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心置きなく泣ける場所

いつだったか、けっこう遅い時間に個研(個人研究室)でぼんやりしていたときに、二人の学生(女性)がドアをノックしたことがあった。こんな遅い時間にどうしたの?と聞くと、これから賀茂川まで二人して泣きに行くという。なにか一大事でもあったかと思えば、定期的に “泣く会” を催しているらしい。

賀茂川は総じて浅い川で、ところどころに飛び石があり、橋がなくても渡れるようにしてある。川の真ん中の飛び石だと、大声で泣いても水音にかき消されて聞こえない。なかなかよく考えていると感心し、同時に、歳若い学生であっても、夜半、水音にかき消されない限り泣けないのか、と複雑な気分にもなった。

人前でどうどうと涙を流せる大人が珍獣よろしく取り扱われる昨今。誰はばかることなく泣ける場所があるのは、少数の幸せ者だけなのかもしれない。二人が卒業して数年。一人は母親になったという。心置きなく泣ける場所を見つけられたのだろうか‥‥今でもときどき思い出す。

by enzian | 2005-11-29 18:37 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(62)

空間感覚

電車に乗っているとときどき感じる不思議な感覚がある。いつもと変わらない勝手知った路線のはずなのに、ふとした折に、電車がまったく逆向きに走っているかのように感じるときがあるのだ。ほかの人にもあるのかどうかわからないけど、ぼくの場合、熟睡して目を覚ましたときによく感じるし、眠っていなくても、ふと気を抜いた?すきにも感じることがある。「あらら、逆に走ってるぞ」てな具合で、なにやら落ち着かず、あまり気分のよいものではない。

そう言えば、先日、朝、目を覚ましたら、どういうわけか以前住んでいた実家の自分の部屋で寝ているような錯覚に陥って、ちょっと混乱して、変に不安になった。どこに位置してどちらに向かっているかが曖昧なままであるのは、記憶が不連続であることと同じくらい自分が自分であることにとって、なにかと不都合なことなのだろう。

by enzian | 2005-11-25 18:37 | ※通勤途中 | Trackback | Comments(41)

ルール無効のアナウンス

電車にアナウンスが流れる。「車内での携帯電話での通話はご遠慮ください。優先座席付近では電源をお切りください」。乗客は、なにごとも聞かなかったように携帯の画面を見続け、楽しそうに話し続けている。バスにアナウンスが流れる。「危険物を持ち込まないでください」。このアナウンスで危険物の持ち込みを思いとどまる者など、万に一人もいないだろう。

ルールが口先だけのもので、じっさいには誰も守るはずのない虚しいものであること。ルールがまったくの効力をもたない無力なものであることの “アナウンス” が今日も流れる。こうしたアナウンスのシャワーを全身に浴びながら、子どもたちは育つのだ。

by enzian | 2005-11-22 21:42 | ※通勤途中 | Trackback | Comments(29)

お星さま

夜の街を歩く。お父さんに肩車をしてもらって子どもが星空を見上げている。澄み渡った空には星座を構成する星たちが瞬いている。想像力とはまことにたくましいものだ。わずかな点を線にし、線を絵にして、絵を人間的な物語にする。闇を闇のままに、混沌を混沌のままにしておけない何ものかが想像力を突き動かすのだろう。それは不安なのだろうか?それとも、もっと違うものなのだろうか?「お父さん、お星さま、よう見えへん」。得体の知れないものを “さまづけ” するのは趣味ではない。だが、何でもかんでも難癖をつけるほど堅物でもない。そこのところの事情を説明するのが、むずかしい。

by enzian | 2005-11-20 20:08 | ※街を歩く | Trackback | Comments(25)

よくある質問

個研(個人研究室)で学生とだべっていると、必ずと言ってよいほど聞かれます。「ここにある本、すべて、読んだのですか?」 同僚たちもみな聞かれているようです。学生からすれば、圧倒的な蔵書量に見えるのでしょうね。必ず、こう答えます。「読んでるわけないじゃない!読んでたら、もっと立派な人になってるよ」。じっさいその通りだから、そう答えるしかないのです。

「先生って、凹まないのですか?」も、多い。この問いにはいくつかのパターンがあって、「先生って、どうして、いつも元気なんですか?」ってのも同趣旨です。やはり、必ずこう答えます。「いつも凹みまくってるよ。そんなの、当たり前じゃん!」 じっさいその通りだから、そう答えるしかないのです。相手によっては、いたずらっぽく、こう付け加えるときもあります。「まぁ、凹んでることを君たちに易々とさとらせるほど、青くはないけどね」。こう付け加えるとき、きっとぼくの顔はキラキラ(ケケケ?)と輝いているんだと思いますね。

by enzian | 2005-11-18 15:53 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(28)

