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ほめときゃよかった

もう二週間も前のことをいまだに悔いております。一晩眠ればほとんどのことを忘れてしまう双子座O型にしては珍しいことです(意味不明)。なにをかくそう、卒業式のことです。華やかな学生たちと写真を撮ったりなんかしてニカニカしていたわたくしであったのですが、目一杯着飾った学生たちのいでたちを一度たりともほめなかったのでした。よーするに、キレイ!とかカワイイ!とかカッコイイ!とかそういうことを言わなかったわけね。

ふだんから学生たちの表面にまとわり付いているものについては価値判断をしないことにしております。考えないようにしているわけですから、声にすることもありません。容貌や化粧がどうであるとか、服装や装飾品がどうであるとかですね。そういうのは勉強とは関係ないからです。そげなもの、わたくしにはほとんど興味のないことなのであります。そうです。わたくしはカチコチの双子座O型なのです(ますます意味不明)。ほうっておいて欲しいのです。

しかしそうはいっても、卒業式ぐらい、学生たちの装いをほめてもよいのではないかと思うのです。卒業式ですから、こちもふだんの重しをすっかり下ろして、ホニャホニャしておるのでありますから、学生たちのいでたちを見て、ホヘェーとかハェーとかホォーとか思っていないわけでもないのです。思っているのに我慢して言わないというのは、健康のためにもよくないことなのです。来年は、ほめます。

by enzian | 2006-03-31 21:40 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(41)

『てぶくろをかいに』(新美南吉)

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新美南吉の『てぶくろをかいに』です。新美は29歳で夭逝した才人。『ごんぎつね』の作者でもあります。『てぶくろをかいに』は、新美、20歳の作品です。ここでは、暖かい絵柄の、わかやまけんの絵を選びました。

いつものようにストーリーの説明は省略し、ぼくがいいなぁと思うところを書いておきましょう。

まず、光の描写の新鮮な美しさです。雪に反射した日光は子ギツネの目には鮮烈です。「かあちゃん、目に なにか ささった。ぬいてちょうだい」。雪のしぶきは走る子ギツネの後ろで七色の虹になり、はじめて町の明かりを見た子ギツネは言います。「かあちゃん、おほしさまは、あんな ひくい ところにも おちてるのねえ」。店の光のあまりのまばゆさに、子ギツネは人間の手の方を差し出してしまったのでした。家の窓からは暖かい光が漏れ、月光は森へ急ぐ子ギツネの背中を銀色に照らします。雪に残る足跡にはコバルトの影がたまりました。

二つ目は、相手を思いやる気持ちの描写です。「おててが ちんちんする」という子ギツネに母ギツネは手袋を買ってやろうと決心します。帽子屋のおじさんは子ギツネにも手袋を売ってやるのでした。森では母ギツネが小ギツネの帰りをふるえながら待っています。

三つ目は、次の小ギツネの言葉です。
「かあちゃん、にんげんって ちっとも こわかないや。」
「ぼう、まちがえて、ほんとうの おてて だしちゃったの。
でも ぼうしやさん、つかまえやしなかったもの。 
ちゃんと こんな いい、あたたかい てぶくろ くれたもの。」 


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もう一つ、好きな点をあげておきましょう。この本に見え隠れする “人間観の葛藤” です。雪や太陽の光や虹といった自然の美しい描写に対して、相手が人間(あるいは人間の比喩としてのキツネ)の場合には、美しさとともに醜さもまた描き出されているからです。

母ギツネが子ギツネの片手だけを人間の手に変えたのは無配慮でした。自分だけ安全な森に残って子ギツネ独りで危険な町に買い物に行かせたことは、今風に言えば幼児虐待にさえなりかねない危険な行為でした。帽子屋は子ギツネを不憫に思って手袋を売ったのではありません、「これは 木のはじゃない ほんとうの お金だ」と思ったから売ったのです。それは純粋な商売でした。子ギツネの渡したお金が「木のは」であることをわかりつつも博愛家の店主は手袋を売った、という風には著者はしませんでした。森に戻った小ギツネは人間はちっとも怖くなかったと言いますが、母ギツネはつぶやきます。「ほんとうに にんげんは、 いいものかしら」。無邪気に信じる子の前で、親は猜疑心にさいなまれています。

子ギツネの思いと母ギツネの思いは、そのまま新美のなかにあった人間観の葛藤であったのかもしれません。葛藤には可能性がありますが、一方的なものの見方はいずれ行き詰まります。日々流されるニュースには人間への警戒心をいやがおうにも煽り立てるものが多いにしても、だからといって人間すべてが、人間そのものが信用するに値しないとは言えません。わずかな部分であったとしても、人間への信頼なしには何事もはじまらないのです。

by enzian | 2006-03-29 20:09 | ※好きな絵本(コミック) | Trackback | Comments(13)

墓参りの途中に‥‥

墓参りに行ったときに写したものです。
ホトケノザの向こうに見えるのが、はかんかの池。
(この記事はすぐに消します。)

