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人間を信用しない目

人間を信用しない目に出会うときがある。じっと目を見つめ、話しかける。「ぼくの言ってること、わかる?」「(うなずきながら弱々しく)‥‥はい」。うなずくこと自体がウソである、と目が語っているのだ。人間を疑い、内心で嘲笑する。ウソの鎧(よろい)をまとい、もはや人間には何事も期待しはしないという決意に満ちた目。集中力を高め、その目の奥に、これまで起こった出来事の歴史を一瞬のうちに読み取ろうとする。もちろん、なにも見えない。それっきり会えなくなる人も、ある。

by enzian | 2005-09-30 08:35 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(20)

困った相談

相談をよく受ける。相談にもいろんなタイプがあって、的確なアドバイスを求めて来るものもあれば、自分のなかに答えがはっきりあってそれを見つけ出して認めて欲しくてやって来るもの、「ただ、そうかそうかと聞いてくれればいい」というのもある。

思わず白旗を振って降参したくなるような相談もある。恋愛の相談だ。もっとはっきり言えば、ちょっと困った男――誰が聞いても明らかに公序良俗から外れるような――と交際している女性の相談だ。このタイプの相談者がアドバイスを求めることはない。答えはすでに決まっていて、「別れたら」の一言は、言うだけ無駄なのだ。なんの策もなく、延々、話を聞かされ続けることになる。話を聞いてもらった相談者は気分爽快になって、ちょっと困った男のもとにイソイソと戻り、破滅的な交際を続ける。

この場合、ぼくは、いわば破滅的な交際を影で支える功労者というわけなのだ。“悪を見て抑制できない者” が悪なら、“悪を見て抑制できない者を見て抑制できない者” もまた悪になるのだろうか?

by enzian | 2005-09-27 20:05 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(19)

『ぼくは くまのままで いたかったのに……』(イエルク・シュタイナー)

b0037269_20105248.jpg『ぼくはくまのままでいたかったのに』 「枕中洞」さんの記事へのTBです。

冬が来て、森のほら穴で冬眠したクマ。クマが目覚めたのは、なぜか工場の敷地のなか、しかも、工場の人間たちは、誰もクマをクマとして認めてくれません。クマは、ひげも剃らないような薄汚い怠け者の “人間” として、工場で働かされるのでした‥‥

カフカの『変身』を思わせるようなシュール(不条理と言った方がいいかな)な絵本です。読めばやりきれない思いが残って、読んだ方がよかったのか、読まない方がよかったのかと考え込むことでしょう。そういう意味で、子ども向きではありませんし(「5歳から」となっていますが‥‥)、よほどの酔狂な方以外は大人向きでもない。だったら、なにがよいのかって?読んだ者を考え込ませるというのは、その本のもっている力でしょうから‥‥それだけではダメ?もうひとつは、人間には自然を自然として見る目がない、もっと言えば、人間があるものをあるもののままで見ていないことをうまく風刺していることでしょう。

工場で働かされる前、クマは人事課長やら副工場長やら工場長やら社長の “面接” を受けますが、誰も彼をクマとは認めず、お前は人間だ、と言います。社長にいたっては、クマを動物園やサーカスのクマのところへ連れて行って、これこそが本物のクマでお前はクマではない、と言い出す始末。一方で、工場長やら社長らの部屋には自然を写した絵画や写真のようなものが貼られており、社長の部屋には窓ガラス越しに美しい自然の大パノラマが拡がっている。彼らは自然を楽しんでいるつもりなのかもしれませんが、檻やら額縁やら窓枠といった彼らのものの見方のなかに入った自然を見ているにすぎないんですよね。

もちろん、人間にはせいぜいのところそういう限定された自然の見方しかできないのかもしれないけど、それが自然そのままではないのかもしれない、という疑問は露ほども抱いていない。檻に入ったクマや額縁に入った森の絵や美しい島の写真、窓枠越しに見える風景だけが自然の姿であると思っている。そしてそういう見方をこのクマにも強要するわけです。お前は俺から見てクマではない、ゆえにお前はクマではない、と。クマと一緒に働く労働者たちも、クマがクマであるなんて、少しも思っていない。

