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「中学生の哲学」更新

「中学生の哲学」を更新した。何ヶ月ぶりの更新なのかもわからない。いつも趣味のページにだけ力を入れているものだから、他人(ひと)の役に立てそうなページも更新できて、少しはホッとした。自分の哲学のセンスに気づくことなく埋もれてしまっている中学生や高校生の目に触れて、その才能に目覚める手助けになれれば、うれしいのだが。哲学という授業がないばかりに、一体どれほどのすぐれたセンスの持ち主が人知れぬままになっていることか‥‥。こういう殊勝なことを考えるときは、やはりいつも雨。

by enzian | 2004-10-30 21:37 | Trackback | Comments(0)

クワバラな人(3)

それではクワバラな人、三人目は、時間を守らない人、であります。この人は、同時に、本を貸しても返さない人ですし、お金を貸しても踏み倒す人です。さまざまな他者との約束事の意味を解していない人だと言ってよいでしょう。簡単に言えば、モラリティーの一角を欠いている人なのですが、往々にして他者に対する想像力を欠いている人でもあります。待ち合わせで言えば、「自分を待っている人が、姿を現さない自分のことを心配しているかもしれない」、夏なら「暑い思いをしているかもしれない」、冬なら「寒い思いをしているかもしれない」といった心の働きは、このタイプの人にはありません。

実は、このタイプの人は、詳しく言うと二つのタイプに分けられます。一つはどのようなことに対してもルーズな人で、インノセントな人とも言えますし、最終的には自己破滅型とも言える人です。どのような時間も守らない人であり、どのようなルールも守れない人です。社会生活に適合できないタイプということになるでしょう。

もう一つは、損得意識をしっかりもった、それなりに社会生活にも適合できる、計算型とも言えるタイプです。このタイプの人は、同じ待ち合わせにしても、守らなければならない待ち合わせと、守らなくてもよい待ち合わせを予めしっかり区別しており、人生において致命的な失敗をしません。不誠実ですが、世渡り上手と言われる人です。学生の例で言えば、教員提出のレポート提出期限には遅れても、教務提出の提出期限には遅れないようなタイプです。会社関係で言えば、上司との待ち合わせには決して遅れず(時間前に行って、下調べまでしたりする)、部下との待ち合わせには堂々と遅れてくるような人と言ってよいでしょうか。相手の弱みを計算している人ですし、世の中の半分の人から白い目で見られていることをものともしない人です。

やっかいなタイプではありますが、時間を守らない人には弱点があります。すぐに見抜かれてしまうからです。人のキャラクターなど、会って話してからでないとわからないものですが、このタイプは判定者にとっては非常に便利で、最初の顔合わせは決まった時間の待ち合わせになるのが普通ですから、すでに会う前から大体の見当をつけられてしまうのです。はなっから正体がばれるているんですね。

by enzian | 2004-10-29 21:28 | ※好きな人・嫌いな人 | Trackback | Comments(2)

クワバラな人(2)

クワバラな人、二人目は、自分を愛称で呼ぶ人であります。愛称のなかには、例えば自分の性や名そのままも含みます。やはりこういう人も、50センチ余計の 、車間距離ならぬ “人間距離” をとって付き合うのが精神衛生上の健康を保つ秘訣かと思います。

心理学ではどう分析するか知りませんが、私が分析するに(しばしば言われもすることですが)、やはりこういう人には往々の場合、責任感情が希薄です。一見、「もう○○ちゃん(みずからの愛称)たら、大事な約束、破っちゃったりして、イケナイ子、プンプン」なんて感じで、何やら、自らの過失を反省する責任感をもっているような気もしちゃうのですが、ノンノン。この人物は過失の責任を○○ちゃんに負わせているのであって、「○○ちゃんたら」云々の発言者自身(これを、「自分」と呼びましょうか)に自責の念はないのであります。悪いのは全部、○○ちゃんなのであります。したがって、この種の人は同じ失敗を倦むことなく繰り返しますし(「自分」は反省していないのですからね)、たとえそれに対して第三者からたしなめられるようなことがあっても、その後の行為にほとんど変化ありません。あるとすれば、うざったい奴(たしなめた人ですね)に再びうざったいことを言われることのないよう、その人に近づかなくなるという程度でしょう。これは、叱られたドラ猫(サザエさんの歌には出てきますが、これも死語ですね)が叱ったオヤジにその後、近づかなくなるのと同レベルのことです。くれぐれも、悪いのは「自分」ではなくて、○○ちゃん(ないし、うざったい奴)なのですからね。

