カテゴリ:※街を歩く( 66 )

冬の雨

いっそ雪になってくれればいいのに、冷たい雨が降っている。銀杏並木が頼りない街灯の光にぼんやり浮かび上がる。初老の女性が車椅子を押しながらやってくる。椅子にはふわふわのタオルが重ねられ、上には赤ちゃんが?――と思えば、ベビー服を着せられた人形なのであった。笑うことも泣くこともない赤ちゃんが暗い冬の空を見上げている。開いたままの口には水がたまっている。髪を振り乱し、虚ろな目であらぬ方向を見つめながらよたよたと椅子を押す女性は、たぶん、もはやこの世の人ではないのだ。赤ちゃんは彼女をこの世界に繋ぎ留める “かすがい” にはならなかったのだろうか‥‥考えることを放棄したくなるときもある。

by enzian | 2007-01-27 23:03 | ※街を歩く | Trackback | Comments(2)

絶叫マシーン

バス停のそばには小学校があって、そこから流れてくる雑多な音を聞くのが好きだ。音楽の時間にはピアノの伴奏と元気な歌声が聞こえてくる。目一杯口を開けて歌っている子どもたちの顔が目に浮かぶようだ。休み時間は学校中がギャーギャーと歓声に包まれたようになっていて、人とはこんなにも大きな声を出せるのだなぁと感慨に耽っている。

以前、人前で泣くのはどんどんむずかしくなっているのでは?というようなことを書いたけど、大きな声を出せる場所も少なくなっているのかもしれない。どこに行こうと人がいて、どこに行こうと人の匂いがする人工物が横たわっている。そんなところで大声を張り上げるのは、よほど周りが見えない人でもなければむずかしいのだろう。そういう意味では、臆面もなく大声を出せる絶叫マシーンやお化け屋敷は、いまどきのオアシスなのかもしれない。大学がレジャーランド化していると言われて久しいけど、いっそのこと、大学に絶叫マシンやお化け屋敷を作るのも、おもしろいのかもしれない。

by enzian | 2006-07-07 23:32 | ※街を歩く | Trackback | Comments(21)

どこかズレている。

街を歩いていると、こんなもの本当に必要なのだろうか??と考え込むものがある。ハンドドライヤーもそのひとつだ。洗面所で手を乾かす際に使うものだが、これを使って「濡れた手が、あ~さっぱり乾いた」などと思ったことはない。強い風でいちおう大きな水滴は飛ぶが、手が濡れたままであることには変わりない。毎回、使ってみることにするが、それは乾かすためというより、「どこがドライヤーやねん!」とツッコミを入れて、バカにならない税金を注ぎ込まれた無用の長物に小市民的な憂さ?を晴らすためだ。ペーパータオルよりは資源の無駄遣いをしないようにも思えるが、使用電力を考えれば、古紙を使ったペーパータオルの方がましなのかもしれない。もちろん、あれこれ考えるより、自前のハンカチを使えばそれですむことなのだ。

新聞を読んでいたら、ホテルや博物館や図書館など、音が気になる場所での需要を伸ばそうと、各メーカーがハンドドライヤーの静音化に取り組んでいるという記事があった。メーカーには、“静音化” の前に “有効化” に取り組んだ方がいいという気はないのだろうか? もちろん、そんなことをすれば、自分たちの過去の失敗を認めることになる。

そんなこんなで、それまで設置されていたものは、またどこからか資金を注ぎ込まれて新しく “静音化モデル” にとって代わってゆくのだろう。タオルがペーパータオルに、ペーパータオルがハンドドライヤーにとって代わったように。そして大切なことを忘れて、ぼくらは濡れたままの手できっとこう言うのだ。「ハンドドライヤー、前のものより静かになってよかったね。」

by enzian | 2006-05-28 16:46 | ※街を歩く | Trackback | Comments(53)

お星さま

夜の街を歩く。お父さんに肩車をしてもらって子どもが星空を見上げている。澄み渡った空には星座を構成する星たちが瞬いている。想像力とはまことにたくましいものだ。わずかな点を線にし、線を絵にして、絵を人間的な物語にする。闇を闇のままに、混沌を混沌のままにしておけない何ものかが想像力を突き動かすのだろう。それは不安なのだろうか?それとも、もっと違うものなのだろうか?「お父さん、お星さま、よう見えへん」。得体の知れないものを “さまづけ” するのは趣味ではない。だが、何でもかんでも難癖をつけるほど堅物でもない。そこのところの事情を説明するのが、むずかしい。

by enzian | 2005-11-20 20:08 | ※街を歩く | Trackback | Comments(25)

あおる僧侶

2台の車が猛烈なカーチェイスをしている‥‥と見れば、後ろの車が前の車を猛烈にあおっているのだった。ここまでならよくある話だが、後ろの車の運転手を見て驚いた。袈裟を着た僧侶だったのだ。

このような行為における僧侶の狙いは一体なんであるのか?三つ考えた。推測1.犯罪者を追いかけている。推測2.急ぎの法事に間に合おうとしている。推測3.‥‥ひ・み・つ。

by enzian | 2005-09-22 21:09 | ※街を歩く | Trackback | Comments(24)

握手したら投票するの?

