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偶像崇拝

初回の授業は、本格的に授業をはじめるわけにもいかず、さりとて、極度の自己紹介ギライということもあって、さして話すこともなく、アンケートのようなものを学生に配ってお茶をにごすことがあります。そこには「どうしてこの授業をとったのですか?」といった問いも含まれているのですが、これにたいする学生の答えにはちょっと緊張します。かなり厳しい指導をしますし、決して学生受けの良い教師だとは思わないのですが、それでも「(前回受けた授業から判断して、授業内容ではなく)センセイ好き(ファン)だからです」といったことを書く物好きな学生もいるからです。「ハハァ、さてはオマエは自分が人気教師であることを自慢しようとしているのだなぁ」などと勘繰っているそこのあなたは、まだまだ青い。

この手の答えを警戒する理由は、はっきりしています。この手の学生とは、どうしようにもこうしようにも、その後の指導過程のなかでやがてしっくりゆかなくなってしまうことがあるからです。こういう学生のなかには、ある対象にたいして自分が思い込みで作り上げた、「きっとこういう人に違いない」という一定の “偶像(アイドル)” をもっていて、それに対象がかなっている限りは賞賛を繰り返すのですが、一度、対象が像から離れたそぶりを見せる――たかだか一週間に一度の授業を半期や一年受けたからと言って、その人の全体像なんてわかるはずもないことですから――やいなや、手のひらを返したように対象を憎悪しはじめ、ときには攻撃にすら転ずる者があるのです。とはいえ、そこをなんとかやってゆくのが仕事なんですけどね。

by enzian | 2006-04-30 20:43 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(52)

「そんなの、みんな同じだよ」

ちょっと深刻な相談を受けたときの返答として、これは避けた方がいいと自重している言葉がある。「そんなの(不安や悩み)、みんな同じだよ」という言葉だ。これを警戒するには理由がある。以前、知人の相談を受けたときにうっかりこの言葉を口にして、異様なほどにキレられたからだ。自分としては知人の閉塞(へいそく)感をなんとかしようと善意で言ったこともあって、大げさに言えばちょっとしたトラウマになり、その後、その知人とはすっかり疎遠になってしまった。そんな経緯もあって、思い出すのもおぞましい言葉なのだが、そのわりには、相談されて返答に窮すると今でも相変わらず使ってしまいそうになって、あわてふためく。

だが今になってみれば、あのとき知人があれほど怒ったのもわかるような気もする。自分の不安がありふれた、誰でも抱きがちなものであったとしても、相談者からすれば、「ありふれた不安だからといって、それがいったいどうしたというのか?」となるだろうからだ。同じ不安を抱く人がいようといまいと、それが相談者にとって切実な問題であることに変わりはない。

もっと正確に言うなら、そもそも相談者の不安を相談された者が感じることなどできない。だとしたら、「みんな同じだよ」は、相談者の感じた内容を知りもしないのに、それと “同じもの” が他にもあると断言していることになる。これは、「自分は本当は相談者を知ろうとするつもりがないのだ」「自分は本当は相談者には興味がないのだ」と自分から暴露しているに等しい。

相談者には、自分の不安が相手に理解されないにしても、それが特別なものであることだけは認めて欲しいという気持ちもある。そういう意味では、相談者にとっては自分の不安が相手に簡単に理解されるようでは困る、とも言えるのだ。自分が抱える不安を一番知っているのは他ならぬ自分であり、この不安に関しては自分が最高の権威者であるという “エリート意識” は、相談者自身をさらなる閉塞感へと追い込んでゆく。こうした、自分の不安や、そうした不安をもっている自分を特別視する気持ちからすれば、「みんな同じだよ」という言葉が相談者の神経を逆なですることは明らかなのだ。

想えば、あのとき知人が激怒した理由もわからないでもない。だが、このようなことを今、自分のなかで納得したつもりになったからといって、悲しいかな、知人との関係を早速にも修復しようという気になるわけでもない。その辺りもむずかしい。

by enzian | 2006-04-26 23:05 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(39)

白いスミレ

b0037269_1958885.jpgバス停からふと草むらを見たら、たくさんの青(青紫)いスミレに混ざってひと株だけ白いのが咲いていた。スミレは好きだ。「可憐」という言葉はこの花のためにある気さえする。青がよいが、たくさんの青のなかにひとつだけ白があるのもいい。

