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お人形さんのようにかわいい

電車のなか、四人の親子に出会う。お父さんアメリカ人、お母さん日本人、そして、三歳と四歳の姉妹(すべて、当方の推測)。娘たちは、おめかしして、ちょっとしたドレスのようなものを着せてもらっている。子どもがやたらと好きだというタイプではないが、自然と「お人形さんのようにかわいいなぁ」と思う。自分の気持ちにちょっとホッとする。

でも、「人形のようにかわいい‥‥」と感じるのには、違和感もある。もともと人間に似せて作ったはずのものに人間が似ている、と言って喜んでいるようなものだからだ。もともとなにかの意味で人間をモデルとして作ったはずのものが、いつしか途方もなく独り歩きして、それに似ていることを人間が誇るようなものになり、場合によっては、それに似ていることを迫ってきたり、似ていないことを罰したりする怪物のようなものとなることは、よくある。

by enzian | 2005-10-29 22:05 | ※通勤途中 | Trackback | Comments(28)

砂浜でコロンコロン

車窓から砂浜が見えて、おもわず途中下車する。靴に砂を入れながら砂浜をえんえん歩く。もういいだろう。靴を脱いでパタンと倒れ、コロンコロンする。貝殻混じりの砂をいじいじ、さらさらする*。疲れ果てると、地面に身体(からだ)をあずけたくなって、地面にある草や土や砂に触れたくなるのだ。しばらくコロンコロンして、いじいじさらさらして、ぼーっとしていたら、ちょっとだけ元気になったような気がした。地面もエネルギー源なんだな。

*そんなことをする理由については、以下の記事を、ご参照ください(^^)

by enzian | 2005-10-28 20:24 | ※自然のなかで | Trackback | Comments(45)

「美しい」とはどういうことか?

「美しい」というのはどんな気持ちなのでしょうか?例えば、秋の紅葉を美しいと感じる場合、その “美しいという感じ” とはどのような感じなのでしょうか?それは焼き芋やおでんが “美味しい” とか、好みの彼氏や彼女を “いっただきま~すの感じ” とはどう違うのでしょうか?

紅葉だけが美しいわけではありません。小さな野の花も、バラも、青空も、山並みも、夕焼けも、人の容貌も美しい。人の体のラインを美しいと言う人もいるし、文章や音色を美しいと言う人もいる。これらの “美しいという感じ” はみな同じなのでしょうか。

この “美しいという感じ” がどのような心の状態なのか、逆に言えば、どのような心の感じのとき人は “美しい” と表現するのか、説明できる方がおられたら、教えてくらはい。これを “ずっぎゃーん” という効果音で表現した人もいますが‥‥。美(とか愛)については極力、敬して遠ざけることを心がけてきたのですが、もうすぐ高校生に説明しなけりゃならない、アワワ。

by enzian | 2005-10-21 23:11 | ※その他 | Trackback(2) | Comments(91)

「まんが日本昔ばなし」

うれしいことがひとつある。明日から、かつてTBS系で1975年1月7日から1994年9月24日まで放送された「まんが日本昔ばなし」の再放送がはじまるのだ。そこでとりあげられた話のいくつかが成長期のぼくに強い影響を与えたことを思えば、個人的には感慨深い。

さすがに20年近くにわたって放送されたものすべてが再放送されるわけではないのだろう。どの話がピックアップされるのかはわからないが、望むらくは、有名どころの「‥‥ったとさ。めでたし、めでたし」なんてハッピーエンドパターンだけじゃなくて、さしてメジャーでもない、どうしてくれるのだ、この終わり方、この不条理、涙ジョーといった話もぜひ放送して欲しいものだ。天邪鬼のぼくの人格形成に影響を与えたのは、どちらかと言えば後者であったから。

by enzian | 2005-10-18 22:30 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(32)

『ずーっと ずっと だいすきだよ』(ハンス・ウィルヘルム)

b0037269_2395100.jpg学生にすすめられた絵本、ハンス・ウィルヘルム『ずーっと ずっと だいすきだよ』を読む。よい絵本だ。少年と犬(エルフィー)、そして少年の家族の話。最初は子犬だったエルフィーも、少年が大きくなるに連れて年老いてゆき、ついにある朝、死んでしまう。エルフィーを庭先に埋めながら、家族たちは悲しむが、少年はこうも思う。

