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そんなことが切実なの?

『薔薇族』が再刊されるらしい。知る人ぞ知るゲイの雑誌。普通の新聞にそのことが載っている。一昔前なら、こういうのはスポーツ新聞以外の記事にはならなかったような。おすぎとピーコに何の違和感もなくなり、“おかま” であることが社会進出の戦略の一つにもなった今、自然なことでもあるのだろう。

昔からその手の人(おかま系?)じゃないかと勘繰られることが多い。今でも年に何回か、学生から真顔で聞かれる。「前々から言おう言おうと思っていて言えなかったことなのですが‥‥」「こういうことを言うと失礼に当たるかもしれないのですが‥‥」。慇懃(いんぎん)な前置きは続く発言の切実さを想わせる。(内容は略)。けっきょく、要は、身のこなしが “女っぽい” と言いたいらしい。

ハァ~どうしてそんなことが切実な問題になるのだろうか‥‥でも、わかりました。あわれな子羊たちよ。そなたたちの迷いの根を断ち切り、勉学にも身が入るようにしてあげましょう。「今後は、高校球児の入場行進のように大きく手を振りながらズンズンと教室に入り、脱いだ上着などは畳まずポイッと投げ捨てたままで、小指を立てないようマイクをもつことにします」。

by enzian | 2005-02-28 20:12 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(21)

「答えがない」

「答えがない」と口に出して言うのは簡単だ。
でも、「答えがない」と、どうすれば確信することができるのだろう?
「答えがない」と言えるほどの自信はない。

by enzian | 2005-02-27 09:43 | ※その他 | Trackback | Comments(22)

夜と朝とラブレター

中学の古典の時間に先生がポツリと言った言葉が忘れられない。「夜書いたラブレターを朝読み返してはいけませんよ」。唐突に何を言うのかこのおっさん、と思ったのだが、その唐突さゆえに言葉は少年の心に残った。意味はよくわからなかった。

やがて少年も成長し、教師の言葉にも察しがつく年頃になった。なるほど、夜(特に深夜)に有頂天になって盛り上がって書いたものを朝読み返そうものなら、恥ずかしくて渡せなくなってしまうということか。すでにお年頃をすぎた今、さすがにラブレターとは縁がないが、やはり深夜に盛り上がって書いた論文はものにならない。客観性のカケラもない文章になってしまうからだ。

でも、夜と朝の関係には逆のことも言える。途方もなく膨れ上がり、夜通し人を苦しめたネガティブな考えが、朝にはきれいさっぱり、気分爽快で気にもかからない、ということはよくあるからだ。こんなささいなこと、夜はなぜあんなに深刻に思えたのだろうバカだね、っといった具合。人間を評して「朝は楽観主義者、昼は現実主義者、夜は悲観主義者」と言った人もいたような(間違えているかも)。

「夜凸→朝凹」と「夜凹→朝凸」。どちらかが間違いということではなく、どちらも正しいのだろう。夜とは、ネガティブなものであれポジティブなものであれ、感情が高ぶる時間だからだ。眠っているときには抑制神経(喜怒哀楽の感情の働きを抑える)の働きが弱まるのだけど、眠るはずの時間に起きていたりすると、勘違いをした脳が抑制神経の働きを弱めてしまって、喜びにせよ悲しみにせよ、たまたまピックアップされた感情が抑制されることなく、一人歩きするのかもしれない。

『歴史は夜つくられる』という映画があったけど、夜でなければ生まれない “芸術” もあるだろう。ラブレターも、その一つか。

by enzian | 2005-02-26 13:19 | ※その他 | Trackback | Comments(8)

不払いを自慢する人

ある人と話す。いつものようにNHK受信料の不払いが話題になる。今度はこんなセリフで集金人を追っ払ったなんて、鼻の穴をふくらませて話している。武勇伝のように。ほかの人にも同じことを自慢しているのだろう。そのくせ、NHKの番組はしっかり見ているらしい。

不誠実な相手にバカ正直に対応する必要がないことぐらい、わかっている。最近のNHKの稚拙さが目を覆うばかりであることも認める。だが、自慢気に話すほど、不払いは誇らしいことなのだろうか。

by enzian | 2005-02-25 19:47 | ※街を歩く | Trackback | Comments(15)