わずかな草むらに、小さな花が次から次へと咲き誇り、虫たちが息づいている。鳥たちもやってくる。聖書の言葉を思い出した。「今日ありて明日、爐(ろ)に投げ入れらるる野の草をも、神はかく裝ひ給へば、まして汝らをや、信仰うすき者よ」(「マタイによる福音書」6.30)。だが、自然のなかに見られる秩序がとても人間わざとは思えないことと、それが神によるものだと確信することには距離がある。信仰うすき者はつぶやく。

そういう話はやめにして‥‥

by enzian | 2006-04-22 20:28 | ※自然のなかで | Trackback | Comments(28)

教えることの恐ろしさ

テレビを観ていて、おおよそ教育者とは縁遠いと思える人物が、教育論やら子育て論やらを若い大勢の親たち相手にとうとうと高圧的に説いていて、しかもどう考えても無茶な論理なのに親たちもそれなりにうなずいたりしていて、教えることは恐ろしいことだと再認識した。人を指導することや人を教えることは、やりようによっては自己顕示欲や支配欲を充たす格好の手段ともなるのだ。指導者や教育者になりたがる者が跡を絶たないことの理由の何割かは、この事情による。

教える側の自己顕示欲や支配欲を充たす手段としての指導や教育(?)と、教えられる側の能力を伸ばしたり回復したりするための指導や教育は、見た目ではまったく区別できない。外見では区別できないから、昔から教育者には高い倫理性が求められてきたのだろう。教師は教祖ではない。もし教えられる側に「○○先生でなければダメだ」とか「○○先生のためなら命を投げ出してもいい」などと思わせるなら、教師としてどこか問題があるのだ。(なんだかわからない文章ですね、スイマセン(--;)

by enzian | 2006-04-19 22:01 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(29)

おばあちゃんのパラダイス

以前から行きたい、行きたいと思っていたところについに行った。東大阪市にある石切神社(石切剣箭神社)だ。ここは昔、わがおばあちゃんが年に何回か行っていたところで、お守りやお土産を買ってきてくれたりしたのだけど、“おばあちゃんたちのパラダイス” と聞いていたから、おばあちゃんフェチのぼくとしては、どんなところなのか、一度見ておきたかったのだ。

駅を降りてすぐ、服屋と人生相談所がいっしょになったような不思議な店がある。服屋か人生相談所かはっきりした方がよいような気もするが、なんでもかんでもはっきりさせようとするのは悪い職業病だ、と自分に言い聞かせつつ通りすぎる。次に「ぐーちょきパン」というパン屋を発見。まったく大阪人は油断も隙もならないと思いつつ、そう思う自分もまた立派な関西人だ、と関西人の悲しい性でもあるツッコミを入れつつ足早に通りすぎる。

まもなく参道がはじまる。参道沿いには至るところに人生相談士やら運命鑑定士やら運命カウンセラー、要するに各種占い師が陣取っていて、ヒマそうな占い師は道行く人たちをじっとりと見つめている。おいでおいでされそうなので眼を合わせないようにした。店先の張り紙にはこう書いてある。「宿命は変えられませんが、運命は変えられます」。「宿命」と「運命」の定義はどうなっているのか?とまじめに問いただしたくなるが、例によって職業癖は封じることにする。ここはゼミ教室ではないのだ。

どの占い屋もそこそこの数のおばあちゃんやらおばちゃんやらが鑑定を待っていて驚く。テレビ番組に出演したとか芸能人何某を鑑定したとかいうことを売りにしている占い師も多い。ツーショットの写真をでかでかと貼っている。ステイタスシンボルになるのだろう。

占い屋がとぎれると、食べ物屋や小物屋、露天の服屋やカバン屋などが並んでいる。もぐさの「見本」が並んでいたのには驚いた。見本をどうしようというのだろうか?どの店も高齢の客に特化しているらしく、食べ物は年配の人が好みそうなものや昔懐かしいものばかり。小物屋にはやはり昔風の洗濯板やらアルミニウムの洗濯バサミが並んでいて懐かしい。服は完全におばあちゃん仕様だ。肌着屋はラクダ色に彩られ、おばあちゃんたちがうっとりと品定めしている。

