというのが一般常識になっているのだろうか。ちなみに、ぼくは生活に密着した庶民的なものが放つよい匂いが「におい(匂い)」で、生活から離れたやや高貴なもの、嗜好品的なものが放つよい匂いが「香り」だと思っている。一方、よくない匂いは「臭い」になる。

そういう考えが前のふたりに当てはまるかどうか知らないが、ウナギというのはもう庶民の食べ物ではなくなっているのかもしれない。じっさい、ぼくはどちらかというとウナギよりもアナゴ党で、とりわけ安芸の宮島付近のアナゴめしをこよなく愛するひとなのではあるが、こちらに来て、東京のウナギがあまりに高価なことに驚いた。蒲焼きの梅が2800円って、いったいどんな立派なお方が召し上がるのか?梅が2800円なら、ぼくは杉とか檜とかでよい。ともあれ、たしかにウナギはサンマとはわけがちがうしろものになっているのかもしれない。サンマはにおいでも、ウナギは香りになってしまうわけだ。そういえば、ぼくの郷里では昔はマッタケがどっさり採れたらしく、そういう記憶のある祖母や父は断固としてマツタケの香りとはいわず、においといっていた。少年時代、血眼になって山を歩き回って、たった一度もマツタケを自分では(厳密にいうと、アシストしてもらって一回だけ見つけた)見つけることができなかったぼくにとっては、マツタケが放つのは香りである。

別の考え方もできる。前を歩いているふたりの自宅のキッチンには夏の土用になるといやというほどウナギの蒲焼きが転がっていて、「もうウナギなんて見たくもないわ」、ぐらいの勢いなのやもしれぬ。したがって彼女らはウナギが放つものをにおいと表現することができるが(なんか論文っぽくなってきた)、にもかかわらず、彼女らはウナギを香りと表現し続けているとしたらどうだろうか。それはたぶん、「におい」と表現すると、「臭い」か「匂い」に聞こえて、前者はよろしくなく、後者はなにやらなまめかしい。そういう誤解を避けるためではないか。要はめんどうなカンチガイを避けて、臭いものに蓋をしているということになる。

by enzian | 2011-06-15 23:18 | ※街を歩く | Comments(0)

三味線

二階より高いところに住んだことがなかった。でも縁あって、いまは少し高いところに住んでいる。きっと心のどこかで、いちどぐらいは少し高いところに住みたいと願っていたのだろう。心の端っこの方で願っているようなことは、たいてい現実になる。心のまんなかでぎんぎんに願っているようなことは不相応に膨らみすぎて、そして功を急ぎすぎて、どちらかと言えば失望とか焦りとかに彩られることが多くなるだろうし、一方、端っこにさえない有象無象(うぞうむぞう)は、そもそも「実現した」と意識することができない。さして期待していないがあわよくば‥‥ぐらいがちょうどよい具合だということなのだろう。

高いところに住んでいると、音が上がってくるという経験ができる。どういう拍子でか、地階で聞いていればそれほど大きくはなかっただろうような音が、とつぜん、はっきり聞こえたりする。どこからともなく、風呂の床に水桶を落としたような音、二人の子どものひそひそささやき合うような声が聞こえたこともあった。今日は三味線の音が聞こえた。

by enzian | 2011-06-10 21:23 | ※街を歩く | Comments(0)

大団円

b0037269_2231730.jpg少し肌寒いので、近所に見つけた小さなロシア料理店にゆく。ささやかに「うめぇうめぇ」と羊のように鳴きながら酸っぱめの前菜を一人食っていたら、喪服姿のご老人たちが入ってきた。男一人、女二人。

法事が終わったあとらしいが、しみじみした様子ではなく、わいわいと騒がしい。スープぐらいを注文するのかなと思っていたら、ビールに前菜にボルシチに、ビーフストロガノフやらロシア風ハンバーグやらを頼んで、ばくばく食べている。話の内容がまたすごい。ありとあらゆる病気、疾患の話が出てきて、それぞれの疾患をもった知人たちの思い出話にどす黒い花が咲いている。

