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『わたしのいもうと』(松谷みよ子)

b0037269_0121892.jpgいま小学校や中学校や高校で起きているいじめについては、四六時中そのような現場に詰めているわけでもないぼくには、なにごとかを言う資格はない。

それでも、そういう学校でいま起きているいじめを苦々しく思いつつ、日々の仕事をしている。なんのことはない。いまの大学生の何パーセントかが、かつて酷いいじめを受けていた小学生や中学生や高校生であったからだ。

そういう人たちは、傍目からもなんとなくわかる。人目についてしまって再びいじめられることのないよう、自分を覆い隠す無数の仮面を選択することに汲々としながら、周囲の視線におびえつつ、心安らぐことのない張り詰めた生活に疲れ切っていることが見てとれるからだ。傷の根は深い。こちらとしてはそのような傷をどうこうできるわけでもなく、いたずらに4年(4年であれば上出来なのだ!)の歳月が流れ、同じ傷をこれからも背負って生きてゆくだろう背中を、卒業式で送り出すことになる。

いじめの恐ろしさは、いじめられた者の人格や存在を短期的に否定したり無に等しくすることばかりではない。いじめという行為が終わっても、その影響は長く、かつていじめられた者の心をじわじわと蝕んでゆくのだ。そうした影響力が、松谷みよ子の『わたしのいもうと』に描かれた「いもうと」を完全に無きものにするまでに要した時間は、7年だった。

  「わたしを いじめたひとたちは もう わたしを わすれて しまった でしょうね
  あそびたかったのに べんきょうしたかったのに」

*ちなみに、この本をいじめを抑制するために学校に置いたところで、さして効果はないだろう。むしろ、自分たちの行為がいかに効果的なものであるかを教えて、いじめる者を勇気づけることになりかねない。

by enzian | 2006-11-19 15:41 | ※好きな絵本(コミック) | Trackback | Comments(22)

スペクトラム

ひとつの現象が幾つもの側面を含みつつ成り立っているような事態を、“spectrum” と呼ぶ。プリズムによる透明な太陽光の分光のことを考えればわかりやすいだろう。かつてノーベル文学賞を受賞した作家が受賞記念講演で語った「色のない白」の美は、これに通じるものだったのかもしれない。「色のない白は最も清らかであるとともに、最も多くの色を持ってゐます」。墨の黒も七色を含むと言われる。いま大切なのは、そこで言われた単純な「美」が実は多様な要素を含みつつ成り立っているということであって、そのような要素を排除することが美の自己否定に他ならない、ということなのだ。「虹を見るとなぜか涙が出る」と言った学生がいた。

by enzian | 2006-11-12 23:19 | ※その他 | Trackback(1) | Comments(8)

須磨海岸でコロンコロンする、の巻

満足しました。 (^▽^

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by enzian | 2006-11-10 00:10 | ※リュック背負って | Trackback | Comments(2)

「送ったのは能面」

ヤフーニュースのトピックスを見ていたら、「○○が△△側に送ったのは能面」というのがあって、○○も思い切ったことをやるのね、とひとりきゃっきゃっと喜んでいた。○○と△△は芸能人カップルで、○○が女性。要は、度重なる△△の御乱行に、ついに○○が三行半を突きつけた、というわけなのだ。人ができちゃった結婚しようが、別れまいが芸能レポーターでないぼくには関係のないことだが、その能面の種類がなんであるのか、は気になった。

自分だったら、送りつけられて一番イヤなのはなんだろうか。明らかに怒っている般若(はんにゃ)*や鬼太鼓面(おんでこめん)なんかは、さして応えないだろう。というか、むしろ逆効果で、反省するどころか逆切れしてしまうかもしれない。翁(おきな)であれば、それなりに効果がある。あの笑いは決して ^^ や (^0^)/ といった平和的なものではなく、その背後には、にこやかに笑って「おこしやす」とかなんとか言いつつ隣室にはしっかり逆さ箒が立てられているような、京都的一見さんお断り精神が禍々しくとぐろを巻いているような気がする(お前は京都が好きなんじゃなかったのか)。裏にあるものが怖いのですな。

やっぱり(なにがやっぱりかわからないが)、一番イヤなのは、小面(こおもて)だろう。あれは勘弁して欲しい。翁の表情は裏の意味を想像させるけど、そもそも表情のないものに表(=面)も裏もないのだ。あのウルトラ無表情**で夜中にじりじり近寄って来られたら、「極めて遺憾でありました」などと余裕をかませるはずもなく、正座に三つ指ついて、「ごめんなさい、わたしが悪うございました」云々、と心から謝罪の言葉を縷々述べざるをえない。――そんなこんなをあれこれスリリングに考えていたのだが、翌日よく見たら、「送ったのは書面」だった。

*仏教の真理を意味し、般若の面は仏教の真理をめざす際の強い意志を表すとされる。**ひとつの(無)表情で、喜怒哀楽を含むすべての精神状態を表現すると言われる。

by enzian | 2006-11-06 23:44 | ※テレビ・新聞より | Trackback(1) | Comments(2)

源流からの距離

通勤電車には奈良やら京都やらのガイド本を広げた人たちがたくさんいて、平日より混み合っているくらいだ。三連休のあいだに京都と奈良を楽しむのだろう、いいなぁ。ぼくは京都と奈良の境に住んでいて、京都にも奈良にも親しみをもっているけど、京都と奈良のどちらが好きか、答えよ!と凄まれれば、きっと「京都」と答える。そう答えるだろうけど、その理由を説明するのは、むずかしい。たぶん、いくつか理由がある。

1.京都の方が(ここでぼくが言う「京都」とは京都市、「奈良」とは奈良市ぐらいの意味)山が迫ってきていて落ち着くから。狭~い隅っこが好きなぼくにとっては、奈良(「均す」に由来するという説もあるとかないとか)は、だだっぴろ過ぎて、隠れ場所のない広場に投げ出された小動物よろしく落ち着かないのだ。

2.京都の方がしっとりしている。奈良はかさかさしている気がする。京都は地下水の貯水量が多いらしいが、鴨川や高野川や桂川が流れる京都に対し、奈良には大きな川がないことも原因なのだろう。豆腐と生命には水が必要なのどす。

1と2だけが理由だと思っていたのだけど、今日、もうひとつあるらしいことに気づいた。

3.京都は、中心に鴨川(賀茂川)が流れているから。川には上流と下流があるが、これと比較することによって自分の立ち位置がわかる、ということが安心感を与えるらしい。ぼくはどうも、源流からの距離が気になるタイプのようなのだ。

by enzian | 2006-11-04 00:03 | ※通勤途中 | Trackback | Comments(3)