火と人との距離

小学校のころは今よりも冬の寒さが厳しかったような気がします。寒い冬の朝、学校へ着くまでのいくつかの曲がり角で落ち葉焚きをしている人がいるとほっとしました。焚き火に当たらせてもらうのはとても心地よいものでした。焼けた落ち葉のなかから焼き芋が顔を出していることもあります。体を前と後ろ(背中)から、ときには中からも暖めて、心を暖めて学校へと急ぎました。

学校に行けば、大きな対流式のストーブがありました。休み時間になれば、みんなでストーブの近くでじゃれ合って遊びます。ストーブの煙突?には、化繊の服を焦がした “粗相” (そそう)の跡がたくさんついています。ちょっとした火傷をするのもいました。

家に帰ると、稲刈りのすんだ田んぼへと直行します。あるとき、積んであったわずかな稲藁にマッチで火をつけて遊んだことがあります。火遊びですね。誰が見ていたのか、家でぞっとするほど叱られました。事の重大性をわかっていなかったのです。

マッチを使わず、自分で火を起こそうとしたこともあります。木と木をこすり合わせたりしましたが、ついぞ成功しなかったですね。火打石も欲しかった。今から思えば、火を、人間だけがもちあわせることのできる一種の技術(アート)だと思って憧れていた節があります。火遊びも、そのような素朴な憧れによるものでした。

焚き火だけでなく、火自体を身近にする機会がどんどん少なくなっているように思います。理由があることは知っていますが、いろいろな意味で残念な気もします。

by enzian | 2005-11-14 22:18 | ※山河追想 | Trackback | Comments(25)

キノコの本

b0037269_17104632.jpgぼくの記事を読んで、キノコに興味をもたれた方もおられるかもしれませんので、今日は、おすすめのキノコの本(写真集)を一冊、紹介することにしましょう。

大作晃一・吹春俊光『見つけて楽しむ きのこワンダーランド』(山と渓谷社)です。100頁ほどの薄い写真集です。昨年、出版されたもので、説明にはほとんど問題がありません。

キノコの写真はずば抜けて鮮明で、しかも珍しく原寸大の写真を採用しています。読者は、目の前に本物のキノコがあるかのように感じることができるでしょう。ちなみに、グロテスクなキノコはしっかりそのままグロテスクですので、それなりの覚悟もしておいた方がいいかもしれません。


b0037269_17121114.jpg本の紹介だけでは寂しいので、ちょっとおまけ。なんの変哲もない写真ですが、裏山です。ここがぼくとキノコとのランデブーの場。ぼくの秘密の遊び場ですね。


b0037269_17512912.jpgハタケシメジ(畑占地)の幼菌です。ホンシメジと並び立つ第一級の優秀な食菌です。加熱しても消えない貝柱に似た歯ごたえに、十分な旨みをもっています。どのように料理しても美味しいキノコです。最近、人工栽培がはじまりましたが、野生のものは栽培ものよりもはるかに大型でずっしりしており、味も野生的です。

地面を埋め尽くすように大量に群生していました。このキノコの味を知っている人が見れば狂喜乱舞の光景ですが、誰も採ろうとしません。知らないんでしょうね。今回は、採りませんでした。まだ冷凍庫が春に採ったこやつでいっぱいなもので‥‥


b0037269_17145057.jpg山栗(栽培された栗よりも粒が小さい)がたくさん落ちていますが、やはり誰もひらう人はいません。



b0037269_1717253.jpgカエラーのみなさん、何ガエルか、おわかりですね?^^



b0037269_17181430.jpgノーマルなカマキリです。山間ということもあって、もっとぽってりしたハラビロカマキリ(腹広蟷螂)も多いですね。ちなみに、【R】ハラビロカマキリは、必ずと言っていいほど、気持ち悪いにもほどがあるハリガネムシを体内にもっています。



b0037269_17213858.jpgアカトンボですね。大した写真ではありませんが(^^;

by enzian | 2005-11-12 18:19 | ※好きな本 | Trackback | Comments(30)

餅が好き!