つぎからつぎに繰り出される恐ろしげな病名に、ぼくの耳はすっかり萎縮してしまった。こんな盛り上がり方も世の中にはあるのだ。たま~に病院にいったりすると、病院が老人たちの一種の社交場のようになっていることに気づくが、病院の社交場でもこういう話がなされているのだろうか。こういう場合、ながい人生の経験のなかで、“話が合いやすい” のは老人同士ということになってしまうのだろうが、少し悲しくもある。

さんざ食って、小さな店中をどす黒いお花畑にして、最後に締めの言葉としておばあさんが言った言葉がよかった。「まぁいろいろありますけど、人生、楽しくやりましょう」。ピロシキをかじりながら、ぼくは「すげぇ」とつぶやいた。

by enzian | 2011-06-02 22:05 | ※街を歩く | Comments(0)

金魚とカラス

b0037269_21542351.jpgこちらに来てから、街角や路地裏のそこここに陶製の金魚鉢を見るようになった。そこにはたいてい、やっぱり金魚が泳いでいるのだけど、昨日見た一鉢にはメダカが泳いでいて、わぁ懐かしいと足を止めた。

その隣りの鉢には金魚が数匹入っているのだが、どう顔を近づけて見つめても、動かない。あれっ、おかしいぞ、おかしいぞと思っていたら、後ろから声がした。「だまされたね」。振り向くと笑顔があった。笑顔の後ろには古書店があって、そこの店主らしいひとであった。「ホンモノはね、子どもたちが手でぐるんぐるんして、みんな、ダメになっちゃった」。

手をぐるんぐるんしながら話す店主を見て、京都では見ないタイプの古書店主だなぁと思う。京都ではもう昔ながらの小さな古書店はほとんど全滅状態で、いくつか残っている大きな古書店はどこも、ドアをくぐった客をほとんど万引き予備軍としか考えていないのではないかとかんぐりたくなるような態度を示してくださる。分厚いレンズの眼鏡をかけた店主は番台(?ちがうよな)で本を読んでいるが、注意怠ることなくこちらをチラチラ見ている。信頼感なんぞ皆無なのだ。人間を信頼してないような手合いと付き合うのは難しいというか、どだい無理な話で、必要な本があれば、致し方なく、無言のままで番台のおやじのところへ行って、無言のままにお金を渡すという形で最低限の接触で用をすませる。

椎名誠の初期の本に『さらば国分寺書店のオババ』という本があって、この辺りからの影響もあって、ぼくは書店とか古書店とかの店員にうるわしき感情を抱いていない。ず~っと昔、ぼくがまだ学生だったころ、京都の小さな古書店でちょっと高い専門書を買ったことがある。ぼくはなんどか手にとってはあきらめて帰っていた。ある日、意を決して買おうと思ったとき、おばあさんは言った。「汚い本やから500円負けさせてもらいます」。そのとき以来かな、いい気分になったのは。そうそう、関係ないけど、数ある椎名の本のなかで学生のころ読んでいちばんいいと思ったのは『銀座のカラス』だった。

by enzian | 2011-05-24 21:57 | ※街を歩く | Comments(0)

ホームポジション

近所の通りにいったい何件の店があるのか、いまだにわからない。夜とおったときには開いていなかった店が昼間だと看板を出しているし、昼間は気づかなかったうなぎの寝床のような飲み屋が夜になると開いていて、こんなところ誰も来ないだろ、と侮ってちらりと覗いたら、ぐでっとしたおっさんたちが飲んでいる。のんべえたちには、いかに目立たない路地裏であろうと、居所を見つけるセンサーが備わっているのだろう。そんな飲み屋から出てきたおっさんがひとり、前を歩いている。右に左に大きく振れながら歩いていくので、これは千鳥足のイデア(そのものずばり)だなと思ったら、おかしくてしかたなかった。

あんまり大きく振れるものだから、車にでもひかれたら困るかな、手を貸した方がいいのかな、とちょっと心配しながら追尾していたのだが、どうもその必要はないらしい。大きく振れながら歩くおっさんの左右の振れ具合は一定していて、右に大きく振れたかと思うと、次はちょうど同じだけ左に振れていて、つねに “ホームポジション” に戻っている。おっさんはおっさんなりにすでに見事に一定の調和を保っているのだ。そしてそうやってちゃんと家にもたどり着くのだろう。そんなおっさんに、あぁそっちじゃないですよ、右には振れないようにしましょうね、とか、次の足はこっちに出して、そうしないと家に帰れないですよ‥‥なんてことを言い出したら、とたんにおっさんは歩けなくなってしまうだろう。

by enzian | 2011-05-19 21:26 | ※街を歩く | Comments(0)