この人物のような、○○ちゃんと「自分」の二段構えがどのように生じるかは、責任感の塊とも言える(さぁ、みなさん、一斉にツッコミましょう)私にはよくわかりませんが、何らかの事情で、ある日ある時、とうてい自分の粗相が招いたものだとは思えない困難な状況が生じたときに、○○ちゃんというキャラクターを作り出し、その責を○○ちゃんに丸投げしようとした、という一種の自己防衛反応によるものなのでしょうか? 何やら多重人格の生成場面と似ているような気がしますが、多重人格の場合の状況は不可抗力的なものなのでしょうね。いつものように学問的には何の根拠もありませんよ。ちなみに、私のトンデモ研究によると、この種のクワバラな人の発生頻度は男性よりも女性に高い、という結果が出ております。

by enzian | 2004-10-27 23:19 | ※好きな人・嫌いな人 | Trackback | Comments(8)

クワバラな人(1)

少しパソコンの仕事をするだけですぐに偏頭痛が出てしまいます。しばらくは、ホームページにかける時間を一日10分に限定します。そこで、短時間で書けるネタを、ということで、みなさま(誰?)お待ちかねの、思わず50センチは引いてしまうクワバラクワバラな人、略して「クワバラな人」コーナーを謹んで始めることにいたします。

「クワバラな人」、名誉ある一人目は、作り笑いをする人、でございます。言って置きますが、ひきつったような作り笑いをする人ではありません。こういう人は、私、むしろ好きです。キュンとします(死語です)。そうではなく、見事な作り笑いをする人です。作り笑いは偽りの笑顔であります。円滑な人間関係には多少なりとウソが必要ですが、なかには、もう芸術品と言ってよいような自然な作り笑顔の持ち主がいるものです。板に付いたウソツキとでも申しましょうか。あるいは「ウソツキを生きている」とでも言ってよいでしょうか。いいですね、この響き。なかには、自分がウソを生きていること自体、忘れている人がいるのじゃありませんかね。演技性なんとかというのもありますが。

先日、消費者金融のコマーシャルを見るたびにイライラする自分に気づきました。すぐに理由がわかりました。見事な作り笑顔の女優(?)が実にかわいらしく歌ったり、跳ねたり、くねくねしたりしているのでございます。私も以前、鏡を見て、口角を上げて笑う練習をしてみたことがあります。すぐ、胸が悪くなりました。

by enzian | 2004-10-26 21:35 | ※好きな人・嫌いな人 | Trackback | Comments(0)

ポケットの謎

雑誌『AERA』のコラム「今という時間(とき)」に掲載されたエッセイです。先日、テレビを見ていたら、ブッシュがポケットに手を突っ込んだまま記者会見をしていた。あれなんか、「自分はこんなにつよいんだぞ~」というデモンストレーションなんでしょうな。ハイハイ。

授業を終え、学生が質問にやってくる。うれしい瞬間。だが、その手がポケットに入ったままだと、途端にとまどう。熱心な問いかけと不作法さのアンバランスにではない。なぜ不作法だと思ってしまうのか、そもそも不作法とは何なのか、自分でもよくわからないからだ。しばらくこのことが気にかかっていた。

先日、飼い主にじゃれつく犬を見た。犬はさかんに仰向けになって腹を見せる。攻撃の要である口を封じ、弱い部分をさらけ出しているのだろう。犬とは違い、人間は弱点の腹をつねに相手にさらしている。ときに道具をもって相手の露出した弱点を攻め、同じく露出した自分の弱点を守る攻守の要は手だ。ポケットは、そうした自分の手を暖め、覆い隠し、自由を奪う。