にいさんやいもうとも、エルフィーがすきだった。でも、すきっていってやらなかった。ぼくだって、かなしくてたまらなかったけど、いくらか、きもちがらくだった。だってまいばんエルフィーに、「ずーっと、だいすきだよ」(I'll always love you)っていってやっていたからね。

この本最高の盛り上がりの場面にもかかわらず、すかさず、つっこみを入れてしまう。「思っていても『ずーっと大好き』だなんて、そんな無責任なこと言えるかってんだ!そんなヤワなことだから、思っていなくても『好き』を連発するようなヤツにひっかかるんだよ」。おじさん、いったい、誰に向ってつっこみを入れてるんだい?

by enzian | 2005-10-15 23:22 | ※好きな絵本(コミック) | Trackback(1) | Comments(39)

子どものプライドと親の誤算

子どもには子どもの世界があります。その世界で自分がうまく生きているはずだという誇りがあり、プライドがあります。学校に通っている子どもには、自分は学校生活を首尾よくこなせているというプライドがあります。授業についてゆけず困っているとか、友だちとうまくゆかずにいじめられているとかは、できれば親に知られたくないことであり、秘密にしておきたいことなのです。

学生の親からの問い合わせが多くなってきました。「うちの子は勉強してますか?」といった内容ではなく、「なぜうちの子が不合格になるのか?不合格を取り消せ!」といった高圧的なものですから、問い合わせよりも “脅迫” と言うべき内容のものです。

こうした “問い合わせ” をしてくる親には特徴があります。我が子のことは誰よりよく知っていると思い込んで、自分の知識にいささかの疑いももっていないことです。最後の砦である大切な人であるからこそ、見捨てられないためにはありのままを知らせることはできず、自分を守るためにウソをつかざるをえない、という子どもの――もちろん、子どもに限られるわけではない――心理への想像力を欠いていることです。

“問い合わせ” をしてくる親は、自分の行動が我が子を守るために必要なものであることを信じているのでしょう。麗しい親子愛と手放しで賞賛したいところですが、あにはからんや、子どもの言葉をなんでもかんでも鵜呑みにすることは、ときに子どもを見殺しにすることにもなるのであって、事実そうなってしまった後だったのです。

by enzian | 2005-10-14 13:49 | ※キャンパスで | Trackback(1) | Comments(29)

『となりのトトロ』と『スタンド・バイ・ミー』

映画館のない町に育ったせいか(今もない)、映画を見(観)に行くという習慣がありません。レンタルビデオ屋さえ近所にない田舎在住ゆえ、映画を見るとすれば、テレビで放送されるものだけ、ということになります。しかも、放送されれば必ず見るかというと、そうでもありません。録画すると安心してしまうようで、何年も前のお正月映画たちが誰に見られることもなくじっと鎮座しているというありさまです。

そんなテイタラクですから映画についてあれこれ言うのはおこがましいにもほどがあるのですが、放送されれば必ず見ようとする大好きな映画もあります。例えば、『となりのトトロ』もそうです。おもしろい!と思うことに四の五の理由をつける必要などないのですが、四の五の言うことを生業としていますのでお許しいただくとして、ぼくが『となりのトトロ』を見て、よくできてるなぁと感心する理由をあげましょう。

ひとことで言えば、“宗教心の芽生え” がうまく描けていると思うからです。宗教とはなんであるか?なんてことをまともに考えはじめますと生涯を無駄にする恐れがありますので、ここでは、とある学者の言葉を借りて、お手軽に、「聖なるものへの思い」という風に言っておくことにしましょう。

「聖なるもの」というのは「俗なるものもの」と対になっている言葉です。「俗なるもの」は私たちがよく知っている見慣れたもので、特別な能力をもちません。そういう意味で畏れるに足りぬものです。これに対して、「聖なるもの」は私たちが知らないものであり、私たちの知識や経験の限界を超えるもの、境界線の外にあるものです。これは、私たちが知らない特別な能力をもち、うまく接すれば恩恵を受けることができますが、接し方を誤ると、その特別な能力で私たちに祟りや罰を与えかねない恐ろしいものでもあります。

【俗なるもの】
・見慣れたもの(境界線の内)
・畏れるに足りぬもの
・特殊な能力なし

境界線――――――4・5歳
            ↓
          ‥‥‥‥10歳
              ↓ 
            ‥‥‥‥13歳
【聖なるもの】
・見慣れないもの(境界線の外)
・畏敬感(畏れと尊敬)を与えるもの
・特殊な能力→恩恵
          祟り、罰