甘食

パン屋はやはり明治からということで、4代目らしいおじいさんはもう80歳に届いているのかもしれない。丸くなった背中で、当たり前だけど毎日パンを焼いておられる。甘食(わかりますか?)が置いてあって、いつか買ってみようと思っていた。先日、ケーブルテレビを見ていたら、その店が映っていて、甘食の紹介がされていた。そのあと店に行ったら、甘食がない。どうしたのですか?と言ったら、(放送があって売れすぎるから)しばらく作らないのだという。今朝もおじいさんのパンを食べた。なにも塗らずにまずかじってみた。

by enzian | 2011-04-22 22:11 | ※街を歩く | Comments(0)

個人商店

近所には大きなスーパーはないが、不自由しない程度にどんな店もある。みんな昔からある下町の個人商店で、大正や明治からやっているのだ、というところも多い。びっくりするほど美味しいコロッケを売る肉屋がある。けっこう有名らしい。肉類はここで買う。びっくりコロッケ肉屋の隣には店主厳選の魚貝を売る創業100年の魚屋。魚はここで。パンは、なんのてらいもない素朴な“パン"のみを売っている店で、豆腐と油揚げは豆腐屋で買う。今日は古い商店街にすてきな天ぷら屋を見つけた。おばちゃんと「江戸前」の概念について話す。

どこもここも、みんな話好きの店主ばかりで、立ち話がはずむ。魚屋の近くにある店は老夫婦がやっていて、創業85年。おじいさんの切れのある口調が楽しい。おじいさんとしてはいつもどおりに話しているだけなのだろうが、こちらには江戸の噺家(はなしか)にしか聞こえない。時代を越え、長くひとつの道に専念してきたひとたちと話すのは楽しい。

by enzian | 2011-04-12 23:40 | ※街を歩く | Comments(0)

「抗パニック教育」

買い物に行ったら、うわさ通り、電池とミネラルウォーターの棚がすっからかんだった。ここは京都なのに。東北の親戚に送っているひとたちがいるとでもいうのだろうか。こんなことをしたら、ほんとうに必要なひとが必要なときに使えなくなってしまう。ものを買い占めるパニックは日本だけのものかと思っていたが、日本以外でもあちこちで起こっているらしい。

パニックに陥らないようにするには、なにができるのだろうか。いざというときのパニックを避けるための「抗パニック教育」のようなものは可能だろうか。個人的には、そのようなものがあるとすれば、ひつこく人間を洞察し、人間を信じるに至るということ以外にはない気がする。震災地の出来事を民法各局がお涙ちょうだい的な人間ドラマに仕立てて被災者を見世物にしているという批判はしばしば聞くし、それはたしかにそのとおりなのだが、同時に、こういった民放の動きは、このようなときにこそ人間が信頼に値するものだと感じることで自分たちがパニックに陥らないようにするという、一種の防衛反応、バランスをとる働きの現れでもあると思う。

by enzian | 2011-03-24 23:33 | ※街を歩く | Comments(0)

ぴょんぴょん保護

学校帰りにとある写真展に行った。昆虫の写真展だから、また夏休みということもあって、親子づれが多い。胸をときめかせて、きらきらした目で昆虫を見る少年たちの姿はいい。それはほかでもない、かつての自分の姿でもあるからだ。そうだ、ぼくはぼくが好きなのだ。でも今日の主役はとある少女に譲ろう。

お母さんが話しかける。「この写真集、お父さんに言って買ってもらおうね」。その瞬間、少女はぴょんと飛び上がった。そしてぴょんぴょんして360度回転した。嬉しさのあまり、地上から10センチ離陸したのだ。着陸しつつ円を描いたのだ。見ていてこちらも嬉しくなった。

いつしかこの少女も、感情と行動を直結しないことが大人の条件だと考えるようになるのだろうか。それは一理あるのだが、なんとか今日の「ぴょんぴょん」ぐらいは残しておいて欲しい。ぴょんぴょんし続けてはくれないか。そういうのを悪用されても困るけどね。

by enzian | 2010-07-19 23:20 | ※街を歩く | Comments(0)