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遺灰からダイヤ

b0037269_1658547.jpg遺灰(遺骨)から作った人造のダイヤが話題になっている。朝日新聞(6月25日夕刊、写真撮影、岩崎央)にも「故人への思い 永遠に」という題で記事が載っていた。コップ一杯程度の遺灰か遺骨でそこそこのものが作れるらしい。値段は40万円から、製造には5ヶ月かかる。作っているのはアメリカのメーカーだが、日本からも150件を超える注文があったという。

うわさには聞いていたけど、じっさいの写真は初めて見た。けっこうキレイなものだ。でも、ぼくなら注文しない。タダでも注文しない。でも、なぜしないのか?と聞かれれば、答えるのはむずかしい。理由はたくさんありそうだけど、まず致命的なことに、ぼくはダイヤモンドがキライなのだ。あんな、人に削ってもらわなければ光らないような手垢にまみれた石、興味がないのだ。まったくもって、“石” としての本分に悖る。それでいて、宝石の王さま気取りなのだ。

自分の大切な人が遺していったものをこねくりまわす産業なんぞに金儲けさせてたまるかっ!という気もある。器量の狭い人間なのだ、ぼくは。

by enzian | 2005-06-26 17:05 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(46)

きめ細やかな粉が好き

粉が好きです。危ないことを言っているのではありません。関西人だから粉モノが好きだとかいうことを言ってるのでもありません。サラサラしたきめ細やかな粉、そういう粉をさわるのが好きなのです。粉が指先に触れる、そのたよりない感触が好きなのです。なぜかは知りません。物心ついた頃から好きだったのです。

形あるものをすりつぶして粉にするのも好きです。小学校のときの理科の実験でいちばん興奮したのが、忘れもしません、ジャガイモをすりつぶしてデンプンを作るというやつでした。いまでも、石臼なんかで蕎麦とかを物憂げな表情でひいている女性(ひと)なんかを見た日には、そのまま恋に落ちてしまうやもしれません、などとウソを言ってしまうくらい好きです。怠け者だから、身を粉にして働くのはイヤだけどね。

by enzian | 2005-06-25 21:10 | ※その他 | Trackback | Comments(37)

なぜ、つばをはく

メジャーリーグ中継を見ていて、ハッとしました。松井がバッターボックスでグラウンドにつば(唾)をはいたのです。松井もつばをはくようになったのです。松井だから驚いたものの、日本人以外のメジャーリーガーたちはさかんにつばをはいています。グラウンドで、ベンチで、ところかまわず、ペッペぺっぺと。噛みタバコをやっているひとも多いのでしょうけど(タバコのことはよく知らない)、どうもそればかりではなさそうです。野球だけでなく、ペッペペッペはサッカーの試合でもよく見ますね(ときには “手ばな” までしている)。

日本男児たるもの神聖なるグラウンドに‥‥などと言うつもりはさらさらありませんが、グラウンドでなくても、つばをはくという習慣はないと思います。その昔、ぼくが若かりしころにも “不良” と呼ばれる一群のひとたちがいて、学校のそこここでつばをはいていたものですが、ヘンテコな行動に見えました。当時は、外国人のマネなのか、さもなければ、だらしなさで(モラルに屈しない)自己主張をしているのだろうと思ってました。いま考えてみれば、自分の体内で作り出した自分の分身のようなものを撒き散らして、自分の権勢を誇示しているのかなぁという気もします。犬のおしっこみたいなもんですね。もし、自分のなかにあるものに違和感を感じて、どうしても吐き出さざるをえないような強迫観念(どうしてもそれをしないといけない、しないと怖い、というような思い)に感じているのなら、それはそれで問題なのでしょう。

でも、つばをはくぐらいのことでどうしてそんなに目くじらを立てないといけないのかという気も、われながらします。たかが、わずかばかりの自家製水分を土や芝生に吸い込ませているだけなのにね。ふだんは人目につかないで自分のなかにあるものを他人の視線にさらすことが怖いのかしらん。

by enzian | 2005-06-24 21:07 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(30)

ゲンジボタルの風景

ホタルを見に行った。“粋場”(すいば=京都近辺の子どもが使う言葉で、特別な物があったり、特別な生き物がいたりする秘密の場所のこと)なので場所は教えない。ガッコウから15分ほど歩いたところ。黄緑色の淡い光が、上がったり下がったり、どこへ向うでもなくふわふわと漂っている。孫を連れたおじいさんがやってくる。二つ三つ採って、孫の虫かごへ入れる。「すぐ死んにょるから、こんだけにしとこな」。孫は、わかったようなわからないような顔をする。