やや行くと、雲水が一人、おじいさんの話を熱心に聞いている。おじいさんが体の悪い部分を指差すと、その部分を触って、なにやらお経を唱える。仏教の教えに体の病を治すなんてものがあったのか?しかも禅僧だろう??あぁまた悪い癖が‥‥などと思いつつ、しばらく雲水の様子を見ていると、この雲水、この辺ではちょっとした有名人のようで、次から次へとおばあちゃんたちが近寄ってきてなにやら話し込んでいる。そして、必ずといってよいほど、体をベタベタ触りながらお経を唱えていて、それでいて、ある意味もちろんのことながら、キャーなにすんのよ!とか言って張っ倒されたりは決してしていない。

さらに行くと、大仏さんが座っていた。なんという大仏だろうか?と見た看板にはこう書いてある。「日本で三番目。石切大仏」。なにがどう三番目なのかはどこにも説明していないが、「土地時価壱億円」らしい。寄贈者の名前も書いてある。‥‥無言で通りすぎる。

石切大仏をすぎると、そこが石切神社だった。一目見てギョッとした。正月でもないのに、境内を埋め尽くす人、人、人。そしてその人たちが同じ方向へ向かって移動している。お百度を踏んでいるのだ。その眼は一様に真剣だった。石切神社は「でんぼ(腫れ物、出来物)の神さま」なのだ。

参道を引き返す。ちょうどお腹が減ってきたので、明石焼き屋に寄る。おばあちゃんがいつもおみやげに買ってきてくれたのは、どうやらここの明石焼きらしい。ダシが同じ味なのでわかった。実に美味い。明石焼きを食べながら考えた。若いころを懐かしく思い出させてもらって、この先の不安を解消してもらって、熱心に話を聴いてもらって、ちょっとカッコイイ??雲水にしっかり “手当て” してもらって、好みのものを思う存分買わせてもらって、美味しいものを食べさせてもらって、これが “おばあちゃんのパラダイス” にならないわけがないではないか。

食べるだけでは飽き足らず明石焼きをお土産にした。あまりに美味しそうに見えた(実際、絶品だった)草もちも買い、その他もろもろも買って、お土産袋を両脇に提げたおばあちゃんたちといっしょに帰り道を急いだ。おもしろかった、また行こう。

お好きな方はどうぞ♪

by enzian | 2006-04-16 23:05 | ※リュック背負って | Trackback | Comments(40)

言葉の伝染力(【R】)

マスクもせず電車内で盛んにクシャミをしている男性が「風邪をひいた」とかなんとか言っているのを聞いて、「こやつは無差別殺人者に等しいのではないか?」などと思ってしまう。この男性がハクションしたバイキンは何人かの乗客に風邪をひかせ、風邪をひいた何人かがまたハクションして、やがてネズミ算式に患者は増えてゆく。そのなかにはもちろん高齢の方も含まれていて、亡くなる方もおられるだろう。この電車でクシャミをしている男性は、めぐりめぐって何人かの人を死に至らしめるというわけなのだ。

風邪をひいたらマスクをするぼくだが、それでも人を死に至らしめていないとは言えない。たとえば、ぼくは口の悪い人だから、辛辣なことを言ってこれまでたくさんの人たちを傷つけてきた。なかには、それが原因で死に至った人もいるかもしれない。直接的に死に至らしめないとしても、ぼくの言葉で誰かが不機嫌になって、不機嫌になったその人の言葉で第三、第四の誰かが深く傷ついたかもしれない。そういう意味では、冒頭の “クシャミ男” とぼくとは同じ穴の狢というわけなのだ。言葉とは恐ろしい。冷たい言葉は投げかけられた人の心を冷たくし、冷たくなった心はまた違う誰かに冷たい言葉を投げかける。冷たい言葉は伝染するのだ。

とはいえ、伝染するのは冷たい言葉だけではない。温かい言葉も、温かい言葉をかけられた人の心を温かくし、温かくなった心はまた違う誰かに温かい言葉を投げかけ、この経過はやはり無限に至る。人にやさしい言葉をかけることの一番の効用は、たぶんこの辺りにあるのだろう。口の悪いぼくでも、時には人にやさしい言葉をかけたことがあったような気がする。その言葉で、知らないうちに、めぐりめぐって誰かを助けたこともあるのではないか?――あれこれ都合よく考えていたら、学校に着いた。

by enzian | 2006-04-10 23:52 | ※通勤途中 | Trackback | Comments(27)

