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哲学エッセイの白眉

b0037269_21191546.jpg煮詰ってまいりました。ちょっとフレッシュな記事が書けそうにないので、今日は、何ヶ月にもわたって、ここで紹介すべきかすべきでないか迷い続けてきた一冊を、勢いにまかせてえいやっ!と紹介します(どうせヤダと言われるので、著者の了解は得ておりません)。

池上哲司『不可思議な日常』です。著者はぼくの同僚。この微妙な関係が紹介を思いとどまってきたいちばんの理由です。自分びいきは得意技ですが、身内びいきは苦手なのです。ジャンルは哲学エッセイ。仏教系雑誌の同名コラムに連載されていたエッセイ80篇が収録されています。仏教系雑誌の記事であったことが躊躇した二つ目の理由です。著者もぼくも特定の宗教への個人的な関係をもち合わせていませんが、紹介することでそのような誤解や予想外の影響が生じることを恐れました。文章については、著者は自分の母親にもわかるように書いたと言っていますが、読み通しておもしろいと感じるには、かなりの忍耐力が必要でしょう。紹介しても、どれだけの方が読むことができるのか‥‥。楽しく読み通せない本など、どれほど深遠であろうと、たんなる紙の束にすぎない。それが、ぼくを迷わせた三つ目の理由です。

それでも今回、紹介しようと決心したのは、この本が哲学エッセイとして素直にスゴイと思うからです。ぼくのエッセイなど比較の対象にもならない。構成は 「遠い記憶」「こころの不思議」「生命へのおそれ」「不意の電話」「過ぎ去った時間」「渦巻き猫の死」の6章からなります。お世辞にも明るいとは言えず、むしろしんみりさせるタイプの本ですが、もし読み通せれば、著者の、家族や動物への愛情に満ちたやさしい眼差し、そして、さりげない言葉のなかに秘められた含蓄の深さに、たちまちにしてファンになる人も多いことでしょう。すでにアマゾンでは品切れ表示が出ていますが、興味のある方はここをごらんください。在庫があるようです。

by enzian | 2006-02-27 21:28 | ※好きな本 | Trackback | Comments(16)

ミーはいつの間にか、いなくなった。

「enzianさんって猫が好きなんですよね?」ってこのごろよく言われます。ロゴ画像に猫を使いはじめたからかもしれませんが、もともと猫は好きです。ある時期までは、猫好きの、アンチ犬派でした。あまりにも飼い主に迎合的な犬の態度を許せなかったのです。いまでは丸くなって、すっかり犬好きになりましたけどね。

猫好きを決定的にしたのは、小さいころに飼っていたミーという名のメス猫でした。とても頭のいいやつで、お手も、お座りもできました。玄関や部屋の引き戸も器用に自分で開けて出入りしていました。学校から帰ると、ミーが「ニャー」と言って出迎えます。「お帰り!」のつもりだったのでしょう。膝が好きで、寒くなるとすぐにのっかってきました。人に爪を立てるようなことはありませんでした。今から思えば癒し系のネコでした。猫ってのは薄情で、特にオス猫なんかは発情期になると決まってメスを求めてぷいっとどこかへ行ってしまって、帰ってきたり、帰ってこなかったりを繰り返したものですが、ミーに限って言えば、そういうことはありませんでした。ずっと家にいて、何年も家族の一員でした。

そんなミーもいつの間にかいなくなりました。死期を悟ってどこかに行ったのでしょう。あれほど親しくしていた家族にも自分の死期を見せないとは‥‥本能とはまことに不思議なものです。最期を見られなかったのは少し寂しくもありましたが、それがミーの希望ならそれでよい、と思いました。それから、ぼくは誰の死に目にも会うことがなくなりました。

by enzian | 2006-02-25 18:35 | ※山河追想 | Trackback | Comments(21)

目から星は飛ぶのか?

昨日、「筆者の近況」に、疲れていて、パソコンを打っていても目から星が飛んでおります、というようなことを書きました。それでちょっと疑問に思ったことなのですが、ぼくが昨日パソコンを打ちながら視界に見ていた星は、どのようなお星さまだったのでしょうか?