親しい人ならいいけど、親しくもない人になれなれしく触れられるのはイヤだ。いや、誤解されると赤丸急上昇中の好感度バロメーターが下がってしまうので、もう少し正確に言おう。ぼくの肌と他人の肌が接触するのがイヤなわけじゃない。そうじゃなくて、親しくもないのに触れてこようとする人の、その心のありようがイヤなのだ。触れること自体が理由ならまだ許せるけど、触れること以外に本当の狙いがあるに決まっている。いつも言うように、ぼくは「いつも直球勝負!」な、生粋の九州男児なのだ(ウソ)。そういう意味では、この時期だけスピーカーつきの車で駅前とかに陣取って、見も知らずの人たちに見境もなく握手を求めてくる人たちは苦手だ。いつも冷たく無視することにしている。どうせこの時期限定で愛想をふりまく人たちなのだ、どおってことはない。

手でもイヤなのに、肩を抱いてこようとする人もいる。そうそういるわけではないが、いれば決まって、あるていど歳を喰った男性だ。テレビ東京(テレビ大阪でも放送される)の旅番組に出てきて、地方に行って名産品を紹介したり、喰ったりするリポーターをよくやっている俳優にまさにこのタイプの人が一人いる(ちなみに、ルー○○ではない)。見も知らずの人たちの肩をやたら抱いて話しかけるので、見ていてキモチワルイこと、この上ない。話し方もじつになれなれしい。ときに意を決して、辛いのをがまんして仔細に観察していると、どうもこの人、「大袈裟な、デフォルメの効いたボディランゲージ=演劇=リアル=大物=漢(おとこ)」、「人に対する最上のボディランゲージ=ボディタッチ」と思っているらしい。まぁ真偽のほどは確かでないけど、少なくともそんな雰囲気が読み取れてしまうというわけで、さすがの名産品大好きのテレビっ子も、この人がレポーターとして出てきたら、チャンネルを変えざるをえない。

学生のころ、汚いけど、学生に圧倒的な人気を誇っていた飲み屋に入り浸っていたことがある。ある日、その日も終電まで飲んで、真っ赤になって店から出てきたときに、なんともキザな、見ず知らずのおっさんにいきなり肩を抱きすくめられてこう言われた。「ねぇキミ、この汚い店、すごく学生に人気があるようなんだけど、その理由、教えてくれない?」その瞬間、きわめて温和であると多方面から高い評価を受けているこのわたくしが、プチッと切れたのだ。そのとき、わけもわからずわめき散らした言葉が、あまりにもマヌケで、いまだに忘れられない。「ひかえおろう!」

by enzian | 2005-09-06 20:26 | ※街を歩く | Trackback | Comments(34)

なぜ大阪のおばちゃんは豹柄にスパッツなのか?

なぜ大阪のおばちゃんには豹柄の上着とスパッツ(スパッツって言うんですよね?)の組み合わせが多いのだろうか(そんなの偏見だって?シャラップ、多いという前提で話を進めるのだ)。スパッツについては、はきやすいからという、実利を重視する大阪人の性質によるものでしょうから、今日は豹柄の理由についてかる~く考えることにしましょう。

1.タイガース文化圏だから
これはまず考えられることでしょう。縦縞(たてじま)と格子柄(?)の違いはあるにしても、黄色と黒の配色は伝統的な阪神タイガースカラーなんですね。この文化圏で、このカラーで歩いて気分を害することはまずないでしょう。ちなみに、ジャイアンツカラー(オレンジと黒)にジャビット君の顔のついた服なんかで大阪の商店街を歩くのは、よした方がいいでしょう。

2.ワイルドだから
豹には、ワイルドな感じがあるんじゃないでしょうか。そういう意味では虎以上かもしれません。統制されていないもの、制御するのがむずかしいという意味では、反権力的であることのアピールにもなりますね。総じて大阪人にとって、権力の集中する東京は目の上のたんこぶなのです(意味不明)。ジャイアンツ=東京の象徴なんですね、たぶん。

3.危険な色だから
黄色と黒の組み合わせは注意すべきもの、危険を知らせるために使われる色です。たしかに、大阪のおばちゃんと接する場合にはそれなりの心得が必要です。ボケにはツッコミが必要ですし、話の終わりにはオチが必要です。

4.目立つから
危険を知らせるために使われるというのは、黄色と黒の組み合わせが目立つからでしょう(この場合の豹柄はくすんだ色のものはダメですね)。ここに2や3な人がいますよ~というアピールとして役立ちます。こういう色合いが接近して来たら、いくつかボケを用意しましょう。

