カテゴリ:※街を歩く( 66 )

そぞろ歩く

b0037269_2216487.jpg日の長いこのごろは、まだ少し辺りが明るいうちに一段落ついたときには、思い切って仕事を終えることにしている。

正門を出て、京都を南北を貫く大きな通りを南に行く。車通りを避けて、やがて東西に延びる小さな通りをきまって東に向かう。静かな路地を歩きながら、一日を振り返る。あの言葉は適切だったのか、もっと別の言い方はなかったのだろうか。それより、数年来の課題は今日も果たすことができなかった‥‥。

本当のことを言うと学校ではなにも片づかない状態なのだが、路地では不思議と絶望的な気分にはならない。学校を終えた子どもたちが自転車で行き来する。いまも壜(びん)牛乳を配達する店があり、惣菜を並べる店がある。小さな祠(ほこら)がいたるところにあって、服を着せられたお地蔵さんに供えられた花はいつも凜としている。家の軒先に椅子を出しておばあさんが座っている。

やがて路地の視界が開けて、賀茂川に着く。河川敷を下流へ向かう。学生のころよりも美しくなった川面に浮かぶ水鳥たちを見ている。いっしょに賀茂川をそぞろ歩いた懐かしい人たちの顔が思い浮かぶ。魚が泳いでいる。大きな鯉や、金魚までいる。夜店で掬われ、そして川に捨てられたのだろうか。左手に大の字を彫り込んだ山が見えはじめると、そろそろ賀茂川も終わり。ここから先は鴨川なのだ。ぼくは駅に向かう。

by enzian | 2010-05-25 22:34 | ※街を歩く | Trackback | Comments(2)

膝上と膝下

パリは初めてだったのですが、“膝上の街” だなぁというのが印象です。膝から上には美しいものがあると思うのですが、膝下は極力見るのを避けた方がよいと感じました。膝下が見たくないものだから、電線がなくて日本よりも広く見える空を見上げながら歩いていたら、“犬の落とし物” をさっくりと踏んでしまいました。思い返せば、そういうのを踏んだのは小学校の登下校時以来でしたが、その半生のさっくり具合が感動的で、靴には悪いのですが、この忘れかけた触感の再現が、今回のパリでの最高の収穫でした。

けっして膝上を地面につけようなどとは思わない街ですが、教会のなかではひざまずいて祈りをささげている人たちがいました。木造建築では考えられないような天上の高さ、いろとりどりのステンドグラスが方々に反射する日の光‥‥荘厳さを作り出す装置としてはやはり見事なものだなどと皮肉っぽいことを考えはしたのですが、クリスチャンでない自分にも、ひざまづいて祈ってみたいという思いがわずかによぎったものです。

by enzian | 2010-05-16 22:08 | ※街を歩く | Trackback | Comments(0)

蛍の光

ホタルを見に行った。1年に1回は見ないと夏がはじまらないのだ。年々人が増えているが、風流粋に感ずといったタイプの人ばかりで、いっしょに見ていてもいやな感じはしない。足下になにやら気持ちのよいものがからみついた。「ごめんなさい」と飼い主の女性。ミニチュアダックスフントだった。写真を撮っていたら、石鹸の香りがする。パジャマ姿の男の子と女の子が隣の家から風呂上がりに出てきたのであった。5分ほどで石鹸の香りは帰って行った。いつだって見られるのだ、彼らが今日にこだわる必要はない。

数十匹のホタルが明滅しながら舞っている。京都の街中とは思えない。近くの大学から大学生数人と年配の男性1人のグループがやってきた。品のよい学生ばかりだ。年配の男性がしきりに感動している。「昨年は3匹しか見られなかったんだよ。今日でよかった、ほんとうによかった。来年はもう見られないからね」。なぜだろう?と思って男性の顔を見れば、60才過ぎぐらいの白髪の方だった。今年で定年を迎えられるのだろう。

