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また、明日にしてくれる?

この時期、どうしても面談が重なってしまう。一人と話しているあいだに数人の学生がノックすることもしばしば。しかたなく、予約順位、緊急度、これまでの経緯などから、総合的に、かつ瞬時に取捨の選択をする。予約順位を重視するが、緊急度によってはこれを覆すこともある。予約順位を覆されて、ふくれて出ていった学生もいたような。「ゴメン。また、明日にしてくれる?」。本当のことを言えば、今日の相談に「また」の機会などないのだ。個研を後にする学生の足音を聞きながら、今日の相談を明日にすりかえることの無意味さを想う。

by enzian | 2004-11-30 22:45 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(0)

達人の目

赤ちゃんにじっと見つめられ、照れる。カワイイからではない。何のてらいもないクリクリした黒目に、こちらの醜悪な品性を見抜かれた気がしたのだ。表情のない目は恐ろしい。ある意味、達人の凄味があった。赤ちゃんにこんなことを言うなんて、バチあたりかな。

by enzian | 2004-11-29 22:20 | ※通勤途中 | Trackback | Comments(6)

「小さな哲学」に変えました

ブログのタイトルを「小さな哲学」に変更しました。「雑想」という言葉も捨てがたいのですが、わかりにくい気がしたので。

その意味は、「まず、お読みください」に書いたとおりです。やたらと大げさな言葉を振り回すのではなく(哲学をかじった人のなかには、ビックタームを鎖がまの鉄球のようにブンブン振り回してにじり寄ってくる人がいます。こういう人、怖いです)、ささやかにやっていきたいと思っています。

by enzian | 2004-11-28 11:49 | Trackback | Comments(4)

自分探しが旅

ホームページに「八重山の哲学」を作る。山ほどある写真のなかから掲載するものを選ばねばならない。どうしても、見慣れない、珍しい写真を選ぼうとしてしまう。なんかミーハーな(死語?)感じでちょっとイヤだ。

「自分探しの旅」という言葉が一時もてはやされたけど、自分探しでない旅なんてあるんだろうか?八重山の珍しいものは、関西在住のぼくとは違うものじゃないかって?するどい!って言いたいけど、青いね。自分と違うものに会うことによって、逆に自分を再確認してるんだよ。恋人に振られてセンチメンタルジャーニーに行く若者(今どき、そんな人いるか?)は傷ついた自分を取り戻しに行くんだし、温泉おやじは疲れた自分を癒しに行く。ものすごい旅をしたマルコだって、自分のルーツである母親を探しに行ったんだよ。そういう意味では、「自分探しが旅」なんだよ。きっと。

なになに?「カニ食べ放題、一泊二日の旅」はどうなるって?そういうのは「旅」じゃなくて「旅行」なの。以前、「旅」と「旅行」を区別して、「旅」にだけ人間が本当の自分(「実存」と言います)になれる要素が含まれている、という論文を書いた学生がいた。納得させられた。

by enzian | 2004-11-26 21:31 | ※その他 | Trackback | Comments(2)

紳士でいるのも大変

階段の前を紳士が歩いている。ポマード(死語?)をテカテカにつけて、スーツも決まっている。ステッキはないか、残念。足もとは?と見て、驚いた。スラックスのすそに、くっつき虫がひしめくようにくっついているのだ。この紳士、この格好でどんな草むらに入り込んでいたのだろうか?何の理由で?などと考えていると、おかしくなってきた。

階段を上がる度に両足のスラックスがこすれて、くっつき虫がパラパラ落ちる。あちこちばらまかれたいくっつき虫にとっては、さぞかし本望だろう。ひょっとすると、この紳士、こんな身なりをしていても、自然にやさしい自然愛好家なのかもしれない。だからわざわざ遠くからくっつけてきて、広域にばらまいてるんだ。そう思うと、ついに吹き出してしまった。となりのランドセル(死語?)の小学生君もゲラゲラ笑っている。

