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愛・地球博に迷う

みなさま、いかがお過ごしでしょうか?おかげさまで、このところ頭痛の方はかなりよくなってきています。先日、大学の刊行物にちょこっとした文章を書きました。これまでこの種のものはブログにも横流しして掲載してきましたので、久しぶりに記事として投稿することにします。苦手なテーマ(万博について)を言われ、しぶしぶ(ゴメンナサイ!)書いたもので、おもしろみも深みもまったくない文章ですが、お目通しいただき、「アホか!」と一言つぶやいていただければ、望外の幸せです。

「愛・地球博」が好評だそうだ。入場者が数百万人を超えたらしい。自慢じゃないけど、TDLもUSJも行ったことがない。長蛇の列や人混みが苦手なのだ。久しぶりの万博でもあり、愛・地球博はどうしたものか、いまだに迷っている。ものすごく興味をそそるようなものがあれば行こうとも思うけど、どういう博覧会か、いまひとつわからないのだ。

テーマがわかれば、魅力的な中身が見えてくるかもしれない。テーマは「自然の叡智」だという。でも、「叡智」ってなんだろう? 人間の知恵のなかで考えられる最高のもののことだろうか。だとしたら、自然に叡智という言葉を使うのは、ちょっとヘンな感じがする。

ぼくが愛・地球博で知っている情報は三つだけだ。「マンモスラボ」にマンモスのミイラ(冷凍マンモス)が展示してあること。アニメ映画の「となりのトトロ」にちなんだ「サツキとメイの家」があること。モリゾーとキッコロが公式のキャラクターであること。たったそれだけ。でも、いったいどのへんが自然の叡智なのだ? どれをとっても、それらをプロデュースしている人たちの機を見るに敏なるスマートさやたくましさには感心するけど‥‥。感じるのは、やっぱり自然よりも人間の知恵なのだな。

だけど、人間的な知恵を叡智と言うのは、じつはもっとヘンなのかもしれない。日本語で使う叡智という言葉の多くはヨーロッパ語の訳語なのだろうけど、近代以前の中世のヨーロッパでは「叡智」を「身体をもたない純粋な精神的存在」(天使みたいなもの)くらいの意味で使っていて、どう考えても人間には使えそうにない神々しい言葉だったからだ。まぁそんなむずかしいことを言わなくても、日々のニュースを見聞きして、「人間こそ叡智の持ち主なり!」となんのためらいもなく断言できる人はいくらもいないだろう。

人間に叡智がなさそうなら、あとは「地球」や「自然」といった人間よりも大きなものにはある、としか言いようがない。そういう意味では、人間の技術イケイケドンドンだった高度経済成長期の大阪万博のテーマ「人類の進歩と調和」が、今回の愛・地球博では、「人類の叡智」でなく「自然の叡智」となったのにも、それなりの理由があることがわかる。

テーマの意味はなんとなくわかったけど、それじゃ早速にでも見に行こうかという気分にはなれない。噂では、マンモスのミイラは動く歩道で1分ほどの見物で、じっくり観察するどころではないと聞く。「サツキとメイの家」は1日の入場者を限定した完全予約制で、入館引換券の争奪戦が行われているという。モリゾーやキッコロにいたっては、会場まで足を運ばなくてもテレビでも会えるし‥‥。それぞれ、それなりに魅力的だけど、なにか物足りなく感じてしまう。わざわざ出かけて、苦手な行列に並んでもなお感動を与えてくれそうななにかが、もうひと押し欲しいのだ。

あっ、もしかすると、会場では、愛・地球博限定のキャラとかがいて、モリゾーやキッコロと連れ立って仲良く歩いているかもしれない。売店には、オンラインショップでは購入できないような愛・地球博限定のレアなアイテムがひそかに売られているかもしれない。もちろん、ぼくが知らないようなパビリオンとか展示物もたくさんあるだろうし‥‥。

もしそうなら、けっきょく行かずに済ませて、限定キャラに会いそこね、レアアイテムは入手しそこね、貴重な展示物を見そこねて地団太を踏みながら悔し涙をポロポロ流している珍品大好き男に、いったい誰がなぐさめの言葉をかけてくれるというのか‥‥。つべこべ言わずに、とりあえず行っといたほうがいいのかな。行くべきか行かざるべきか――迷える哲学者に叡智のカケラもないことだけは、ほぼまちがいない。

by enzian | 2005-07-25 23:33 | ※どこぞに載せたもの | Trackback | Comments(43)

2nd Intermission

記事の更新を少しお休みさせていただきます。毎日たくさんの方にお越しいただき、コメントのやりとりも楽しくて仕方ない、という感じなのですが、続けるのがむずかしくなりました。突然ですが、自分のなかではしばらく考え続けていたことでもあり、潮時です。