ひとまわりして先ほどの場所に戻ってみると、白髪の男性がいて、まだつぶやいていた。「これは見事だよ」。もう学生たちはいない。ぼくも帰路についた。

by enzian | 2009-06-12 23:40 | ※街を歩く | Trackback | Comments(0)

ネギ

不思議な人を見た。年の頃なら50代後半の男性で、背中のリュックの両端から長ネギがながながと出ていて、ちょうど顔の両側に枝垂れかかるようになっている。長ネギは長いから、リュックに仕舞おうとしてもどうしても先っぽの青い部分が出てしまうのはわかる。が、あの露出具合いは、できるだけ長くリュックから出して顔の両側に枝垂れかけるようにわざとしている、としか思えないのだ。くわえて解せないのは、両側に1本ずつであることだ。ぼくもまた長ネギ薬味道に深くかかわる人間のはしくれとして、1本でなくできれば複数欲しいというその思いはわかるが、だとしても、せめて片側2本にするのがよかろう。

よくわからなかったので、ネギからはどんなウィルスでも撃退する強力なプラズマイオン(なにそれ?)がバチバチと出ていて、ネギとネギのあいだにいる人をインフルエンザウィルスから守ると彼は考えているのだ、と納得することにした。

by enzian | 2009-05-30 23:37 | ※街を歩く | Trackback | Comments(16)

宵山

b0037269_23511573.jpg地下鉄の駅に降りると、浴衣の花が咲いている。肌触りのよさそうな浴衣は、蒸し暑い京都の夏にふさわしい。男の浴衣姿もちらほら。

学校では事務がcool biz をうたっていて、見るからに涼しげでよい。このクソ暑いのに毎日ネクタイをしているなんて、アホだっせ。

教員も浴衣姿で授業ができれば、さぞや涼しくてよいだろう。“教員浴衣デー” とか作ってくれないかな。強制でもされんことには、こっぱずかしくて着られんのだ。

by enzian | 2008-07-16 23:52 | ※街を歩く | Trackback | Comments(9)

街の匂い

b0037269_23374262.jpgGWの街を歩いた。けっこう喜んで写真を撮っている。撮りはじめたころは自然ばかりだったが、いまでは街を撮るのもおもしろくなってきた。人波に流されながら、街の匂いを、人の痕跡を感じ取ろうとする自分がいる。ずいぶんな変わりようだ、と自分でも思う。

ずっと街を歩くのがイヤだった。コンクリートの建造物、猛スピードで行き交う車、マンホールの蓋、側溝で溶けはじめたタバコの吸い殻。革靴の立てる音、雑踏。人工的なものが苦手だった。人がうようよいるようなところはできることなら避けて通りたかった。18歳まで、人と言えば、揚げ足を取って、それを嘲笑することしか知らなかった。

by enzian | 2008-05-08 23:48 | ※街を歩く | Trackback | Comments(0)

新世界

b0037269_11242360.jpgごちゃごちゃ加減ががまんならなかった。不潔な側溝に目を背けたくなった。作り置きした料理をケースからとって食べる父がいやだった。他人が握った寿司が好きではなかった。真っ昼間から博打に興じる人たちに吐き気をもよおした。異形の人たちに恐怖を感じた。すれ違う人にぶつからないよう、身を縮めるようにして歩いた。

そんな街に行きたくなって、いてもたってもいられなくなった。じゃんじゃん横町は心なしかさびれていたが、通天閣に通じる通りは、あの頃よりも華やかになっている。たこ焼きを食べ、串カツを食べ、通天閣に登って街を見下ろした。ありんこのような人たちを見ながら、なぜまた来たくなったのか、なぜいまこの街に心ひかれるのか‥‥と考えていた。楽しいのだ。目に入るものすべてが新鮮で、わくわくさせるのだ。ぼくはごちゃごちゃした街を撮った。