餅が好きです。餅のすべてが好きなのです。今はやらなくなりましたが、正月前に、親戚一同やらでよってたかって臼と杵でぺったんぺったんやって作るのが好きでした。杵というのは意外に重いものなのですが、ふらふらしながらつくのもよいものです。たまには、餅をひっくり返す人の手をバチンとやるのもご愛嬌。場が和みます。つくにつれて、ご飯の粒がなくなって、なめらかな物体ができあがってゆく変化を見るのも楽しい。

つきあがった餅を丸めるのも好きです。一人がツミレを作るのと似た要領で餅をひねり出してちぎり取り、その他大勢が一個ずつ丸めてゆきます。餅自体の手触りがいいし、なによりも、さらさらの粉をつけるのでね。白くてふわふわした餅については、「まんが日本昔ばなし」で、女性のお尻のようなという風のおもしろい表現(「おなごのしりっぺちのような」と言ったか‥‥)があったように思うのですが、忘れてしまった(ぼくはお尻というより、ルノワールの描く女性を思い浮かべるけどね)。

食べるのも好きです。つきあがった餅をそのまま、きな粉につけて食べるというのは、ぼくの大好物のひとつです。硬くなった餅を七輪の網で焼くのも好きです。ぷくっと膨れるのもおもしろい。膨れすぎてぷしゅーと湯気を出しながら勝手に破裂するのもいい。昔、祖母が醤油を何度か塗りつつ餅をよく焼いてくれたものですが、そのときの醤油のこげる香ばしい匂いもよかった。餅と、餅が呼び起こす記憶のなかにある風景の全体が好きなんでしょうね。

by enzian | 2005-11-11 17:42 | ※その他 | Trackback | Comments(27)

雨も止みそうにない

b0037269_1758426.jpg今日は記念すべき一日になりそうだ。朝からずんずんと裏山へキノコ狩りに行って、生まれてはじめてシモコシ(シーズン終盤のキノコで、霜が降りる時期に発生することから、「霜越し」の意味)を発見したのだ。シモコシはキシメジ(黄色いシメジ)とほぼ同種のキノコだが、キシメジのような苦味がなく、収穫量が極めて少ないということで珍重されている。地方によっては「金茸」(金色のキノコ)と呼ばれて、マツタケ以上の高値で取引きされるほどだ。今晩は、マッタケならぬ、金茸の土瓶蒸しに舌鼓を打つことにしようか。

シモコシの土瓶蒸しを考えていたら、なんと、シモコシのすぐそばにシャカシメジの群生を発見した。これも図鑑では見ていたが、実際に見るのは初めてのキノコだ。群生する様が釈迦の螺髪(らほつ)に似ていることからこの名がある。近年、ホンシメジ(本シメジ)と並んで発生数が激減しているキノコだ。いや、めったに市場に出回らない希少性ということでは、人工栽培がはじまった本シメジの比ではない。これに比べれば、八百屋のマツタケなど、ごくありふれたキノコに成り下がる。シャカシメジは炊き込みご飯の具にしよう。

金茸の土瓶蒸しに釈迦シメジの炊き込みご飯。あとは、酸っぱい漬物さえあれば、今夜の晩酌はいやがおうにもすすもうというものだ。――朝から布団にくるまったまま、籠(かご)の小鳥はうらめしそうに窓の外を見つめている。頭は妄想に侵され、雨も止みそうにない‥‥

*記事と写真は無関係です。

by enzian | 2005-11-06 11:47 | ※自然のなかで | Trackback | Comments(44)

誇りのストック

じっと手を見ていたら、小指の半月爪がすっかりなくなっていることに気づいた。よく見れば、薬指の半月爪もわずかになり、親指の半月爪も子どものころの記憶の半分になっていた。手の指すべてに大きな半月爪があることが幼いころからの自慢だった。半月爪のない大人たちに比べて、自分の方が健康に違いないと息巻いてもいた。

かつてあったはずの体力は見る影もない。誰よりもよいと長く誇っていた視力もすっかり落ちた。ささいではあっても、長く誇りに感じてきたことが、歳を重ねるにつれて、逆に薄皮を剥ぐように剥がれ落ちてゆくことを知るのは切ないものだ。剥がれ落ちたあとに残ったものは、いかにも頼りない。

人には、一定量の “誇りのストック” が必要なのかもしれない。特定の誇りが一つあるということだけが大切なのではなく、その誇りが失われたあとにもそれに代わりうるものが、“保険” としてあることもまた大切なことなのだ。そのような一定量のストックの上にして、ようやく精神は安住するのかもしれない。

小指の半月爪はなくなった。去るものを追うのは芸風ではない。残るは、白魚のような指、第二関節を曲げることなく曲がる指の第一関節、両親指の弓矢の的のような見事な渦状紋(シャーペンの先を当てて、「当た~り」と独り遊びすることができる)ぐらいか。そうだ、指相撲も負けたことがない。当分、新たなストックを仕入れる必要はなさそうだ。

by enzian | 2005-11-02 15:32 | ※その他 | Trackback | Comments(30)