カテゴリ:※街を歩く( 66 )

迷子の心細さ

スーパーに行く。女の子が泣きじゃくりながら歩いている。迷子らしい。声をかけるが、泣きやまない。心細いんだろうな。

ほんの一瞬だったけど、自分も迷子になったことがある。そのときの心細さ‥‥今でもありありと覚えている。自分が全身で頼りにしていたものが不意に消え、茫洋(ぼうよう)とした空間にひとり投げ出される。視野は狭まり、世界は色を失った。

犬のおまわりさんになって、ワンワンと保護者を探す。やがてお母さんが現れ、女の子は、しがみついた。世界の色も戻ったか。女の子は今日のことを忘れないだろう。あれだけ泣いたのだから。やさしいおじさんがいたことも、覚えていてくれるだろうか?

by enzian | 2005-04-12 22:51 | ※街を歩く | Trackback | Comments(12)

シャバシャバの責任

八宝菜を食べました。片栗粉を使って “とろみ” をつけた料理が好きなのです。中華料理にはたくさんありますし、日本料理にもあります。

ある時期まで、そういう料理を食べる度に不機嫌になっていました。とろみが足りないと感じていたのです。どの店も、揃いに揃って、なにゆえここまでシャバシャバであるのかっ!!といつも怒っていました。でもあるとき、んっ??と思いました。いくらなんでも、いつどこで食べてもシャバシャバなのはおかしいのです。じじつ、いっしょに食べている友人の料理はトロトロしているのです。ぼくの皿だけがシャバシャバなのです。

唾液に含まれる酵素の具合で、とろみがすぐシャバシャバになってしまう体質(というか、食べ方の問題かもしれない)の人がいるのを知ったのは、ずっと後のことでした。

by enzian | 2005-03-29 20:16 | ※街を歩く | Trackback | Comments(22)

刹那的に生きる

土曜の夜、なぜか浮かれてコンビニに行く。「お腸婦人」と「マサイの戦士」を探すのだ。どちらもドリンクの名前。1年ぐらい前に見かけてから、見ない。おそろしいスピードで商品が入れ替わっているのだ。

「今の若者は刹那(瞬間)的に生きている」という声はあちこちで聞く。「世の中の物の動きが刹那的だから、そこで成長した人間が、空気を吸うようにそれに染まって刹那的になる」という評論にいたっては、耳にタコだ。

そうなんだろうか?むしろ、替わり、移り変わってゆく事実を前にするからこそ、掛け替えのないもの、変わらないものを探し求め、それがやすやすとは見つからない事実に挫折し、傷つく人もいるのではないか?

そこに生きることで空気を吸うようにそれに染まって刹那的になるということと、傷ついた人が結果として刹那的にならざるをえないこととは、たぶんまったく別のことなのだ。

やはり、「お腸婦人」と「マサイの戦士」はなかった。

by enzian | 2005-03-26 23:05 | ※街を歩く | Trackback | Comments(25)

不払いを自慢する人

ある人と話す。いつものようにNHK受信料の不払いが話題になる。今度はこんなセリフで集金人を追っ払ったなんて、鼻の穴をふくらませて話している。武勇伝のように。ほかの人にも同じことを自慢しているのだろう。そのくせ、NHKの番組はしっかり見ているらしい。

不誠実な相手にバカ正直に対応する必要がないことぐらい、わかっている。最近のNHKの稚拙さが目を覆うばかりであることも認める。だが、自慢気に話すほど、不払いは誇らしいことなのだろうか。

by enzian | 2005-02-25 19:47 | ※街を歩く | Trackback | Comments(15)

白い杖

歩道を歩いていた。正面から白い杖をついた人が歩いてくる。やがてすれ違うだろう。足音を消して、やりすごそうとした。完全に足音を消してすれ違ったはずだった。だが、すれ違いざまに声をかけられた。「すいません。この辺りに○○という店があると思うのですが‥‥」。絶対に覚(さと)られるはずがないと思っていたわずかな気配を、するどい聴覚で感じ取られてしまったのだ。店はすぐそばにあり、案内はした。その時こちらの顔が赤く染まっていたことも、見透かされたのだろうか。

by enzian | 2005-02-20 21:04 | ※街を歩く | Trackback | Comments(5)

音楽が人を感動させる理由

生で音楽を聴く機会がある。からっきし音楽にはうといぼくでも、感動するような曲があった。全身に鳥肌が立つような。たまには生で聴くのもいいものだ。音楽が世界共通の言葉かどうかはわからないけど、音の組み合わせが人に快感を与えたり、心を動かすことはあるようだ。でも、それがなぜなのか? なかなか納得できる説明には出会えない。誰か説明してもらえないだろうか? うまく説明してくれた人には、もれなく “おほめの言葉” をさしあげます(いらないね)。

でも、人間が音に敏感である理由はわかる気がする。ほかのたくさんの動物と同じように、人間も、身につけるようになった順番としては、視覚よりも聴覚が先立っているだろうからだ。誰しもまだ視覚のなかった胎児のときには、鼓動や血流の音で母親の心理状態を感じとり、懸命に周囲の状況を知ろうとしていたのかもしれない。いつものように、根拠はない。

by enzian | 2005-02-17 20:07 | ※街を歩く | Trackback | Comments(10)