インドもそうだった。帰ってすぐは、あんなごちゃごちゃして油断ならないところ、二度と行くもんかと思ったが、いまではすっかり懐かしくなっている。時が感情を濾過してくれたのだろう、その濾過はときにぼくを苦しめもするけど‥‥。といっても、時間という物がぼくの外にあるわけではない。それはぼくの内側にあって、きっとぼくの一部分を占めているものなのだ。だから、ぼくは自分で自分を、なかなか地道によく頑張っておる、えらいぞ、立派だ、と褒めてやる。

by enzian | 2008-02-10 10:32 | ※街を歩く | Trackback | Comments(27)

見送るということ

b0037269_15391820.jpgホームには雨上がりの冷たい風が吹いていた。ぼくらを乗せた電車が発車するまでの何分間か、その人はドアの外で待っていた。やがてドアが閉まる。その人は手を振る。電車が動き出し、正面の窓から見えなくなるまで、ずっと手を振り続けていた。

思うに、見送るとは、相手の背中がすっかり見えなくなるまで目をそらさず、その行く先に幸あれかしと願うことなのではないか。ときどき、そのようなことを考えさせてくれる人に逢うことがあるが、これはきっと幸せなことなのだ。

席に腰を下ろし、一息つく。動き出した列車の連結部分のドアはすべて開いている。もうぼくらの車両はホームから離れているが、まさか‥‥いや、もしやと思って、連結部分を越して、一つ後方の車両の窓越しにちらりとホームを見た。!! すでに小さくなってしまったその人は、相変わらずこちらに向かって手を振っていた。

最寄りの駅に着き、今度はぼくが見送る段になった。ドアが閉まり、4回だけ手を振る。もう少し振ろうかと思ったが、照れくさくなって、そそくさと改札へ急いだ。

by enzian | 2007-11-24 15:28 | ※街を歩く | Trackback | Comments(40)

モノクロ写真

b0037269_2246450.jpgモノクロ写真なんか撮らない、と思っていた。写真のことはわからないけど、なんか気取っているような気がしてイヤだった。どういうわけだかわからないけど、モノクロ写真を見ていると、たいした考えもないのに、ただ闇雲にモラルに逆らうことで自分の存在感を確かめている人を見たときの感じがした。ひどい偏見だった。

先日、日常のスナップショット用のカメラが欲しくなって、えいっ!とコンパクトなデジカメを買ってしまった。しかもマイナーなメーカーのもの。撮りにくくて仕方がないのだけど、天の邪鬼にはそれが心地よい。どういうわけだか、このカメラで撮る人はモノクロを多用するというので、ぼくも撮ってみた。

やっぱり気取っている。なんてことのない日常の写真なのに、見ようによっては、なにか隠された思想が背後にあるかのようにも見える。情報量の少なさが思わせぶりに働いて、かえって見る者に考えることを強い、足りないものを埋め合わせるよう強いるのだろう。そう考えていて、はっと思った。ぼくの文章と同じではないか。

モノクロ写真

by enzian | 2007-09-04 23:18 | ※街を歩く | Trackback | Comments(29)

人に道を尋ねない

いつもなら早く着きすぎて時間つぶしに困るほどなのに、珍しくせっぱつまって、目的地への道を人に尋ねてしまう。道を聞いたなんて、もう何年ぶりのことだろうか‥‥と、ため息をつく。人に道を尋ねるのがめっぽうキライなのだ。そのくせ、道を尋ねられるのはキライじゃない、というか、どちらかと言えば好きだったりする。○○への道を聞かれたりなんかしたら、どう答えるのがいちばんわかりやすいだろうか?‥‥あっ、あそこに止まった車はぼくに道を聞こうとしているのだろうか?ドキドキ‥‥などと、要らぬ妄想をしながら街を歩いていたりする。

どういうつもりでイヤなのか、はよくわからないけど、人にものを頼むのがキライなのも同じ理由なのかもしれない。人と仕事を手分けして、いくばくかの負担をお願いして‥‥なんてことをする暇があるぐらいなら、さっさと一人っきりで走り出している。そして、たいてい後悔する。

by enzian | 2007-02-17 18:01 | ※街を歩く | Trackback(1) | Comments(29)