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ぼくは整理整頓ができない。

誤解されている方も多いと思うので、もうそろそろこの辺ではっきりしておきたい。ぼくは整理整頓ができないのである。書類の整理ができないものだから、重要な書類をなくしてしょっちゅうどう(ごまか)したらいいのか‥‥と頭を悩ませているし、スケジュールの整理ができないものだから、会議をすっぽかしたり、ダブルブッキングをやったりして、方々で頭を掻いている。

それでも、ぼくの周囲の人たちはそういった現実を直視していないらしく、同僚の教員も、職員も、学生たちも、ようするにぼくの周囲の人たちは「○○君はまじめだからねぇ」とか「いやぁセンセイはきっちりしてますからなぁ」とか「えっ!センセーでも部屋を汚くしたりするんですかぁ?」なんて、歯が浮いてぐらぐらするようなセリフを平気で言ってくれている。

見る目のない人たちよ。どうかぼくの個研に来て、ひっちゃかめっちゃかに物が置かれて作業スペースのないデスクやら、むちゃくちゃに積み上げられたまま化石となりつつある書類やら、分類もされず書架に横積みになっているおびただしい本たちを見て欲しい。そしてこころやさしい学生諸君、なにも言わずに整理してください。それが言いたかった。

by enzian | 2006-06-22 22:15 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(55)

不思議な体験

b0037269_2130484.jpg長く生きていると、これは不思議だなぁと思う体験をすることがあります。これは、その昔、母と叔母ともう一人誰か(思い出せない)とでホタルを見に行ったときの話です。ぼくの郷里ではホタルなどどこにでもいて、農業用水路から水をひいていた実家の小さな池にさえいたのですが、その日はどういうわけだか、自宅から離れた田んぼまで出かけたのでした。

ホタルに満足した4人は、なにやらしゃべりながら帰りの道を歩いていたように思います。ホタルは草むらにいますし、蛇が怖いということもあって注意はおのずと足元に向かっていたはずなのですが、なぜだかそのときだけ4人が前もって示し合わせたように夜空の一点を見上げたのです。山側の西の空には雲がひとつだけ浮かんでおり、一瞬、その雲からとてつもなくまぶしい光が漏れ出て、すぐ消えました。車のヘッドライトの反射とかそういうものではありませんでした。それまでの経験したことのない光であったことは、4人が思わず「あっ」とか「うっ」とかいう声にならない声を漏らしたことからも明らかでした。

怪しい光の正体が気にならないと言えば嘘になりますが、それよりもっと不思議だったのは、4人がその一瞬だけ夜空を見上げたことでしたし、光を見た後の帰り道で誰も光のことに触れなかったことでした。そして、ついぞ、その話は話題になることがなかったのでした。ぼくも聞いてはならないような気がして、聞かないまま、いつしか何十年かの年月が流れました。母はすでに鬼籍の人となり、叔母とはすっかり疎遠となってしまった今では、あのまぶしい光がなんであったかは確かめようもないことです。確かめようにも、手がかりは深い霧の向こうにすぅーっと消えて行ってしまう――不思議な体験とは、往々にしてそういうものなのでしょう。

by enzian | 2006-06-17 19:40 | ※山河追想 | Trackback | Comments(35)

ホタルの光と悪い癖

カメラをもっていそいそと学校を出る。おなかが減ったので、ラーメン屋を見つけて、珍しく列の後ろに並んだ。人気店らしい。5分経過。なぜだか気分がどんどん落ち込んで、列を離れる。並んで食べるぐらいなら、いっそ食べない方がいい。

目的地に到着。次から次へと車が横付けされる。どうしたのだろう?昨年までは、近所の方が夕涼みがてらにそぞろ歩きするぐらいだったのに‥‥。騒がしい歓声とまぶしいヘッドライトにどうにも落ち着かない。やはり悪い癖が出て、なにも撮らずにそそくさと三脚をたたむ。もうここには来ないかな。大勢でわいわいと来るにはいいかもしれないが‥‥。ホタルの光と歓声は、ぼくのなかでは水と油のようにどうしても結びつかない。