春の嵐が運ぶもの

昨日は春の嵐というか、強い風が吹き荒れた一日でした。そのせいか、ものすごい黄砂で、50メートル先にも霞がかかるほどでした。くしゃみが止まらず、黄色いもやもやが胡椒に思えた。花粉アレルギーならぬ黄砂アレルギーとかはないのかしらん。

黄砂は中国の黄土高原から風に乗って運ばれてくるわけですが、昔見た教科書にあった「黄土高原地帯」という表現には必ず「肥沃な」という形容詞が貼りついていたように記憶しています。水さえあれば農耕に適した土壌なのでしょう。中国から運ばれてくる黄砂が年間どのくらいになるかはわかりませんが、おびただしい量なんでしょうね。黄砂は厄介者扱いされますが、ひょっとすると、日本の農業は昔から中国の黄土高原から運ばれてくる栄養たっぷりの土壌に助けられていたのかもしれません。

養分が移動するというような話では、豊かな森が豊かな海をつくるということが、ここ何年か言われるようになりました。森の養分が川から海へ流れ込んで、そこで魚介や海草を育てるという考え方です。豊かな海を取り戻すために森を豊かにする試みが各地で行われるようになってきたようです。キノコマニアにとってはありがたいことです。

養分が移動するのには、森から海へという方向だけではなく、海から森へという方向もあります。海で育った鮭は川の上流まで遡上して産卵し、その場で息絶え、森の養分となります。1メートル近い鮭が何万匹も遡上する森にいかに多くの養分が海からもたらされることか。鮎や鰻も川を遡りますね。魚だけではありません。モクズガニなども上流まで遡上します。カルシウムにカニ味噌まで背負って歩いてくるんですよ、健気な。いろんなものがあちこちに動きつつ、わたしたちの生活は成り立っているのですね。教育テレビっぽい?

by enzian | 2006-04-09 10:18 | ※自然のなかで | Trackback | Comments(14)

チューリップの記憶

猫の額ほどの庭の片隅にある猫の眉毛ほどの家庭菜園にホウレン草を植えた。たしか、ブルートにウリウリされて、「ポパーイ、タスケテ!」とかなんとか叫ぶオリーブを助けるのにポパイが食べて力こぶモリモリになっていたのがホウレン草だったような気がするけど、それ以来、ホウレン草には一目置いているのだ。ポパイが食べていたのは缶詰のホウレン草だったけど、ぼくはホウレン草の “おひたし” を食べようとしている。大好物なのだ。

3月に蒔いたのにちっとも芽が出ないので、ちょっと焦っていた。蒔き時をまちがえたのか、土が悪かったのか‥‥保育園のときに、みんなでチューリップの球根を植えたのに、自分のだけがいつまでたっても芽が出ないで、恐ろしく不安になったことを思い出した。いたいけな園児は来る日も来る日も植木鉢を見つめていた。球根が腐っているのではないかと、ついにはほじくり出そうとさえ考えた。

いつものようにリビングから畝を見たら、ホウレン草がいっせいに芽を出していた。まったく雨とはえらいものだ。芽さえ出れば、しめたもの。あとは太陽と雨が育ててくれる。そして、ぼくのおひたしが出来上がるのだ、じゅる。チューリップはほとんど諦めかけたころに芽を出して、ぐんぐん伸びてやがてみんなのチューリップと肩を並べた。それからの記憶はない。

by enzian | 2006-04-05 22:46 | ※山河追想 | Trackback | Comments(20)

桜の木の下に埋まっているもの

花見というのは、桜の下で、何日か前からロープを張って陣取り合戦をして、浴びるほど酒をかっ喰らって、大音量で歌って、裸で踊って、バカ騒ぎして、後にゴミと異臭を残して帰ることなんだろうか。桜を見るのはもちろんぼくも好きだけど、こういう連中がいるようなところにはいかに美しい花があろうとも行きたくない。醜いものはときに美しいものを引き立てる場合もあるけど、できれば、こういう “引き立て役” のいない桜を心静かに眺めたいものだ。ライトアップなぞ、なくてもよいのだ。昔、桜の木の下には死体が埋まっていると言った人がいたけど、今、桜の下に埋まっているのは、未消化の食べ物やアルコール。

by enzian | 2006-04-02 22:55 | ※その他 | Trackback | Comments(19)