モリゾーとキッコロは惜しまれつつ森へ帰りましたが、人間として工場労働者となったクマは、やがてその仕事ぶりの至らなさから解雇されます。季節はもう冬。工場を出て、とぼとぼと歩き続けてたどり着いた森のほら穴を前にし、クマは考えます。「なにかだいじなことをわすれてしまったらしいな、とくまは思った。はてなんだろう?」クマが忘れた大事なこととはなんであったのでしょう?それは、しばらくのあいだ “人間” となったことで、失ってしまっていた、クマ本来の、自然の、ものの見方だったのでしょうか?読者は考えることを強いられるでしょう。

by enzian | 2005-09-25 20:14 | ※好きな絵本(コミック) | Trackback(1) | Comments(35)

共感覚

文字(アルファベット、数字、漢字、ひらがな‥‥)や人を色付きで見たり、色を音で聞いたりするような人はいませんか?「共感覚」(synaesthesia)という言葉があります。一つの感覚刺激に対して同時に複数の別の感覚が反応することで、特定の視覚に別の視覚が伴う人、音を見る人、味を感触する人‥‥無限のパターンがあります。ちょっと例を挙げてみます。

ABCDEFGHI
JKLMNOPQRSTUVWXYZ

1234567891011

boy girl people book child

ドイツ アメリカ

○赤=ファ♯ 青=なし 黄=レ 黒=シ♭ 薄めのオレンジ=ラ
くすんだオレンジ=ファ 黒=ド♯ ピンク=ミ 水色=ソ

上に挙げたのは、ぼくの知っている人(Aさん)がぼくに教えてくれたものを再現したものです(透明の部分は白、24色の色鉛筆を使って表現してもらったもので、正確に表現するには限界があった)。Aさんにとっては、アルファベットにはすべてあらかじめこうした色がついているとのことです。同じように、アルファベットで構成された単語にも(アルファベットの順序組み合わせによって色は変わる)、数字にも、漢字やひらがなにも色があるということでした。また、例えば、特定の人、山田太郎という人がいるとすると、山田太郎という漢字特有の色とともに、実際の山田太郎を見た場合に見える色にも特有の色があるとのことでした。くわえて、それぞれの色には音があるとのことでした。赤はファ♯、黄はレといった、つまりAさんは色を聞いているわけです。

もちろん、アルファベットや単語には、それぞの経験によってイメージがついてまわる可能性がありますから、このようなことはある程度、起こりうるわけですが、Aさんの場合は単なる経験的なイメージとはレベルが違うのではないかと思わせるものがありました。それは以下のようなものです。

1.上には表現できなかったが、色や音のイメージが極めて詳細かつ具体的であって、単なるイメージというより、今そこに見て、聞いているとしか思えないような表現をしたこと。

2.そのようなイメージは本人の経験や意志とは関係なしに生じているように思わせるものがあり、本人には変更のしようのないものだと思えたこと。

3.非常に多くの(上記のような基礎的なものだけでなくAさんのこれまで出会ったことのような単語を含む)単語を恣意的に例に挙げ、その色をメモした上で、時間を置いて再び聞いても、その色にまったく狂いはなかったこと。

次いで、以下の文章は、Aさんとはまったく無関係な、Bさんの文章です。

「山吹色のぎふはとっても綺麗な場所で、ここで生まれてよかったなぁ
なんて夕方の風景を見たりして思うんだけど、
‥‥早くピンクのさいたまに帰りたいんだよ。
‥‥1年半後には緑のとうきょうへ移住しなければいけない。
黄緑のきょうとにしておけばよかったなんてそう思うこともたまにあるけど、
やっぱりピンクでよかったよ。ピンク好きだし。」

「不安な気持ちが強くて何かどうしようもない時は、
頭の右上から黒いのがじわじわ来るような気がします。」

「お腹のそこのほうが締め付けられる感じ。
のどのあたりが苦しくなる。
青色のものが下の方からじわじわ頭の方までやってきて
そのせいで目から涙がこぼれる。
あえて言葉にするのなら。
これが寂しいってことかなぁ。」

AさんとBさんが共感覚者であるかどうかは、素人の(共感覚を判定するプロなんて日本にはいない)ぼくには断定できません。でも、共感覚者の割合は一説では10万人に1人程度だと言われますが、実際にはもっと多いはずです。なぜなら、ほとんどの共感覚者は、自分の感覚の仕方が特別であるとは感じていないだろうからです。ほかの人も自分と同じだと信じているわけです。共感覚者のなかには、共感覚者でない人(多数派)の感覚にしたがって作られた社会システムに違和感を感じる方もあるかもしれませんが、非凡な才能だと思います。心当たりのある方、おられませんか?