物が頭とか目に当たったときとか、すごく痛いような思いをしたときに「目から星が飛ぶ」という表現をします。ぼくも目にボールが当たったときに瞬間的に「バチッ」という感じでなにかがはじけ飛ぶような感じがしたことはあります。表現すると「=☆」という感じですね。

でも、昨日、ぼくの視界で飛んでいた星は、そういうのじゃなく、生き物のように緩やかに蛇行しながら2秒ほど飛んで、すーっと消えてゆくような星でした。「~~~~☆」という感じです。これは、物が当たったときに出てきたことはなく、疲れたときや、下げていた頭を急に上げた場合とかの、立ちくらみをするような状況で出てくるものです(飛蚊症ではありません)。数は数個の場合が多く、星たちはそれぞれ好き勝手に上へ下へと動きます。

こういう “星” は、ぼく以外の方も普通に見ている、当たり前のものなのかしらん?それとも、やっぱりぼくは特別な “星の王子さま” なのかしらん?

by enzian | 2006-02-22 22:15 | ※その他 | Trackback | Comments(49)

『とんぼとりの日々』(長谷川集平)

b0037269_18303723.jpg久しぶりに絵本の紹介(?)です。長谷川集平の『とんぼとりの日々』です。以前、「絵本の哲学」という記事を書いて、授業に使えそうな哲学的な絵本を教えてくださいとお願いしたときに、ブロガーの方から教えていただいたものです。長谷川集平の絵本としては、森永砒素ミルク事件*の被害者である著者の少年時代の苦い体験を描いた『はせがわくんきらいや』が有名かもしれませんが、ぼくは『とんぼとりの日々』を紹介します。

このあらすじを書くことは避けたいと思います。単純なストーリーなので、書いてしまうと、未読の方は読む気が失せてしまうだろうからです(単純なストーリーであることは、この本の味わい深さを少しも差し引くものではありません)。代わりに、ぼくがこの本を好きな理由をぼんやりと表現している過去の文章(「どうしようもないことも、ある」)を再録しておきます。特にその第3段落を読んでいただければと思います。バッタをトンボに読み替えて。

運動会の競争で順位をつけない小学校があると聞いたことがある。詳しい事情は忘れたが、順位はつけず、走った全員に参加賞を渡すということであった。足の遅い子が傷つかないように、という配慮なのだろう。

学校がなにを学ぶ場であるのか、間違いなく言えるほどの自信はないが、そのなかには、努力して達成することの喜びだけでなく、努力してもいかんともしようのないことの確認も含まれているのではないか。どんなに勉強をしてもかなわない頭のいいヤツがいて、どんなに練習をしてもかなわない足の速いヤツがいて、どうしても負かされてしまう喧嘩の強いヤツがいること‥‥。自分の力で、自分の努力でなんとかできることは思いのほか多く、努力してもぎ取った果実の味は格別に甘いにしても、自分の力ではどうしようもないこともまたある。ときには負けることも甘受しなければならず、そのこと自体は決して恥ずべきことではない。生きるための工夫はそこからはじまるのだ。

町内の草刈に行った。ピチピチバッタ(ショウリョウバッタ)がピチピチと逃げ回っている。少年たちに手荒にいじりまわされ、バッタは死んだ。「動きよらへんようになったで」。少年たちは取り返しのつかないことをしたのだ、もう誰もバッタを再び動かすことはできない――そのようなことも、ある一定の時期に知っておかねばならないのだろう、過度に傷つかない程度に。


*森永砒素ミルク事件とは
1955年に森永乳業徳島工場で製造された乳児用のドライミルクに含まれていた砒素によって少なくとも1万人以上の乳児が身体に異常を来たし、多数が亡くなった事件。中坊公平弁護士が被害者側に立って支援活動を行ったことでも有名。

by enzian | 2006-02-19 19:08 | ※好きな絵本(コミック) | Trackback | Comments(38)

正直者がバカを見る社会

あるテレビ番組で、“逆玉” に乗った男性ゲストが
一晩で飲み代6000万円を使ったことを告白し、番組は大盛り上がりだった。
「飲む打つ買う」を男の甲斐性と考える時代錯誤の “武勇伝” と
一笑にふそうかとも思ったが、ある言葉を思い出し、笑えなくなってしまった。
夜の飲食店で学資を稼ぎながら学業を続けていた学生の言葉だ。

「俺、もう、わかったんすよ。
成功している人は、みんな、ずるいこと、汚いことをやってる人なんすよ。
俺も、ずるく生きてゆこうと思ってます。」

モラルなどもろともせず、法の網をかいくぐることを生業にする人たちが大手を振る。
その周りには、金の臭いを嗅ぎつけたハイエナたちが
二重三重に取り巻き、拍手喝采を送る。
正直者はバカを見るばかり。

生まれながらの偶然の賜物が最高の価値をもち、人もうらやむブランドとなる。
ブランドの周りには、手っ取り早く付加価値を得ようとうする善男善女で黒山の人だかり。
生まれを違えた努力家は失望するばかり。