寒い時期、暖かいポケットから手を出すのはつらいもの。だが、ささいなことをあれこれ考えたいのも人の情だ。攻撃の手のうちを見せない相手に、不安や恐怖心を感じる人。手の自由を奪い無防備なままの相手に、自分の攻撃力が軽視されていると感じる人‥‥。周囲によけいな不快感を与えるというのが、不作法の意味なのであろう。

質問にやってきた男子学生に、この考えを説明してみた。ふんふんと聞いて、最後に彼は言った。「でも手を入れてないと、ズボンがずれるんです。」

by enzian | 2004-10-24 10:02 | ※どこぞに載せたもの | Trackback | Comments(0)

先生嫌い

雑誌『AERA』のコラム「今という時間(とき)」に掲載されたエッセイです。この文章と次の文章は、〆切を忘れていてあわてて書いたこともあり、とびっきりの駄文です。

先生と呼ばれるのがどうも好きになれない。教師になって何年にもなるのに、いまだに自分が先生であることに違和感を感じている。先日も、すれ違う私を何度も先生と呼んだ学生がいたそうだが、当の私は知らん顔ですたこら行ってしまったらしい。

学生に呼ばれるのが嫌なぐらいだから、同僚に呼ばれるのはなおさら好きになれない。あまりに嫌なものだから、年齢のそれほど変わらない同僚には、さんづけで呼ぶようにお願いしてあるほどだ。なぜか、ほとんど聞き入れてもらえないのだが‥‥。

先生という呼び方を嫌うわけは、自分でもわかっている。教師の責任を免れたい、負担を少しでも先延ばししたいという気持ちが、その言葉への過敏反応になる。「大人になりたくない症候群」ならぬ「先生になりたくない症候群」なのだ。誰に強要されるわけでなく教師になったのだから、なんとも身勝手な話でもある。

だがいまどき、教師が特別の責任を負った職業だと信じているのは教師本人だけだろう。先生という呼び方にしても、他に呼びようがないだけのこと。こちらの不安をよそに、呼ぶ方が特別な思い入れをもっているわけではないのだ。びくびくするより、ほどほどに聞き流せばよいのかもしれない。

by enzian | 2004-10-24 09:59 | ※どこぞに載せたもの | Trackback | Comments(0)

君の名は

雑誌『AERA』のコラム「今という時間(とき)」に掲載されたエッセイです。この後も、あまり反省していないようで、名前を間違えます。

いつも元気な学生が今日に限って姿を見せない。すぐに先週の失敗が頭をよぎる。やっぱり、やってしまっていたか‥‥。

教師には、してはいけないミスがある。学生の名前を忘れることはその一つだろう。毎週、何百人を相手にするから、顔も名前もわからないのがいるのは仕方ない。よくないのは、一度覚えた名前を他の名前と取り違えることだ。それが仲のよい者同士だと、もう目もあてられない。学生のけげんな顔でミスは発覚する。はっとしても時すでに遅し。教室の一角から流れ始める重苦しい空気。少しも理解されていなかったという失望感を浮かべた表情。その後、授業は空回りする。

もちろん顔と名前が一致するよう努力してもいる。いま一番気に入っているのは、用意したカードに好みのプリクラを貼ってもらうことだ。これだと、友人とのツーショットや親しいグループの集合写真を選んでくるから、意外な人間関係が見えておもしろい。それぞれの写り方にも個性がでていて、何かと参考になる。だが、ここにも落とし穴がある。一緒に写った友人をうっかり本人と間違えることがあるからだ。

風の噂では、粗忽(そこつ)な教師に別れを告げるメールが友人に送られたという。とほほな私はプリクラに“矢印”を書き込む。関係の修復を急がねばならない。

by enzian | 2004-10-24 09:57 | ※どこぞに載せたもの | Trackback | Comments(0)

本の絆

雑誌『AERA』のコラム「今という時間(とき)」に掲載されたエッセイです。こういうことを書いても、相変わらず返さない人は返しませんね。返してくれないと、ほかの学生に貸せなくなるんだよなぁ。

学生に本を貸すかどうか迷っている。貸したが最後、ちっとも返さないからだ。学生の卒業とともに全国に旅立った本も数冊。絶版のものもあり、泣きたくなる。同僚のなかには、貸し出しを止めてしまった者もいるらしい。