『青葉台駅チャリンコ2分』(鈴木カオリ)

b0037269_10583167.jpgアウトドア雑誌『BE-PAL』連載の小説を単行本化したものです。著者は鈴木カオリ。まったく無名の人で、『BE-PAL』を購読している人以外、見たことも聞いたこともない名前でしょう。でも、腕は確か、筆は立ちます。最初、この人の文章を『BE-PAL』で読んだときは、こんなシロウトが世の中にはうようよしているのか、と驚きました。

小説の分野としては、青春自伝小説(?)といったものです。著者の大学入学まもなくから自転車屋の女房となる10年間ほどが舞台となっています。これから読まれる方もおられるでしょうから詳しいことは書きませんが、この本のおもしろさは、まず、この著者(主人公)が巨大なエネルギーの持ち主であるということです(ちなみこのことは主人公の旦那にも、ある程度は言える)。もちろん、青春時代と言えば誰しもエネルギーがみなぎるものですが、この人のエネルギー量は半端じゃない。

でも半端じゃないがゆえに、若い著者はそのエネルギーを制御することができません。何か運良くエネルギーを放出する対象が見つかったときは天にも昇る至福の大発展を見せるのですが、その対象が突然かき消されようものなら、エネルギーの流れは自分自身へと逆流し、強力な自己否定の力になってしまうのです。ありあまるエネルギーが自分を蝕み、いやそんな生易しいものではありません、バリバリと音を立てて自分を食い尽くしはじめるのです。その苦しみは尋常じゃない。この小説はそんな場面からはじまります。

次に、ぼくがこの本でおもしろいと思うことは、この本全体の構想にかかわることなので、言いません。くわえてもう一つ、おもしろいのは、この著者が強い義侠心(あの人のためだったらあたしが一肌脱いでやろうじゃないか!といった。じっさい、一肌脱いでます)をもっていることです。エネルギーの対象が特定の人間となった場合、エネルギーは義侠心として働くのです。

下手をすると極妻にさえなりかねない危ない人なのかなとも思いますが、どっこい、同時にお天道さまに対する義侠心(悪いことをすると、お天道さまに顔向けできない、というような)をももちあわせているので、決して不埒な方向には向かいません。その微妙なバランスもまたおもしろい。ただ、著者の義侠心の対象となった人々のなかに「サブ」という人がいるのですが、この人に対する思いを綴った、ぼくがとてもおもしろいと思っていた箇所(小説の一番最後の部分です)が単行本では削除されていたことが残念ではあります。

最後にちょっと難点を言っておくと、すでに青春を過ぎた人がこの本を読むと、うらやましさを通り越して、うらめしや、になってしまう可能性があるので、ご用心。基本的にお嬢ちゃまとお坊ちゃまのお話なので、そこにひっかかる人もいるやもしれない。それでも、ぼくは “買って損はない本” として推しますけどね。ちなみに、人の青春がいつからいつまでか、はぼくにはわかりません。めいめいでご判断くださいませ。

by enzian | 2005-02-24 19:48 | ※好きな本 | Trackback | Comments(12)

「カッコイイ」と「カワイイ」

録画してあった番組を見る。八重山諸島とハワイの観光案内に毛の生えたような番組だった。歌手のビギンともう一人、今どきの高校生の代表のような、女優なのか歌手なのかどちらでもあるのか、ぼくにはわからない若い女性(なぜかパンダの着グルミをよく着ている人)が案内役を務めていたのだけど、その女性のボキャブリラリーにはうなってしまった。

ホエールウオッチングをする場面。彼女のボキャブラリーは、ほぼ三つの形容詞に尽きていた。「スゴイ」と「カワイイ」と「カッコイイ」。ボキャブラリーが貧困だとかそういうことを言っているのではない。そうじゃなくて、まったく同じ動作をしている対象(クジラ)に、これら三つの言葉が同時に使えることにビックリ仰天したのだ。

クジラが海でバチャバチャしている場面が「スゴイ」(正確に描写すれば、はスッゴ~イ)のはわかる。けど、まったく同じものが「カッコイイ」(正確に描写すれば、カッコイイ~)と言うのはどうか。カッコイイは自然のままの生き物に使う言葉なのだろうか。人間の容姿か行動か、そうでなくても、人間の息のかかったものに使う気がするけど。でも、ぼくも、クワガタを少年の頃にカッコイイと言っていたような。