あるいは学生の言葉は怠惰の口実にすぎないとしても、
そのような口実をやすやすと言わせる状況にも、やはり問題はあるのだ。
やっきで否定する気分にはなれなかった。

by enzian | 2006-02-18 16:24 | ※テレビ・新聞より | Trackback(1) | Comments(45)

ぼくはIQが低い

自慢ではありませんが、IQは低い方だと思います。小学校のころIQテストを受けたことがあるのですが、こいつは飛びぬけて鈍だなぁと思っていたクラスメートよりもはるかに問題が解けずにいることに気づきました。IQ系のクイズ(とんち?)が人気なようですが、まったくといってよいほど解けませんね。番組のゲストがどんどん解いてゆくのを見て、芸能人とは頭のよい人たちだなぁとつくづく思います。日本人の平均IQはかなり高かったはずですが、ぼくはまちがいなく平均以下でしょう。

あまり内容は覚えていませんけど、EQというのもありました。IQはだめでもEQは高いかもしれないなどと思って、学生時代に週刊誌かなにかに載っていた設問で一度、試してみたことがありますが、とうてい社会的な成功は望めそうもない、といった散々の結果でした。

それでも、“切れ者” だと言われることがあります。事実は上に書いた通りなので、誰がどう言おうとまったくのカンチガイなのですが、どうしてそういうカンチガイが起こるのかとしばらく考えてきて、最近、その理由がなんとなくわかるようになってきました。いつの間にか、上手にウソがつけるようになってきたようなのです。話し方にせよ、書き方にせよ、自分がいかにも知恵者であるかのように見せかける術(すべ)を身につけてきているようなのです。学生諸君には申し訳ないのですが、これからもこのテクニックに磨きをかけて生き抜いてゆこうと思います。

by enzian | 2006-02-16 20:44 | ※その他 | Trackback | Comments(36)

座右の銘

聞かれると困ると思って長年答えを用意しようとあがき続けてきた問いが二つある。一つは「好みの芸能人のタイプは誰ですか?」、もう一つは「座右の銘はなんですか?」だ。一つ目はついに先ごろ、ばかばかしくなって考えるのをやめてしまった。二つ目はいまだに粘っているが、なかなかこれという答えが思いつかない。元来、一つの物事や一人の人物に飛びついてそれに拘泥して生きてゆくようなタイプではない。いつも念頭に置いて生活を律してゆくような言葉が座右の銘なのだろうが、そんなものがあったら、もっと立派な人になっている。

まったく候補がなかったわけではない。「自分にはやさしく、他人にはきびしく」をそうだと言ったことはあるが、意識しないでも “自然にそうなってしまう” というだけのことだから、座右の銘と言うには不適切だろう。「初心忘るべからず」とか「実るほど首を垂れる稲穂かな」などはよい言葉だとは思うが、実りもしないのにとっとと初心を忘れてのけぞって歩く自分には縁遠い。文字通り身近に置いて自分を戒めるような言葉ではない。自分には座右の銘と言えそうなものはないのだ。そういうわけで座右の銘と言うつもりはないが、なにも書かないのもさびしいので、学生時代に感銘を受けた言葉を、珍しく、恥ずかしげもなく書いておこう。

「それを考えることしばしばにして、かつ長ければ長いほど、常に新たに増し来る感嘆と畏敬の念でもって心を満たすものが二つある。我が上なる星きらめく天空と我が内なる道徳法則(良心の声)である。 」

by enzian | 2006-02-13 22:57 | ※その他 | Trackback(1) | Comments(63)

缶詰にはロマンがある

缶詰にはロマンを感じます。タラバガニの缶詰がたくさん載ったカタログやなんかが道端やなんぞに落ちていたとしたら、きっと喜んでお持ち帰りいたします。タラバガニ缶詰のあの高価さには、きっと人知れぬ北海のロマンが隠されているにちがいありません。旅先では珍しい缶詰や瓶詰(瓶詰でもいいのか?)があれば、いそいそ買ってしまいます。昨年は、なぜか広島でミンククジラの缶詰を買い込みました。

スーパーに買い物に行けば、大はしゃぎでカートを縦横無尽に走らせます。エスニック食品コーナーではライチーやらランブータン(果物の名前です)やらココナツミルクやらヤシのなんとかやらの缶詰をじっとり見つめます。見つめるだけでよいのです。中華食材コーナーでは、フクロ茸やらゼリーっぽいのやら得体の知れない食材の缶詰を手に取ります。手に取れればなおよいのです。そっとカゴに入れます。ドキドキします。ある方の表現をお借りすれば、このときぼくの背中には羽が生え、両足は地面から5センチほど浮いているはずです。珍しい食材の缶詰だからいいんじゃないの?などと聞かれるのは心外です。珍しいものの魅力は否定しませんが、鯖缶でもキャットフード(買わないけど)でもなんでもよいのです。ぼくは純粋に缶詰にロマンを感じているのです、見損なわないでよ!なのです。