近所の人たちが、着の身着の儘(まま)でやってくる。どこへ向うというあてがあるわけでもない。サンダル履きに、手には団扇をもってパタパタ扇ぎながら、そぞろ歩きしている。あてもなく漂う淡い光とあてもなくそぞろ歩きする人たち。こういう、目的があからさまには見えない、志向性のはっきりしない光景が、“癒される風景” と言われるのだろうか。

by enzian | 2005-06-19 13:09 | ※自然のなかで | Trackback | Comments(40)

ネット自殺に思う(【R】)

こんなチームワークの使い方があるのか‥‥ネット自殺の記事を見るたび思う。仲間を裏切りたくないし、協調性がないと思われたくない。優柔不断だと思われたくないし、この期に及んでまでプライドを傷つけられたくない。恥もかきたくない――人一倍、“他者の視線” に気を遣うことを逆に利用して、自殺志願者たちは、自殺することにためらい、思い止まり、死から逃げ出そうとする自らの揺れる心を、あらかじめ封じておこうとする。

他者の視線は自殺志願者に対して精神的な強制力として働くが、集団自殺には精神的でない強制力もしばしば見られる。一家 “心中” (家族関係や恋愛関係にある者の自殺)で親に殺された幼い子どもたち、味方兵士によって集団 “自決” (戦場における自殺)を強いられた沖縄の人々、実際には三割以上の信者が殺害されたといわれる「ガイアナの集団自殺」を思い起こせばよい。そこでは集団自殺が集団他殺となり、“やめたい” “やっぱり死にたくない” という心たちが、物言わぬ骸(むくろ)のなかに封殺されているのだ。

集団の行為となり、チームワークとなったとき、自殺はすでに純粋な “自殺” ではなくなるのだろう。だが、さりとて、ひとり死を選ぼうとする自殺志願者が純粋な自殺者であるとも言えない。そうした自殺志願者もまた社会で生きてきたのであり、なんらかの意味での “他者の視線” に翻弄されてきたからだ。純粋な自分の意志によって誰の力も借りず自分の力で自分自身の命を絶つ――人は自分ひとりで死を選ぶことはできないのかもしれない。天涯孤独のロビンソンクルーソーは自殺することができるだろうか?

by enzian | 2005-06-18 16:47 | ※その他 | Trackback | Comments(18)

レモンは植えられない

スッパイものが大好きです。頭から湯気を出して怒っているときでも、なにも言わず、さりげなくテーブルに酢の物を置いてもらったりすると、とたんにオトナシクなります。漬物のスグキも好きですし、寿司も好きです。あまりにも「スッパイモノ、スッパイモノ」を連発するので、高校のときのニックネームは “妊婦” でした。

スッパイ系の柑橘類も好きです。レモンとかスダチとかユズとかカボスとかシークァーサーとか。どんな料理にも、とにかく絞りまくります。こういう柑橘類で庭中を埋め尽くしてやろうかと思ったことさえあります。自分で栽培すれば、農薬とかの心配もなくて、安心ですからね。

でも、いっこうに実現しません。柑橘類を植えると、必ずアゲハチョウが卵を産み付けにくるからです。アゲハチョウの幼虫はモスラみたいで、ちょっとグロイのですが、憎めないところもあるのです。つっついたりすると、Y字型の黄色い角(「臭角」といって、柑橘系?の匂いがする)を出して怒ります。この、人間にはなんの効力もない “臭い攻撃” が、いじらしくて、カワイイのです。毛虫とかなら容赦しないのですが、“モスラ” を駆除するのはイヤです。身勝手なのですが、イヤなものはイヤなのです。

by enzian | 2005-06-17 20:53 | ※自然のなかで | Trackback | Comments(22)

寝てても、すごいんです。

人間ってすごいですね。寝てるときにもしっかりなんかしてる。ちゃんと息をしているし、ちゃんと寝返りうってる。この二三日は、夜中、ハッと気づいたら、うるしかぶれをボリボリかきむしっている自分に気づいたりしてました。これは一言で言うと簡単ですが、じつはとても複雑です。この場合、三つのタイプの意識が働いていると考えられるからです。

1.かきむしろうとする無意識
2.かきむしろうとするのをやめさせようとする無意識
3.(ハッと気がついた)意識

寝る前、ぼくは(意識のなかで)かきむしったらイケナイなぁと考えて、寝ます。寝てるときには、ほとんどの場合は2が1を制御しているのですが、1がどうしても強くて制御し切れなくなったとき、2は緊急手段として、自分が(1もろとも)消えてしまうことによって、3を呼び出すわけですね。言ってみれば、2は自己犠牲の精神にさえなるわけです。(ゴメンナサイ、ぜんぜん、アカデミックじゃありません!)