巨大なクジラに「カワイイ」(正確に描写すれば、カッワイイ~)はちょっと違和感がある。彼女からすれば、歩いている川合俊一も、新幹線の車窓から見える富士山もカワイイのかもしれない。もちろん、ふと見ると川合俊一が刺繍をしていたり、富士山が湯飲みのお茶に映ってチャプチャプしていたらカワイイと思うかもしれないけど、スゴイものカッコイイものが “同時に” 、 “同じ見方のままで” カワイイものでもあることってあるのだろうか。でも、「スゴイ」を副詞的に使って、「スゴクカワイイ」とか「スゴクカッコイイ」という言い方はあるな。

たぶん、おっさんの使う「スゴイ」と「カッコイイ」と「カワイイ」は必ずしも同じ意味ではないけど、彼女の使う「スッゴ~イ」と「カッコイイ~」と「カッワイイ~」は、とても広い、含みのある意味で使われていて、それぞれの意味も多少なりと重なりあっているのだろう。そういう意味では、妥当な用法ということか。一つ勉強になった。

by enzian | 2005-02-23 21:43 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(15)

人を見る目がない

学生からの連絡により、同僚がぼくのことを「まじめな人」だと評していたという事実が発覚する。「いったいぜんたいどの辺がまじめだと思っているのか、さらに探りを入れるように」と学生に隠密行動を指示するが、にべもなく断られる。

師の崇高な意図を読みきれぬ学生の、若さゆえの粗相は許してやろう。問題なのはむしろ同僚の方で、長い付き合いになるのに、どうしていまだにぼくのキャラクターを読み切れないのか、いつまでダマされ続けているのかと不思議に思う。ぼくの同僚はホントウにまじめな人だから、複雑に曲がりくねり、入りくんだリアス式海岸のようなぼくの性格を理解しろというのが、土台、無理な話なのかもしれない。

「上岡龍太郎にはダマされないぞ」という番組が以前あったような、なかったような気がするけど、ぼくの聞こえのよい発言とか、やさしくて繊細そうな言い回しとか、しおらしい人格であるかのような記事なんかにダマされてはいけない。そうしたおびただしい発言の奥には必ずやケケケ的動機が隠されているし、いいかげんだし、ちょっと人を見る目のある学生たちからは、“にっこり笑って、すっぱり切る冷血人間” ということですでに評価は一定しているのだ。

座右の銘は「自分にはやさしく、他人にはきびしく」。ゆめゆめ、ダマされてはいけませんよ。

by enzian | 2005-02-22 22:19 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(13)

待つということ

今はすっかりやめてしまったのですが、釣りが趣味だったことがあります。特に「投げ釣り」というのが好きでした。岸辺から餌をできるだけ遠くへ投げて、広いエリアの魚をせしめようという釣り方です。投げ釣りの代表的なターゲットはキスとカレイでした(魚の名前ですよ)。キスは春から秋、カレイは主に晩秋から冬にかけての獲物でした。

同じ投げ釣りといっても、キスとカレイではまったく釣り方が違います。キスは “動” の釣り。ひっきりなしに釣り場を移動しながら釣るのです。春先のキラキラ輝く海で糸を垂らすのは気持ちのよいものでした。釣れるキスもパールピンクに輝いています。「パールピンクの妖精」というのがキスの別名なのです。そんなことを言っても、すぐ塩焼きにするんですけどね。

一方、カレイ釣りは “静” の釣り。動きが鈍く、餌を食べるのもうまくないカレイを釣るには、粘りが必要でした。ちょうどこの時期、寒風吹きすさぶなか、鼻水を垂らしながら、ひたすら魚信(あたり)を待つのです。でも、待つというのは、じっと果報を寝て待つというのではないのです。刻々移り変わる潮の流れとか、水温の変化とか、風向きとか、ポイント(餌の位置)とか、餌の鮮度とかいったことに常に注意を向けながら、ありとあらゆる可能性の芽に網を張り巡らしたうえでひたすら待つのです。