貸し出し禁止にするのは簡単なことだ。だが、なぜ返さないのだろうか? 私の見るところ、本を返さない学生にはいくつかのパターンがある。

うっかり型。借りていることをすぐ忘れる、わかりやすいタイプ。一度催促をすれば、頭をかきながら返しにくる。

不躾(ぶしつけ)型。借りたものは返すというルールを今ひとつ理解していないタイプ。催促を平気で聞き流すことができる。家庭ならぬ大学での躾が必要。

認知型。借りていることを知っており、借りたものは返すことも理解している。ルール違反におびえつつも、しぶとく返さないタイプ。最近ちらほら見かけるようになった。

このうち、認知型が悩みの種になる。読むために本はある。だがこのタイプには、読むより借りるためにある。借りることが許されるかどうか、借り続けることが許されるかどうかが重要なのだ。わがままを受け入れてくれる人との結びつきを確かめたいのであろう。迷惑な話だが、なぜか他人事とも思えない。

貸すかどうか。当分、結論は出せそうにない。

by enzian | 2004-10-24 09:55 | ※どこぞに載せたもの | Trackback | Comments(0)

すぐ戻ります

雑誌『AERA』のコラム「今という時間(とき)」に掲載されたエッセイです。これを書いたとき、一瞬、自分がすごくよい人のように思えました。勘違いされると困るので申し上げておきますが、私の指導教授は、とても面倒見のよい方でした。

先日、学生に指摘されてはっとしたことがある。「先生って、いつも学内を走ってますね」。言われてみれば、走っているような気がする。

大学の仕事は、はたから見るほどひまではない。かといって、個人研究室に走って戻らなくてはならないほど忙しくもない。何を急いでいるのかを考えてみたら、答えはすぐでた。学生を待たせたくないのである。

私の指導教授は多くの学務をかかえた多忙な方であった。いつも研究室の明かりは消されており、行き先掲示板が「在室」を示していた記憶はほとんどない。学生はみな、待って会えるのは、たまさかの幸運であると知っていた。約束をしても、会えるのは何週間も先のことになった。

今、私の研究室には毎日のように学生が訪れている。日参する学生。決まった曜日の決まった時間に現れる学生。昼間の授業には出席せず、夜にだけそっと顔を見せる学生。さまざまではあるが、どの学生も、彼らにとっては切実なメッセージを携えてやってくる。そこには、その瞬間をのがせば色あせてしまうメッセージも少なくない。

行き先掲示板は「すぐ戻ります」にしてきた。学生が待っているかもしれない。研究室に向かう私の歩みは、自然と速まるのであろう。

by enzian | 2004-10-24 09:51 | ※どこぞに載せたもの | Trackback | Comments(0)

重ね着

雑誌『AERA』のコラム「今という時間(とき)」に掲載されたエッセイです。その後、この文章はけっこういろんなところでパクられました。それも、よ~く売れている本でね。

陽の射し込む教室で授業をしているときに、後ろの方でキラキラ光るものが目についた。プリントを配るときに確かめたら、とあるブランドをかたどったイヤリングだった。

よほど奇抜なものでない限り、学生の身なりには驚かない。だがこのときは不思議と気にかかって、授業を続けながらあれこれ考えていた。

イヤリングが嫌いなわけではない。教室でチャラチャラしてケシカラン、と堅いことを言うつもりもない。むしろこのことは、私のブランド観にかかわっている。

人気があろうとなかろうと、私は私自身がブランドであると思っている。人の外側にあるブランドに加えて、内側にあるその人自身。両方をブランドだと考えているのである。この意味で、イヤリングをつけた当の学生自身もまたブランドに違いない。これみよがしにブランドの上にブランドを “重ね着” する学生を奇妙に感じたのである。

こうも考えた。こんなことを奇妙に感じること自体、自信のなさを暴露しているのではないか。逆に、自分ブランドに他人ブランドを重ねて平気でいられるのは、それだけしたたかな人なのかもしれない。そう気づいたときには、すでにエスケープしたのか、学生の姿はなかった。

by enzian | 2004-10-24 09:49 | ※どこぞに載せたもの | Trackback | Comments(0)