それにしても、なぜこんなにも缶詰にロマンを感じるのでしょうか?あのギコギコと艱難辛苦を乗り越えて漸くにして中身と出会える、開ける際のドキドキ感がまずあります。すべからく缶切りとは使いにくいものであるべきなのです。電動の缶切りは邪道であり、カッパン(なんじゃ?)に至っては片腹痛い。鈍く光るボディーの美しさに加え、永遠?とも思える保存性能もすばらしい。放置すればさっさと腐敗するものをそのままに保持します。自宅と個研には三年間保存可能のパンの缶詰が三つずつ置いてあるほどです(意味不明)。保存性能とは、こちらが忘れていてもなにひとつ文句を言わずじっと待ち続ける健気さである、と言ってもよいでしょう。その健気さは、「忘却」という、われらが陥りがちな罪を赦す寛容の精神でもあるのです。

堅固さも捨てがたい。ヤワヤワとしたものを自己犠牲いとわず守り抜きます。それは愛‥‥なのでしょうか?まるでナイト、いや缶詰とは、それ以上に崇高な存在なのかもしれません。これがロマンを感ぜずにおけましょうか?あっそういえば、周りを囲まれた狭くてちょっと薄暗いところで膝をかかえてうずくまっている自分がちょっと好きかもしれん。けっきょく、そういうことか‥‥

by enzian | 2006-02-11 15:55 | ※その他 | Trackback | Comments(44)

『雨ふり小僧』(手塚治虫)

b0037269_21264264.jpgいつからか、個研に一本の傘が置かれたままになっている。心当たりのある人たちに問い合わせてみても返事はない。青い女性物で、全体に色が褪せ、先の部分が欠けている。愛着をもって使われていたのだろう、無碍に捨てることもできない。あれから何度か雨の日を過ごし、思い出してもらえるチャンスを逸した傘は、もう忘れられてしまったのかもしれないが、じっと持ち主を待っている。『雨ふり小僧』(手塚治虫)のセリフを思い出した。

よく 物置なんかに ふるいカサが すてられてあるどに ああいうのから おいらたち 生まれるどに

山奥の分校に通うモウ太は、本校の子どもたちから田舎者とバカにされる日々。そんなある日、モウ太は橋の下で古傘の妖怪、雨ふり小僧と出会う。モウ太の長靴を欲しがる小僧に、モウ太は三つの願いを叶えてくれたら長靴をやると約束する。三つ目の願いは分校の火事を消して欲しいというもの。火に近づいたら(自分が)消えてしまうと尻込む雨ふり小僧に、モウ太は言う。「火を消してくれたらきっと長靴をやる。あの橋の下で待ってるから」。その言葉を信じて小僧は必死で火を消す。だがその直後、モウ太は都会へ引越すことになった。長靴をわたすこともないままに。約束はすっかり忘れ去られ、40年の歳月が流れて、モウ太は幸せな父親になった。ある日、娘にせがまれ長靴を買おうとしたとき、モウ太は雨ふり小僧との約束を思い出す‥‥

雨はまた降る。傘といっしょに、個研の住人も、もう少し持ち主を待つことにしよう。

by enzian | 2006-02-07 11:33 | ※好きな絵本(コミック) | Trackback | Comments(42)

私の瞳のなかには私だけ

怒りんぼうの為にへのTBです。

人を怒ったり、叱ったりすると落ち込みます。いい歳をしてしてちっとも丸くならないという失望感もありますが、それだけではありません。ぼくの場合、自分の悪いところだと薄々感じている点、身に覚えのある点を人に見つけた場合に怒ることが多いからです。人を責めているつもりでも、じつは自分を責めているからです。自分にはないと感じているところを人に見つけて怒る場合も落ち込みます。ジェラシー以外のなにものでもないからです。

人を褒めると天にも昇るような気分になれます。有頂天になる理由はわかっています。自分の良いところだと薄々気づいていてひそかに誇りに思っている点を人に見つけた場合に褒めることが多いからです。人を褒めているつもりでも、じつは自分を褒めているのです。自分にはまったく身に覚えのないものを他人に見つけて褒めることはまずありません。そういうのは気づきさえしないのです。

要するに、人を見る場合にも、ぼくには自分自身しか眼中にないのでしょうね。

by enzian | 2006-02-03 18:01 | ※その他 | Trackback(1) | Comments(48)