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『ぼくの ともだち おつきさま』(アンドレ・ダーハン)

b0037269_19514768.jpgフランスのイラストレーター、アンドレ・ダーハンの絵本です。学生に教えてもらって、一目で好きになりました。

温かい絵柄のなかに、人が出会いのときに感じる “うきうき” や “どきどき” や “はらはら” が詰まっています。読めばたちまち温かい気持ちになって、誰かと会って話したくなるでしょう。

参考: アンドレ・ダーハンHP

by enzian | 2005-08-30 19:55 | ※好きな絵本(コミック) | Trackback(1) | Comments(27)

なぜ大阪のおばちゃんは豹柄にスパッツなのか?

なぜ大阪のおばちゃんには豹柄の上着とスパッツ(スパッツって言うんですよね?)の組み合わせが多いのだろうか(そんなの偏見だって?シャラップ、多いという前提で話を進めるのだ)。スパッツについては、はきやすいからという、実利を重視する大阪人の性質によるものでしょうから、今日は豹柄の理由についてかる~く考えることにしましょう。

1.タイガース文化圏だから
これはまず考えられることでしょう。縦縞(たてじま)と格子柄(?)の違いはあるにしても、黄色と黒の配色は伝統的な阪神タイガースカラーなんですね。この文化圏で、このカラーで歩いて気分を害することはまずないでしょう。ちなみに、ジャイアンツカラー(オレンジと黒)にジャビット君の顔のついた服なんかで大阪の商店街を歩くのは、よした方がいいでしょう。

2.ワイルドだから
豹には、ワイルドな感じがあるんじゃないでしょうか。そういう意味では虎以上かもしれません。統制されていないもの、制御するのがむずかしいという意味では、反権力的であることのアピールにもなりますね。総じて大阪人にとって、権力の集中する東京は目の上のたんこぶなのです(意味不明)。ジャイアンツ=東京の象徴なんですね、たぶん。

3.危険な色だから
黄色と黒の組み合わせは注意すべきもの、危険を知らせるために使われる色です。たしかに、大阪のおばちゃんと接する場合にはそれなりの心得が必要です。ボケにはツッコミが必要ですし、話の終わりにはオチが必要です。

4.目立つから
危険を知らせるために使われるというのは、黄色と黒の組み合わせが目立つからでしょう(この場合の豹柄はくすんだ色のものはダメですね)。ここに2や3な人がいますよ~というアピールとして役立ちます。こういう色合いが接近して来たら、いくつかボケを用意しましょう。

5.車に轢かれにくいから
4の系統です。説明は略。

6.ゴージャスに見えるから
昔の映画なんかを見ていると、リッパなお屋敷のリッパなお部屋には、豹の毛皮の敷物と、シャムネコを膝に乗っけてブランデーグラス傾けているバスローブ(?)姿のおっさんがつきものですもんね。

7.売っているから
単純ですが、売ってるから買うんじゃないでしょうか。「売ってるから買う⇔買う人がいるから売る」という構造なんでしょう。でも、これはファッショナブルなおばちゃんたちの選択肢を狭める結果となっているのかもしれません。

ほかにも理由があるのでしょうけど、ぼくが思いついたのはこれぐらいです。なんせ、生粋の江戸っ子で関西に行ったのは修学旅行のときぐらいなものですから、大阪のことはよくわかんないんですよね*。


*私はべたべたの関西人です。

by enzian | 2005-08-27 21:49 | ※街を歩く | Trackback | Comments(34)

武器に憧れる頃

警官の銃を強奪しようとした少年がいた。前にも似たような事件があったと記憶している。銃を強奪しようとするのはもちろん行き過ぎであるにしても、少年(男性の)には、あぶなっかしい武器的なものに憧れる時期があるのかもしれない(女性のことはわからない)。

ぼくにはあった。五寸釘を拾ってきて、それを金槌でコンコンと叩き、刃物のようなものを拵(こしら)えていた。物を突き刺したり切ったりすることのできる “なにか鋭いもの” に憧れていた。それは、少年たちがカブト虫やクワガタを「カッコイイ」と思っていた時期でもあった。「カッコイイ」には、鋭いものへの憧れが含まれていた。角もハサミももたないカブト虫のメスには、誰も見向きもしなかった。