(参考)
■共感覚を自分の体験として分析して書いている方(Ryさん)の記事です。ぼくの記事よりもはるかに実感がこもっていて、参考になると思います。
共感覚-私を形成するもの- (←総論的な内容となっているので、まずこれを。)
共感覚-他人からの理解-
共感覚-弊害-
共感覚-他者の感覚-

■ぼくが書いた他の参考記事
アルファベットを色つきで見る人
共感覚2

by enzian | 2005-09-23 20:12 | ※共感覚 | Trackback(1) | Comments(165)

あおる僧侶

2台の車が猛烈なカーチェイスをしている‥‥と見れば、後ろの車が前の車を猛烈にあおっているのだった。ここまでならよくある話だが、後ろの車の運転手を見て驚いた。袈裟を着た僧侶だったのだ。

このような行為における僧侶の狙いは一体なんであるのか?三つ考えた。推測1.犯罪者を追いかけている。推測2.急ぎの法事に間に合おうとしている。推測3.‥‥ひ・み・つ。

by enzian | 2005-09-22 21:09 | ※街を歩く | Trackback | Comments(24)

彼岸花の赤さ

b0037269_18503920.jpgメールをもらう。この時期になると彼岸花が突然咲き始めることを不思議に思っているらしい。たしかにそうだ。それまでなんの存在感もなかったものが、彼岸の前後、わずかな期間だけ、その存在感を目一杯に主張する。

彼岸花は好きではない。そばに寄って、触れたいとも思わない。いかにも花です、といった派手な花はもともと好きではないが、彼岸花が好きになれないのには、幼児体験が影響している。おぼろげな記憶だが、ある日ある時、「彼岸花の色が赤いのは死人の血を吸っているからだ」と告げた人があったのだ。たしかに、そのとき彼岸花が美しく咲き誇っていたのは、死人を埋めた盛り土の傍らであった。

もちろん、それは、毒を含む彼岸花へ子どもを近づけないための作り話であったか、あるいは、大人のたわむれであったのだろう。だがほんのたわむれであったとしても、子どもの心に強く、長く、影響を与える言葉がある。

by enzian | 2005-09-18 21:06 | ※山河追想 | Trackback(2) | Comments(64)

ワンコの心理

近所で飼われている犬に、一匹カワイイのがいる(メス)。ふだんは情けなく寝そべるばかりで、うんともすんとも鳴かないのだが、勤めに出ている奥さんが自宅におられるときだけ、クーンクーンと鳴くのだ。奥さんが出かけられるときと、出かけた奥さんが家に戻られたときの喜びようはものすごい。戻られたときなど、数年待った洋行帰り(死語!)の恋人を迎えるいたいけな少女のようにも思えて、ほほえましくなる。

いたいけなワンコではあるけど、ものすごく凶暴になる瞬間もある。奥さんが自宅におられて、しかも自宅の前をほかの犬が歩いているのを見つけた場合だ。このときばかりは、いたいけワンコも猛獣になってガンガン吼えて、暴れている。

これを見て、ぼくはいつも考える。奥さんがおられるときだけ、なぜ、ヤツは勇ましいのか?

仮説1.ボス(奥さん)がいると気が大きくなる。
仮説2.ボス(奥さん)に自分の強さを見せようとしている。
仮説3.ボス(奥さん)に「ダメダメ」と叱って欲しい。
仮説4.ボス(奥さん)を守ろうとやっきになっている。