お休みをいただく理由のひとつは健康上のものです。パソコンの仕事を長く続けると、後頭部のあたりが熱をもったようになって、頭痛がします。吐き気もするし、睡眠もままなりません。この症状は昨年ぐらいから出てきて、最初は視神経の疲れかと思っていたのですが、どうやらそうではないようです。もっと違うものなにかが影響しているようです。もうひとつは、先日、仕事上の事情によって今後、今以上に時間的な余裕がなくなることがわかったからです。

ページは削除しません。いただいたコメントはお返事させていただきますし、みなさんのページはこれまで通り拝見します。第二幕の終わりです。また、新しい記事でお会いできればいいのですが。

by enzian | 2005-07-16 20:15 | Trackback | Comments(95)

「絵本の哲学」

以前から「絵本の哲学」っていう授業をやってみたいと思っています。単発では何度かやったことがあるのですが、半期(半年)ぐらいの授業をやってみたいのです。どんな授業かというと、絵本(や児童文学)を使って深読みして遊ぶ、ただそれだけの授業。ある意味、単純な授業ですから、よいテキストがいくつか必要です。

これまで単発で使ったことがあるのは、有名どころの『100万回生きたねこ』などの佐野洋子のもの、これも有名どころの『ぼくを探しに』『ビッグ・オーとの出会い』『おおきな木』などのシルヴァスタインのもの(使いにくかった)。サン=テグジュペリ、ミヒャエル・エンデ、エドワード・ゴーリーのものなどです。

『100万回生きたねこ』のような作品はそうそうないにしても、絵本や児童文学書には言葉少なであったり、素朴な言葉であるがゆえにかえって読み手に考える余地を与える作品がたくさんあります。自分でもたまに町内の図書館に行って子どもたちと戯れながら、お母さん方には “あやしいおじさんではありませんよ光線” を出しながら、ひがな一日童話を読んだりしてはいるのですが、らちがあきません。そういうわけで、読者のみなさんにも、児童文学書や絵本で、印象に残った本とか、おもしろいと思った本があったら、教えていただきたいのです。

by enzian | 2005-07-16 11:50 | ※キャンパスで | Trackback(2) | Comments(29)

『花さき山』

b0037269_217517.jpg今日は絵本を紹介しましょう。斉藤隆介・作、滝平二郎・絵『花さき山』です。ライフログにも載せている、ぼくの大好きな絵本です。わずかな言葉になるストーリーを伝えしてしまうのは無粋というものですから、どういう点が好ましいのか、ぼんやりと書いておきましょう。

まず、この滝平二郎の版画。有名な『もちもちの木』『八郎』『三コ』『ベロ出しチョンマ』といった作品も手がけた方です。素朴な味わいの版画には、素朴さだけにはとどまらず、民の喜びや悲しみや苦しみが複雑に刻み込まれています。髪を振り乱した山姥、山姥に脅える少女、慈しみに満ちて赤子を抱く母‥‥描かれている女性を見るだけでも楽しい。祭りの版画からは、今にも、笛や太鼓の調べに乗って人々の喜びの声が聞こえてくるかのようです。

滝平の版画にぴたりと合ったストーリー(普通、ストーリーに合った版画って言いますよね)は斉藤隆介によるもの。上にあげた作品はすべて斉藤のものでもあります。斉藤の物語には、道徳的な教訓を伝えるかのようなものが多いのですが、この作品もまたその種のもの。一言で言えば、“おもいやりの裏面にあるストイックさ” がモチーフになっているのでしょう。ただ、『八郎』や『三コ』や『ベロ出しチョンマ』ほどは重くなく、もう少しささやかなものです。

残念ながら、ささやかなおもいやりとかストイックさが嘲笑の的となる時代になってしまいましたが、ぼくは斉藤や滝平の伝えようとするものが好きですね。きっと、ないものねだりなのでしょうって?あいあい、さようにござい。

by enzian | 2005-07-14 22:14 | ※好きな絵本(コミック) | Trackback | Comments(32)

人の話に異様にうなずく人

人の話に異様にうなずく人っていませんか?講演なんかを聞きにゆくと、かならず一人や二人、そういう人が陣取っているものです。普通、うなずくというのは、話し手の話の内容に共感するときにするものですが、そういう人は、「そこはうなずくところじゃないだろ!」というようなときも含めて、とにかくうなずき続けています。たぶん、話の内容に共感できるとかそういうこととは関係なしに、話が日本語として理解できればうなずく人たちなのでしょう。