鋭い危なっかしいものに憧れることが、象徴的に性の目覚めを意味するのか、親への反抗を意味するのか、逆に、危なっかしいものを扱うことが許される大人への憧れを意味するのか、それとも、死への(近接の)憧れを意味するのか、はわからない。だが、たしかにそういう時期はあった。問題は、そういう時期をうまくやり過ごせる人とそうでない人がいることなのだろう。

by enzian | 2005-08-25 20:43 | ※山河追想 | Trackback | Comments(20)

「アウシュビッツ」

NHKで放送された5回シリーズのドキュメント「アウシュビッツ」(制作は、アメリカとイギリス)を見た。フランクルの『夜と霧』やアーレントの『イェルサレムのアイヒマン』を読んでも理解できなかった空白のいくつかが埋まった。

アウシュビッツ収容所で働いていたナチス親衛隊員7000人のうち、虐殺に加担した容疑で裁判にかけられた者は800人(有罪の判決を受けた者はさらに少なくなる)。推定死者130万人にたいする800人とはいかにも少ないが、その程度だろうとも思った。虐殺に直接にかかわった者は「人を殺すことに違和感を感じなくなっていた」と言い、その他の者は「虐殺が行われていたグループの一員だっただけで、直接には殺害のプロセスにかかわらなかった」と弁明した。

人を殺す複数のシステムの攻防のなかで、人を殺すことに直接的に加担する者と間接的にしか加担しない者があるとすれば、人を殺し続けることによって前者の罪悪感を麻痺させ、システム(全体)に埋没させることによって後者に罪悪感をそもそも抱かせないこと、これが戦争が戦争加担者に授ける “恩恵” なのであろう。

by enzian | 2005-08-23 21:40 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(18)

見る阿呆の言い分

今日は地域の夏祭りだった。とり憑かれたようにマツケンサンバを踊る人たちを、異星人を見るような目でぼんやりと眺める。人前で我を忘れて踊るなんて、恥ずかしがり屋の自分には考えられないことなのだ。「同じ阿保なら踊らないと損だ」という理屈はきっと生涯わからないだろう、というか、わかろうという気がない。

それにしても、みんな楽しそうだ。テレビで見た、阿波踊りを踊る三○○邦彦も楽しそうだった。リオのカーニバルでサンバを踊っているブラジル人たちも楽しそうだった。どこの国でも踊りはあるだろうし、おそらく人間の始まり以来、踊りはあったのだろう。それほど踊りとは好ましいものなのだ。

なにがそんなに好ましいのだろうか。エクスタシー(自分を抜け出ること)は理由の一つかもしれない。踊りには、狭い自分を抜け出して自分以外のものと一体化するという要素があるのだ。我を忘れることは一種のエクスタシーであり、憑依(ひょうい)は自分以外のものとの一体化の一例なのだ。そして、それだからこそ、ぼくは踊らない。ぼくには自分を忘れる必要なんかない、と思いたいのだ(強引な結論ですな)。

by enzian | 2005-08-21 00:00 | ※その他 | Trackback | Comments(34)

やさしい心の持主

夜、とある人からメールをもらう。自宅に入ってきたコウモリを出そうと奮闘しているという。どうやったら捕まえられるか?なんて聞いている。生き物に詳しいと思われているのだ。けっきょく、朝まで一睡もせずに奮闘して、やっと捕まえることができたらしい。「ようやくコウモリを外へ逃がしてあげることができました‥‥虫とり網があればもっと早く逃がしてあげられたのに、と思います」。気味悪くて追い出そうとしていたのではなかったのか‥‥。吉野弘の「夕焼け」の一節が思い浮かんだ。

  やさしい心の持主は 
  いつでもどこでも
  われにもあらず受難者となる。
  何故って
  やさしい心の持主は
  他人のつらさを自分のつらさのように
  感じるから。

受難者の代わりになることはできないが、せめて、そのやさしさを伝えてあげよう。

by enzian | 2005-08-18 00:15 | ※彼方への私信 | Trackback | Comments(12)

『夕凪の街 桜の国』(こうの史代)

b0037269_20213858.jpgこうの史代『夕凪の街 桜の国』を読む。原爆が人々にどのような影響を与えるかを描いたコミックとして、長く残るすぐれた作品であると感じた。