くっつき虫をくっつけているのが腕白小僧(死語!)だったら、小学生に笑われることもなかったのに。ゲラゲラ笑いは、こちらの想定とのギャップの笑い(ちなみに、ムフとかニヤニヤ笑いにギャップはない。これは想定通りの笑い)。足もとまで気を配らなきゃならないなんて、紳士でいるのも大変なんだな。

by enzian | 2004-11-25 20:24 | ※通勤途中 | Trackback | Comments(5)

闇にたたずんで

夜、最寄のバス停で降りる。木々を色とりどりの電飾が華やかに取り囲んでいる。ぼんやり光るサンタクロース、クマまでいる。例年、この時期に見る光景だ。だが、自宅に近づくにつれて華やかな光はまばらになり、やがて自宅の前の通りには一つの電飾も見えない。通りに面した家はみな、今年ばかりは闇にひっそりたたずんでいる。クリスマスの電飾とは、その家に子どもがいて、子どもを思う親がいて、ささやかな家族の生活があることのシンボルなのだ。少年を突然なくした家族への、さりげない配慮。

by enzian | 2004-11-24 23:05 | ※街を歩く | Trackback | Comments(0)

怒る教師をあざ笑う学生

同僚の論文を読んでいたら、学生がその名前を指差しながら言う。「先生、この人、知ってます? こいつねぇ、授業のときにマジ切れしたんすよ!」。そこから、「マジ切れ」事件の状況説明が始まる。どうやらその人は両手を腰に置いて、いかにも怒ってるんですよ!といったポーズで私語を注意したらしく、それをマネして大爆笑している。

たしなめて、「怒られる君らが悪い」と言ったが、どれほどわかってもらえたのだろうか。大教室の講義だったそうだが、多人数の人間を相手にして90分しゃべり続けることがいかに大変なことか。サボタージュするのがいないかどうか、夢の世界に入っているのがいないかどうか‥‥常に教室全体に気を配りながら、今しゃべっていることに集中し、同時に次にしゃべることを忘れずに頭の片隅に置き続ける。合間合間の板書も忘れてはいけない。この極度の集中がうまくできれば良い授業になるが、この集中は、ちょっとした騒音で一挙に途切れてしまうものなのだ。――だが、そんなこと、いくら説明したところで、体験したことのない者にわかるはずもない。それに、その同僚は「まじ切れ」したそうだが、教師が学生相手に怒った時点で、もうプロとして失格なのだ(ここには自分の反省も込めている)。揶揄する学生の方がある意味、正しい。感情に流されて怒るのではなく、せめて教育的な指導として叱らねばならない。

ぼくの場合、もう論外だと思ったら、決して怒りも叱りもしない。頭のなかの “すでに見切った人リスト” に載せて、それっきり、その人には話しかけないし、近づかない。考えることさえやめてしまう。もちろん大人だから、通り一遍のあいさつぐらいはしてあげる。リストに載せたことを易々とさとらせはしない。たまに察しのいい学生がこのようなぼくの性質を見抜いて、「先生、人を見切ったことがありますか?」と心配顔で聞いてくることがある。「すごく冷たい視線を投げかけるときがあるので、わかる」らしい。「冷え冷えの目」と表現した学生もいる。学生の鋭さに感心させられるときだ。自分がいつ見切られるかと、ハラハラしてもいるのだろう。いつもこう答える。「いっぱいいるよ。学生以外ではね。でも、学生はこれまで一人もいない。」

by enzian | 2004-11-23 22:09 | ※キャンパスで | Trackback(1) | Comments(9)

電車で福笑い

電車で、一心不乱に化粧をしている人を見る。まじまじと見つめるのはマナーに反するかとも思ったが、くちゃくちゃガムを噛みつつ、傍若無人な様子でまったく他人の視線を気にしていないようだったので、しばらく観察してしまった。こういう人は、きっと自分のターゲット以外の人なら、自分が化けてゆく(化粧だからね)過程を見られたところで、どおってことはないのだ。ターゲットには、「キャー恥ずかしい」とか何とか言うのだろうけど、ターゲット以外は、路傍の石ころのようなものなのだ。都合よく、石ころはそう思うことにした。