こういう “うなずきさん” の発生頻度は、講師の性質によってあるていど予測することができるように思います。講師が学生のような若い人なら、発生頻度は低いのですが、講師が年配の方だと、発生頻度は高くなります。ぼくの経験では、講師が(ある意味で)宗教がかっているとき、発生頻度は飛躍的に高くなります。したがって、それなりの年齢の宗教系の方の講演ともなれば、講演会場のそこここでうなずきさんがうんうんしている状態になるわけです。

小学校のころ、とある新興宗教に入っていました。えらいさん(幹部)の講演をよく聞かされました。ぼくら下々のものは薄っぺらい座布団に座り、ぼくらの座布団の優に三倍の厚みがあるかというリッチなふかふか座布団にえらいさんが座るの待ちます。うなずきさんたちは固唾を呑んで待っています。えらいさんが座り、一言目を話し出すが早いか、うなずきさんたちはこれ以上深いうなずきはない、というくらい深~いうなずきを一斉にはじめるのでした。平和鳥(水のみ鳥)のように。

by enzian | 2005-07-12 21:43 | ※その他 | Trackback(1) | Comments(43)

どうしようもないことも、ある

運動会の競争で順位をつけない小学校があると聞いたことがある。詳しい事情は忘れたが、順位はつけず、走った全員に参加賞を渡すということであった。足の遅い子が傷つかないように、という配慮なのだろう。

学校がなにを学ぶ場であるのか、間違いなく言えるほどの自信はないが、そのなかには、努力して達成することの喜びだけでなく、努力してもいかんともしようのないことの確認も含まれているのではないか。どんなに勉強をしてもかなわない頭のいいヤツがいて、どんなに練習をしてもかなわない足の速いヤツがいて、どうしても負かされてしまう喧嘩の強いヤツがいること‥‥。自分の力で、自分の努力でなんとかできることは思いのほか多く、努力してもぎ取った果実の味は格別に甘いにしても、自分の力ではどうしようもないこともまたある。ときには負けることも甘受しなければならず、そのこと自体は決して恥ずべきことではない。生きるための工夫はそこからはじまるのだ。

町内の草刈に行った。ピチピチバッタ(ショウリョウバッタ)がピチピチと逃げ回っている。少年たちに手荒にいじりまわされ、バッタは死んだ。「動きよらへんようになったで」。少年たちは取り返しのつかないことをしたのだ、もう誰もバッタを再び動かすことはできない――そのようなことも、ある一定の時期に知っておかねばならないのだろう、過度に傷つかない程度に。

by enzian | 2005-07-10 11:25 | ※その他 | Trackback | Comments(55)

もしも願いが叶うなら

どんな願いでもひとつだけ叶えてもらえるなら、誰になにを頼もうか。
たぶん、頼む相手によって願いの深刻さも変わってくる。

「ハクション大魔王」(ふっる~)の魔王だったら、切実なことを頼む方がどうかしてる。
「魔王、バクバク食べてもぜったいにかぶれない完熟マンゴーを一盛ちょうだい。」

ドラえもんでも、重苦しいことは頼めそうにない。
「ねぇドラえも~ん、ぼくの書斎と波照間島のニシ浜(えもいわれぬ美しい砂浜で、
そこの砂はパウダーのようなにきめ細かい)をどこでもドアでつないでおくれよ。」

相手が「ドラゴンボール」のシェンロン(神龍)なら、それなりのことを頼めるか。
「おもしろおかしゅう暮らさせてください。」

シェンロンをもしのぐ権威は、ぼくにとっては、
「大魔王シャザーン」(知っている人なんているのかな?)に出てきたシャザーンかな。
いつも腕を組んでいて、なんでも「パパラパ~」って言って叶えてくれる。
なかなかニヒルでかっこよかったのだな。
シャザーンなら、なにを頼んでも聞き入れてくれそうだ。
「○○と、5秒でいいから会わせてください、そしてゴメンナサイと言わせてください。」

by enzian | 2005-07-08 20:37 | ※彼方への私信 | Trackback | Comments(36)

すっぴんは恥ずかしい?