ゲンジボタルを手軽に見られる場所は他にはない。ゲンジボタルにさようならをして、自宅近くで人知れず舞っているヘイケボタルをしんみり観ることにした。ヘイケボタルの光はいかにも弱々しくてゲンジボタルのように見栄えはしないが、幼い頃から慣れ親しんだ光なのだ。

写真はこちら。

by enzian | 2006-06-15 14:50 | ※自然のなかで | Trackback | Comments(37)

スズメの親子

庭にスズメの親子が来ている。もう十分に自分で飛べるのに、くちばしの黄色い二匹の子スズメ(左の二匹)は親の後をついて歩いている。小皿のふちにとまり、自分でついばめばよいのに、足元の米粒さえも拾おうとしない。かんかん(わかります?)してもらわなければ食べられないのか‥‥ふっかわいいな、と思えば、そうではないらしい。親からもらえば米粒をそのままに食べている。

二匹は競い合うように羽を広げて震わせ、口を大きく開けて餌を催促する。食べることだけが大切なのではなく、親にもらって食べるということ、兄弟に優先して食べるということが大切なのだろうか。かいがいしく餌を運ぶ親には、子どもたちに抵抗するすべはないらしい。

写真はこちら。

by enzian | 2006-06-08 23:36 | ※自然のなかで | Trackback | Comments(41)

「新世界より」

奈良から京都へ向かう電車のなか。関東からの修学旅行の女子中学生が三人、ドアにもたれかかって立ったまま、うとうとしている。何回も「ガクッ」とか「ビクッ」とかなっていて、その度に、「いま、わたし、ビクッとなった」などと言っている。寝ている友人たちが見ているはずがないとわかっていても、言わずにはおれないなにかがあるのだろう。昨夜はたくさん “告白” することがあって、なかなか眠れなかったのだろうか‥‥ぼくはニヤニヤしながら見ている。

カーブにさしかかり、電車が揺れる。倒れないようにドアにかけた手の角度が変わり、わずかに塗られた薄いマニキュアがかすかに光を反射している。昨夜、友だちどうしで塗ったのだろうか、それとも、旅行の前夜、家で塗ったのだろうか。うれしくてしかたないのだろう。

彼女たちにとっては、奈良の大仏よりも友人と過ごす宿の夜の方がわくわくする体験なのかもしれない。家を、故郷を遠く離れて夕暮れを、夜を迎えるということの特別の意味、親しい友人と一緒であればなおさらだろう。小学校のとき、帰るのが遅くなると、構内にドヴォルザークの「新世界より」が流れていたことを思い出した。今でも「新世界より」を聞くと、どきどきするようなわくわくするような、あのときの感覚がありありと甦る。

by enzian | 2006-06-03 11:45 | ※通勤途中 | Trackback | Comments(38)

生きている実感

ある御仁からの問いについて、ここで考えることにする。その御仁は言ったのだ。「自分にはなにごともやりがいがあるとは思えないし、自分には生きている実感がない」と。

まず、あることが「やりがいがある」と言われるためには、そこには「抵抗」がありながらも、最終的には成就する見込みが必要になる。抵抗は致命的なものであってはならない。次に、成就することによって「利益」が得られるようなものであらねばならない。言い方をかえれば、なんらかの欲求が満たされねばらならない。自己顕示欲を満たすという意味からすれば、その成就は、「自分」でなければ成し遂げられないといった性質のものであればなおよい。このようなやりがいのあることにかかわっているとき、生きているかいがあると言われるのであって、自分が生きている実感も伴うのだろう。

さて、抵抗は不幸、利益は幸福の一種だと言ってよい。とすると、自分が不幸であることの意識と幸福であることの意識がほどよく配分されている状況が生きがいのある状態であり、生きている実感のある状態であることになる。ところで、普通の人の生涯、というか日々の生活は目まぐるしく切り替わる禍福の連続という形態をとるから、致命的な不幸とか、いかんともしがたい幸福につきまとわれている人以外は、やりがいや生きている実感を感じるはずである。

とすれば、やりがいや生きている実感が感じられない人の多くは、本来なら感じるはずの不幸や幸福を自分から感じないようにしている人だということになる。その理由が恐れによるものなのか、それ以外の理由によるものなのか、そもそもこの考察が正しいのかどうかさえわからない。

by enzian | 2006-06-01 21:59 | ※彼方への私信 | Trackback | Comments(0)