見たこともないレアなアイテムが次から次へと繰り出された。塗ったくったり、たたいたり、線を引いたり、挟んだり。一瞬の無駄な動きもない。クライマックスは、それまでなかった見事な眉が突如として出現したときだ。揺れる電車のなか、しかもくちゃくちゃガムを噛みながら、まごうことなき匠の技であった。お正月の福笑いよりもはるかに難しいだろうと感心したものだ。だから、これのどこが哲学なのか。

by enzian | 2004-11-22 21:24 | ※通勤途中 | Trackback | Comments(3)

秋、学生が学校に来ない理由

秋が深まるにつれて、学生が休みがちになってきた。こちとら、学生がいてナンボの身の上としては、こういう事態はよろしくない。そこで、学生さまがいらっしゃらない理由を以下に、トンデモ哲学的に考察してみることにした。やっぱり、ヒマだね。

①学園祭があったから。これについては、「学園祭の空気」という、さる高名な哲学者の考察があるので、そちらを参照していただきたい。学園祭は、「学校に対する帰属意識をもっている人」と、「学校に対する距離感をもっている人」を残忍に振り分けるモノサシにもなるのだ。学園祭を楽しめる人は、多かれ少なかれ学校に対する帰属意識をもっている人だし(さらに細かく言うと、帰属意識の濃淡に応じて、学園祭の運営にかかわる人と、学園祭を見に来るだけの人との区別がある)、「学園祭?フンッ、誰が!」という感じでまったく参加しようとしない人は、学校自体に対する距離感・嫌悪感をもっている人なのだ。学園祭は、学校自体の象徴でもある。距離感をもっている人は、学園祭の後、ますます学校に近づかなくなる。

②木の葉がヒラヒラ散っているから。これについても、「秋がさびしいわけ」という、さる高名な哲学者の考察があるので、そちらを参照していただきたい。繊細な心の持ち主のなかには、この季節が運んでくるそこはかとない喪失感に影響を受け、生きるエネルギーが低下する人もいるかもしれない。

③クリスマスが近いから。さらにこれについても、“Sein zum Weihnachtsabend”(クリスマスイブへの存在、ないし、クリスマスイブに向けた存在、という意味ですよ)という、高名な哲学者のありがたい考察があるので、参照すべきである。要するに、クリスマスの準備に忙しくて、勉強どころではないのだ。勉強よりも恋なのですね。

④担当教員が嫌いになってきたから。決してこのようなことはないと思うので、次。

⑤前期の経験を踏まえて、ダイガクというのが、ちょっとやそっと休んでも大丈夫なところだとわかってきたから。実際その通りなので、実に痛いところをついている。そのぐらい要領が良くないと、世の中、わたっていけないということは言える。

⑥朝寒くて起きられないから。たまに「低血圧で起きられませんでした」なんて真顔で言う学生がいる。低血圧と朝が弱いことの因果関係が学問的に説明されているのかどうか知らないが、それを聞いた瞬間、こちらの血圧が上がっていることは間違いない。

さて、どれが正しいのでしょうかねぇ?

by enzian | 2004-11-21 17:40 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(5)

秋がさびしいわけ

バス停が急にさびしくなった。このところの雨で、色づきはじめていた桜の葉がすっかり落ちたのだ。新緑の季節から共にバスを待った仲。もともと物言わぬ小さな葉っぱであっても、いつもそこにあるはずのものがないのは、それなりにさびしいものだ。

つややかな緑の葉、ひかえ目な花の色、耳に残る虫の声、まぶしい太陽の光‥‥それまで当たり前のように(かつ、意識しないまでも、自分のもの、自分にとって好ましいものとして)常にあったものが急速に失われゆく季節。秋、とりわけ晩秋がものさびしいのは、こうした “自己喪失感” のゆえなのだろう。ちょっと恥ずかしくなってきたぞ。

by enzian | 2004-11-19 21:08 | ※自然のなかで | Trackback | Comments(4)