5.車に轢かれにくいから
4の系統です。説明は略。

6.ゴージャスに見えるから
昔の映画なんかを見ていると、リッパなお屋敷のリッパなお部屋には、豹の毛皮の敷物と、シャムネコを膝に乗っけてブランデーグラス傾けているバスローブ(?)姿のおっさんがつきものですもんね。

7.売っているから
単純ですが、売ってるから買うんじゃないでしょうか。「売ってるから買う⇔買う人がいるから売る」という構造なんでしょう。でも、これはファッショナブルなおばちゃんたちの選択肢を狭める結果となっているのかもしれません。

ほかにも理由があるのでしょうけど、ぼくが思いついたのはこれぐらいです。なんせ、生粋の江戸っ子で関西に行ったのは修学旅行のときぐらいなものですから、大阪のことはよくわかんないんですよね*。


*私はべたべたの関西人です。

by enzian | 2005-08-27 21:49 | ※街を歩く | Trackback | Comments(34)

幸せの意味

風に揺れる、か細い短冊に願いを込める。なにかの条件で大きさが取り決められているなんてこともない。老いも若きも、わずか何平方センチかの紙片にささやかな願いをしたためる。本当のことを言えば、だれも願いが叶うなんて本気で思っているわけではない。それでも、そうせずにはおられないようななにかがある。人はときに、ささやかな願いを吐露する、けなげな自分の姿に酔いたいのかもしれない。

自分も酔おう。なにを書こうか。「世界人類が平和でありますように」。どうせウソしか言えないなら、もっと面白いウソをつきたい。「サマージャンボが当たりますように」。あまりにも生々しい。こう書くことにしようか。「このままでありますように」。

今の状態を維持したいという心のあり方――たぶん、それが “幸せ” の意味なのだ。だとしたら、すさまじースケジュールに追い立てられ、うるしアレルギーに攻めまくられ(ようやく全快しました)、ベルトコンベアで奈落に落とされそうになっても、いま、自分はそれなりに幸せだと思っているのだろう。

by enzian | 2005-07-02 17:51 | ※街を歩く | Trackback | Comments(14)

ブレーキをかけないおばちゃん

街を歩いていたら、おばちゃん自転車に轢かれそうになって、あやうく難を逃れる。「あーびっくりした」などど言っておる。それは、こっちのセリフじゃ。

おばちゃんのなかには、サドルに腰掛けたままだと急ブレーキをかけられない人がいる(こういうおばちゃんって、関西人だけかな?)。危険を察知したら、ブレーキのレバーを握るかわりにサドルから降りるのだ。あわてて降りるヒマがあったら、ブレーキレバーを握ればよいように思うが‥‥。

たぶん、この手のおばちゃんには、「自転車に乗ったまま急ブレーキをかける→バランスを崩してこける→自分がケガをする」という図式が強く意識されているのだろう。願わくば、「バランスを崩してでも急ブレーキをかける→いたいけな哲学者にケガをさせないようにする」という図式も欲しいところではある。

by enzian | 2005-06-10 21:40 | ※街を歩く | Trackback | Comments(26)

売り場で恍惚の表情

一度に何人もの人が恍惚の表情をしているところなど、めったに見られるものではない。そのめったに見られない光景がいつ行っても見られる、ぼくのお気に入りの穴場が、マッサージチェアの売り場だ。ぼくの知ってる百貨店では、並べられた3台のチェアにいつもおっちゃんないしおばちゃんが乗っかっていて、おしげも恥ずかしげもなく、とろけるような恍惚の表情で寝入っている。

“恍惚の人たち” の顔ぶれは、あるていど一定している。近所のおっちゃん、おばちゃんグループが、開店時間から閉店時間まで、入れ替わり立ち代わり寝っころがっているのだろう。ひょっとすると、開店時には、あの正月のなんとか神社の一番乗り競争みたいに、ものすごいダッシュをしてチェアを奪い合いするおっちゃんとおばちゃんの熾烈な抗争が見られるのかもしれない。リアル椅子取りゲームですな。

それにしても、あのチェアは売り物のはずで、売り物の上に乗っかって快感をむさぼるとは、恍惚の人たちはどういう神経をしているのだろうか。自分が恍惚の表情をしていることでほかの買い物客が怖がって近づけないかもしれない、という想像力は働かないのだろうか?快楽の前では理性の想像力など無力なのだろう。

もっと不思議なのは、そうした占有行為を店員がとがめる様子もないということだ。恍惚の人たちなどわれ関せずという感じで店員は仕事をパタパタと続けている。売り物に傷や汚れをつけられても気にならないのだろうか?それとも、メーカーもこういう可能性を見越して販売店に “試供品” をわたしているのかな。ぼくみたいに、恍惚の人たちを見に来る変な人もいるんだし、百貨店としては願ったり、かなったりか。

by enzian | 2005-04-17 16:46 | ※街を歩く | Trackback | Comments(24)