だぼだぼズボンに思う

ヒップホップ文化についての本を読む。知っている人にとっては当たり前のことだろうけど、ヒップホップというのは、ゲットーと呼ばれるアメリカの黒人(を中心とする)居住地域から発祥した文化全般のこと。詳しくないので、いろいろ勉強になった。

おもしろかったのは、だぼだぼズボン(?)の由来。貧しい親が子どもの成長に応じたものをその都度、買ってやることができなくて、一本ですむ大きなもの(しかも丈夫な作業ズボンのようなもの)を買い与えたことに由来するという。そこから、ゲットーで黒人たちが置かれている不条理な現状を知らせるメッセージ性をもったものとして流行したらしい。

もちろん、日本でだぼだぼズボンをはいている若者すべてがそのようなメッセージを込めているとは思えない。単純にカッコイイということなのだろう。それでももし何かメッセージがあるとすれば、「きっちり」とか「キレイに」とかいった既成のモラルを “いなす” ことによって、権威に屈しない自己の主張をすることなのだろうか。

by enzian | 2005-02-15 20:49 | ※街を歩く | Trackback | Comments(21)

小学生と携帯電話

辛抱し切れず、携帯を買いに行く。ブログの記事は通勤電車のなかで書くことにしているのだけど、古い携帯のメール文字数制限(全角250字)に、いいかげん耐えられなくなったのだ。ちなみに、ぼくの記事に電車ネタが多いのは、そういうわけ。いつも現物を見ながら書いている。見られている人は、まさか自分がネタにされているなんて思ってもみないだろう。知らぬが仏。新しい携帯は5000字までの送受信が可能なので、文字数制限を気にせずに書くことができる。これからはもっと細かく描写してやる、ケケケ。また横綱としての品格が‥‥(いつ横綱になったんだい?)。

販売店で、どういう性能があるやら、何コースがいいやら、うんちゃらかんちゃらお利口さんに説明を聞いていると、小学生が親の「同意書」をもって隣に座る。小学生に携帯が必要なのかどうか、むずかしいところだな。メリットもあるだろうけど、どちらかというとデメリットの方が多いんじゃないか。それなりの道具っていうのは、使いこなすために、それなりの判断力が必要なのだ(良い子は、実例を考えて先生に知らせようね)。幼児誘拐事件が起こって、ますます携帯をもたせる親が多くなってきたらしいけど、携帯をもつことで防げる性犯罪と携帯をもつことによって巻き込まれる性犯罪の数なら、おそらく、前者<<(中略)<<後者。

家に持ち帰って、あちこちいじって遊ぶ。携帯を。ものすごい機能がついている。それまでカメラもついておらず、インターネットさえ満足にできなかったのだから、劇的な変わりようだ(どうかexciteのブログも携帯で見られるようになりますように)。ゆえに、押しても押しても、なお目新しい。ペンギン村の小学校にとつぜん都会の子どもが引っ越してきたような状態か(??)。機能の解明はなかなか進まぬまま、おねむの時間となり、うれしくて枕元に置いて寝た。この辺りは、小学生と変わらない。

by enzian | 2005-02-13 13:13 | ※街を歩く | Trackback | Comments(12)

サクマ式ドロップ

店先でサクマ式ドロップを見つける。アニメ映画の『火垂るの墓』で清太と節子が食べていたのとまったく同じ形だった。節子はドロップを食べきった後に、水を入れて、ジュースのようにしておいしそうに飲んでいたように記憶しているが、本当にジュースのようになるのだろうか。買ってためしてみたいとも思ったが、結局、やめた。おいしいものであるはずがないのだ。

by enzian | 2005-01-29 21:30 | ※街を歩く | Trackback | Comments(19)

回転寿司にもルールがある

回転寿司を食べに行く。ルール違反二件。

一つ下流にある隣のテーブルの子ども。ヤイヤイ(「ヤイヤイ」って関西弁?)とうるさい。異様に視力がよいのか、ずっと上流にある寿司をめざとく見つけて、やたらと「あっ!○○が流れてきた!」とほざく。運悪くこちらの好みとバッティングするが、ここは大人の器量を見せてやろうと思い、あえてスルーパスしてやる。フッ、今日も良いことをしてしまった‥‥と一人納得していたら、そのガキ、もとい、お子さまもスルーなさる。ならば、はじめから口に出さぬがよかろう。

二本のレールをはさんで、向かい側のテーブルの、それなりに歳をとった上品そうなご夫婦。夫、ロマンスグレー。こちら側のレールに、めったに流れてこない皿が流れてきた、ヤッタ!と思って取ろうとする寸前に、レールの彼方からニューと手を伸ばし、皿を取ってゆく。

回転寿司にも、人として守るべき最低限のルールがある。

by enzian | 2005-01-18 21:16 | ※街を歩く | Trackback | Comments(14)