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by enzian | 2006-03-27 22:58 | ※リュック背負って | Trackback | Comments(18)

痛いにもほどがある

二三日、熱で頭がガンガンしてました。痛いのなんかヤなこった、なのですが、生きていると、イヤだと言っても、頭痛に限らず次から次へとあちこち痛みます。紙で手を切ったときの痛みなんか、思い出しただけでぞっとします。切った後は、なんでこんなヘラヘラしたものに傷つけられないかんのだ?と “犯人” の紙を恨めしく見つめます。

これまでで最悪だったのは結石の発作の痛みでした。腎臓結石とか尿管結石というものです(石がトラブルを起こす身体の部位によって名称がつく)。ぼくの母方は結石の家系で、どうしてもこうしても結石ができてしまうのです。経験のある方ならご存知だと思いますが、この痛み(石が体内を移動するときに起こる)は強烈です。お腹を木槌でどーんどーんと叩かれているような感じです。ひどいときにはこの痛みが半日続き、ほとんど失神寸前になりました。

それでも、結石の痛みなどは高が知れているかもしれません。大動脈瘤破裂を起こしたある人は、悲鳴を上げながら、「結石どころではない」と叫びました。出産の痛みを「腹痛の10倍の痛み」と表現した人がありましたが、もしそうなら、恐るべき痛さです。ほかの痛みにいたっては、想像することさえイヤです。

危険を知らせ生きながらえさせるために、神さまは生き物に痛みという機能を埋め込んだのでしょうが、そこにはミスがあったと思います。結石の痛みはあれほどまでに過酷でなくても、危険を知らせることができたからです。神さまは痛みに調整バルブ(リミッター?)を付けておくのを忘れたのです。痛み自体が、人が自ら死を選択する理由になるとは、きっと神さまの考えにはなかったことなのでしょう。

by enzian | 2006-03-25 21:04 | ※その他 | Trackback | Comments(45)

「ほめられデータベース」

いたるところでアドレスを公開しているので、お会いしたことのない方からたくさんのメールをいただきます。たいした返事は返せませんが、うれしいものです。中高生からのメールなんかは特にうれしいですね。生活範囲の限定された人には相談できる人(の選択肢)が多い方がよいからです。メールの内容では、叱られることもあれば、ほめられることもあります。叱られたときには、すみやかに問題点を修正し、お礼を言い、用が済めばメールはごみ箱にポイッします。“叱られメール” には、ことのほか冷淡なのです。

“ほめられメール” はポイッしません。するもんかです。心が寒~くなったときのカイロになるからです。Outlook Expressの「ほめられメール」フォルダには “ほめられメール” が詰まっています。ときどき開いてはニヤニヤします。ブログを始めてからは、コピペした “ほめられコメント” を「ほめられメモ帳」に保存するようになりました。最近では、“ほめられメール” と “ほめられコメント” を統合した「ほめられデータベース」をExcelで作ろうと企んでいます。これが完成した暁には、もう “氷河期” なんて怖くありません。いい歳をしても、この程度なのです。

by enzian | 2006-03-20 20:26 | ※その他 | Trackback | Comments(34)

卒業式がすんで

昨日は卒業式でした。学生時代は卒業式がキライでした。泣きはらしている人たちをみて、いったいなにをメソメソ泣いているのだろうと思いました。慣れないスーツを着て肩をいからせて歩いている人たちをみて、なにがいったいそんなに誇らしいのだろうかと思っていました。バカさわぎをする人たちをみて、やっぱりバカなんだろうと思っていました。

学生から教師という立場になり、卒業式の見方も変わりました。一年365日、少しも片付かない雑用(大学では、教育とか研究に直接かかわらない仕事を「雑用」と呼びます)に追いまくられ、二の次三の次になって少しもはかどらない教育と研究という頭の上の20キロの重石を一日だけ地面に降ろす日なのです。ひとりの人間を4年間かけて教育するという責任を、叱って恨まれ、めたぼろになりつつもどうにかこうにか果たしたという寿(ことほ)ぎの日なのです。

朝から教員はにやにやしています。これがにやにやせずにおけましょうか?職員たちには会場整理などの仕事が待っていますが、それでもこの日ばかりはどことなしか、にこやかです。目一杯着飾った学生たちはいつになく華やかで、声をかけられたのが自分の学生でも一瞬誰だかわからないこともしばしばです。思わず目を細めます。じじいになって歳をとって丸くなってきたのでしょうか。教師は教師をしながら学んでゆくのです。それでよいのです。

4年間で卒業できなかった学生たちが待っています。3年生は4年生に、2年生は3年生になるのです。気持ちを切りかえて、さぁ今日から、仕事、仕事!

by enzian | 2006-03-18 08:12 | ※キャンパスで | Trackback(1) | Comments(21)

旅に出る

「ikimonodaisuki!」「旅のはなし」へのTBです。

ときどき無性に旅に出たくなることがあります。独りで行きたいと思うこともあるし、誰かと行きたいと思うこともあります。ここに行くならあの人と行きたいなぁとか、あそこに行くならあの人と行けたらいいなぁなどと、ぼんやり考えるのも楽しいものです。いっしょに旅に行きたいなぁと思う人は、当たり前だけど、自分の好きな人なのだろうなぁと思います(恋愛の話をしているわけではないので、念のため)。