by enzian | 2005-06-15 22:34 | ※その他 | Trackback | Comments(17)

ウィンクとコミュニケーション

欧米人はウィンクをうまくつかいます。いろんな場面で、微妙な意志の疎通(コミュニケーション)、ないしその補助のために使います。口を動かすわけでもなく、首を振るのでもないような意志の表現が、一瞬のあいだ片目を閉じることでできるのですね。おもしろいコミュニケーションの方法です。日本人の場合、こういうタイプのコミュニケーションをやってこなかったようです。もちろん、今の日本人はウィンクを知っているわけですが、それは欧米人のやり方をまねたものだと思います。日本人のウィンクが恋愛やエロティックなものにウェイトを置いているのは、たぶん、日本人が欧米からウィンクをとり入れたときに、ちょっとしたカンチガイがあったのでしょう。

このカンチガイは、二つの不幸を引き起こしています。ひとつは、外国人が日本人とのコミュニケーションの手段としてウィンクを使う場合に誤解が生じやすい、ということです。たとえば、外国人の男性が日本人の女性にウィンクをした場合、簡単に誤解が生じるような気がします。「いやだっ、彼って、わたしに気があるのかしらん」とかいった。もちろん、彼にはそんなつもりはないのです(ある場合もありますが)。これは、どちら側にとっても不幸です。まっ、かん違いなしで成就する恋愛などないのかもしれませんが。

もうひとつは、日本人同士のコミュニケーションの手段としてのウィンクの可能性を狭めたことです。成就する可能性のある恋愛の場面でしか、ウィンクは意味をもたないのです。それ以外は「うわっ、キモ!」で終わりです。ちなみに、ぼくはウィンクがうまいのです。特に左目のウィンクなんか、一級品ではないかと思っています。高校生のとき、グローバルなコミュニケーション時代の到来を予感して、血のにじむような、自転車の縮むような訓練*のすえにようやく体得したものなのです。でも、実際に使える場面はないのです。それが言いたかった。

*このあたりの事情は、「ブレーキをかけないおばちゃん」にいただいたnoe.saekiさんのコメントへのぼくのレスをご参照ください。

by enzian | 2005-06-12 19:10 | ※その他 | Trackback | Comments(39)

マンゴーを食べると色っぽくなる?

今朝、鏡を見たとき、いつもより自分が色っぽくなったのではないかという錯覚にとらわれた。まちがいなく、なにかがいつもとは違うのだ。なにがおかしいのかとジロジロ鏡を見ていたら、いつもより唇が腫れぼったくなっていて、ほんのり赤みがさしているらしいことに気づいた。かんたんに言うと、唇が “合成着色料を使ったタラコ化” しているのだ。

もうひとつ、変化に気づいた。唇のあたりがかゆいのだ。昨日、唇をべちゃべちゃにしながらマンゴーを食べていたのに、その後、しっかり口元を洗わなかったので、かぶれてしたまったらしい。マンゴーは “うるし科” の植物なのだ。うるしにかぶれる体質(うるしアレルギー)だったことを、すっかり忘れていた。

大人になってからは、キノコ遊びのときでも、山に生えているうるしには近づかないように注意していたのに‥‥家でデザートを食べてうるしにかぶれるとは、うかつだった。でも、ちょっとだけ刺激的な非日常を体験できてよかったのかな。なんでもいいからとにかく刺激が欲しいという方や変身願望のある方は、○○ナイン軟膏を用意してお試しあれ。

by enzian | 2005-06-11 20:08 | ※その他 | Trackback | Comments(36)

ブレーキをかけないおばちゃん

街を歩いていたら、おばちゃん自転車に轢かれそうになって、あやうく難を逃れる。「あーびっくりした」などど言っておる。それは、こっちのセリフじゃ。

おばちゃんのなかには、サドルに腰掛けたままだと急ブレーキをかけられない人がいる(こういうおばちゃんって、関西人だけかな?)。危険を察知したら、ブレーキのレバーを握るかわりにサドルから降りるのだ。あわてて降りるヒマがあったら、ブレーキレバーを握ればよいように思うが‥‥。

たぶん、この手のおばちゃんには、「自転車に乗ったまま急ブレーキをかける→バランスを崩してこける→自分がケガをする」という図式が強く意識されているのだろう。願わくば、「バランスを崩してでも急ブレーキをかける→いたいけな哲学者にケガをさせないようにする」という図式も欲しいところではある。

by enzian | 2005-06-10 21:40 | ※街を歩く | Trackback | Comments(26)