人がなにを「俗なるもの」や「聖なるもの」と考えるかは、知識や経験の量によって変わってきます。例えば、4・5歳の幼児にとっては、家の屋根裏や家の裏側は、行くことを禁じられている見慣れぬ場所であり、そこに行けばなにか悪いこと(祟りを受けたり、罰を受ける)が起こる気がする場所かもしれません。知識や経験が増えた小学生には屋根裏や家の裏側は単なる遊び場のひとつでしょうが、それでも、地区の神社や鎮守の森の奥にはなにか得体の知れないものの存在を感じるかもしれません。幼いころに身近にあった「俗なるもの」と「聖なるもの」との境界線は、知識や経験が増えてゆくにつれて、遠くに離れてゆくものなのです。

空間的な境界線だけでなく、時間的な境界線もあります。たとえば、元旦は、すでに見慣れて俗っぽくなってしまった古い年が終わって新しい年がはじまる、特別な意味のある日です。新しい年を迎えるにあたって、門松を立ててしめ縄を飾って正月を迎える準備をするのは、聖なる新しい年の特別な能力をあらかじめ封じておくためです。人が誕生することは、その人が、それまでいた死の世界から新しい生の世界へと移動することです。聖なる生の世界の特別な能力を封じる儀式が誕生の祝いです。死の儀式はその逆です。結婚式は、未婚という俗なる世界から既婚という聖なる世界への移行のための儀式です。初物が特別な力をもつのは、勝手知った俗なる季節の外にある、新しい聖なる季節を告げるものだからです。

さて、『となりのトトロ』に戻りましょう。この作品には、ところどころで「俗なるもの」と「聖なるもの」とのかかわりが取上げられています。「真っ黒黒助」(表記は不明)は、メイやサツキには見えますがお父さんには見えません。メイとサツキの「俗なるもの」と「聖なるもの」の境界線は家のなかにありますが、知識量の多いお父さんの境界線は家の外、いやもっともっと遠くにあるのです。小さなころは見たというおばあちゃんも、すでに知識が増えてしまった今では家のなかに「真っ黒黒助」(聖なるもの)を見ることはできません。

トトロを家の敷地内で見たのはメイでした。メイにとってはトトロ(聖なるもの)は「となり」にいました。メイよりも微妙に多くの知識を身に付けたサツキは、敷地のなかでトロロを見ることはできませんでしたが、危急存亡のとき(メイを見失い、途方に暮れたときなど。それは知識が意味をなくしたときでしょう)、自宅から少し離れたところで、トトロに会うことができました。

トトロが呼んだネコバス(聖なるもの)を、メイとサツキは見ることができました。ネコバスに運んでもらった二人を、お父さんは見ることができませんでした。お母さんはネコバスに運んでもらったメイとサツキが松の枝に「ちらりと見えた気がする」と言います。お父さんの境界線よりもお母さんの境界線の方がずっとそばにあるからなのでしょう。

『スタンド・バイ・ミー』もまたぼくの大好きな映画のひとつですが、ここにも「俗なるもの」と「聖なるもの」とのかかわりが出てきます。勝手知った町中で遊んでいた少年たちは、やがて町を出て森の奥にある死体を探しに行くことになります。未知の、それゆえ、それまで「聖なるもの」であった郊外を歩き通し、それまで「聖なるもの」であった死を目の当たりにしたとき、少年たちは、「俗なるもの」と「聖なるもの」の境界線をぐっと外に追いやったのでした。そして、それは、少年たちがもはや少年でなくなったことを意味し、少年たちが、少年である友人たちの「そば」にもはやとどまることはできず、まもなく大人として「ひとり立ち」して行かねばならない、ということをも告げる一夏の出来事だったのでしょう。

by enzian | 2005-10-09 21:28 | ※その他 | Trackback | Comments(42)

“小さな孤独” のススメ

ひとりでいることにもそれなりの意味があると思っています。
引きこもりやニートが社会問題になっていることは痛いほど知っていますが、
だからといって、ひとりになってはいけない、ということにはなりません。

生涯を通じてひとりというのはさすがに極端かと思いますが、ときにひとりになること、
“小さな孤独(プチ孤独?)” は必要だと思っているのです。

どんどん複雑になる社会で生きてゆくのはくたびれる作業です。
さまざまな情報を受け取り、それを処理しながら取捨選択を行ってゆかねばなりません。

情報を受け取るアンテナには、個人差があります。
テレビやラジオのアンテナはたくさんの情報を受信できるものがよいに決まっています。
でも人間のアンテナの場合、あまり性能がよすぎるのも考えものです。
情報が多すぎると、処理できずにCPUがパンクしてしまうからです。
そういう意味では、ちょっと鈍なアンテナをもっている方が生きるには楽なのでしょう。