なぜ “すっぴん” を恥ずかしがるのだろうか。よくある学生同士の会話。「今日はすっぴんで恥ずかしいから見んといて!」「えぇ、そうなん?かわいいやん」。どっかにお泊りに行く際にも、すっぴんであることをどう “こなすか”、が大問題になるらしい。「あらかじめ薄めにしておいたら、どうなん。」「そやな」。まことに、生きてゆくとは、大変なことのようなのだ。

ふだん化粧をしている人は、習慣になっているから、すっぴんになるのが恥ずかしいのだろうか。なかには、人前ですっぴんになることに恐怖を感じている人さえいる。いったん香水を使いはじめると、とるのが怖くなってどんどんエスカレートするのと同じか。化粧をすることがオブセッション(強迫観念)になっているのだ。化粧をとったとたんに地球外生物になるわけでもあるまいに。

誰の目を意識しているのだろうか。おしゃれでないことをとがめようとする同性の目?美しくないことをとがめようとする異性の目?常識に外れていることをとがめようとする世間一般の目?美しくない自分を許せないという自分の目もあるのか。

by enzian | 2005-07-08 00:43 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(42)

ほめるのは、むずかしい

しみじみ思います。
ほめるのはむずかしい。
叱るばかりではいけませんし、ほめるばかりでもいけない。
ほめるばかりだと、ほめられることだけを目的にしてしまって、
ほめられた者が自律的になれないとも言われます。

でも、ほめないわけにもいきません。
ほめることが大切なことはまちがいないのです。

見当違いのほめ方もいけません。
期待に応えようとして、かえってしんどい思いをさせてしまうからです。
できないことをほめられて、それに応えようと努力する‥‥悲劇です。

でも、見当違いのほめ方が、意外な才能を伸ばしたりすることもあります。
歴史上の偉人のなかにも、こういう人は多いのではないでしょうか。
「豚もおだてりゃ木に登る」ってやつでしょうか。
そこそこ無理をすれば花開く才能もあるからでしょう。

ほめることには、わずかなピント外れや “あそび” が許されるのでしょうか。
その「わずか」とはどのくらいの範囲なのでしょうか。
木に登った豚は幸せだったのでしょうか?
むずかしい。

by enzian | 2005-07-03 17:45 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(48)

バトンリレー嫌い

“Musical Baton” というのが流行ってますね。音楽だけじゃなく、ほかのジャンルのバトンもリレーされているようです。これからも種類が増えそうな勢いです。バトンリレーをしておられる方には大変申し訳ない言い方で、リレーをしておられる方を批判しようとする意図は100パーセントないのですが、ぼくはこういうバトンリレーがあまり好きじゃなく、やりたくない。親しくしていただいているブロガーの方からバトンがまわってきたらどうしようか、と内心ドキドキしてました。無碍に断るわけにもいかないし。なぜ好きになれないのか。いつものように四の五のいろいろ理由はあるのですが、いくつかあげましょう。

ひとつは、こういうものは、いろいろな意図に利用される可能性があるってことです。たとえば、“Musical Baton” の最初の企画者が音楽関係会社の販売企画部であったり、CDを販売しているような会社であったとしたらどうでしょうか。もうひとつは、バトンリレーには強制力があるということです。上にも書いたように、特に日本人はヤダと言えないタイプの人が多いでしょうし、親しい方からの願いを無碍に断れない人も多いでしょうから、バトンを渡された人は少々気乗りしなくても受けざるをえない。しかも、そういう気乗りしないバトンをほかの何人もの方に渡さねばならない。不幸の手紙は「不幸になるかもしれない」という恐怖心を煽ることで強制力になりますが、“Musical Baton” は「親しい方への礼儀に反するかもしれない」という恐怖心を煽ることで強制力になっている。

そしてもうひとつは、バトンリレーは、バトンリレーをしない人に疎外感を与えることがあるからです。“命のリレー” という言葉があります。この言葉にはいろいろな理解があるのですが、たとえば、自分の命がお父さんとお母さんからリレーされてきたものであり、お父さんとお母さんはそのまたお父さんとお母さんからリレーしてきたのだから、自分も、命というバトンを子どもに引き継がねばならない、といった考えです。これは、命はチーム全体のみんなのものだから自分勝手に扱ってはいけないということにもなり、自殺禁止論の理由のひとつになります。

自分に子どもがいないという理由からではありませんが、ぼくはこの “命のリレー” の考え方、好きではありません。はっきり言いましょう、大嫌いです。この考え方だと、結婚しない人、結婚しても子どもを作るつもりのない人、子どもを作りたくても作れない人は反チーム的・反社会的であるということになり、社会にとって重要でない人、生きている意味がない人、ということにさえなるからです。バトンリレーが与える、バトンリレーに加わらない人に対する疎外感――そういったものを感じたくないがゆえに、しぶしぶバトンリレーに加わる人もいるでしょう。疎外感を与えることも、強制力になっているのです。

みんながみんな楽しくリレーできるならいいのです。でも、そうでないなら、ぼくはそんな重た(くなるかもしれな)いバトン、持ちたくないし、持たせたくもない。

by enzian | 2005-07-02 20:23 | ※その他 | Trackback | Comments(39)