ぼくはカレイ釣りが下手でした。ついぞ、たくさん釣れたという記憶がありません。待つということができなかったからだと思います。教師の仕事には待つことも必要です。でも、今でも待つのは苦手です。

by enzian | 2005-02-21 20:40 | ※自然のなかで | Trackback | Comments(24)

白い杖

歩道を歩いていた。正面から白い杖をついた人が歩いてくる。やがてすれ違うだろう。足音を消して、やりすごそうとした。完全に足音を消してすれ違ったはずだった。だが、すれ違いざまに声をかけられた。「すいません。この辺りに○○という店があると思うのですが‥‥」。絶対に覚(さと)られるはずがないと思っていたわずかな気配を、するどい聴覚で感じ取られてしまったのだ。店はすぐそばにあり、案内はした。その時こちらの顔が赤く染まっていたことも、見透かされたのだろうか。

by enzian | 2005-02-20 21:04 | ※街を歩く | Trackback | Comments(5)

ウェルカムな人(4)

思わず、車間距離ならぬ人間(じんかん)距離を無視して、50センチよけいに近寄ってしまう、「ウェルカムな人」の四人目は、変わった人、であります。

私、自分の “新奇探索傾向” (しんきたんさくけいこう=新しいことを試みようとしたり、新しい世界に飛び込んでみようとしたりする性質)の乏しさをつくづく自覚いたしまして、昨日あたりから、“自分を変える楽しい週末企画” と題しまして、ついに自ら新しいブログを発見しようとする試みをはじめました。これまで、私のブログに来てくださったのは、自分から訪問してくださった酔狂な方ばかりで(ほめ言葉です)、私の方はと言えば、訪問を受けるがまま、コメントを書いていただくがまま(お一人だけ、こちらから先にコメントを書いた例外がありますが)、ありがたく授業のネタをいただくがまま、愛情をそそがれるがままであったわけです。

しかし、「求める愛」よりも「与える愛」を重視する私といたしましては、そのようなテイタラクではいけない。愛による奉仕の実践をせねばならぬというわけで(議論がすりかわっているゾ!)、自分からもいろいろな方のブログを訪問し、あわよくばコメントまで書いてきてしまおうという斬新なプロジェクトを、寒空に黄色いTシャツ一枚にて、はじめたわけであります。

有名どころの遠洋ブログは、哲学エッセイブログの記事でも書いたように、行ってもすぐおなか一杯になるので、近場の近海(?)ブログを攻めることにいたしました。なんせ、exciteブログだけで17万もあるのです。宝の山です。とりあえず、リンクしていただいている方のリンクを伝ってゆくという数珠繋ぎ方式でいくつかのブログを拝見しましたが、すでに大漁です。わざわざ遠くに行く必要などなかったのです。おいしそうです。そうです。私は近海魚が好きだったのです。寿司屋(いつも回ってますけどね)に行っても、食べるのは近海魚ばかりなのです(いつ寿司ネタの話に切りかわったんだい?)。

ただし、近海魚であればすべてOKということにはなりません。近海魚でありかつ、市場では見かけない魚がいいのです。高級魚ということではありません。ハマチとかタイとかヒラメとか、ああゆうどこにでもいる、ありがちな高級近海魚はいらないのです。

食べたいのは、ギンポとかネズミゴチとかヒイラギとかキューセンペラとかネンブツダイとか、一般受けしないようなやつなのです。多くの人が、ちゃんと食べもしないで、「まずい」とか「ネコまたぎ」 (魚好きのネコさえ跨いで食べない、の意味)だとか雑魚(ざこ)だとか言うやつ、そんな魚が食べたいのです。そういう魚だけがもつ人知れない旨みを見つけ出し、味わいたいのです。市場価値がなくて商品にならないので、漁師が漁港でポイッと捨てるような魚。そんな魚こそ、私をドキドキさせるのです。そしてもう一つ。無理なおねだりと承知しているのですが、そういう希少性に加えて、昼間でも岩陰に隠れてなかなか出てこないような 、どこか “影のある魚” であれば、なおポイントが高いのです。心臓バクバクします。

すべからく、ぼくはそういう変わった人が好きなのです。「一人ぼっちの人」とあまり変わらないかしらん。

by enzian | 2005-02-19 17:05 | ※好きな人・嫌いな人 | Trackback | Comments(18)