運悪く(?)性能のよいアンテナをもってしまった人はどうしたらいいのでしょうか?
処理能力を高めようとするのもひとつの手ですが、容易なことではありません。
手っ取り早い方法は、新しい情報を受け取ることをときにしばらく休んで、
処理作業に没頭できるひとりの時間を作ることでしょう。

ひとりでいることを蛇蝎(だかつ)のように嫌う人がいます。
グループ活動や団体行動が人間への至上命令であるかのように迫ってくる人がいます。
いつも誰かといることを強迫観念のように感じている人さえいます。
寂しさを恐れているからでしょうか?
それとも、非生産的であることを恐れているからでしょうか?

もしそうだとしたら、そういう恐れは、“小さな孤独” には必ずしもあてはまらないでしょう。
自分自身との対話にこのうえない豊かさを感じる人がいて、
新しい情報をいったん遮断することが、
社会で生活してゆくためにどうしても必要であると感じている人がいるからです。

「ときどき、人間が誰もいないような場所に行きたいという衝動に駆られる」
「誰も自分を知らない土地に行きたくなる」と言う人は、ひとりやふたりではありません。
いずれも、すぐれたアンテナをもった人たちです。
小さな孤独を利用してうまく乗り切ってくれれば、といつも思います。

by enzian | 2005-10-07 21:02 | ※キャンパスで | Trackback(2) | Comments(37)

二つの長所を探す

「私の長所ってなんですか?」就職活動をする学生から真剣な顔で聞かれることがあります。自己アピールがうまくできなくって困ってるんでしょうね。もちろん、こんな質問に考え込むようでは、教師がすたります。間髪いれず答えます。「君の長所はね、○○が△△なところだよ」。自分では自分の長所って意外とわからないものなのでしょう。「ふ~ん、そうだったのかぁ」。なにやら学生はうれしそうです。

でも次の瞬間、考え込んで、内心あせります。「ほかにはないですか?」って聞かれたらどうしよう‥‥。短所を見つけることは簡単ですし、一つだけ長所を見つけるのもそれほどむずかしいことではありません。でも、二つ目の長所を見つけるのはけっこうむずかしいのです。それは相手が学生に限ったことではありません。見つけるには、その人に強い興味をもって、しっかり見つめることが必要なのでしょう。相手が誰であれ、まず、長所から探しはじめるような習慣がつけばいいのですけどね。

by enzian | 2005-10-03 22:58 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(36)

ファンの心理

「どこのファン(野球)ですか?」というのはとても答えにくい質問だ。もともと、会ったこともないブラウン管(古い?)の向こうに熱狂するほど熱い性質(たち)ではないし、そもそも、よく言われるタイプの熱狂とは一線を画してひっそり生きてきた。

小学生のころはそれなりに巨人ファンだった‥‥というか、阪神がキライだった。近所や学校のガキンチョどもが揃いも揃ってアンチ巨人で、来る日も来る日も巨人に怨念のこもった悪口雑言を浴びせかけているので、自分だけは巨人ファンでいようと堅く決意していた。矛盾するようだけど、阪神も好きだった。性質の悪い阪神ファンだけがキライだった。

阪神が優勝した。前回のこともあり、今回こそ騒ぎは起きないだろうと期待を込めて見ていたが、残念ながらそうではなかったらしい。今回も、公費を費やしてわざわざ設置されたフェンスを乗り越えて川に飛び込む輩がいたし、タクシー数台は群集に囲まれてボコボコ(ベコベコ)にされた。タクシーだけを狙うという了見には、はっきり不快感を覚えた。

便乗者がいることは知っている。だが、「こういうことをする人は阪神ファンでない、単なる便乗者だ」と反射的に反論し、便乗者と自分とをきれいさっぱり切り離そうとする阪神ファンの意見も、身内(自分)びいきにすぎる。阪神ファンにはそういう輩も混入している、というのが正確なところなのだろう。

純粋にあるものが好きだからそのあるものを好きになったり、純粋にあるものがキライだからそのあるものをキライになったりすることは、意外とむずかしいことなのかもしれない。

by enzian | 2005-10-02 11:57 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(13)