好きな人となにかを共有したいと思っているのでしょう。それは、きらめく星空であったり、きめ細やかな砂浜であったり、そびえ立つ山並みであったりします。景色だけではないのでしょう。そういう景色を感じている “素の自分” を相手と共有したい、という思いもあるはずです。“旅に出る” とは、常日頃まとわりついているものを切り離して、“いつもとは違う世界という背景” のなかで浮かび上がってくる自分を見つめ直す機会でもあるのですから。

by enzian | 2006-03-16 22:01 | ※その他 | Trackback | Comments(11)

冬虫夏草の恐怖

16世紀の朝鮮王朝を舞台とする韓国のドラマを見ていたら、薬膳の材料として冬虫夏草(とうちゅうかそう)が出てきた。いつだかった、ヒマラヤに近いところに住む人たちが薬草として採取しているのをテレビで見たことがあったが、ずいぶん昔からアジアの広い地域で薬効のあるものとして考えられてきたらしい。

「冬虫夏草」というのはバッカクキン科冬虫夏草属の菌類、キノコの一種なのだが、昆虫やクモに寄生してそれを養分として育つ変り種で、400種類近くが確認されている。ハチタケ、アリタケ、カメムシタケ、オサムシタケといったノーマル(?)なものから、ニイニイゼミの幼虫からしか生えないセミタケ、ツクツクホウシから生えるツクツクホウシタケ、アブラゼミやエゾゼミ専門のオオセミタケなど、特定の昆虫に特化したものも多い。キノコの研究はほとんど進んでいない状態だから、冬虫夏草も実際にはもっとたくさんあるのだろうし、ひょっとすると、ほとんどの昆虫の種にそれに特化した冬虫夏草があるのかもしれない。

ある種の冬虫夏草の寄生の仕方はおもしろい。空気中を漂っていた胞子は昆虫に付着するやいなや麻痺状態にするらしいのだ。麻痺状態だから昆虫は腐敗しない。ヤンマタケなどはヤンマ(トンボの種類)が木の葉にとまったそのままの状態で生えている。アリタケなどは隊列を組んでいたアリたちの位置関係そのままに生えることがある。卵の状態の幼虫に他の昆虫を餌としてやるタイプのハチには、(卵が幼虫となって餌を食べつくすまで餌が腐敗しないよう)この手の芸当をやるのがいるけど、それは針でチクリとやるわけだから、麻酔注射よろしくわかりやすい。だが、冬虫夏草の胞子が一瞬のうちにどうやって巨大な昆虫を麻痺させるのか、はよくわからない。まったく不思議だし、昆虫にとっては世界とはなんと恐怖に満ちているのかと思う。知らぬ間に付着した微小な胞子一粒に麻痺させられ、生きながらにしてキノコにされてしまうのだ。幸い、哺乳類に寄生する冬虫夏草はまだ見つかっていない。

by enzian | 2006-03-15 22:59 | ※自然のなかで | Trackback | Comments(18)

今が夢でないという証拠

今朝はモノスゴイ夢を見た。記録的な夢だったと思う。「起きたと思ったら夢だったという夢を見たと思ったらそう思っていること自体が夢だったと思っている夢」を見たのだ。昨日、慣れない大阪の街を歩いて人酔いしたのがいけなかったのかもしれない。

そんなわけで今日は朝から混乱してしまったのだが、今こういうことを考えている状態が「“起きたと思ったら夢だったという夢を見たと思ったらそう思っていること自体が夢だったと思っている夢” だと思っている夢」だとは思わないが、同じこと(それが現実であるということ)は入れ子状の夢のなかでも何回か確認したのだ。今が夢でないという証拠を説明するのはむずかしい、というか、そもそも無理なのだろうな。

by enzian | 2006-03-14 18:36 | ※その他 | Trackback | Comments(23)

見下ろされている

大阪ドームで授業をした。観客席にしか座ったことがないから、グランドからはまた違った見え方がしておもしろかった。グランドから見ると、思った以上に観客席が高くて、はるか上から見下ろされているように感じるのだ。これだとプレーヤーたちはずいぶんと圧迫感があるのだろうなぁなと思いつつ、高校生相手に感動のお話を続けたのであった(ツッコミましょうね)。

観客がプレーヤーよりも上にいるスポーツ(?)と下にいるスポーツがあるけど、なにか意味があるのだろうか。ボクシングやプロレスは後者だな。相撲はどうだったかな。授業が終わってから、あまり好きな街ではないけど、久しぶりに大阪(のキタ)をぶらぶらすることにした。交差点を歩いていたら、高層ビルに見下ろされているように感じた。立ち止まってアホズラをして見上げていたら、みんな足早に通りすぎて行った。

by enzian | 2006-03-13 23:04 | ※その他 | Trackback | Comments(6)