構成は「夕凪の街」と「桜の国」(一)(二)から成る。「夕凪の街」は原爆投下10年後、「桜の国」はさらに後の設定となっており、この時期設定が『夕凪の街 桜の国』を特徴づけている。『はだしのゲン』が、原爆投下直後の状況、原爆が瞬間的・短期的にどのような影響を人々に与えるかに目を配った作品であったとすれば、本書は、原爆が長期的に、いかに生き残った人の心(いや、「魂」と言った方がよいかもしれない)と体を徐々に蝕んでゆくかを描き出そうとした作品なのだ。

原爆投下直後の目を背けたくなるような描写はほとんどなく、むしろ、こうの史代の描く町並みや人々は、どこまでも柔らかく、やさしい。だが、それがそのままこの書の印象となることを読者は望めない。やさしく柔らかなものが長い年月のなかで一枚一枚薄皮を剥ぎ取られるように消耗し、やがて消え去ってゆくさまを読者は目の当たりにしなければならない。そして、そのような経過が今も進行しつつあることを知らねばならない。

by enzian | 2005-08-15 20:32 | ※好きな絵本(コミック) | Trackback | Comments(19)

過去と向き合う

過去の事実が自分のなかでひとつの物語になること、それが過去の事実と向き合ったということなのだろうか。その事実が生じた因果関係を丹念に分析し、因果関係のなかでの自分の位置を繰り返し確認し、そうした因果関係を今後の生において――実際に活かせるかどうかはわからないとしても――活かそうとする方向性が生じること、それが過去の事実が物語となったことなのだろうか。

日航機が御巣鷹山に墜落して、20年の歳月が流れた。節目の年でもあり、今年は過去最多の遺族が急峻を登ったらしい。坂本九さんのお子さんは、今年はじめて御巣鷹山に登ったという。

人の心の働きは対象が消えても、すぐになくなるわけではない。余熱をもって、働きは持続する。人の想いとは、切ない、断ちがたいものなのだ。突如として消え去った者への行き場のない想いであれば、なおさらのことだろう。物語が編み上げられるまでの長い年月を想う。

by enzian | 2005-08-13 00:00 | ※その他 | Trackback | Comments(36)

少年とカエル

『わたしのいもうと』の「作者あとがき」で、松谷みよ子は言う。

ある時、私もいじめにあっている。その時のつらさは、地獄の底をはうようであった。イソップのカエルのように、「お願いだから石を投げないで。あなたたちは遊びでも、私には命の問題だから」と、なんど心でさけんだだろう。

松谷みよ子が引用しているのは、イソップ寓話にある少年とカエルの話だ。少年たちは池で遊ぶカエルを見つけて、石を投げつける――

立場が違えば、ほんの遊びのつもりでしたことも、相手にとっては存在そのものを揺るがす問題になることもある。権力者の遊びであればなおさらだろう。ふだんは意識しなくても、学生との会話のなかで不意に自分が権力をもった者であることを思い知らされることがある。

by enzian | 2005-08-11 21:53 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(2)

変化球は卑怯なのか?

日本の野球を見ていると、不思議に感じるときがある。ピッチャー何某とバッター何某の名勝負とやらがあって、そういうときには、なぜかピッチャーがストレートだけで勝負するのだ。名勝負が終わって、試合後のインタビューなんかを聞くと、ピッチャー曰く「全部ストレートでした。打たれましたが、いい気分です」。バッター曰く「試合前から、ストレートとフルスイングで勝負しようって言ってたんです。その通り、全部ストレートで勝負してくれたので打てました」。そんな調子。

投げるボールが全部ストレートだとわかってたら、たいていバッターは打てるんじゃないの?だとしたら、オールスターゲームならまだしも、公式戦なら、これってかる~い談合じゃないのだろうか?どういうわけか、日本の “野球道” のなかには変化球というのが卑怯系のボールで、正統派はストレートで勝負すべし、なんて了解があるようで、なぜそうなるのか理解に苦しむ。アメリカのMLBでは、こんな正統派のボールを投げるピッチャーなんて、ほとんどいないだろう。

ともかく真正面から、まっすぐ進んで、ぶつかっていく。その一辺倒。そこには配慮もなければ、根回しもない。常日頃、裏と表を使い分ける習慣の裏返しなのかもしれないが、「いつも直球勝負!」をモットーとしているぼくでさえ、野球に限らず、どうもこの辺りの “直線的な精神” には少しばかり違和感を覚えてしまうのだ。

by enzian | 2005-08-09 21:32 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(0)