仮説1と2はけっこう似通っているかもしれない。彼女連れのカンチガイ彼氏のなかにはこういう類の方がおられますな。近づかないのが身のためです、クワバラクワバラ。仮説4は、カンチガイ彼氏にもいますが、一般的には子連れのメス熊の心理です。仮説1および2との違いは、仮説1および2では、大切さという意味において「自分(彼氏)>彼女」であるのに対して、仮説4では、「自分(彼氏、メス熊)<彼女(子熊)」となっている。こういうカップルに運悪く出遭ったら、死んだフリをしましょう。仮説3は甘えん坊さんの心理ですね。これも彼氏のなかにいるか‥‥。「いたいけなワンコの心理≒カンチガイ彼氏の心理」と言えば、ワンコに失礼か。

by enzian | 2005-09-17 18:37 | ※その他 | Trackback | Comments(14)

処分するという責任

ついにピラニアが琵琶湖で捕獲されたらしい。悪食の外来魚だらけになった湖にいよいよ真打の登場というわけである。よもやピラニアが日本の冬を越すことはないだろうが、それでも釈然としない思いが残った。観賞用の魚が逃げ出したというのなら、仕方ないとまでは言わないにしても、目をつぶろう。だけど、もしそれが飼い切れなくなって、処分に困って――というか、殺してしまうのがかわいそうで――捨てたというのなら、わが愛する琵琶湖のことでもあり、一言二言、言いたくもなる。

ペットショップの住人たちに飼い主を選ぶ権利はない。ただ選ばれるがままだ。飼われる側にはなんの権利もなく、すべての権限は飼う側にある。だが、かといって、飼う側にはなにも負うものがないということにはならない。なんの落ち度もなく飼われるに至った者をせめてやさしく飼い続け、いよいよ飼い続けられなくなったときには処分するという責任がある。処分することのなかには殺すことが含まれるが、生きたまま放置することは含まれない。

これを身勝手な理屈だと言える人がいるなら、その人には、そもそも生き物を飼うということ自体が一種の身勝手であるという意識がそっくり抜け落ちている。むしろ、かつて自分が身勝手な選択を行ったという負い目、それもまた命を育むやさしさに繋がるのではないか。(わかりにくい文章で、ゴメンナサイ!)

by enzian | 2005-09-15 22:24 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(14)

瑠璃色の私

また、いやな時期がやってきた。すでに数日前から顔色が悪くなってきてブルーになっている。明日から3日間にわたる卒論の中間発表合宿がはじまってしまうのだ。原稿の提出締め切りは明日の10時。毎年毎年、この提出時間をめぐって、なんとかして出さずに済まそうとする勢力とのギリギリの攻防が繰り広げられる。今年も、すでにさまざまな、すさまじい理由を告げるメールが舞い込みはじめている‥‥

学問的な能力のなさを見るのがイヤなのではない。言い訳を聞かされるのがイヤなのだ。いや違う。天候や、クラブや、自転者や、運転手や、目覚まし時計や、プリンターや、パソコンやらに平気で責任転嫁をする人間を見るのがイヤなのだ。いや、それも違う。指導してきた学生の醜態を見て、自分の指導能力のなさを目の当たりにするのがイヤなのだ。いや、それも違う。他人の心を自由に制御できると考えている自分の大甘な了見に気づいてまともに傷つくのがイヤなのだ、たぶんそうに違いない。ぐちってしまった‥‥

by enzian | 2005-09-11 21:07 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(42)

『ともだちがほしかったこいぬ』(奈良美智)

b0037269_2015070.jpg怖がられてしまいそうなので、まだシュールなものは紹介しません。カワイラシ系です。奈良美智の絵本です。奈良美智については、ぼくより読者の皆さんの方が詳しいでしょう。登場人物(?)は「おんなのこ」と大きな「こいぬ」。一人と一匹の友情のお話です。『ぼくの ともだち おつきさま』も、友だちとの出会いのお話でしたね。

この絵本からぼくがおもしろく読み取ったのは、次のようなことです。一つ目。すぐそばにあるのに、大きすぎて見えないものがある、ということ。小さすぎて見えないというのはよくある話ですが、大きすぎて見えないものもあるんですね。

二つ目。見えないものを見るためには、偏見のない心と勇気が必要だということ(『星の王子さま』みたいになってきたぞ)。こいぬは幸いでした。まっすぐな心と勇気をもったおんなのこが自分を見つけてくれたのですから。

by enzian | 2005-09-09 20:05 | ※好きな絵本(コミック) | Trackback | Comments(10)